2−1
原因を振り返ってみても何も解決しやしない。
徐々に混乱が収まってきたようではある。だが冷静になればなるほどに、凄まじい異臭が鼻につく。
「っな、なんだ!?とてつもない臭いだな……水なのかこれ」
気持ち悪い。後ろ手に座り込んでいる俺の手に、水にしては粘度が高いヌメヌメとした感触が伝わってくる。まるで下水にでも落ちてしまったかのようだ。思わず顔をしかめてしまうが、それでもさっきいた場所よりは百倍ましだろう。
暗くて何も見えない。
しばらく目を慣らし、周りの様子が見えるようになってくると、何かが目の端で蠢いているのが見える。俺と同じく逃げ込んだ人でもいるのか? だが万が一また化物等にあったら堪らない。
――とりあえず静かに、ゆっくりと近づいてみる事にするか。
今まで俺が座り込んでいた場所は水位が多少低かったのか、くるぶし程だった水が歩くほどに深さを増している。既に膝の辺りまで浸かってしまい、制服のズボンはグショグショになってしまった。
もともと黒い色のズボンなのだし、洗えばどうにかなるか……しかし臭いが取れるのだろうか。 足元の水を掻き分けるように進んで行き、朧気ながら先程動いていた何かの輪郭が見える。目を凝らし、その蠢くなにかを確認した時には、俺はこみ上げる吐き気を抑えることはできなかった。
「――ゲホッゴホ」
目の前で蠢いていたのものは、確かに人間だ。否、人間であった物だ。
まだ生きているのであろうソレは、人間がボールのように押しつぶされ固められたもの。動いていたのは、生きている人間が苦痛でのたうち回っていただけ。
気持ち悪い。なんだこれ、何でこんなもんがあんだよッ。
ひとしきり胃の内容物を吐き出し、大分暗闇に慣れてきた目で周りを見渡せばそこは下水などではなく、肉と血の色に染まった赤黒い沼だった。周りには真っ黒な木が生え揃い、天井まで隙間なく埋め尽くしている。今が例え昼間だったとしても、日光は入ってはこれないだろう。
どこだよここ……逃げてきた筈なのに、上手くいった筈なのにッ。
木の幹には顔がびっしりと浮き出していて、言葉にならない呻き声をあげている。人間の手が枝のように生えており、まるで風に揺らされたように動いている。
俺の目に映る光景に希望など一欠片もなく、ただひたすらに絶望を形にしたものだった。
大切な友人は目の前で死んでしまった。俺の両親も化物達にやられてしまったのかもしれない。
考えれば考えるほど、絶望が体を支配し、俺は我慢できずに膝をつき泣いてしまった。目からは涙がとめどなく溢れてくるし、泣き過ぎて涙が枯れても、今度は嫌悪感と絶望に心が折れそうになる。
こんな所に来てどうすればいいんだよ。こんな場所が一体どこにあったんだよ。帰れるのか、帰っても俺の住んでいた場所は無事なのか? もう無理だろ、どう考えてもおかしいだろッ。
折れてしまえば楽なのではないか? 諦めてしまえばいい。考えれば考えるほど鬱々としたものばかりが頭の中を埋め尽くす。追い詰められ、心の中身を曝け出していく、嫌な考えばかりが沸き上がってくる。俺はしばらくその場から動く事はできなかった。
だが全ての物を吐き出し終わると、俺の心の底にはまだひとつの純粋な欲求が転がっていた。
――――――生きたいッ。
一旦見つけてしまえば、ソレはどんどん大きくなった……絶望すら跳ね除けて。
生きたい。
こんな場所で一人寂しく死にたくないッ。足掻きもしないで死を待つなんてごめんだ。化物に食われて死ぬのだって嫌だ。
そうだ……周りに絶望しかなくても、生きたいという思いが有るかぎり、俺の心は折れはしない。
友人や両親を忘れたわけじゃない。今すぐ乗り越えられるわけでもない。それでもこんな所でウジウジしてても何も変わりはしないんだ。
立ち上がり、残る気力を搾り出す。
「出口を探す、絶対に生きて脱出してやる」
いい方向に考えるんだ、今だって状況は良くなってる。あの化物達に囲まれている状況よりは絶対マシだろう。巨人2匹に赤骸骨にウジ虫の海とか完全にアウトだ。あそこに留まっていたら確実に死んでいた。あれに比べれば、ここなんて鼻が腐り落ちそうな臭いと、思わず自分で目を潰したくなる位の光景だけだ。
まったく元気が出そうにない自分自身への励ましに思わず苦笑してしまう。
落ち着いて周りを見れば、ここは袋小路の空間のようで、出口は一つしかない事がわかる、人面樹がそこだけ生えていない。ポッカリと穴が空いていて、木のトンネルが続いてるようだ。
ジャブジャブと沼を進み、ようやくトンネル近くまでたどり着いた時、トンネルの奥からなにかが近づいてくる音がする。
――ヤバい、こんな場所にいるやつなんて化物か、モンスターの二択だろう。
まずい隠れないと。だが周りに隠れられそうな場所が見当たらない。どんどん近づいてくる音のせいで俺の心臓は凄まじい速さで鳴り出す。
思わず心臓を手で抑えた瞬間、手のひらに何かが触れる。シャツの胸ポケットに入っていた手帳とボールペンだと思い出し、すぐさまボールペンの中身を抜き取り筒を口に咥え、出口のすぐ横へ進んだ。
心の中でギャーとかイヤーなど叫びながら目から下は完全に沼の中へ潜り、近くに浮いていた小さい木片を引き寄せる。
俺は木片、俺は木、自然は友達……。
心の中でまったく意味が無い自己暗示をかけ、目立たないようにじっと身を潜める。
――――ズルズル、バシャバシャ。
何かを引きずる音と水音が聞こえ、目の前にあの忌々しい肉巨人が現れた。
巨人はこちらには全く気づく様子もなく、目の前を何事も無く通り過ぎていく。
巨人はその手に縄を握っており、その先には十人以上の人間が生きたまま繋がれ引きずり連れられて行く。繋がれた人たちは自分がどうなるのかわかっているのか口々に叫び出す。
「嫌だーーーー死にたくないっ。死にたくない」
「お願い誰か、誰か助けて! モンスターなんかになりたくないっ」
「……神よ」
巨人が耳を貸す筈もなく。さっきまで俺がいた、肉塊のある場所へ進んで行く。そして、巨人がその場所へと辿り着いた瞬間、聞くに耐えない音と声が俺の耳と脳裏に反響した。
ごめんな、今俺が出ていっても貴方達を助けられないんだ。
◆◆◆◆◆
しばらくの間じっと待っていると、一転して静かになる。
巨人は肉塊の前で動く様子はない。
ギチギチと皮を裂く音が聞こえ、じっと目を凝らし観察する。人肉を固め更に一回り大きくなった肉塊の中から、新しい巨人が這い出てくる。
あの肉塊に人を集めてある程度大きくなると、あいつらが生まれるのだろう。多分その為に人間を集めているとみて間違いないんじゃないだろうか。
生まれたばかりの巨人を連れ、二体の巨人は沼の中を進み出て行った。
やつらはまた人を集めに外に行くんじゃないのか? 後を着いて行ったら出られる可能性があるかもしれない。
鼻で呼吸出来るまで沼から顔を出し、バレないように沼の通路の壁際に沿って泳ぎ巨人の後を着いて行く。
沼地を潜りながら進んでいると、自分がなんだか河童にでもなった気分になってくる。ここまで浸かってしまったら今更、沼とか気ならなくなってくる。きっと人間追い詰められるとなんでもできるのだろう。
◆◆◆◆◆
しばらく泳いで着いて行くと四叉路に行き当たり、巨人は真ん中の通路以外の二手に別れ右と左に歩き出す。
どっちに着いていけばいいんだ?
左に進む後輩巨人と、右に進む先輩巨人。
たぶん生まれたばかりの奴は外に出さないだろうと勝手に決めつけ、右の巨人を追いかける。
またしばらく進むと、なにやら巨人は開けた空間に入っていくのが見えた。――だが追って入った部屋の光景を見て心臓が飛び出るほどに驚き戸惑い、思わず口を開けそうになってしまう。
だがいくら沼に慣れたといえそれだけはありえない。正直危なかったが、いや本当に危なかった、もう少しだけ口を開いていれば、
口の中が大惨事になっていだろう。
部屋の中をよく見れば、両脇に3体づつ、全6体の巨人が眠るように立っている。
休憩所みたいなものだろうか、どちらかと言えばRPGのボス前みたいな雰囲気にも見える。ボスとか無理だ、ありえない、さっさと戻ろう。
……しかし意外と巨人は上下関係厳しいんだな、あの若い巨人パシリになってやがる。
くだらない事を考えつつも、すぐさま元来た道を引き返す。先ほどの四叉路に着き、若い巨人が進んだ道へと進もうとすると、最初に来た道と、今進もうとした道から巨人が近づいてくる音がする。
さすがにこの通路はそこまで広くもないし、いくら潜っても巨人と正面からすれ違いたくない。今来た道を引き返しても、着くのは6体いるあの部屋だ。もし挟まれでもしたら目も当てられない。
仕方なく残った真ん中の通路に向かって逃げる。とりあえずこの先が袋小路じゃない事を祈るしかないな。
まあ残り物には福があると言うらしいし、すこし位なら期待してもいいんじゃないだろうか。――道中特には問題はなかったのだが、結果として着いた先は袋小路なわけで……。
だだっ広い沼の真ん中に陸地があり、とてつもなくでかい黒い木が生えていた。
木がでかすぎるようで、少しだけ――ほんの少しだけ光が上から漏れてきている。久しぶりに見た光のおかげか、俺の中の希望が少しだけ大きくなっていく。
――だが、同時に悪い事も重なるらしく、水音がこちらに近付いてくるのが聞こえる。どうやら音からして、巨人が最低でも1体もしくは2体こっちに向かって来ているようだ。
やはり福などなかったらしい。大丈夫、挫けない、俺はまだ諦めない。どうせ福なんぞ来ないと思っていたし。……本当だ。心のなかで必死に自分を慰める。期待してしまっていただけにショックも大きかったが。
急いで周りを見渡し、隠れる場所を探すが、此処の沼は水位が浅いらしく潜れそうにない。
仕方なく沼中央のでかい木に近づき、根元にウロを見つけ入り込む。
ウロの中は意外と広く、久しぶりに地に足付けた為、少しだけ気が抜ける。だが気が抜けて油断してしまったせいか、木から鳴る音に気がつくのが遅れ咄嗟に動けなかった。
耳には木がバキバキと鳴る音が聞こえ、目に前の木のウロから無数の手が生えてきていた。
「くそっ、やばい閉じ込められる」
急いでウロから出ようとするが、幹から生えた何本もの手が出口に張り付いていき、塞がれてしまう。
どうやら完全には塞ぐことは出来ないらしく、少しだけ隙間が残っているようだ。だが、とてもじゃないが通れそうにはない。
仕方なく隙間から外を覗くと、巨人が二体、でかい樽を担いで木に向かってくる。
最悪だ二体来やがった。
しかし巨人はこちらに気がついてないらしく、樽の中身を木の根元にぶちまけ始める、今までのパターンから考えれば中身は多分、死体を砕いた物とかなんだろうな。
肥料の代わりにでもしているんだろうか。
まあ、正直木の肥料どころか、俺が肥料にされそうなこの状況ではどうでもいい事ではあるので、一先ず頭を切り替え、出る為の方法を考えてみる。
――しかしそう簡単にアイディアなんて出る筈も無く、諦めそうになる心を抑え、しばらくじっと動かず考え続ける。だが、考え込み動かずにいたせいか、今まで溜まっていた体の疲れと、精神的な疲れが一気に沸き出てきて、急激な睡魔に意識が保てなくなってきていた。薄れ行く意識の中で俺は起きたときの事を考える。
――起きたら養分吸われてミイラになってました、ってだけは勘弁して欲しいもんだなー。