身に宿す影と変わり逝く悪意
メイから『多大』な期待を掛けられてしまった私は、ラッセルとジャイナの二人を同時に相手にする事となった。
――全くメイったら。二人も押し付けてくるなんて、私を頼りすぎだと思うのよねっ……でも、どーしてもって言うし、仕方なく……そう、仕方なく任されてあげるっ。
メイから二人を同時に相手しろと指示された。それはつまり、私ならあの二人を同時に相手しても問題無いだろうという、信頼の証の様に思えてしまい、戦闘を控えているというのに妙に心が弾み足取りも軽くなる。
高揚していく気分をひた隠し、大剣の切っ先を目標の二人に向かって突きつける。
大剣を突きつけられたラッセルとジャイナの顔色を悪く、戸惑いの表情を浮かべ、こちらに向かって武器を構えた。
「お、お前さんはさっき会った侍女じゃねーですかい。何でこんな所で武器構えてあっしらの邪魔を……」
ラッセルは先ほど会った私の事に気が付き、この状況を把握出来ず困惑している様だ。
そんなラッセルの言葉を聞き、ジャイナは私とラッセルの顔を交互に見つめ、怒声を上げる。
「ちょっとお待ちよラッセル。アンタこの女にさっき会ったってどういうことだいッ。この女は水晶平原で会った女剣士じゃないかい」
「はぁ? いやいや冗談はよして下せぇジャイナの姉御。確かに赤毛の剣士はいやしたが、髪型だって全然違いやすし、服だって、顔の感じも、あれ? でもあの大剣は見たことあるような……」
「馬鹿かいアンタはッ。全く、ちょっと見た目が変わってる位でこれかいッ。
これだから男って奴は……」
今の言葉からすると、ジャイナの方は私の事を覚えている様子。
あそこに居たのがラッセルで本当に助かったわね。ジャイナだったら正体がバレて色々と面倒になっていたかもしれないわ。
過ぎた事ではあるが、自分は運が良かったのだと改めて気が付き、それと同時にラッセルの鈍さに感謝する。
「ラッセルッ、もうこの際そんな事はどうでもいいさね。この赤毛のチンチクリンを倒して、クロの旦那連れてさっさと離脱するよっ」
チンチクリン……。
そう、そうよね……メイからだって頼まれた訳だし、ちゃんと本気で相手しないといけないわ。
この女、絶対逃がさないッ。
大体、今だけなのよ。今だけほんの少し小さいだけなの。毎朝ちゃんと『斑牛のミルク』だって飲んでるんだから。私は成長期なのっ。まだこれから成長するんだからッ。
思わず頭に血がのぼってしまい、何も考えずに突撃してしまいそうになる。だが、その直前、不意にメイとドリーちゃんが爆笑している姿が脳裏に浮かぶ。
その姿で、はっと意識を戻し、憤慨していた意識を止め冷静さを取り戻す。
落ち着きなさい私。真正面から戦って負けるとは思わないけど、絡め手を使われて負ける事だってあるんだから。今まで散々メイを見てきてわかっている事じゃない。
水晶平原での戦闘や目の前の構えを見た限り、ラッセルとジャイナは私よりは格下だという事はわかる。だが、自分の身近で格上相手に絡め手を使い、勝てないまでも自分の目的を達成する、というある意味で勝利とも言える結果を出し続けている例が居る。
そういった例を見たり聞いたりしていたお陰なのか「ふはは、掛かったなッ」『ぬはは、流石相棒っ』と笑う二人の姿が浮かび、自分が相手を侮っている事に気づき、むやみに突撃して行く事を抑えられた。
実際自分があれをやられたら凄まじく腹が立つだろう。
敵がモンスターなら外見などで侮る事をしたりしないのだが、相手が人間だったせいか、実力を構えや気迫で早期に判断してしまい、何も考えず突撃しようとしてしまっていた。
――悪い癖ね。対人戦で格上との経験が少ないせいかしら。少し気を付けないといけないわ……先ずは慎重に相手の戦闘方法を分析して、隙を見つけて確実にいかないと。
深呼吸を一回行い、大剣を正眼に構える。熱くなっても良い、しかし冷静さを失っては駄目だ。真紅の炎じゃなく、静かに熱く燃える紫炎を想像し気持ちを静める。
そのまま、油断せず慎重に。先ずは近い位置にいるラッセルに向かって様子見の一撃を放つ。
全力は出さず、意識的に隙を少なく放った私の切り下ろしを、受けるでもなく躱す事に徹するラッセル。
その動きを観察し、相手の動きで戦闘方法を想像していく。
私の攻撃を捌くわけでも無く避けた。つまり、ドリーちゃん程に技術に自信は無く。力押しも得意とする所では無いのだろう。見た目からでも幾つかの想像は出来る。
ラッセルの職種はその装備や今の動きから考えて、間違いなく『操具士〈そうぐし〉』急所を守るように部分的に着けられた軽鎧は素早さを生かした戦闘を得意とする事がわかるし、武器のナイフも早さを生かし、隙を見て急所を狙う為の選択だろう。
予想通りなら、今の動きも頷ける。操具士は元々真正面からの戦闘を得意とする職種では無い。
やはり本領は罠を張ったり、解除したりと、様々な道具での絡め手を得意とする職種。そして、極めつけは腰に吊るされた幾つもの道具袋の中身だ。
ラッセルに片付けを頼まれた事で私は、あの中身をある程度確認している。確か『痺れ蜘蛛の毒液』や『撒菱』恐らくではあるが『炸裂甲虫の体液』が入った筒もあった。他にも様々な道具や、幾つかの罠を仕掛ける為の物もあったので操具士で間違いないはずだ。
ちょっとズルみたいだけど、自業自得よね。自分が広げた道具袋を侍女に片付けさせる辺り走破者として失格だもの。
大方ちやほやされて慢心していたって所でしょうけど……それに厄介な手を使ってくるとはいえ、元々前衛職でも無い操具士なんて、使わせる暇を与えなければ良い。
そう考え、絶え間なくラッセルを攻め立てると、案の定避け切れなくなったのか体を崩し隙を見せた。すかさず右から切り払いを放ち勝負を決めようとしたのだが……唐突に横合いから聞こえてきたジャイナの声で攻撃を中断せざる負えなくなり――惜しくもラッセルを逃してしまった。
『アイス・プレッシャー』
その魔名を聞き、ジャイナの意図を悟る。足元に現れた青い魔光から逃れるように、地面を蹴りつけ全力で後方へと身体を逃す。
ゴガンッツ!!
地面から巨大な氷板が二枚現れ、先ほどまで私が居た空間を挟み押し潰した。あのまま彼処に立っていれば今頃押し花の如く潰されてしまっていただろう。
氷の中位魔法『アイス・プレッシャー』容易く避けられたのは、昔サイフォスさんが使っている所を見た事があり、効果範囲も威力の程も知っていたから。そうでなければ少し危なかったかもしれない。
それにしてもかなり強引な手を使ってくるわね、あの派手女。仲間を巻き込んだらどうするつもりだったのかしら。
先程放たれた魔法の発動速度は一歩間違えばラッセルごと押し潰していた可能性だってある。
だが、そこまで考え少しの疑問が頭をよぎる。体を崩した筈のラッセルが何故先ほどの魔法から逃れられたのだろうか。
視線をラッセルに向け、その表情を見た瞬間、私の疑問は氷解していった。まるで惜しかった。あと少しだったものを、と言わんばかりの表情をしていて、体を崩したあの隙自体が罠だったのだと、容易に想像できてしまう。
これは冷静になっていて本当に良かったわ。先刻の攻撃は声も出さず合図を交わした様子もなかった。つまりあーいった連携を普段から取り慣れているって事よね。腐っても一級走破者って所かしら。
あの連携を見せられてしまっては、益々迂闊に攻める訳にはいかなくなった。
ジャイナの装備は軽い青のローブと水晶製の杖。やはり見た目通り魔法使いの様で、戦法としては、ラッセルが早さを生かして前衛でかく乱。どうしても出来てしまう隙をジャイナが魔法で援護し埋める。もしくはラッセルが張った罠と連携し、中位以上の魔法を使って止めを刺すといった所だろう。
やむを得ないか、ここは魔力の消耗を気にしている場合じゃないわね。
「……じゃあ、連携の余地を挟めないように押し切って上げる」
『フレア・ボムズ』『フレア・ボムズ』『フレア・ボムズ』
連続で魔法を発動させて、上空から火球群を雨あられと降り注がせる。流石に上位の魔法を連続で使う事などできないが、中位程度の魔法なら炎と相性が良い私なら問題なく発動出来る。
断続的に響く爆発音と燃え盛る火球。次第に立ち上がる煙で相手の姿は確認できなくなていった。
恐らくこれで押しきれる筈。あそこまで隙間なく撃った火球から無傷で逃れられるとは思えない。
念の為に警戒は解かず、徐々に晴れていく煙に目を向ける。
……はぁ、本当、鬱陶しい連中よね。
晴れていく煙の中から二人の人影が現れる。そこにいたのは無傷のラッセルとジャイナ。正直、この可能性も予想していなかった訳では無かったが、二人の姿を確認した瞬間に思わず面倒臭い、とため息を吐いてしまっていた。
二人の周囲には手の平程の厚みを持った水の膜が周囲を覆っている。
あれは確か『アクア・フィールド』という魔法。水属性中位の防御魔法で確かにあれならフレア・ボムズの弾幕をやり過ごせても可笑しくは無い。
よりにもよって水属性……これじゃ今使える魔法で押しこむのは無理そうね。
恐らくだが、ジャイナの属性はサイフォスさんと同じ水と氷。他にも使える可能性は勿論あるが、問題なのは私の得意とする炎とは非常に相性が悪い水属性の魔法を使っている事だ。
他の属性を使う可能性も残っているし、もう少しこのまま様子見。その後も水と氷以外使わないようだったら、どうにか隙を見て柄を入れ替えるって所かしら。
そう判断を下し、魔法は牽制程度に抑えつつ、ラッセルに近接戦闘を仕掛けていく。距離を取らせなければ、ジャイナだって中位の魔法は撃ちづらくなる筈。ラッセルを逃さないよう、退路を断つ太刀筋で牽制も交え大剣を振り回す。だが、隙を見せる訳にはいかない為全力で剣を振るえず、ラッセルに中々当たる気配は無い。
思わず焦り苛立ちそうになってしまい、心を落ち着かせようと苦心する。
その時、不意に攻撃をかわし続けているラッセルがこちらに向かって声を掛けてきた。
「赤毛のねーさんちょっと無茶苦茶やりすぎじゃねーですかい? あんな魔法ばら撒かれたせいで一瞬死んだかと思いやしたぜ」
「別に問題ないでしょ? 貴方達以外には当たらないよう調節していますから」
「おいおい、おっそろしいねーさんだ。女ってのはもう少しお淑やかにいかねーと。あれだ、嫁の貰い手がありやせんぜ?」
その言葉に一瞬ピキリ、と頬が引き攣る。上位魔法を撃ってやろうかとも一瞬思ってしまったが、そんな事をすれば周りまで巻き込み大惨事になる事が目に見えている。
これは罠よ私を苛立たせて冷静さを失わせようとしてるの。怒っちゃ駄目怒っちゃダメよ。
だがどうにも我慢できず、腹立たしいのも事実なので、努めて冷静さを装い、反撃を試みた。
「えっと確かラッセルさんでしたか? 先ほどの言葉はそのまま後ろにいらっしゃるジャイナさんに突き刺さると思いますが。
服装の趣味も大分悪い……いえ、派手な様ですし、行き遅れといった言葉が非常にお似合いになられるようですね」
その私の言葉にラッセルは思わず苦笑いし、聞こえていたのかジャイナが怒声を上げてくる。
「ちょっとそこのチンチクリンッ、しっかり聞こえてるからねぇ。私は行き遅れじゃなくて自分の意思で相手を選んでるだけさねッ。いいねッ、勘違いしちゃいけないよ!」
「ちょ、ちょっと姉御ぉ。相手挑発する為に言ってんのに、姉御が挑発に乗っちまってどうすんですかいっ」
やっぱり挑発だったようね。ふふふ、言い負かしてやったわよっ。ざまあみなさいッ。
怒り狂うジャイナの様子を見て少しだけ気分が晴れる。ラッセルは自分の策が逆効果にしかならなかった事に今更ながら後悔している様子で無表情を保とうとしてはいるが、頬が引き攣っていた。
その後も暫く二人の相手を続けているが、どうにも進展は無く、積極的に攻めてくる様子すらない。ラッセルは威力も無いナイフを当てる事だけを重視した攻撃を繰り返し、ジャイナは時折氷柱を飛ばしてきたり、水の槍を飛ばしてくる程度にしか魔法を使ってこない。
その流れを変えるべく、ジャイナを狙って攻撃してみても、ラッセルが撒菱やダガーナイフを投げつけこちらの動きを妨害してくる。正直に言って、強くは無いが鬱陶しい事この上ない。
私も何度か魔法を織りまぜながら攻撃しているものの、全て水膜によって防がれてしまっている。どうにもその消極的な連携のとり方に違和感を覚えてくる。
――なんか妙ね一体何が狙いなのかしら?
戦闘しながら少し考えを巡らすと、一つ思い当たる節があった。何故今まで忘れていたのだろうか……ラッセルの道具袋に入っていた黄色い液体の入った瓶。あれは『痺れ蜘蛛の毒液』で間違いない。そうなると十中八九ラッセルのナイフにはその毒液が塗られている筈。
つまりラッセルとジャイナの狙いは、身の安全を第一に長丁場に持ち込み、そして私の疲れか隙を待ち、毒液を塗ったナイフでこちらを痺れさせてからの止めを狙っているのではないか?
そこまで考えて自分の形勢が非常に悪い事に気がついてしまい、思わず眉を顰めてしまった。
ここが城の中では無く、もう少し広い空間ならここまで苦労はしなかった。炎の上位魔法で水の防御を力づくで蒸発させてしまえばいいのだから。だが、そんな魔法は流石にこの状況じゃ使えない。
基本的に上位魔法とはそこまで優れたものでは無いのだ。確かに威力は高いし、上位と呼ばれるに相応しい殲滅力もある。だが、人一人倒したり、殺したりするのは下位や中位魔法の方がよっぽど扱いやすいし利便性が高い。しかし、中位の炎魔法ではあの防御は崩せないと中々難しい。
そこに追い打ちをかけるように柄尻に付いている赤い鉱石が光を失い、中に入っている結晶は空になっている事をこちらに伝えていた。
先程から自身の魔力を使って魔法を撃っている状況。どうにかして柄を入れ替えねばジリ貧になってしまう。
「はははッ、どうしたのかいチンチクリン。随分元気が無くなってきたじゃないかい。それにさっきから炎の魔法しか使ってないみたいだけど、あんたまさか炎の単一属性かい? だったらご愁傷様としか言えないねぇ。この『凍水 〈とうすい〉』のジャイナを怒らせた事をたっぷり後悔すると良いよッ」
「あらあら、随分と自信がおありの様ですが、そういった二つ名は他人から言われるものであって自分で名乗るものではありませんよ。こちらが恥ずかしくなるので止めて貰いたいものです」
「お黙りッ。口の減らない餓鬼だよッ」
「姉御落ち着いてくだせぇッ。もうその赤毛の女は魔力が少なくなってやす。このまま時間をかければいけやすぜッ」
まんまと挑発に乗ったジャイナと違いラッセルの方は冷静に私の手の甲にある刻印を確認しているようだった。
私はわざと挑発的な笑みを浮かべ、目の間で全ての氷柱を大剣で叩き落とし。ジャイナを煽っていく。
しかし、ジャイナの言う事も実は当たっている部分があった。
代々メルライナの血筋は赤髪赤目で炎の単一属性しか生まれてこない。その変わりといってはなんだが、それを補って余り得る程炎の属性と相性が良いという利点もある……この大剣が家宝であり続けたのも、炎しか使えないメルライナの弱点を補える属性筒の存在があったから。
これは、本当に筒を変えるしか手が無いわね。
私はラッセルの攻撃を食らわぬよう慎重に柄尻を捻り、何時でも抜き出せる様に準備だけは行なっておく。
後は入れ替える時間さえ見つけられれば……。
だが、中々思うようには事が運ばない。あのナイフを掠っても駄目となると、柄を入れ替える程の隙を見せる訳にはいかない。
どうすれば……何かいい方法は。
ゴガッ――ンッ!!
突如大通路全体に響き渡る轟音に、目の前のラッセルとジャイナがビクリと身体を止める。
私も何が起きたのかを確認するため辺りを見渡していると、宙を飛び人型の何かがこちらに飛来してくるのが視界に入った。
飛来してきた何かはべチャリ、とそんな間抜けな音が聞こえて来るかの様な体相で、私とラッセル、ジャイナの間に墜落した。
それはよくよく見てみると……。
「ゴラッソおおおおお」
「ゴラッソじゃないかいッツ」
クロムウェルの仲間、ゴラッソと呼ばれる戦士だった。余りの光景にラッセルとジャイナは思わずゴラッソに目を奪われてしまっている。
ここしかないッ。今まで待ったこの好機を逃すものか。
緩ませいつでも外せるようにしておいた赤い筒を腰に吊るした六本の筒の内、紫の柄尻をした筒と即座に交換――柄を捻り固定する。
そのまま未だ動けずに固まってしまっているジャイナに向かって全速力で駈け出した。
私の動きに気がついたラッセルとジャイナは急いで構え直し、私を迎え撃つ準備を整える。
――だが、もう遅い。
その場でジャイナに向かって剣先を向けた。今まで私の動きから魔法を放つ事を予測したジャイナは杖を振りかざし、勝ち誇った笑みを浮かべ、声を上げる。
「炎は効かないって言ってるだろうにッ、懲りない奴だよっ」
『アクア・フィールド』
こちらの思惑通り、水の膜を杖から広げるジャイナ。
『サンダー・ロンド』
そこに私の放つ、無数に枝分かれした紫電の鞭が舞踊る。
「な、何で。――――ッツ!?」
水の膜をそして、そのまま杖を伝って、ジャイナの身体を雷撃が襲う。髪とローブを黒く焦がし、一瞬だけビクリと身体を震わせジャイナは静かに力を失い床に倒れていった。
その光景を唖然と見つめていたラッセルが我に返り、騒ぎだす。
「姉御ッツ。畜生一体どうなってやがる、ねーさん炎しか使えないんじゃ……それにその手に見える刻印の明るさを見ても、中位魔法なんて撃てる程魔力が残っていない筈……くそッくそがッ。こうなったら手段なんて選んでられねー。あっし特性の炸裂筒をばら撒いて……」
腰に下げた幾つもの道具袋を焦りながら探るラッセル。だがその顔が何故か絶望の色に変わっていくのがわかった。
「何で、何で入ってねーんだッ。あった筈なのに入れておいた筈なのにッ」
炸裂筒? 私にはその言葉に一つ心辺りがあった。侍女に変装している時に道具袋の片付けを頼まれたあの時見つけた筒。
「もしかして印が入った丸い筒状の物ですか?」
「てめえ何で知って……ッツ!? まさかあの時」
「火打石と一緒に道具袋に入っていたので、ちゃんと『片付けて』おきましたよ」
危ないったらないわよね。炸裂甲虫の体液は魔力だけじゃなく、火気でも引火するのよ? 親切心で火打石と一緒に入れておいたら危ないだろうと思って片付けておいたのだけど……正直、どこにしまったのか私もよく覚えてないわ。
私の言葉にラッセルは驚愕の表情を浮かべ、焦りを顕に手の甲で汗を拭い返事を返してきた。
「ま、まさかあの時からこの展開を見越して動いているとは……流石に驚きやしたぜ」
ん? ラッセルが何を言ってるか良くわから……あら。そう、ね。
「そうよッ、ここまでの全てが私の計画通りだった……という事です。さて残りは貴方だけ覚悟なさい」
『エント・サンダーボルト』
まんまと私の策略的なものにはまってしまったラッセルに、ビシっと指を突きつけてやる。
もう魔法での邪魔が入る心配も無い。私は大剣にエントを掛け、ラッセルに向かって全力で斬りかかっていく。
払い、切り落とす。急激に剣速があがった事に驚いたのかラッセルは間一髪二連撃を避けるも、足をもつれさせてしまい体勢を崩す。
そこにすかさず右からの切り払い。最初に起こった状況を再現したかの様に同じ光景が映し出される。が、あの時と違ってこれは罠でも無く。援護してくれる相手だって居ない。
避けきれないと悟ったのかラッセルは、ナイフを剣線へとかざし直撃を防ぎ、地面を蹴り上げ衝撃を逃がそうとしていた。だが、無駄なことだ。ナイフに大剣が触れた瞬間にエントがラッセルへと流れ込みその身体を焦がしていった。
声にならない悲鳴を上げたラッセルは軽々と吹き飛び、地面を転がっていき、動かなくなる。
「良し、どうにかなったみたいね」
ジャイナとラッセルの様子を見ると、時折ピクリと身体を動かしている。案外しぶとく生きている様だが、明らかにこの戦闘での復活など不可能だろう。
どうも辺りを見ると、先ほどの轟音の正体はどうやらドランの仕業らしく、一体何をしたのか土塊と石片が散乱していた。
ドランはすでにラングの元へと向かっている様で遠目にその巨体が確認できた。
私はどうしようかしら?
無事に自分の相手を下した事だし、メイの助けにでも入ろうかと思ったのだが、何やらシャイドの方からどうにも不穏な空気を感じる。仕方なくメイに「お先にー」と声をかけ「薄情者ぉッツ」というメイの叫びを背にラング達の元へと急ぎ向う事にした。
◆◆◆◆◆
やっと……否、遂にと言うべきか。この時を想像しながらどれだけの数、修行を積んできただろうか。
眼前に悠々と構える影を射殺せんばかりに睨みつける。
興奮が収まらない。冷静になんてなれそうもない。その感情は留まる事無く自分の口から溢れ出していく。
「この時を……この時を、自分はどれだけ待ちわびた事だろうか……貴様をこの手で殺す事をどれだけ夢見た事だろうか。
だが、もう我慢する事など無い。貴様に会えたのだからなあああ。影帽子ィッ」
己の力を思いの全てを左拳に込めて、影帽子の頭蓋に叩きこむ。
ゾブリ、と妙な感触が拳に伝わり予想外にも容易く顔面を貫いた。
ぬぅ。なんだこの手応えは……それにこうも易々と攻撃を受けるなど。
そんな疑問が脳裏によぎった瞬間。貫かれていた頭部がジュクジュクと蠢き、拳に圧迫感が加わってくる。驚き拳を抜こうとするも、がっちりと掴まれているのか動かせない。
ゆっくりとシャイドの帽子に付いている二本の腕が動き出し、その手の平がナイフの様に変形し、そのまま動けぬ自分を貫き返そうと影で作られたナイフが迫ってくる。
「ええいッ。面妖な」
掴まれた腕をそのままに、身体を捻り宙に浮かし手刀を躱す。その力を左足に乗せ、側頭部を全力で蹴り抜いた。
ゴバァッ。
水の塊を蹴り抜いた様な音が鳴り、シャイドの頭部が粉砕した。掴まれていた腕が離れ身体に自由が戻るが、今ので倒せたとは到底思えず、直ぐ様後方に下がり様子をみる。
頭部を失い身体だけになったシャイド。だが、その身を倒す様子すら無い。やはりこの程度で倒せる程簡単な相手では無い様だ。
シャイドはその両手を広げ、砕かれ辺りに飛び散っている頭部の欠片を呼び集める。欠片は黒い霧に変わり、頭部に集まり再生していった。
少しの痛手を負った様子も無く、あいも変わらず悠々と佇んでいるシャイド。
その光景を見て、一抹の不安が心の底にこびり付く。
本当に勝てるのか……やはり自分では届かぬのではないか?
今まで己を磨くために幾多の修行を繰り返し、この時を待ち焦がれていた。だが、その成果を全て否定されるかの様に、攻撃を避ける素振りさえ見せずに、全て容易く受けられた。
こびり付いた不安という種。
まるでそれを見抜いたかのようにシャイドは笑みを浮かべ、口を開く。
【いきなり攻撃するなんて酷いではないですか。所で先程から貴方は何をそんなんに興奮なされているので? どこかでお会いしたことがありましたか? 全く覚えが無いのですが、どちら様で?】
その言葉でさらに頭に血が上りそうになる。――こいつは自分の事などまるで覚えていないのだ。
そうであっても可笑しくはない、とある程度予想もしていたし、覚悟もしていた。だが、自分の中ではこれほどまで鮮明に焼き付けられた記憶。それを相手がまるで興味など無く、覚えていない等と実際口にだしてと聞かされると、まるで今までの全てを馬鹿にされているように感じ、怒りのあまり身体が震え頭が真っ白になっていく。
飛び出していきそうになる身体を力任せに抑え、その屈辱を歯を噛み締めて耐える。
「――ッツ! 確かに分からぬのも無理ないかもしれぬ。自分はあの時と同じ子供では無く、弱いままでもないのだからッ。
それに、貴様が覚えていようがいまいが自分のやることは変わらぬッ。
貴様に襲われいたぶられた屈辱。そして、自分を命がけで守ってくれた偉大なドラゴニアン。彼の仇をこの手で討つだけだ!」
雄叫びを上げてシャイドを倒すべく駆け出す。
考えろ、考えろ。どうすれば奴に勝てる。先ほどまでと同じように怒りのまま真正面から向かっては駄目だ。
そう考え、駆け出す動きに虚実を織り交ぜ、攻撃の方向を読みにくくさせながら近づく。
だが、そんな事に興味など無いと言わんばかりにシャイドは顎に手を、顔を上に向け何かを考え込んでいる。
あのような態度。とことんこちらを馬鹿にしおってッ。
隙だらけのその身体に拳を放つ、先程とは違い貫く様にではなく、当たる瞬間拳を引き戻し、衝撃だけを内部に通すように。これなら影を貫き囚われたりなどしない筈。
効け、効けッ、倒れろ!!
未だ動きもしないシャイドに拳を、蹴りを全力で打ち込み、その身体を乱打していく。
ボコリボコリとシャイドの身体が波打ち、水面を殴ったかの様に当たった箇所がヘコみ、波紋が起こる。
だが、いくら拳を打ち付けても、蹴りを放っても……シャイドにはまるで効いた様子も無い。殴られ続けるシャイドは不意に顔をこちらに向け真っ赤な口腔を魅せつけるように笑った。
【思い出しましたっ。思い出しましたよッ。っひひ、そうですか……あの時襲ったカルガンの子供ですか。嗚呼、楽しかった。本当にあの時は楽しかった。
怯えて情けなく蹲る貴方を必死な形相で守るドラゴニアン。貴方を守っているせいで、満足に動けず徐々に押されていくドラゴニアンを貴方はその場から逃げるでもなく、助けるでも無く。ただ眺め、そして見捨てた】
「……黙れ、黙れぇぇ!」
シャイドの口を止めようと、拳を顔面に撃ち放つ。
今まで動くことが無かったシャイドが初めて動く。杖を握っていない手を動かし、自分の打ち込んだ拳を当たる直前、その手で受け止め凄まじい力で握り込んできた。
「があッツ!?」
拳の骨がミシリと嫌な音を立て、激痛が走る。どうにか逃れようとするも凄まじい力で拳を抑えられ離れられず、拳に走る余りの痛みに身体が反応し、意思とは関係無くその場で跪く様に膝をついてしまった。
視界の端では影の亜人と戦っていた銀髪の女性がこちらに向かって来ようとしているのが見えた。だが亜人に邪魔をされ、中々こちらに来られずにいるようだ。
苦痛に顔を歪ませ見上げる自分と。喜悦に染まり見下ろすシャイド。
視界に入るその口元は、見ているだけで心をざわつかせる歪んだ笑みだった。
【お話の途中で攻撃をするとは躾のなっていない獣ですね。
大体、こんなにも脆弱な貴方があのドラゴニアンの仇を討つ? 本当に笑わせてくれます。
あのドラゴニアンを殺したのは私だけでは無く貴方も同じでしょう? 貴方がいなければ、逃げる事だって出来た。貴方がいなければ、あの時の私なら倒せていたかもしれない。ほら貴方のせいだ、そうでしょう?】
シャイドの言葉が忍びこむ様に身体に入り込んでいく。
その言葉は心を抉り、心臓を鋸で切られているかの様な痛みを身体に伝える。
わかっている、その通りだろう、自分のせいだ。あの時邪魔をしないように、逃げ出せる程度の度胸があれば、腰抜けじゃなければ、彼は死ななかった。
心の底に溜まっていた不安や罪悪感がシャイドの言葉でつつかれ、溢れ出す。目の前がぼやけていき、思考が一色に染まる。
仇を討つなどと言って自分はこいつに罪を全て押し付けていただけでは無いか、仇を討つなら自分も死んでしまった方がいいのではないか。
すまない。自分のせいだ、自分が全て悪いのだ。
心の底に押しこめ、普段は考えないようにしていた気持ちが膨れ上がり、立ち上がる気力すらなくなっていく。
【ね? 私の言った通りでしょう。ほら、貴方も死んでしまったほうが良いのですよ。だって彼を殺したのは貴方なんだから】
死んだほうが良い、自分など存在していなければ良かった。そうかもしれない。その通りだ。
思考が全てその考えに支配され、それ以外考えられなくなっていく。
力が入らない。抵抗する気力が湧いてこない。
【苦しく死ぬのは嫌でしょう……私が一瞬で殺して差し上げます。直ぐに何も考えずに済むようになりますよ。感謝してくださいね?】
自分を見下ろすシャイドの腕がギロチンの様に変わり、抵抗できなくなった自分の首目掛けて振り降ろされる。
――これで自分の罪を償えるのか、この最悪な気分から開放されるのか。
諦めと、少しの安堵が身体を支配し、目を閉ざし迫る断罪のギロチンを無防備で受け入れる。
――轟ッツ!
凄まじい風切り音がし、身体全体に暴風を感じる。ゆっくりと目を開けると、上半身が吹き飛んだシャイドの姿が視界に飛び込んできた。
一体、何が起こったというのだ。
目の前で起こった事態が飲み込めず、只々混乱してしまう。
シャイドの上半身は何が起こったのか、吹き飛ばされ跡形もなく、唯一残った右手は杖を握ったまま地面に転がっていた。
呆然と動くことも出来ずに居る自分の耳に、慣れ親しんだ声が聞こえてくる。
「ラングどんに何をするんだでッ。おらの恩人に手を出したら許さねーだよ!」
声に目を向けると、見慣れた巨体が視界に入りその顔を憤怒に染めたドランがいた。
――あやつ、あんな表情も出来るのだな。
未だ混乱しているせいか、訳のわからない事を考える。そして、ドシドシ、とその巨体を揺らし、こちらに駆け寄ってきたドランはそのまま自分の肩を掴み激しく揺さぶりながら、大声を上げた。
「ラングどんもラングどんだで、何して抵抗しないだよッ」
何を言っているのだこやつは、自分に抵抗する権利など有る訳が無いだろう。罪は捌かれなければならないのだから。
「ドラン、訳のわからぬ事を言うな。自分が悪いのだから、抵抗する理由などなかろう。自分のせいで死んでしまったドラゴニアンの彼。
それを見捨てた自分は死なねばならぬ。死なねばならぬのだ……」
その言葉にドランは何故か驚愕の表情を浮かべ、身体を震わせる。肩を掴んでいる手に力が篭り、その握力でギチギチと音を鳴らした。
「それは、本気で言ってるんだか……ラングどん?」
「なにを……本気に決まっておろう」
「そう、だか。本気で言ってるっていうんなら……」
ドランの瞳に力が漲り、何か覚悟を決めたようにその表情を変え、自らの頭を後方に引き絞っていった。
「――これでッ、目をッ、覚ますがいいだよッツ!!」
ドランは雄叫びを上げ、掴んでいた自分の肩をその豪腕で引き寄せる。そのあまりの力に抵抗出来ず、身体がグンと加速した。
ゴギィッツ。
額に鈍器で殴られたかのような衝撃が走り、視界の中にバチバチと星が散らばっていく。状況から考えて、どうやら自分は頭突きをされたのだと理解した。
こ、こやついきなり何をするんだッ。
突然のドランの行為に戸惑いズキズキと痛む額のせいで怒りがわき睨みつける。だが、ドランは少しも怯えた様子も見せず、逆に憤怒の形相で自分を見ていた。そしてドランはその表情とは裏腹に、悲しそうな声音を乗せこちらに吠え立てる。
「あのバケモンに何されたかしらねーだよッ。でも……ラングどんにとって死んでしまったそのドラゴニアンが憧れなら、おらにとってはラングどんが憧れの人なんだで。
そんな、そんな情けねー姿をみせねーでくれよラングどんッツ」
――なッ!?
凄まじい力で頭と心を殴られた気がした。先ほどの頭突きも凄まじい衝撃だったが、今の言葉には到底敵うまい。
ジワリとドラン叫びが胸に染み入り、その言葉が心臓を鷲掴む。動かなくなっていた身体と、纏わり付いていた様に感じていた濁った空気をその雄叫びで易々と吹き飛ばされた気がする。
何故ドランが彼の事を知っているのか、という疑問は今はどうだって良かった。何故なら、今まで何も考えられなくなっていた頭が妙に晴れやかになっているから。
――何をしているのだ自分は。醜態を晒し、全てを諦め死を受け入れるなどと。何を考えていたんだッ。
頭の中に掛かっていた靄が晴れ、自分の姿を省みて恥じ入った。座り込んでしまっていた自らの身体を起こし、荒れそうになる心を静め、ドランに深々と頭を下げる。
「すまんなドラン……色々と感謝するぞ」
自分の言葉と行動に驚き、そして嬉しそうな顔をするドラン。
憧れ、か。ドランが自分に憧れていると言うのなら……確かにみっともない姿を晒すわけにはいくまいて。
――だがなドラン。どうやら自分は彼と同じように、お主にも憧れているし、尊敬を抱いているらしいぞ。
ドランの成長が我が身の事のように嬉しく、そんなドランから認められている自分が誇らしい。
自分も……ドランに負けぬように成長せねばならんな。
「やるぞドラン。足をひっぱるで無いぞ」
「了解だでラングどん。でも、もう訳の分からない手に引っかからないで欲しいだよ」
こやつめ、言ってくれる。
再生し、元に戻ってしまった影帽子にドランと共に対峙する。
もう焦りなどしない。自分一人で倒せぬのなら、仲間と共に倒せば良い。自分にはこんなにも頼りになる仲間がいるのだから。
【全く……もう少しだったというのに、邪魔をしてくれますね。
しかし、本当に惜しい事です。力を制限されていなければ、貴方に最も相応しく、楽しんでもらえるだろう御催しを見せられたのですが……まあ仕方ありませんね。向こうも面白い事になっているようですし、良しとしましょう】
眼前のシャイドはチラリ、とその手に持った杖に顔を向け、その後メイ殿が戦っているだろう方向に顔を向けた。
◆◆◆◆◆
畜生畜生畜生ッツ。
私が英雄なんだ、こんな事があって堪るか、何かの間違いだ可笑しいんだこんな状況。
眼前で武器を振り回す黒いローブの男を憎しみを込めて睨みつける。
メイ・クロウエ。
気に入らない気に入らない。何でこんな奴が私の邪魔をするんだ。英雄の私が勝てない筈が無いだろう。
猛然と振り回される槍斧は凶悪なまでに力が篭っていて、一合受ける度に手が痺れ武器を取り落とそうになる。
隙を見つけて攻撃しても肩に居る使い魔のせいで全て弾かれ、届かない。
戦闘を始めた時点ではここまで押されていなかった。使い魔は厄介だが、そこさえ気をつければ私が勝てる筈だったのだ。
それがなんだこの状況は。まるで攻撃が届かなくなり、押される一方になっているではないか。
違和感を感じたのは戦闘が始まり少ししてからだろう。拙〈つたな〉かった技術が、動きが、少しづつだが洗練されていく。突きだす動きは荒いのに、何故か横薙ぎの動きは恐ろしいく早く、強い。
細かい身体の動かし方は出来ていない筈なのに、私の繰り出す剣線は、ただ空を切るばかりになっていく。
ひどく技術の差がチグハグで、それなのに少しづつではあるが拙い部分が埋まっていき、鋭い部分は更に鋭利になっていく。
馬鹿な……そんな馬鹿なッ。あり得ない、私が負ける事などあっていい筈が無いでしょう。あの地獄の様な場所で生まれ、そこを切り抜け生き延びたこの私が、負けるはずなんてッ。
思い出したくもない筈の記憶が脳裏をかすめる。都市に住む全ての人間は灰色の皮膚に染まり、人を喰らい、お互いを食料に生き延びる。
自身の子供を食料の様に見つめる親。それを殺し貪る子供。
人を食らえば食らうほど、その身体は灰に染まり、その事実を当然と受け止め続けるあの場所を。私だってそれを当然のように思っていたし、可笑しいとすら思っていなかった。
都市外から食料として捕まえてきた商人から二冊の本を手に入れるまでは。
【英雄譚】【エムネスアース】と題名が付けられたあの本を。
最初はただの興味本位で、本を奪い取り……食料として捕まえられていた一人の女の子に文字を教わり読み込んだ。
自らの知識が増えていくことは楽しかった。
本を読み、初めて楽しいという感情を知る事になった……心が踊る英雄の物語。
そして知らなければ良かった、生まれた都市以外の世界。
最初は気にもしなかった。だが、読めば読むほどに、自分がいかに異常な状況にいるかを知ってしまい理解してしまった。
一度気が付き、疑問を抱いてしまえば、都市の全てが異常に思え、恐怖を覚え、気が狂いそうになっていった。
記憶の波が次々と押し寄せ、戦闘に集中できなくなっていく。
ドンドン、と思考が記憶で染まっていきそうになり、一瞬だけ思考が止まり、同時に動きも止まってしまった。
――ッツ!? まずいッツ。
ギッィィン。
迫る槍斧に間一髪気が付き、危うい所で受け止める。
「くそ、今のは惜しかったな。ボーッとしてるし、イケルと思ったんだけどな……」
本当に今のは危なかった。私は何をしているんだ。戦闘中に集中力を乱すなどと。
目の前にいるクロウエはウンザリした様な表情をしながら、こちらにブツブツと文句を言ってくる。
「もーいい加減に諦めろよクロムウェル。普通に考えてここで俺に勝ったとしても逃げらんねーだろッ」
「五月蝿いッツ、黙れ!! 私は英雄なんだ、この程度乗り切って見せるッ……私にとって、最大の邪魔は貴様なんだメイ・クロウエッ」
そうだ、こいつは邪魔だ。獄級を二つも潰した等、私の目的の邪魔にしかならないッ。英雄は一人でいいんだ、私だけで良いんだッ。地獄を味わった私では無く、こんなのうのうと暮らしてきただろう奴が英雄になっていい筈が無い。
「意味分かんねーよッ。勝手に一人で英雄になってりゃ良いだろうがっ。俺は邪魔なんてしてねーよ」
「死ね、死ね。黙って死ねええッツ」
殺意を込めて喉元に右手の剣で突きを繰り出す。だが、迫る突きから上半身を後方に器用に逸らし、避けられる。
だが、その動きは隙だらけだッ。
上半身を大きく逸したせいで、後ろに倒れこんでいったクロウエは、漸く大きな隙を見せた。
この好機を逃してなるものか、私は負けない。勝ちだ、私の勝ちだ……メイ・クロウエッ。
勝ちを確信し、残った左手で上段からの振り下ろしを体勢を崩したクロウエに叩きこんでいく。
ゴスッツ!!
だが、剣がクロウエを捕らえる直前、何故か真下から顎を跳ね上げられる。
「――ッガア!?」
振り下ろそうとした剣を思わず止め、顎を抑え後ろに後ずさる。
グラグラと揺れる視界の中、自分の身に何が起こったのかを周囲を見渡し確認する。
あのまま倒れ込んでいる筈だったクロウエは、後方に槍斧を突き刺し片手で身体を支え倒れこむ事を防いでいた。
その姿から、自分の身に襲いかかった衝撃の正体をある程度だが予想出来た。恐らく先ほどの衝撃は武器で身体を支えたまま、足で顎を蹴り上げたのだろう。
なんて訳の分からない動きをする奴だッ。
揺れ続ける視界の中、クロウエが身体を跳ね上げ身を起こし、突き刺した武器をその手にこちらを攻撃してくるのが見えた。
身体を捻り避けようとするが、先ほどの蹴りで脳を揺さぶられてしまったせいで、上手く身体が動かない。
――これは避けられない。私はここで死んでしまうのでしょうか。
自分の身体だ。迫る槍斧を避けれぬ事など嫌でもわかってしまう。
死に直面したせいか、迫る槍斧の速度が遅く見える。脳裏に走馬灯が過る。
記憶が再生されるかのように、聞き覚えのある懐かしい声が頭に響き渡った。
――英雄っているんだよね――は、いると思う? いるなら私と――を助けてくれる筈よね。だって英雄なんだから。
声が聞こえたと思った瞬間。思考の波が荒れ狂い、何も分からなくなってくる。
只々思い出される苦い記憶の渦。
――そうだ、信じていたのに、地獄から救い出してくれると思っていたのに。いつまでたっても助けなど来なかった。英雄なら助けてくれた筈なのに。
ははッ、でもそれも仕方ないんだ……私が英雄だから。だからきっと助けが来なかったんだ。
私が、私が私がぁあ嗚呼嗚呼嗚呼ッツ!!
視界が全て赤く染まり、身体に力が流れこむ。まるで身体が別の物に変わってしまうかの様な感覚。
身体が軽い、力がみなぎる。何なのだろうこの力は……そしてその理由を探し出し、私はすぐに理解した。
そうだ、英雄なのだから、危機に面して力が増すのは当たり前じゃないか。
動けなかった身体は容易く動き、迫る槍斧を強引に右腕で横腹を殴りつけ逸らす。
「なッツ!? お前……一体何がどうなってやがるんだ。ドリーどうやらかなりやばい事になったみたいだ。気をつけろよッツ」
私の力に戸惑ったのか、驚き戸惑うクロウエ。その表情を見ていると、体の芯から笑いがこみ上げる。
我慢する事なんて無いじゃないか、英雄なのだから全て私の好きなようにすれば良い。私を認めない国なんて要らないし、私の邪魔をする者など全て殺し尽くしてしまえばいいんだ。
簡単な事だ容易い事だった。なんて遠回りな事をしていたのだろうか、それを続けていけば、私を英雄だと認める者しか残らなくなるのだから。
【はは、ハハハッ。ひゃっはははははッ。英雄だから、英雄なのだから。こうなって当然だッ。当たり前の事でしょうッツ】
耳に響く自分の声はどこか篭っている様に聞こえ、裾から覗く腕は見覚えのある灰に染まっているように見えた。
どうでも良い、そんな事等どうでも良い。私はただ英雄になれれば良い……私が英雄だったのだと証明できればそれで良い。