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俺の人生ヘルモード  作者: 侘寂山葵
混淆都市シルクリーク
108/109

狭間の臭い

 

 

 

 厚い雲の向こうにいる太陽は、中天を少しすぎただろうか。

 休むことなく進み続けて、俺たちは一先ずの目的地まであと半分の場所へと到着していた。

 この辺りにも元々見張りがいたのだが、先ほどとは色々状況が異なっているおかげで片付けるのには苦労しなかった。

 手前側は俺たちで仕留め 奥側のふたりは“投げ渡した”ドリーとリッツが始末したからだ。

 つまり、ドリーを“投げ渡した”という言葉通り、俺たちがいるのは――

 幅百メートルほどの大地の裂け目に一本だけ架かった、三人並んで歩けるほどでかくて広い吊り橋の前だった。


 広い谷間にかかった橋は実に立派だ。ただ一つ問題をあげるならば、そいつは風に煽られ揺れていた……盛大に。


 ――これは……ちょっと。


 四本ずつ両岸の大地に刺さったままでギシギシ叫ぶ金属の支柱。橋の基礎となっている太く頑丈そうな二本の金属綱も、縄跳びでもしたいのか元気にビシバシと撓んでいる。

 濡れて黒く見える木板の足場だって、木管楽器のように音を奏でているではないか。

 ――本当に楽しそうですね。マジ余計なことすんなや風。 


〈さ、さあ……渡るとするか〉


 とりあえず言ってみたものの、これを渡るのか? そう考えると俺の足は止まった。

 別に、落ちるとか本気では思ってない。橋は腐食したり痛んでいる様子はないし、頑丈そうなのだから。というか、そもそもこんな場所に架かっている橋、腐食率や強度には十分気を使っているはず。

 そう、自分から壊そうとでもしない限り、こんな頑強な橋は落ちるわけがない……ないんだ。

 瞬間、まるで返答するように風が轟と唸った。もちろん橋はひゃっほいと揺れた。よほど暴風と仲がよろしいらしい……橋の金属綱にかかる張力テンションはマックスである。


 …………超怖くね、これ。

 

 高さには結構慣れているつもりだったのに、ここまで悪条件が重なると本能的な恐怖が湧くものなのか。

 たぶんドリーに投げられて飛ぶのと、橋を渡る最中で落下する(かもしれない)のでは、感じ方も違うのだろう。

 もしかしたら、肩にドリーがいないことも――敵を倒すために投げたので向こう岸にいる――俺の不安が増している要因か。水晶平原で落ちてく仲間を見たこともあるのだし。

 

 ――いかんいかん……。

 

 ふと思い出して嫌な気分になったが、『こんなことしている場合ではない』とバクバクと暴れる心臓を押さえつけた。

 怖くはあるが、でもそれだけ――俺は腹の底に力を込めて一歩足を踏み出した。

 ぎシィ

 と木板に足を乗せたとたん嫌な音が。一瞬冷凍バナナのように肝が冷えはしたものの、俺は構わず体重をかけていく。

 

 ――割れ、ない……な。

 

 足に三度ほど力を込めるが、足場は余裕で俺を受け止めている。少しだけ恐怖心が和らぎ一歩二歩と進み出すと、後方に続く仲間たちも、ようやく橋へと足を踏み入れていった。

 


 そろりそろりと、極めて慎重に吊橋を渡る。濡れた木板はかなり滑り、揺れもあって恐怖は掛け算されていた。

 ――余計なこと考えるからいけないんだ。

 向こう岸でを振って待っているドリーに視線を固定し、俺はできるだけ考えることを止めた。


 が、しかし、ちょっと予想外のことが起こった。『まさか落ちるんじゃないか』という俺の不安を他所に、呆気なく半分を通り過ぎてしまったのだ。

 別に問題じゃないし、良いことに違いないのだけれど、だいたいこういうときに限って何か起こるから、肩透かしを食らった気持ちになってしまう。

 

 ――あれ、けっこう余裕?

 

 油断こそしないが、こうなってくると恐怖などすごすごと尻尾を巻いていくのだから、人間現金なものである。

 しかもそれどころか、一歩また一歩と歩いている内に、異なる方向性の衝動が俺の胸に湧きあがってくる始末だった。

 “下を……下を見てみたい”。

 怖いもの見たさと好奇心。これもある意味本能からくる感情か、いかんとも抑えがたい。

 

 『馬鹿か……絶対に駄目だ。下を見たら怖いっていうだろ?』と、脳内にいる常識人な俺が必死な形相で叫んだ。

 でもそれとは逆に、

 『よくね、さっき一回見ただろ? 一度も二度もかわらねーし』と、ちょっとワンパクな俺が囁く。


 もちろん、俺は『ありえない。そんなアホな真似はしねーよ』と胸中で呟き、きわめて迅速に視線を下に向けた。

 

〈いぁあああ〉

 

 一瞬で、想いが妙な声となって口から飛び出していく。

 視界に映るのは、リーンと名前を付けようかと思うほど、ほんの少しの凹凸しかない岩壁。そのずっと下方には、豪雨で荒れ狂った川が流れていて『さあ飛び込んでおいでよっ』と轟々と唸り声まであげている。

 高すぎる。目も眩むような高さだ。俺が高所恐怖症ならば、間違いなくこの時点で気絶していただろう。

 

〈くそ……欲望とはなんて手強い相手だ〉

 

 思わずそんな文句を漏らしてしまったが、その実、俺の心に“後悔”の二文字はなかった。

 見たいものは見たかった。

 というのもあるが、『もしものために下の状況を知っておかなければ』、とも思っていたからだ。

 みんなを率いる者として、しっかり仕事をするのは当然だ。心の割合だって七対三くらいのものだ。もちろん七が『見たかった』で、三が『もしもの……』、いや違う、逆である。

 

 と、

 俺が自分を正当化さることに努めていると、ふいに焦ったような声が背後から聞こえてきた。

 振り返える。見えたのは、足を止めて揃って下を眺めているみんなの姿だった。


〈あばばばばばっ。落ちねーよな? 大丈夫け? オラの体重で落ちたりしねーよなっ?〉

〈ば、馬鹿ね。そう簡単に落ちるわけがないでしょ? だ、だからそう、早くその震えを止めなさいよ。止めて、揺れが大きくなっちゃうじゃないっ〉


 携帯のマナーモードのようにガチ震えをしているドラン。

 『落ちるわけがない』と自分に言い聞かせながらも、金属綱をガッチリ掴んで離さないリッツ。

 腰を落とした妙な格好で停止しているスルスたち。 

 混乱が、形となって俺の目の前にあった。どうやら、俺の声に釣られて下を見てしまったらしい。


 ただ、混乱しているのは全員ではなかった。平然として下を眺めているのがひとりと一匹いる。

 妙な部分ばかり無敵超人なリーンと、怯えている姿を見たことがない樹々のオリハルコンハートコンビである。

 

 こんな状況でも、彼女たちはいつも通りだ。

 樹々は慌てるみんなを楽しそうに見つめて尻尾を振り、ただでさえ揺れる橋の元気付け。

 リーンだって、ここぞとばかりに『ふふ、大丈夫?』『怖くないわよっ。急いで渡りましょう』、『じゃあ背中を押して(、、、)あげましょうかっ』と頼りになるアピール。

 もちろん、大声を出さないようにした抑えた悲鳴が響いた。

 

 ――おい、お前らマジでやめてあげて。

 

 みんながパニクってるせいか、もう逆に俺は怖くない。それどころか、相変わらずのリーンと樹々の様子に脱力していた。

 なんだろう、怯えていないのは結構なのだが、はたしてこういうのは頼りになると言っても良いのか?

 いちおう、平然とした者がいるのは頼もしいといえなくもない。

 実際さっきまでビビッていたドランだって、『だ、大丈夫だでっ。オラ一人で歩けるだよっ』と、自分の足で進もうとしているのだし。

 

 ……まあ、単純に背中を押されるのが嫌なだけか。

 

 ぶっちゃけて言えば、こんなときのリーンの手助けは崖から垂らされたアミダくじに近いものがある。いや、場合によってはどれを掴んでもハズレなのだからクジですらない可能性も。

 ともかく、ドランは『それを掴んで登るよりは、自分の力で頑張ったほうが助かる見込みが高い』と判断を下したのだろう。

 正解である。

 俺は心の中でドランにグッジョブを送りつつも、空気が緩和したのを見計らって口を開いた。

 

〈とりあえず、『早く渡れば怖いのは少しだけで済む』ってのも一理はあるよな……ほら、さっさと向こう岸まで行っちまおう〉

〈ぎぎぎ、元凶はアンタで……しょうがぁ〉


 台詞とは噛み合わないけっこう弱々しい声音をリッツが吐く。

 リッツがこういうのを苦手なのは少し意外だけど、わからなくはない。それに、ついさっきまで俺自身怖がっていたのだし、人のことは言えないだろう。

 ――悪いことをしてしまった。

 反省を新たに、俺は誠心誠意、心の篭った謝罪をリッツに送った。


〈すまん。反省している。でも止むを得ない事情があったんだ。事故だったんだ。誠に遺憾であると思っています〉

〈へぇ、事情ってなによ?〉

〈どうしても、衝動が景色を見せろとせがんできた。お前だって腹減ったらご飯を食べるだろ? つまりはそういう事情があった〉

〈いいわよくわかった……アタシが落ちる時は、絶対にアンタを道連れに落ちてやる!〉


 なぜだろう、真剣に語ったのにリッツから恨みの篭った眼差しが飛んで来た。

 やはり正直者は馬鹿を見てしまうのか。残念だ。俺の素直さがここにきて仇となったらしい。


 ただ、リッツからの恨みは買ったがいつものように会話したおかげもあって、みんなの恐怖が少し和らいでいた。どうやら俺の行動は、棚から牡丹餅――いや計算に裏打ちされたファインプレーであったようだ。

 リッツは、まだ俺を睨んでいる。その目端には若干涙目が溜まっている気がしたが、俺はたぶん雨粒だということにしてからかうのはやめた。

 

 ――これ以上は、落とされかねない。

 

 緊張も大分ほぐれたことに満足し、俺は視線を前に戻しまた足を進めていく。

 向こう岸では、ドリーが風に飛ばされないよう、金属柱半ばに捕まり風ではためいていた。完全に、鯉……いや蛇のぼりだ。


 ――こりゃ、早く行ってやらないと飛ばされそうだな。 


 最後にもう一度だけ谷底や壁の具合を確認し、俺は落ちた場合の対処方を考えながらも、先を急いだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 薄暗いシルクリークの王間には、延々と外からの轟音が届いていた。振動もあるのか、天窓がかすかに震えている。

 ただ、対照的に王間の中に混乱の空気はなかった。城の家臣がいれば異なっていただろう。しかしここにはいるのは、現在ダドとハルバのふたりだけだった。

 玉座で頬杖をついていたダドが、しばらく轟音に耳を傾けたあと、ふと側に立っていたハルバへ視線をやった。


「戦争の音。戦闘の音。オレはいつもこの音を聴くと、妙に心地よくも懐かしく感じる。お前もそうは思わんか、ハルバ」 


【ふむ言われてみれば確かに……穿ち爆ぜる音、肉が断たれ骨が砕ける音、怒号と悲鳴、それらは常から耳にしている日常の音ではありますからな】


 と、そこで言葉を一旦切ったハルバだったが、すぐに『しかし』と言って続けた。

 

【他人が作りあげた音を延々と聞かされるのは、存外不愉快ではあります。王よ、いつまで放っておくつもりで? 命令さえ頂ければ私が蹴散らしてみせます!】


 言うや否や、ハルバは斧槍の柄尻で地面を叩く。そんな血気盛んな様子を見て、ダドは欠伸をかみ殺した。


「相変わらず、四人の中でも聞き分けが悪い。お前くらいなものだぞ、幾度言っても食い下がってくるのは」

【いえっ、そんなことはないはず。ハマを見てください。あやつが一番短気ではないですか】

「はッ、大して変わらぬよ。どちらかと言えば、まだハマの方が素直なほどだ」

【――なっ!? ぬぅ……】


 一瞬反論しかけるも、ダドの視線に諌められハルバはうなり声をあげて沈黙する。

 ダドは呆れを感じさせる所作で仮面に当てた指をコツコツと叩き、黙り込んだハルバを見つめた。


「まあ、お前たちのそういう部分は、オレにとって武器種の違いと変わらんさ」


 宥めるように、言い聞かせるように、怒りを感じさせない声音でダドが続ける。

 

「普段がどうであれ、オレの振るう腕に従い敵を裂くならば、武器としての役割は果たしている。いま少し待てよハルバ。周辺を探らせている木偶が戻ってくれば、お前たちの出番もくるだろう」

【小細工……の警戒ですか。木っ端相手にそこまでしなくとも】


 怪訝そうに尋ねるハルバに、ダドは背もたれに体重を預けながらも答えた。

 

「戦争を、命を賭けた戯れ事だとすると、圧倒的に戦力(財力)が下回っている弱者は、強者を下すためにしなければならないことがある」

【…………】


 黙って聞き入るハルバを確認し、一呼吸おいたダドがさらに言葉を重ねる。

 

「大博打、イカサマ、身を削っての資金繰り。いくつかの方法はあるが、その全ては弱者側に不利なものばかりだ。いちいち付き合うことはない。強者は黙って一方に賭け続ければいい。弱者にとっては莫大で、こちらにとってのはした金を。延々と、延々と、向こうの資金が尽きるまでな――」


【……しかし、相手が小細工を弄しているというのなら、負けの目が出るのでは?】


 首をかしげハルバが問う。すると、そんなことは分かっているとばかりにダドは鼻を鳴らした。


「相手の状況、現在の動きから察するに、向こうの手立てはほぼ陽動しか残っていない。わざわざそこに乗ってやることもないだろう。負けの目があるとすれば、あの場所に気がつき……そこを落とす為に動いている……といったところか。お前のいう通り可能性は皆無ではないなぁ。いちど畜生に後を付けられていたこともあるのだし、知られていてもおかしくはない」


 ハルバは、『ふむ』と思い返すかのように唸ったあと、視線を戻す。


【いちおう、一緒に付けた筋肉ダルマからの報告によれば、『間違いなくひとり始末した』、とのことですが】


「それでも、もう一人隠れていたことも考えられよう? 畜生共がこの街から尻尾を巻いて逃げたのを覚えているか? あの時も、少し動きが速かったように思える。情報が伝わっていると考えればそれも頷けるだろう」


 なんでもないことのようにダドがそう言った直後――ハルバは『我が意を得たり』とばかりに頭を上げた。

 

【ならばっ! それならば、今すぐにでも向かったほうがよろしいのではないか。私に一万ほどを預けて頂ければ、有象無象など粉砕してくれましょう!】

「それは、駄目だ」


 瞬間、ダドは右手をあげて制止する。


「まだこちらの戦力を城外に引き出すといった目も十分と残っている。それに、“あの場所には”常備させている軍もあり、“影”の仕掛けた小細工もあるではないか。この状況なら、どちらを優先するかは考えるまでもない」

【そう、ではありますが……】

 

 溢れださんばかりの気概を即断され、ハルバは少しだけ頭を垂れながら言った。


【守衛の指揮官があの小娘で、頼るべき小細工があの陰険な影が労したものというのは、少々の不安が……影自身も『完璧ではない。破れる者がいる』と言っておりましたし】 

「分かっている。が、そやつもまだ見つかってはおらんだろう。いるかいないか分からぬ者を警戒して、つまらん小細工にかかってどうする?」


 ダドは己の調子を確かめるかのように、黒革の手袋ごと右手をぐっと握り潰す。ギチギチとはちきれんばかりに革が泣き、拳の大きさが一回り膨らんだ。

 『それに――』、とダドは前置き、いまだに納得できていないであろうハルバへと語った。

 

「もし小細工が破れてもあの場所には、あれらがいる。罪噛みの犬どもと、気狂いの医師が――」


 つまらなそうに吐き捨てられた言葉。ハルバはそれを聞いて、ふいに殺気を漏らしはじめた。


【ギルテアの骸どもですかッ――私自身は覚えてはいませぬが、王をあの陰湿な場所に閉じ込めた罪は大きい。あいつらも切り刻んでくれねば!】


「だから落ち着けと言っている――それに、オレが今ここに在るのもあの場にいたおかげだ。いずれ細切れにはしてやるとしても、今は考えるな。到底足りぬよ、あの場所ではなく、本拠地とも呼べるあそこを潰すには」


 納得出来なさそうに押し黙るハルバに構わず、ダドは先を続けていく。


「大体、どちらに転んでもオレには大した痛手はない。向こうの博打が“例の場所”であったとして、見事負けの目を引きソコを潰されたとしても――で、それがどうしたというのだ? まだオレには“コレ”がある」


 胸元で揺れる赤黒いクリスタルを軽く指で弾く。ダドはゆっくりと両の手を広げた。仮面の中では、低く篭ったうろんな哂い声が響いていた。

 

「それでも向こうはオレを下せない。次に取れる手立ても一つしかない。そんなものは全て予測している。

 畜生共がソレに気がつけなければ、オレの勝ちは小揺るぎもせん。たとえそれを選択できたとしても、力づくで叩き潰してしまえば済む。

 なんの為にお前たちをココに残したと思っている。なんの為に兵の半数を残したと思っている。戯れの賭けなど些事でしかない。いざとなれば卓を蹴り飛ばし、相手の勝ちなど消してしまえばいいだけではないか」


 ひとしきり哂い声を漏らし、ダドはナニかを思い出すかのように仮面のまなざしを天井に向けた。

 

「我等が終わりは敵からの攻城戦だった。そして二度目の始まりもまた攻城戦であろう。面白いとは思わんか、いつもオレを引きずり落とそうとするのは周りではなく……ここだった」

【いえ、王よ――】


 ダドの言葉にハルバは首を振ると、先ほどまでとは異なる冷徹な空気を纏って武器を肩に担いだ。


【同じでは御座いません。あの時とは違い勝利を飾るのは我が王なのですから】


「ハッ、そうだとも、それで良いんだハルバ。下らぬ小細工に慌てることはない。いい機会に恵まれたと考えろ。自らの敗北を消すには丁度いい。オレがいて、お前らという武器がいて、それでもなお負けるというならば、それは単純にオレが弱者であったというだけだ。

 強い者こそが正しい、それが常にある世の理だ。次こそは掴んでみせよう。このなにもかも気に喰わぬ世界を、望み通り捻り潰す力を――」


 そう言って、ダドは右手を握りこむ。

 まるで全てを掴むように、まるで全てを逃さぬように。

  

 


 ◆




 三級区域の奥へと向かうスルスたちの足は、慎重ではあったが決して遅いものでもなかった。

 すでに渡った吊橋は二本ほど。

 目的地へと近づいているせいか、心なしか見張りの数も多くなっている。

 

 ――かといってあまり問題があるとも思えませんが……。


 前方で見張りを即殺していくメイたちの姿を眺めながら、スルスは少しだけ肩の力を抜いた。

 斧槍と大剣で兵士二名の首が飛ぶ。振られた鉄槌と強烈な蹴り足が二名の体を粉々に。

 放たれた矢弾も恐ろしく正確で、警笛を吹かせることすらも許さなかった。

 鎧袖一触。

 わかってはいたが、配置さえ良ければファシオンなど彼らの相手にもなれないらしい。


 手伝う暇もなく見張り全ては打倒され、すぐにも土中に埋められる。

 

〈よし、全員片付けたな。すぐに先に進むぞ〉

 

 斧槍の血を落としつつメイが次の指示を飛ばす。休むことなく先頭を歩き出す彼の姿には、疲労の色など微塵もない。

 

 ――もう少しで目的地……サバラさんたちのためにも急がなくては。

 

 警戒を任されていたスルスと部下たちもすぐに武器を納刀し、小走りになって後を追った。

 が、

 

〈…………ん?〉


 スルスたちが合流する直前、ふいにメイが首元に耳を傾け足を止め、一拍おいて緊張感を臭わせる仕草で左右の岩場へ視線を向けた。

 

〈少し距離は遠いけど、前方からなんか接近してきてる。こんなところに居る奴なんてまず味方のわけがない。おそらくファシオンだと思う。ひとまず岩裏に隠れてやりすごそう〉


 まるでソレを確信しているかのような調子でメイが言う。

 しかし、

 スルスが耳を澄ませて気配を探ってみても、その危険性を感じとることはできなかった。

 

 ――本当に敵は来ているのでしょうか。

 

 ほんのりと疑念の種を芽吹かせながらも、スルスは足を止めずに動かした。

 というのも、

 このままではポツリと取り残されてしまう――スルスがそんな確信を抱いてしまうほどに、メイたちの対応が速かったのだ。

 

 気がつけば……動こうと考えた時点で、もう彼らは散開を終えていた。いや、それどころかもう隠れる先の安全確認までこなしている。

 

 連携という言葉で片付けるには異常だった。あんなことは、出される“前”から指示でも受けていなければ不可能だ。

 全員が同時に気が付いている、というのならばまだ理解できるが――パワー型であるドランの索敵能力を考えると――とてもそうだとは思えない。


 一体どういうカラクリで、とスルス拭いきれない違和感を抱いたまま、部下とともに三つ並びに立つ岩の裏へと入る。

 ほんの少しだけ荒くなっている呼吸を静かに整わせ、スルスは岩に背を預けるように座り込んだ。

 来ているのか? そういった視線を女性の部下へと送る。すると彼女はいちどピクリと長い耳を揺らしたあと、今度は驚いたかのように目を見開いた。

 

〈まさか、本当に?〉

〈はい、足音が聞える――間違いなく来ています。気がつけなかった〉


 動揺しながらも、部下はスルスの言葉にうなずく。 


 ――まさか本当にくるとは。よくあの距離で捉えられましたね……もう槍使いさんが亜人だった、なんて言われても私は驚きませんよ。

 

 時間から逆算しても、聴覚特化の亜人でなければ捉えられるはずがない。それだって雨音と雷鳴でずいぶんと気がつき難くなっているはずなのに。相変わらず、謎だらけの助っ人だ……

 


 数分――

 口を噤んで待ち続けていたスルスの耳へ、ついに進軍の足音が届いた。

 ブレなく揃ったソレは、低く唸る雷鳴に負けないほどに空気を揺らしている。嫌というほど聞き覚えがあった。確かにこれはファシオン兵の足音だ。

 人数は百やそこらではない。少なくとも二千はいる。

 恐らくは、『ここに常駐していた兵が、外の騒ぎを聞きつけて援軍に向かっている』といったところか。


 サバラたちが引き付けてくれているというのに、まだこれだけの兵が残っていたのは予想外である。

 やはりここが重要性の高い場所である証拠……もしくは運悪く補充の時期と重なってしまっただけか。

 色々予想は出来るが、明確な判断を下せるほどの情報は、まだスルスの中にはなかった。

 

〈スルス……おいスルスっ〉


 唐突に、三つ並ぶ岩の最奥に隠れていたメイから小さく声がかかる。ハッと気が付き眼差しを向けると、『おいでおいで』と手招きしていた。

 いまならまだ敵に見つかる距離ではない。

 よくわからないままに、スルスはその召集に応じ、中腰になりながらもメイの下へと向う。

 

〈ちょっと見てみ、アイツらまだあんなに居やがる〉


 スルスが横に座ると同時に、メイはそんなことを言った。とくに異論を挟む必要も感じず、スルスは言われるがままに岩陰から顔を覗かせていく。

 視界に映ったのは長蛇の列を築く兵士の姿だった。予想以上の数がいる。


〈さすがに見飽きてきてウンザリしますね……一体どこに隠れていたのでしょうか〉

〈やっぱ俺たちが向かってる場所じゃないか? しっかし、ここまで数が多いとなると、二級区域自体が補給地点ってことも考えとかないとな〉

〈ここが、ですか?〉

 

 戸惑いを混ぜて聞き返すと、メイは黙ったままであごを引く。

 そんな馬鹿な……。

 補給に関わっているのは間違いないが、スルスとしては、ここが“経由地点”か“戦力の保管場所”といったくらいにしか思っていなかった。 

 というよりも、

 土から生える野菜でもあるまいし、補充の兵がこんな場所で湧いて出るわけがない。常識的に考えて、“ここ”が“補給地点である”などと思う必要がないのだ。

 

 『さすがにソレは……』と零しそうになったが、それは直前でメイの眼差しで止められた。

 息が一瞬止まる。

 メイの瞳は、いつもの明るさを感じさせる輝きではなく、極めて大真面目な光りを灯していた。


 なんとなく、その眼差しを受けて理解できてしまった。

 彼は本気でその可能性を考慮していて、自分の考えていたあり得ない理由など分かった上で伝えてきている、と。

 それどころか、彼自身はすでに確信していて、自分の考えを導こうとしているような、そんな錯覚さえ抱いた。

 

〈…………〉

 

 何も言い返せなかった。

 なぜか気圧されてしまい否定の言葉が出ていかない。

 怒鳴ったり威圧をされているわけではない。押し付けられているというよりは、『頭に入れておくだけでもいい』と宥めれらているようだったのだ。

 

〈さて、そろそろ敵も近づいて来たし、おしゃべりも禁止だな。暇だったらアイツらが通りすぎるまでのあいだ、見張りが始末されたことに勘付かないよう祈っててくれ〉

 

 先ほどとは打って変わり少しだけおどけた様子を見せ、メイは静かに口をつぐむ。

 習うようにスルスが押し黙ると、一瞬だけ辺りに静けさが満ちた。

 

 進行の音が徐々に迫り、やがて真後ろに差し掛かる。

 見張りがいなくなっているのは明らかだ。兵士の末端がどれだけ状況を把握しているかは知らないが、できれば気が付かれることは避けたい。

 

 緊張の瞬間だった。

 脳が痺れるような緊張の中――なにがあってもすぐ動けるように、スルスは武器を握り締めていく。

 不気味なほど揃った耳障りな音が、スルスの神経を削る。

 踏みしめられている大地は己の体なのではないか、そう思うほど胃と心臓はジクジクと痛んだ。

 

 なによりも、

 スルスにとって、ジッと隠れているのはまた別の意味でも辛かった。

 サバラたちのために敵を食い止めたくもあり、近しい部下の身体を貫いた兵士がいると思うと、今すぐにでも首を落としてやりたい衝動に駆られたのだ。

 普段は抑えている、荒々しい己が垣間見える。沸々とした怒りが、脳をジワリと熱した。

 

 ――ッツ……私は“昔”とは違う……目先の衝動に流されるなど。

 

 先代の頭と出会う前の自分を思い返し、スルスは拳を握って動き出そうとする身体を縛り付けた。

 落ち着け、落ち着け。

 雨に濡れた右手を頬に当て、熱した自分を冷やそうと試みる。

 身体ではなく、精神的に辛い……こんなことなら、まだ敵に見つかって戦闘をしていたほうが楽な気さえしてくる。

 

 つい視線を彷徨わせると、自分の様子を伺っている黒い瞳と目があった。

 ――こんなことで、心配をかけてどうします。

 胸中で己に叱咤を飛ばし、スルスはどうにか感情を律していった。


 声も出せず、動くことすら儘ならないままに、引き伸ばされたかのような時間が流れる。

 あとどれだけ待てば安全になるのか、確かめたくとも迂闊な行動はとれない。

 緊張の毒は時間の感覚を惑わし、『この時間が終わることなどないのでは』といった馬鹿馬鹿しい錯覚まで起こしていた。

 部下たちも似たようなものなのか、見れば屈みこむように座って瞼を下ろしている。

 

 ――こんなに危ない状況になるならば、土中にでも隠れたほうがまだよかったのでは……。

 

 一瞬だけそう思ったが、すぐに真ん丸から聞いた化け物の存在を考えると土中は怖いと気がついた。

 最初から、その辺りのことも考慮しての指示だったのだろう。

 そうなると、彼はこの兵士たちに見つかるよりも、いるかいないか分からぬ一匹の化け物のほうを警戒しているということか。

 

 自分の知らない何かを、彼らは知っている……。

 こんなにも重要そうなことを言わなかったことを考えると、言わなかった、というよりも言えなかったのだろう。

 

 もとより謎が多い彼らではあるが、まだまだ様々なことを隠しているらしい。

 自分だって能力と魔法を隠していたのだから大して変わらないが、いつかは聞かせてもらいたいものだ。

 きっと全てが終わってからになるだろう。

 その時は、お茶請けでも用意して色々と聞かせてもらわなければ。

 どんなに突拍子もない話が飛び出すのか、スルスは妙に楽しみに感じてしまった。

 ふと、気持ちが楽になる。

 やはり、緊張を和らげるのには楽しいことを考えるのが良いということか。気がつくとうごめいていたソレが消えていた。

 麻痺していた感覚も元へと戻り、先ほどよりも楽な気構えで待てるようになっている。


 ――全ては気の持ちようというやつなのでしょうか。

 簡単な自分自身に呆れ、スルスは硬く握っていた拳を解いた。

 


 気持ちが落ち着いてから、そこからはとても早かった。

 結局、なにが起こるわけでなくファシオンたちは消え、スルスの不安だって的中することはなかった。

 心配しただけ損した気分にはなる。けれど、なにも起こらなかったのは助かったと言えるだろう。

 

〈一安心……にはまだ早いけど、とりあえず祈りは通じたみたいだな〉

〈気がつかれてもオカシクはなかったですし、運が良かったとも思えます〉


 こっそりと最後尾を見送っていたメイが、肩を解すように回しながら立ちあがり、強張っていた体の調子を確かめつつ、スルスも後に続く。

 

 二人並ぶように歩き仲間たちの元へと向かっていると、その途中――

〈にしても、アイツら結局気がつかなかったな。やっぱり赤錆がいないと指揮系統がしっかりしてないのか? 命令されたことだけやってる人形って感じだ〉

 メイが呆れたような声音でポツリと呟いた。


〈確かに前からそういう部分はありましたね。命令のまま、恐れや痛みを恐れず向かってくる……普段なら非常に厄介ですが、今回はこちらに優位に働いてくれたようで〉


〈だな、命令に忠実なのも場合によっては考えもんだよ。まあ、さすがにこっちを見つけたら襲ってくるだろうけどな〉


 スルスの答えにうなずき一旦言葉を切ったメイは、少し考え込むような素振りを見せたあと顔をあげた。

 その眼差しは、ファシオンが通ってきた道の先を見ている。

 

〈アイツらが来た方向は俺たちの目的地と重なっている。もうソコに何かがあるのは間違いなさそうだ。スルス、ここからは絶対に迂闊には動かないでくれよ。危険もあるだろうし、なによりも……目的を達成することが、きっと一番の弔いになるはずだからな〉


 とたん、心臓が跳ねた。


〈――っ――は、い、確かに〉


 わだかまる感情を全て見透かされているようなメイの言葉に、スルスはそう返すだけでやっとだった。

 自然と右手が自分の顔を触る。先ほどの自分はそれほどまでに、表情に出ていたのだろうか。

 これだけの月日が流れても、自分の激情はなくなることはないのか。

 情けないとも、不甲斐ないとも感じ、少しだけ恥じ入りたい気持ちになる。

 

 ――いけない。

 どうにも、ファシオンのせいで死者が出すぎていることや、最近昔を思い出すことが多いせいか、感情のタガが緩んできている。

 このあいだ、部下を怒鳴りつけてしまった時もそうだ。


 ――駄目ですね私も……すいません、おやっさん。まだまだ若造から抜けきれないようです。

 静かにかぶりを振り、スルスは先頭に向かったメイの背中を眺めた。

 自分よりよほど若いというのに、彼はこういう場に慣れているように見える。

 

 一番の弔いは目的を果たすこと――。 

 確かにそうだ。生者が死者にしてやることなど、それくらいしかない。

 部下は敵を貫くことを望んで死んだのか? 違う。

 取り戻したい日常を掴むために、ソレを大事な誰かへと渡すために死んでいったのだ。

 怒りや復讐心は、しょせん自分のわがままでしかない。つまらないことで心を乱して目的を達成できなければ、それこそ死者を踏みにじっているようなもの。

 

 目的を履き違えるな。大切なモノを守るために自分はここに来たのだ。

 守らなければならない。手に入れなければならないことがある。

 たとえ、自分の命を賭したとしても――


 

 

 ◆

 

 

 

 囲むように広がっている天然の岩防壁を、俺はドリーのアイビーに助けられ駆けあがっていた。

 背負っていた斧槍が鳴らすカチャカチャという小さな音を聞きながら、手足を休めず登り続ける。上を見れば、岩先とも呼べる頂上に岩色へと姿を変え俺を待っているスルスの姿があった。

 

 ――もう少し。

 壁を一度、二度と蹴りつけてスピードをあげる。雨で足が滑りそうにはなったが、蔦にほとんどの体重を預けているおかげで、落ちることなくソコへと辿り着く。

 

〈先の様子はどうだ〉

〈たまに巡回の兵の姿が見えますが、あまり頻度は多くなく入るのに問題はなさそうです。下方にある入り口の見張りを始末するのは少々面倒なので、このまま進入するのが良いかと〉

〈やっぱそうか。ありがとう、助かったよ〉

 

 スルスと軽く応答を交わしたあと、岩と岩の隙間から先の様子をうかがっていく。

 視界に映ったのは、自然にできたとは思えないほどの広い空間だった。

 そこらじゅうに岩が生えているのは相変わらず。ただ、兵士が踏み固めたせいなのか地面は全体的にかなり平坦だ。

 西方面に灰色の樹木が密集しているエリアも見えるが、ソレを除けばさながら障害物の多いグラウンド、といった感じの場所か。

 とりあえず、一分ほど地形を確認し続けるが、特に敵影や問題は見当たらなかった。

 

〈なあスルス、見張りの周期とか大体でいいからわかるか?〉

〈私が見た分には、五~十分の間、といった感じでしょうか。さきほど数名見かけましたので、それが正しければそろそろ来るころかと〉


 もういちど視線を先へと戻す。

 しばらく岩に捕まり待っていると、岩の間を抜けるように歩くファシオン四名の姿を確認できた。


〈……お、確かに来たな。じゃあアイツらがどっか行った隙に二人ほど下して、また次を待とう。急ぎたいところだけど、ここで見つかるほうが面倒だからな〉

〈ではまず私から降りましょうか?〉

〈そう、だな。スルスなら俺の助けもいらないだろうし、それがいいかも。じゃあ先に下りて安全確保をしておいてくれないか〉

〈了解です。ならお気をつけて〉

〈おう、そっちも〉


 快く了承し、スルスは岩へと爪を立てて慣れた手つきで降りていく。

 いつの間にか、先ほど見たスルスらしからぬ雰囲気はなくなっていた。

 

 ――気のせいだったのか……いや、俺が知らなかっただけで、スルスにはあーいう一面もあったってことかな。

 

 垣間見えた激情。憤怒と殺意。

 ほんの少しだけしか漏れ出さなかったが、すぐ側にいた俺にはしっかりと感じられた。

 慌てて釘を刺しておいたが、アレで良かったのだろうか。分からないが、見た限りでは落ち着いているので上手くいったと思っておこう。

 

 溜息。

 どうにも先ほどのことを思い出したせいか、羞恥が湧いた。

 感情を抑えつけることの危険を知っているから……とも言えなくもないが、蟲毒でやらかした俺の言う台詞じゃない。

 リッツやオッちゃんが聞いてなくて本当に助かった。もし聞かれていたら、盛大に笑われているところだ。

 

 ――笑えねぇ。

 

 授業中に妙な寝言を零して笑われた、とか。子供の頃ちょっと気を溜めるモノマネをしていたら友達に見つかった、とか。

 一生思い出したくない一覧に先ほどの件を記載して、俺はさっさと心の底へとしまいこむ。

 完璧である。もう永遠に取り出すこともないだろう。

 よし、と気を取り直し、俺は自分のやりべきことをするために動き出した。

 

〈順番はまずリッツを最初に、次は索敵を目的とし、耳の良い彼女、そして間を空けて残り一名と、もう一人――ドラン、樹々、最後にリーンの順番だ。頼むぞ〉

『ほいほいっ。了解ですっ――――』


 下方に片手を向けた俺が指示を出すと、ドリーがそのまま下へと伝えてくれた。

 その間にも、俺は適当に手を動かしハンドサインを送っているような気がする真似をする。

 なんというか、ドリーの声が聞えている者からすれば、かなり間抜けな姿だ。

 とはいえ、問題なく伝わったらしく、リッツが片手を上げて応答を返してくれた。心なしか俺を見て笑っているような。

 これが被害妄想なのか本当なのかを確かめる術は、残念ながら俺にはない。

 残念だ。証拠さえあれば仕返しできたものを。

  

〈じゃあ引き上げるぞ〉

『へい、相棒もちゃんと落ちないようにしていてくださいねっ』

〈はいよー〉

 

 手ごろな岩に左腕を回し、自分の身体をガッチリと固定する。ドリーは首から俺の右腕へと移動して、その身体を巻きつかせていった。

 こう見るとかなり本物の蛇っぽいな、としょうもないことを考えつつ、俺はドリーの手首を握り締めていく。

 

『アイビー・ロープ』


 パックリと下に口を開いたドリーが、魔法の蔦を生み出す。するすると下へと降りていくアイビーは、やがて下まで垂れ下がっていった。

 リッツは目の前に垂らされた蔦を手に取り、武器を肩に掛けて壁を登り始める。

 

 ――軽いなアイツ。

 

 俺の腕にかかる重みは、重量軽減をかけているおかげかとても少ない。

 身体の丈夫さも相まって、『重みで関節が抜ける』なんて間抜けを晒すことなく俺はリッツを引き上げきった。

 そのままサバラの部下も一人引き上げた俺は、そのまま岩壁の反対側へと右手を向ける。

 

絶対に(・・・)落とさないでね〉

〈まあ、そりゃお前の重み次第かなー〉

〈アンタねぇ……軽々引き上げておいてよく言うわよ、いーーだっ〉


 子供かお前とツッコミたくなるような台詞を吐き、リッツが蔦を握って壁から飛び降りるように姿を消した。

 落とさないでよ、などと言っていたわりには不安を感じさせない動きだ。

 信頼されているのか、それとも落ちる時は道連れだ、ということなのか、中々に難しいところだ。

 

 残った男性もさくさく下ろし一度休憩を挟み、見回りの兵を確認。また次の引き上げに取り掛かる。だんだん作業にも慣れてきて、俺はこの暇の間にもつらつらと考え事を進めていた。

 

 ――いい加減、ドリーが話せるのをみんなに教えとかなきゃマズイよな……。


 ここまでは、まだ二級区域が重要な場所であると確定していなかったから黙っていたが、さすがにそれも限界だ。

 ファシオンの見張り。千を越す援軍。そして不気味なほどにモンスターを見かけないこと。様々なことを統合して考えると、もうココに何もないとは考えられない。

 

 伝えるべきだ。

 突入メンバーはある意味一蓮托生の存在。失敗は全員の命にも関わってくる。

 教えることに危険性はあるが、これを知っているだけで生存率が天と地ほどに違うのだから、身勝手に、いつまでも隠したままではいられない。

 

 まあ、サバラやシズルさんと比べれば、スルスたちは自分の手の届く範囲にいるのだからまだマシだとは言えそうだが。

 ここを下りたら、すぐにでも適当な理屈を捏ねて説明しておくか……。

 

 と、

 そんなことを考えている内にも引き上げ作業は順調に進み、残るは三名だけとなった。

 ただ、超難関っぽい二名が残っている。

 

〈ドリー。ちょっと怖いから蝶子さん付きで頼む〉

『ふんみゅ、確かに千切れて落ちたらえらいこっちゃですもんねっ。では、おいでませー、蝶子さん』

 

 ドリーがくわっと口を開けて魔名を唱えると、もうずいぶんと見慣れてしまった蒼い蝶が中空に出現した。

 

〈頼むぞ蝶子さん。あのおっもい二人も俺の大事な仲間だから、しっかり支えてやってくれ〉


 ヒラリヒラリと飛ぶ蝶に願いながら、俺は右手を伸ばす。

 触ることなどできないが、蝶子さんは『任せてくれっ』と言わんばかりに指の周りを飛んだあと、ドリーの口先へと滞空した。

 

 ――ドリーと蝶子さんの素直さが、千分の一でもいいから俺のブンブン野郎にあれば可愛げもあるのに。

 未だ指示を聞かない黒豆に脳内でデコピンを食らわせて、俺は引き上げ準備のために岩へと捕まる。

 

『ではいきますっ。にょろにょろー《アイビー・ロープ》』


 真っ直ぐに向かった蔦が当たる直前――蝶子さんの身体が粒子のように散って、伸ばされたアイビーの中に。

 そして、

 なぞるように蔦を覆った蒼い燐光がドリーの手元までやってきた瞬間、蔦は根元から枝分かれするようにばらけた。

 

〈――おおっ〉

『ふひょーーすげえですっ』


 俺とドリーの感嘆の声音が重なる。

 分かれた蔦縄の数は五本。

 一本の太さはすべて元のアイビー並み。操作はしっかりとドリーにゆだねられているようで、好き勝手に散らばって動くようなことはなかった。


〈これなら二人いっぺんでもいけそうだな。ドランに二本、樹々に三本だ。頼む〉

『ふふ、ちょいやっ。ほいほい、巻き巻きー』


 ドリーの少し間抜けな掛け声と同時に、シュルシュルと伸びた蔦が下の二人の体を捕らえる。

 ドランは少しだけ驚いたのかあたふたとし、樹々はまるで動揺することなくされるがままになっていた。

 奥歯を噛み締める。

 ドリーの手首をいままでにないほどに強く掴んだ俺は、来るであろう重量に備えた。

 

 ――うをっ、さすがに重いッッ!?

 

 ドランと樹々が壁へと足をかけたと同時に、俺の右腕にリッツなどとは比べ物にならないほどの重さがかかる。筋肉がギリギリと音を立て、骨も少し軋む。

 さすがに無茶だったか、と右手へと視線をやるが、二人を支えている五本の蔦縄はまるで切れる様子がなかった。

 もしかしたら強度も上がっている? それとも複数本だしているおかげか。どちらにしても、俺さえがんばるなら問題はなさそうだ。

 

〈ぐぐ――こなくそっ――がッッ〉

『うおおお、いいぞー相棒ーー。すごく頑張っている感がでていますよーー。わっしょーいわっしょーい』


 お願い、やめてくださいっ。その変な声援だと力が抜けそうになりますっ。大体お前だって支えてんのに、なんでそんな余裕そうなんだよ。

 

 一瞬ずり落ちそうになった体をギリギリで戻し、俺は右腕へと全力を込めていく。

 重い。

 力を込めすぎて俺は思わず目を瞑ってしまい、ドランと樹々が登っている様子を見ることすらできなくなった。

 

 二人が登りきるまでの時間は、とても、とてーも長く感じた。なんども『やっぱりやめておけばよかった』と思ったほどだ。

 ドランが岩先に捕まった瞬間の開放感は言葉にはできない。もしかしたら、フルマラソンを走り切ってゴールすれば、似たような感じかもしれん。

 

 やりきった達成感で脳内麻薬的なやつがドバドバと出て、非常にハッピーな気分になっていた。

 のだが、

 ようようと二人を引き上げたあと俺を待ち受けていたのは、

 

『では相棒、早くお二人さんを下してしまいましょうっ。応援は任せてくださいっ』

〈……ですよねー〉


 無情なる事実だった。

 まあ、二人同時に引き上げる指示を出したのは俺だし、冷静に考えると自業自得か。

 二度と、調子になんて乗らないッ。

 とそんな出来もしない誓約を心に刻み、俺はまたクレーンのように二人を下す作業へと入っていったのだった――。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ようやく反対側の大地へと到着した俺は、休む時間を取ることもなく『ちょっとスルスたちに聞いて欲しいことがある』と彼らをひときわ大きな岩陰へと集合させた。

 周囲の警戒は紅白の二人が。ドランと樹々の二人には、この暇を使って軽い食事を取ってもらっている。


〈えっと、とりあえず驚いて声をあげないように約束してくれるか?〉


 眼前で立ち並ぶ四名に向かって、俺は迷いに迷ったあげくそんな言葉を吐き出した。

 スルスたちの表情に浮かんだのは、もちろん『なにが?』といった疑問の色。

 ただ俺が、『いいから頼む』と頭を下げると、彼らは少し慌てたように顎を引きうなずいてくれる。

 

〈――実は俺たちって今まで隠していることが一つ……いや一杯あるわけなんだが、今回は理由もあってその中の一つを聞いて貰いたいんだよ〉


 至極真面目な調子で俺が述べると、ゴクリと誰かが唾を飲む音が鳴った。

 誰が聞いても偽名を名乗っているのだし、隠し事をしていることくらい彼らも分かっている。だがやはり、いざこうなってくると多少の緊張はするらしい。


 話す本人である俺だって、なんだかんだで緊張している。

 いちおう、先ほど少しドリーと台本を作ったのだが……それで上手く納得してくれるかどうかが不安だった。

 

 ――考えてたって仕方ねーなッ。


 俺は覚悟を決め、首に回していたドリーを両手の上に乗せ、スルスたちの前に差し出した。

 

 ――頼むぞドリー。ビシッと決めてやってくれッ!

 

 願うように俺が心の中で叫ぶ。

 やはり阿吽の呼吸――それがしっかりと伝わったらしく、ドリーはビシッと鎌首をもたげて意気揚々と口を開いた。


『私こそっ! この私こそ相棒の一番たる相棒な存在っ、ド……スネー子ですっ! 好きな物は相棒とお水と太陽とみんなと色々ですっ。嫌いな物はんーんー、その時にならないとわかりませんっ。

 では、まず初めまして(?)……の挨拶に、相棒の凄さを二十分に纏めたのでお話しようと思いますっ』 


 ――初っ端から台本とちげえええええっ。


〈あほか、止めろっ。全然打ち合わせと違うじゃんか。なにやってるんですかお前〉

『ふほほーい、どうです、改良してみましたっ』


 ――残念、それは改悪って言うんだ。勉強になったなっ。

 

 胸を張って誇らしげに言い切るドリーを見て、俺は思わず天を仰ぐ。

 どうやら『まずは軽いカタコトの自己紹介でお茶を濁して、徐々に慣れさせよう作戦!』は、海の藻屑のように呆気なく消えてしまったらしい。

 

 ――つーか、スルスたちは?

 ハッ、と気がつき視線をやると、スルスたちは口を金魚のようにパクパクとさせてドリーをがん見していた。

 

〈や、槍使いさん……ははっ、私ちょっと疲れが溜まっているようで幻聴がが〉

〈兄貴……オレもどうやら同じ症状のようで〉

〈蛇が……喋った……?〉

〈助けてシズル隊長……もう自分の常識は限界ですっ〉


 指を差して挙動不審になるスルス。部下の二名も『もう駄目みたいだ』と言わんばかり首を振っている。

 中でも、常識人の巣窟であるシズルの部下は一番ダメージが高かったらしく……膝をついてブツブツナニかを呟いている。正直、その姿はちょっとだけ怖い。

 

〈頼む、落ち着けみんな。幻聴じゃないんだ。えっとここにいるスネー子さんは――〉

『相棒の一番の相棒で――』

〈よーしよし、ちょっと黙っててくれると、あとで相棒がしこたま遊んでやるぞー〉

『……っ……』


 ――よし、これでよし。

 むぎゅと口を閉め、『これでいいですかっ』と視線を送ってくるドリーを見て、心のなかでガッツポーズを一つ。どうにか丸め込まないと……と考え、俺はスルスたちの動揺を収めるために話を続けていった。

 

〈まあっ、これで分かったと思うけどうちの使い魔は喋るんだ。ほら、オカシイところが結構あったろ? 連携が速すぎたりとか魔法使えたりとか……色々さっ〉


 まくし立てるように言い募ると、スルスは思い当たることがあったのか『嗚呼……』と零した。

 おお、これはいけそうなパターンだ……。

 心の中で妙な確信を持ち、俺は流れるような自然な口ぶりでラッシュをかける。

 

〈いや、今まで秘密にして悪かったと思うが、実はこれにも事情があるんだ。

 グランウッドからずっと東方にいった場所――まあ俺の故郷がある場所なんだけど、こいつとはソコで偶然出会ってな。

 確か、あれは俺が故郷を出ようとした三日後……いや二日後の夜のことだったかな。

 人里からかなり離れた森の中で、一夜を明かしていたんだが、突然……聞えたんだ。爆発音が、焦った。で、焦って一体なんなのか確かめにいったら…………なんと〉

 

 一度話しを切って横目で状況をうかがうと、若干前のめりになったスルスたちが視線で先を促しているのが確認できた。

 あ、思ったよりも楽じゃね、これ。

 そんな本心をおくびにも出さず、俺は目元を覆いグッと顔を下を向ける。

 

〈森の奥地ッ……誰にも見つからない洞窟に、如何わしい研究をしている施設があったんだ。爆発元はソコだった。モウモウあがる煙を掻き分け俺が中に入っていくと、黒焦げになった二匹の蛇が、一匹の子蛇を守って死んでいたのを見つけた……それがこいつさ〉


 すっとドリーを手に乗せて見せる。スルスは『悪いことを聞いてしまった』と言わんばかりに、少しだけ視線を逸らした。


〈俺が調べた結果……その場所ははいかに動物たちへ魔法を使わせるかを研究するところだったんだ。

 ――色々と、酷い実験が行われていたらしい。その副産物として、こいつは魔法も使えるし、念話のように人と話すことができるようになったんだ、と思う。

 爆発の原因は、きっと知能を持った動物だったんじゃないかな……もしかしたら、こいつの両親なのかもしれない〉

 

 遠い眼差しを空にやり、俺はスッと背を向ける。と、同時にドリーがせっせと雨粒を目へと運んでくれた。

 良い仕事だ。

 最後にゆっくりと振り返り、俺はスルスたちへと頭を下げた。

 

〈研究所は、もしかしたら一つじゃないのかもしれないッ。もし噂が広がってしまえば、こいつの秘密を追っている奴がくるかもしれないッ。悪い奴じゃないんだ。頼むよ。できれば秘密にしてやって欲しいんだ〉

 

 パチパチと目を瞬かせる。ドリーが運んでくれた雨粒が見事に零れていくのを感じた。

 その効果はちゃんとあったようで、スルスたちはドリーに優しげな視線を送っている。

 

 やはり迫真の演技だったか。俺も中々成長したってことか。

 

 自信満々な視線をドランに送ってみたが、彼はサッと顔を逸らし『オラは知りません』との意思表示。

 仕方なく少し離れた紅白二人を見る。だが、そこでも映ったのは尊敬の眼差しではなく、暴れるリッツを羽交い絞めにしているリーンの姿だった。

 

 ――そういえば、リッツには別の説明したまま放置してたっけか……後で謝っておこう。


〈槍使いさんっ〉


 コッソリ一人冷や汗を零していると、ふいにスルスがズズイと前に進み出た。真剣な眼差し。怖いくらいに真面目な表情をしている。


〈な、なんでしょう。スルスさん〉 

〈……大丈夫です。この話は死ぬまで秘密にしておくことを、私スルス・リアは命を懸けて誓いましょうっ〉

〈お、おう。そいつはありがとうございますっ〉


 少し言葉を詰まらせながらも、スルスに返答する。背後にいる他のみんなも、『任せてくださいっ』と凛々しい顔を俺に向けていた。

 

 ――上手くいったのはいいけど、ここまで真摯な対応をされると若干戸惑うんだが。

 

 いつか、そのうち、嘘がバレたその日には……しっかりと怒られよう。

 少しだけ反省の念を抱いた俺は、『とりあえず今は黙っとこ、そう簡単にはバレないだろ』とうなずいた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ドリーの一件が無事に終わったあと、俺たちは『まず周辺を探る』と方針を定め、三つのグループに分けて散開することを決定した。

 

 俺とドリーの二人が西方面。

 ドラン、樹々、リッツとスルスの三名と一匹は少し北西方面。

 そしてリーンを筆頭とした部下三名の四人は南西方面の探索だ。

 

 方角の偏りの理由は、『西にある獄にできるだけ近い位置にあるんじゃないか』という俺の勘である。

 見つからなければ今度は別方向を探索する予定ではあるが、薄っすらと残っていたファシオンの足跡やらも西からきていたので、そこまで外れた予想ではないだろう。

 とはいえ、今のところ結果は伴っていないのだが――。

 

 ――ったく……雨さえ降ってなければ、足跡だけを辿って探れたのに。

 

 空を見上げ、曇天を睨む。太陽は何時間か前に真上を過ぎ去っていた。

 強く睨む。それで雨が降り止むわけでもない。足跡が浮き出てくるわけでもない。

 分かっていたが、俺の気分的な問題だった。

 

〈全然見つからねーな。マジでどうなってんだ?〉

『この付近は大分捜したのですけどね……もしかしたら、入り口さんが隠れている、とかなのでしょうか?』

〈いやいや……さすがにそれは、と言えなくもないのが嫌なところだな〉


 ドリーと二人、首と手首を傾げて立ち止まる。

 すでに探し始めて二時間ほど経っているのに、怪しい場所はいっこうに見つかってくれない。

 ――探っている範囲が狭すぎんのかね……。

 

 ただ見回り範囲を広げすぎると、ナニかあった時の対処が遅れるし、合流にも時間がかかるので難しい。

 

 見回りの兵の後を付ける、というのもすでに考えて実行した。

 結果は、『どこにも戻らず延々と周り続けているだけで、時間の無駄にしかならなかった』という悪いモノで終わっている。

 ドリーにみんなを集めてもらい情報交換だって行った。

 が、それも駄目。みんなの方も俺とあまり変わらないようで、芳しい答えは皆無。

 

 ここに何かがあるのは間違いない。しかし、問題はそれがどこにあるのか……だ。


 どうすっかなぁ、と胸中で零し、俺は一人思案に耽っていく。

 

 獄化している恐れがあるならば、もっと景色とか色々と悪い意味で目立つはず。でも、一回りしてみたけどそういった場所はなかった。

 気持ちを落ち着かせるために目を閉じ、一本ずつ、絡まった紐を解くかのように考えを巡らせる。

 

 大量の兵を生み出すには、広い場所が絶対に必要である。そして、その場所は一見したていどじゃ見つけられなかった。

 となれば、あるとしたら“地下”だ。

 自分が地下にナニかと作るとして、まず何を気にするだろうか、と考えた時……頬に当たる冷たい雨の存在に気がついた。

 

 そうだ。シルクリークの防壁に穴を開けたさい、確か俺は雨対策を行った……。

 

 地下にナニかを作る場合、絶対に気にしなくてはならないのは、雨が進入しないように入り口を作ること。

 これが獄の真っ只中であれば、俺だってそんな常識が通用するとは考えない。

 しかし、

 そこがファシオン兵を生み出しているかもしれない場所だと仮定すると、少し状況は異なってくる。荷車……があるかどうかは不明だが、さすがに兵が装備する武器や防具は置いてあるはず。


 雨の進入はそれらの天敵だ。多少は気にして作っているだろう。

 入り口が地面にぽっかり口を開けているとは思えない。どこかの岩や壁、地面から少し上げたところにあるのではないか。

 ファシオンの数も考慮すると、自然と入り口が狭くなる小さな岩は排除していい。

 大きな岩か、もしくは岩壁か――。

 

〈よし、ドリーこっからは岩と壁を探るように動こう。何か妙だと思った場所があったら、すぐに教えてくれ〉

『あいさー。そんな簡単なこと、私にかかればへなちょこさいさいですっ』

〈お茶の子な、お茶の子〉

『――無茶の子さいさいですっ』


 ……まあ、頑張ってくれるならそれでいいや。

 教えた言葉を使いこなそうとして失敗するドリーは見ていて和むので、俺はあえて訂正するをやめた。

 

〈デカイ岩だぞ、デカイ奴〉

『壁でもいいんですよね?』

〈そうそう〉

 

 

 

 ◆



 

 三級区域近辺の戦闘は、時間が経つにつれて激化の一途を辿っていた。


 砂の山が死体の山に代わり、流れる雨川が血潮の川へと至る。

 剣戟の花は幾つも咲き乱れ、怒号と威勢は雷鳴を怯えさせるほどに鳴りわたっていく。


 轟音は、もうどれだけのあいだ鳴り続けているのだろう。

 倒して倒して、殺して殺したファシオン兵は、もうどれだけの数に至ったのだろう。

 いちどやってきた援軍から考えると、すでに当初いた前衛は全て倒しきっているのではないか。

 でも、そこまでやっても兵は尽きることはなく、サバラたちのもとへと押し寄せていた。


 戦闘は、休むことなく継続している。

 怪我なんて当たり前、いちども傷を負っていない人物などたぶんどこにもいない。

 全員が全力で戦って、延々と迫ってくる兵士を退け続けているのだ。

 しかし数の差は大きかった。

 いくら心を強くしようとも、いくら信念と意思を固めようとも、サバラたちが押されていることは間違いなかった。



 防壁上部北側――


「ぐ、ぎッ!?」

「!? 危ないっ――」

 

 矢雨の一弾に肩を撃ちぬかれたひとりの亜人が、悲鳴を漏らして防壁の上から転がり落ちた。壁の下方で見ていた真ん丸は、必死に手を伸ばし叫んだ。

 男と真ん丸は離れている。手なんて伸ばしたところで届くはずもない。

 そんなことは、真ん丸にだってわかっていた。

 だから、手を伸ばした理由は他にあったのだ。


『マッド・マットアース』


 真ん丸の得意とする土魔法が、地面をどろりと溶かすように泥へと変える。

 直後に鳴る、ドポンというぬかるんだ音。

 それは、マッド・ウォーターよりも粘度の高い泥の地面が、無事に亜人の男を激突の衝撃から守り受け止めた音であった。

 

「誰か回復して上げてっ」


 汚れるのなんてお構いなしに真ん丸が男を泥から引き上げる。近くにいた回復魔法の使い手は、すぐに走り寄って矢を強引に抜き、魔名を口ずさんだ。


「わりぃな……もう大丈夫だ」


 傷が塞がった男はふたりに礼を言うと、休むことなく立ち上がり泥すら拭わずまた前線へと戻ってゆく。

 しょせんは応急処置、完治はしていないはずなのに男の足取りは衰えていなかった。


 ――皆、一生懸命なんだ。オレだってもっと頑張らないと。


 平たい手の平で己の頬を叩き、真ん丸はまた視線をさまよわせた。

 どこかに困ってる人はいないか。傷ついている人はいないか。それを懸命に探す。

 真ん丸の仕事は、前線で戦う者を支える後方支援だった。

 先ほどのように防壁から落ちる者を救ったり、崩れかけている前線を土魔法で援護したり。

 飛び交う矢弾を防ぐため、塹壕を掘ったり土壁を作ったりと、支援とはいえ忙しなさだけなら前線にも引けをとらなかった。

 ただ、

 どれだけ忙しく動いていたとしても、真ん丸自身はとても満足することなどできなかったのだが。


「西側ぁ、崩れそうだ! どうにかしてくれ!」


 ひとりの亜人が焦った様子で西へと指を差し叫んだ。

 怒号にうながされ西側をみやれば、確かに黒煙の勢いが他に比べて強くなっている。

 

 ――急がなきゃ……どこか一箇所でも崩れたら、絶対に持ちこたえられない。


 アース・メイクの魔法を唱え、土の階段を壁の間際に創り出す。魔法使いたちと弓持ちの十名が、飛び跳ねるようにそこを駆け上がっていく。

 真ん丸自身もその後を追い、ぺたぺたと階段を登った。

 視界が高くなり、先が開ける。


「思ったよりも……敵が多い」


 見えたのは、うぞうぞと蠢くように壁に取り付くファシオン。そして押されに押されている仲間たちの姿。

頼みの綱であるハイクやサバラは、今は正反対の場所で戦っていて当てにできそうにもなかった。

 

 真ん丸の想像していたよりも、状況は悪かった。

 もし自分たちが負けてしまい、一斉にこの数が押し込んできたら?

 想像しただけでぶるりと膝が震え、今すぐにでも地面に潜って隠れたくなった――

 と、思う。

 きっと以前までの自分ならば。


 行きたくない、そんな感情はどこかにはある。痛いのは嫌だ、そんな情けない自分は今もどこかにいる。

 でも、

 兄貴が死んだときはもっと心が辛かった。何もできない自分を目の当たりにしたときは、もっともっと苦しかった。

 ひとりで走ったあの時間は、苦痛なほどに、先が見えなかった。

 それに比べれば今なんて。

 ひとりじゃなく、皆がいるこの状況なんて。

 大したこと――ない。


「こんなところで負けてなんてやれないよ……兄貴の想いを叶えるのは、今を生きているオレなんだッ!」


 想いを叫ぶ。奮い立つために。

 兄貴が死んだあの場所に行くことは、残念ながら叶わなかった。

 だが、代わりに行ってくれている人たちがいて、自分の働きがその人たちを支えているのだと思うと、身体の底から力が湧いてくる。

 敵を切り裂く武器に比べると、ずいぶんと頼りないように思える己の爪。真ん丸はソレを迷わず敵へと向けた。


 脳内で思い出していたのは、仲間から聞いたメイの所業。攻撃魔法ではない魔法で赤錆をいいように誘導し、あの戦局を覆した話だ。

 最初ソレを聞いたときは、思わず関心してしまった。下位魔法でも、中位の魔法でも、使い方によっては上位を超える結果を残すことがあるのだと、目からウロコが落ちる思いだった。


 真ん丸がいつも入れている魔法は、攻撃魔法じゃないものが多い。それは自分自身がどういう活躍を求められているかが分かっていたからだ。

 

 求められていることに答えるために、穴を掘ったり、防壁の建設をしたり、そういう魔法をいつもいつも入れている。今だってそうだ。

 しかし、魔法なんて使い手次第でいくらでも化けるのだと知ってしまった。

 攻撃魔法を入れていないからといって、敵を下せないことなんてないのだと理解してしまった。


 できるのだ、自分にだって。いくらでも強くなることが。

 そう今では思えるようになっている。

 

 怯える自分なんて埋めてしまえ。皆をいじめる敵だって埋めてしまえ。

 穴を掘り、土魔法を扱うことくらいしか能のない自分だけれども、それができるだけでも十全だ。

 足が遅い自分だけれども、それができるだけでも万全だ。


「オレが隙を作るから、皆は敵をお願いッ!」

 

 真ん丸は、ただ前を見据えて声を出す。

 周囲にいた亜人たちは、少しだけ驚いたような表情で真ん丸を見て笑いを返し、それに答えるように武器を敵にかざした。

 

『メイク・アースタワー』


 雷雲を貫くように真ん丸が唱えた魔名が響き、地鳴りが産声のごとく鳴く。

 地面がとうとつに盛り上がり、その直上にいた兵士を中空へと打ち上げる。

 骨を砕き、兵士を蹴散らし、大地から生まれたのは、半径六メートル、高さ二十メートルもありそうな一本の土の塔だった。


「まだ、まだ足りないッ」


 休むことなくもういちど。さらに続けてもういちど。

 根こそぎ奪われていく魔力と、削ぎ落とされる命力など構わずに、真ん丸は土の塔をさらに四本創りあげていく。

 敵の被害は多少でているが、そこまで多いものではない。

そして同時に――少なくはないが――中位の魔法を乱打し続けられるほど、真ん丸の魔力量は多くはなかった。

 ゆらりと崩れる体勢。膝は恐怖ではなく消耗で震える。

 この少数の被害を出すために、真ん丸は五本の塔を作ったのか。

 いや、応えは否である。


「まだ、せめて――もう一撃をッッ!!」


 喉もかれよと己を支える叱咤を飛ばし、真ん丸は残る魔力を振り絞って仕上げに入る。

 自らが作った五本の塔を見据え、ソレを振り払うように右手を横へと薙ぐ。


『カラープス・クラッド』


 瞬間、土塊でできた五本の塔に亀裂が走り、それらが一斉に砕け散った。

 崩れ落ちていく大きな土塊が、下方にいる兵士に降り注ぐ。

 破片の雨は大地を揺らし、振動と轟音は連続でわたり続ける。範囲内にいたファシオンは盾を掲げて防ごうとするも、勢いにのった土塊はそれごと纏めて押しつぶす。

 直撃を避けた兵士でさえも、地面で砕けた土弾に襲われていた。

 

 否が応にもファシオンの隊列は崩れ、隙が生まる。辺りの地形も、いつのまにか荒れた岩場のように変わっていた。


 塔と破壊。

 見張り塔を作ったり、土製の建設物を取り壊すために使われる攻撃用ではない二つの魔法。真ん丸はそれら二つを合わせることにより、広範囲殲滅の魔法としてみせたのだった。

 そして同時に、


「今ならっ!」


 残った土塊は味方を矢弾から守る盾ともなる。

 しゃがみこむように地面に膝つきながらも視線だけは前に――真ん丸は周囲の味方へと向かって『後は頼むよ』と言葉をかけた。


「うおらああああッッ! 野郎ども押し返せえええええ!」


 穿たれるように点々と開いたファシオンの群れ目掛け、二刀の剣を持った亜人が怒号と共に防壁から飛び降りる。

 男は、土塊を盾に矢雨を躱し――目に付く兵士に襲いかかった。男を追うように、前衛を行える者は人も亜人も後に続いている。

 ファシオンも土塊を盾に迫ろうとしているが、こちらは高所から攻撃が可能――圧倒的に立場が違う。

 

「相手の姿は丸見えだ。撃て撃てッッ!」


 後衛である魔法使いが魔弾を掃射。弓持ちはその場にとどまり山なりの軌道で敵を狙う。

 無言で剣を突き出すファシオンと、怒号で押すように突っ込む味方が入り乱れる。 


 ひとりの亜人は剣で袈裟懸けに切られた。

「ぎぃッ――いってーなボケがッ!」

 しかし倒れることなく首を狩り返した。


 ひとりの騎士は数名のファシオンに取り囲まれた。

「薄い、薄いぜ手前らの気迫と包囲はよぉ!」

 だが噛みつかんばかりに逆撃し、その包囲を食い破っていく。


「こ、のッ程度――オオオッ!」


 怒号が重なる。心や意思も、ただ敵を打倒することでひとつになっていた。

 剣と魔法。弓と気迫。

 初撃を防いだことにより時間も稼げている。手の空いた仲間たちがみるみるうちに集まって戦闘に加わった。

 負けてなるものか――そんな想いを感じさせる勢いで、溜まった水溜まりを手の平で押しのけるように敵を奥へと追いやっていく。


 ――凄い、やっぱり皆は凄い。


 疲れ果て、真ん丸は動くこともできずにそれを見守っていた。

 今すぐにでも、自分もそこへと駆けつけたいのに、動けない。

 自分は情けないな、そう思う反面――少しでも彼らの役に立てたことが嬉しかった。

 なんとなく、兄貴に少しでも成長した自分を見せられた気がしたのだ。


「無理してでも動きたいけど……そんなことしたらリキヤマさんに怒られちゃうかな……」


 ここで倒れてしまえば、本当に自分がなにかを出来ることを逃してしまう。

 そう考えると、今はまず失った魔力と命力を取り戻すほうが重要な気がする。

 以前なら焦るばかりであっただろう局面で、真ん丸はそう思えるようになっていた。

 心配するばかりが、相手を思いやることではない。信じることも大事なのだ。

 負けない。きっと自分の家族は負けはしない。

 そう信じて、


〈そ、それにしても疲れたよ……〉


 真ん丸はその場で尻もちをつくようにへたり込んだ。




 一方――

 新たな援軍を追加したことにより戦況を優位に進めているジャイナは――好状況とは正反対に、湧き上がる苛立ちを抑えることができなくなっていた。

 

「なんて頼りない兵士だよッ――これだけ攻めているのになんで落とせないのかいッ!」


 八つ当たりのように、無言で命令を待っている兵士に悪態を吐き散らす。

 兵士たちはその文句に顔色を変えず、不満もまるで見せない。だがそんな兵士の姿は、逆にジャイナの苛立ちを倍増させるだけである。


 ――くそ、みっともないねぇ……わかってるさ、アタイが悪いってのは。


 強く、歯噛みする。

 ジャイナの中には、すでに最初にあった安心感なんてなくなっていた。

 圧倒的な優位性、負けることなどあり得ない状況。それは、未だに変わらない。

 だがそれを持っていても、あのボロい砦を落とせていないのは事実なのだ。

 

 じっくりと、安全を考えて攻める。

 そう考えて始め、思い通りにことが進んでいるにも関わらず、凄まじい屈辱を感じた。口では兵士を罵っていても、指揮のとり方が悪いだけだと自分自身が理解していたからだ。

 一斉に襲いかかれば倒せるのは間違いないのに、それを告げることができない自分が惨めだった。


 たった一言で潰せる。

 全軍、いや八割の軍勢を突撃させれば……それを命令すれば済むだけなのに。

 言いようのない圧力が。

 それこそ、首だけになっても喉笛を喰いちぎられかねない――そんな気迫が相手から伝わってきて、恐れてしまう自分がいた。どうしたって保険を手放せない自分がいた。


 このままこの状況を保つだけで自分は安泰だ。

 わかっているッ――

 でも、例えそれでこの戦に勝ったとしても、得るものはきっと、どうしようもない敗北感だけだともわかっていた。


 数で押されても諦めず。傷を負っても攻勢を止めない。武器で味方を守り、背を互いに補い合う。

 ――なんて、なんて羨ましい生き方なのだろうか。

 あんなに力強く生きていけたら。あんなに輝いて戦えたのなら。自分はこんな状況に追いやられずに済んだのか。


 少し前に、黒髪の女の姿に嫉妬を抱いた自分がいた気がしたが、きっとそれは気のせいではなく本当にそう思ってしまったのだろう。

 強引に追いやったはずの感情が、燦然と戦う者たちの姿を見て蘇る。


 言え、突撃、してしまえ。

 負けてなるものか、とどこに隠れていたのか、そんな自分が脳裏で囁いた。

 自分にだって、ろくでなしの仲間がいる。そんな彼らのために、ここで自分が頑張れば、少しは彼処に近づけるのかもしれない。

 ふわふわと、熱に浮かされたような思考のままで杖を握った腕をあげる――


「アンタたち……と、とつ――――ッツ」

 

 でも、あとたった一言吐き出すだけなのに、ジャイナは口を引き結んで腕を下げてしまった。


「ちくしょう……」


 怖い。

 情けなくても、悔しくても、どうしようもなく死ぬことが怖くてたまらない。


「なんで、アタイはこんなに……」


 自らの目元を手の平で覆い、ジャイナは悔しさでうつむき嘆く。

 こんなにも攻めているのに、こんなにも上手くいっているのに。なぜ、自分はこんなにも惨めなんだ。


 脳裏に溜まる陰鬱な霧は、ジャイナの心を迷わせる。

 このまま待機しろ。さあ突撃の命令を。

 望む選択には苦難が多く、望まぬ選択は優しかった。

 わかっていても、中々選ぶことはできない。

 当然だ。当たり前だ。

 だって、

 ――いつだって自分は、自分に優しいほうばかりを選んできたのだから。




 ◆

 


 

 探索を始めてさらに一時間経ったころ。

 西方面に位置する無気味な灰色樹林の中で、俺はようやく妙な場所を見つけることができた。

 広場のように開けた場所。周囲を囲むように生えている灰色の木々。

 その中央には、巨大といっても過言ではない大きな岩が一つそそり立つように存在していた。

 

 ――なんだろう、絶対に妙だ。あり得ないほど違和感がある……んだけど。見ていると普通な気もしてくる。

 

 巨大な岩をジッと見つめていると、脳みその根っこの部分が『オカシイ』と叫び声をあげる。

 しかしどこをどう見ても、岩の外見は至って普通なのだ。

 この感覚、どこかで感じたことがあるような。

 

〈なあドリー……あの岩ってなんか変か?〉


 灰樹の一本に隠れつつ、俺が岩を指差して問いかけると、ドリーは首を伸ばすように木の陰から覗かせた。


『ふーむ。特には――』


 その返答に、俺は思わずガクリと頭を下げる……。

 が、

 

『真ん中に“大きな穴”が開いているだけで、普通の岩さんに見えます』

〈はぁっ!? 今なんて言った?〉


 そのあと続けられたドリーの台詞に驚き、今度は跳ねるように上げた。

 

『いえ、だから大きな穴が開いている普通の岩さんですが?』

〈穴? 開いているのか、アレに?〉

『え、はい。もしかして相棒……には』


 問いかけるように呟かれたドリーの言葉に、俺は目を少し細め、笑うように口角を持ち上げ答えた。


〈ああ、違和感はあるけど“見えない”んだよ“穴”なんて〉

『まさか幻影……ということはキラキラ都市の時と同じ、でしょうか』

〈たぶんな。ちょっと待ってろよ……あの時と同じってんなら――〉


 思い起こす。シャイドが握っていた杖を見抜いた時のことを。

 延々と自分に言い聞かせる。アレはただの幻覚だ、と。

 まるで己を洗脳するように、俺は胸中で呟き続けた。

 

 ――幻影だ。偽者だ。本当は、あの岩には大穴が開いている。

 

 呟くごとに違和感が膨らむ。信じ込むごとに締め付けるような鈍痛が頭に走った。

 どれもこれも、俺は経験したことがある。

 だから、

 脳内でガキリと何かが外れたような音を聞いた瞬間、俺は焦ることなく視線を向けられた。

 

 巨大な岩に暗い暗い大口を開けている、俺たちが目指す目的地へと。

 

〈大当たり……間違いなく影野郎の仕業だな〉


 こういう仕掛けがあったのか、と俺は納得した。

 確かに、以前から少し妙だとは思っていたのだ。サバラの話しを聞くに、ファシオンがココを利用していたのは以前からのことだと予測できる。そして、二級区域の依頼を下げたのは、ココ最近である。

 となると、ここで一つ小さな違和感が生まれる。

 その期間、ココに来た走破者は何人いたのだろうか。妙な噂がまるでたたなかったのは何故だろう、と。

 

 その答えがこれだ。

 どういう原理でどういった効果なのかは詳しく分からないが、この幻影がいままでずっと人を遠ざけ、入り口を隠し続けてきたに違いない。

 もしかすると、気が付かなかっただけで、他に同じような仕掛けだってあるのかも。

 

 ――とりあえず目的地はこれで見つけたし、あと俺ができることは……。

 

 ほんの数秒だけ思案に浸る。そしてすぐに方針を定め、俺はドリーに視線をやった。

 

〈念のため……入り口までいって中の様子を探るぞ〉

『おや、リーンちゃんたちを呼ばないんですか?』


 不思議そうに尋ねるドリーに俺は小さく『ああ』と返す。


〈できればすぐにでも呼びたいけど、まだ幻影がどう作用するか分からないだろ? 入り口だけ確認して敵の存在を確認しておかないと、リーンたちが危険に晒されかねない。これが出来るのは俺とドリーだけだし、やっておかないと〉

『ふみゅ、それもそうですね……では慎重に参りましょうかっ』


 むぎゅっと口を結んだドリーに無言でうなずき、俺は木々に身を隠しながらも岩穴へと向かった。

 灰樹林から広場へと近づくごとに木々が減っていき、ついには隠れられる場所がなくなってしまう。

 身を晒すのは少々怖い。しかし躊躇っていても時間を無駄にするだけでなんの解決にもなりはしない。

 

 ――なにもいないでくれよ……。

 

 覚悟を決めて、俺は穴から直接見えないであろう左方向から岩を目指して飛び出す。

 全力で駆け抜ける。

 いつ敵に襲われるかとハラハラしたが、瞬く間のうちに岩肌へと到着。

 幻影を張っているから警備が薄いのか、それともどこかに潜んでいるのか。

 視線でドリーに尋ねてみると、すぐさま蛇頭が振られ『敵はいない』と答えが返る。

 とりあえず一安心ではあるが、ドリーの索敵も完璧ではない。気を抜くことはできなかった。

 

 ――ここでジッとしているのも危険だ。さっさと中を確認するか。

 

 ゴクリと息を呑み、俺は岩に張り付くようにして穴へと向かう。

 唸るような不気味な音が、穴に近づくごとに聞え始める。ドリーは反応していないし、吹き抜ける風の音……だと思いたい。

 緊張で唇が乾く。脈拍は徐々に早くなっていく。

 そして、

 指先が少しだけ震えそうになったころ、俺はどうにか穴の縁へと辿り着くことができた。

 

 不気味な唸りはいまも聞えている。

 恐怖が心中で暴れていたが、後に来るであろう仲間たちの安全のためにも、俺は勇気を振り絞って内部を確認した。

 

 穴の手前は薄暗い。奥の天井付近は、少しだけ明かるくなっている。

 明かりでも灯してあるのか。ファシオンがいることは考えると、それも不思議ではなかった。

 敵影はなし。化け物は出てこない。

 やはりこの穴は地下に向かってるみたいで、奥の方が下へと向けてゆるやかな傾斜を作っているのが分かった。

 安堵の吐息を零し、俺はゆっくり息を吸い――

 

〈……っ……〉

 

 あることに気がつき盛大に顔をゆがめた。

 

 鼻腔を掠める強烈な臭気。

 血臭。腐臭。青いカビの臭いと……言葉で表せないような、濃い死臭。

 死体を鍋で煮詰めに煮詰め、一年ほど放置すれば似た臭いがするのではないか。

 その臭いを嗅いだ瞬間、俺の緊張は一気に上り詰めた。

 蟲毒や肉沼の深層に比べれば可愛いが……この死を集めたような臭いは、とても“近い”。

 威圧感や凄みのようなものも、臭いだって同じく薄いが、一瞬たりとも油断はできない場所であると本能で感じた。


 自分ではそうは思っていなかったが、俺は、どこか心の奥底で『そんなことはないんじゃないか』なんて甘えたことを考えていたのかもしれない。

 でも、それはいま否定された。

 嗚呼、と溜息が零れそうになる。

 俺はまた、戻って来てしまったのだ、そう確信してしまっていた。

 

 ガンガンと脳内で鳴る響く警鐘音はとまらない。

 バチリと意識のスイッチが切り替わる音がした。


 意識が冷える。心が冷える。蟲毒のときに悩んだ殺伐とした思考が次々と湧いてくる。

 ココに入るための思考。ココを歩くための考えが、俺の脳内を我がもの顔で占めていった。

 

 大嫌いな考えだ。望んでいない思考回路だ。

 でも、俺は知っている。

 甘ったれたままでいては、あっさりと死んでしまう場所があることを。


『相棒っ、もうそろそろいいのでは? 早くみなさんを呼びにいきましょう』

〈あ、ああ、そうだなっ〉


 ドリーの声で、沈みそうになっていた意識が浮上する。

 もう少し先の様子を探りたい気持ちはあったが、そんな無謀な真似はできやしない。

 俺は静かに拳を握り締め、岩から離れていま来た道を戻る。

 

 リーンたちの下へと向かう途中、俺はずっと一人で考えていた。

 早く気がつけてよかった。いま来れてよかった。

 もう少し遅れていたら手遅れになっていたのかもしれない。

 ここはもう、獄に近しい場所になっている。


 


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