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俺の人生ヘルモード  作者: 侘寂山葵
混淆都市シルクリーク
107/109

小さな約束 太陽の源

 



 俺だけ先行しながら進み、ちょうど三十分ほど進んだころ。

『相棒……います』

〈ああ、らしいな〉

 ついに、というべきかドリーからの警告が発せられた。

 相手の気配は俺も感じ取っている。確かに何者かがいるようだ。

 慎重に足音を殺して右正面の岩陰へと身を隠す。緊張からか、わずかに鼓動が速い。

 

〈ドリー、頼む〉

『はいっ』

 

 小声交わす短い応答。ドリーはすぐに意図を汲み取ってくれ、蛇頭を岩陰から覗かせた。

 

『見えました……左右に岩がならんで一本道みたいになっています。砂色さんが五名、距離は少々離れていますし、相棒が直接頭を出しても大丈夫そうですっ』

〈わかった。危なそうだったら言ってくれな〉

『お任せをっ』


 覗きこむ直前、俺は右手を動かし少し後方にいた仲間たちに『少し待て』と合図を送る。

 と、すぐに理解してくれたのか、リーンとリッツは足を止めてくれた。

 

『状況は変わりません、そのままどうぞ』

〈了解〉

 

 そろそろと口を閉ざして覗き込む。

 ――見えた。

 三十五メートルくらい先に右側の岩前に槍持ちが二人。同じく左の岩前には曲刀持ちが二人。さらに後方には弓持ちが一人いる。考えるまでもなく、アイツらは見張りの兵士だ。


 ――配置がうっざいな。

 漏れそうになる悪態を抑えながら、兵士の装備を確かめる。とくに変わった武器は持っていないが、兵士の胸元に枝のような棒が揺れているのが見えた。長さと太さは小指ほど、少々遠くて詳細まではつかめない。


〈なあドリー、あの首からぶら下ってるの何か分かるか?〉

『ふみゅ……お待ちください。むむっ』


 と、ドリーは蛇ぐるみの中からシュパっと手を出し、親指と人差し指で丸を作って『ふぉおお』と唸り始めた。なんだか、望遠鏡を初めて覗いて興奮する子供みたいな様子だ。

 つか、見える距離は変わるのかそれで?

 疑問に思って眺めていると、ドリーはグッと親指を立て、蛇ぐるみの中に戻った。


『ふむ、でましたっ! 恐らく、笛……ではないでしょうかっ』


 自信満々だ。どうやら本当に見えたらしい。ただ、あの仕草は絶対に意味はなかったに違いないけれど。

 

〈そっか、ありがとう。笛、笛かぁ〉

 

 礼代わりにドリーの頭……手の甲を軽く撫で、俺は少しだけ思案に浸った。

 見張りということを考えると、たぶんあれは警笛だろう。そうなると、吹かれるわけにはいかない。見つからずに抜けられるのが一番いいが、位置関係からしても難しいか。


 静かに近づいて殺っちまうか? 奥の一人をリッツに、俺が二人を請け負って……いや、それだと二人残る。やはり配置が面倒臭い。

 いっせいに襲うには岩が邪魔で、それぞれにの配置は、纏まっているが位置間隔が遠い。もう少し考えてみたものの、やはり警笛を使用される前に同時殲滅することは厳しそうだった。 

 ――ここは一回みんなと相談するか。

 後方に手をかざし、促すように横に振る――俺はジリジリと後ろに下がって、全員を大岩の影へと誘導していった。

 

 リーンとリッツは、俺が指示を出すまでもなく、見張りに付いてくれた。やはり普段から一緒にいる仲間は、順序をいくつかをすっ飛ばせるだけあって対応が早い。

 俺は胸中で密かに礼を述べ、急ぎ残ったメンツを集合させた。

 岩の陰に隠れ、円を囲み付き合わせるように屈む。俺は隣で屈んだドランへ向けて、まず口火を切った。

 

〈この先に見張りがいる。数は五名、たぶん全員が警笛持ちだ。できれば避けたいんだけど、回り込める道はあるか?〉

〈えっと、ちょっと待ってくんろ……〉


 片手に持った茶色い手帳をはらはらと捲られる。目的のページに辿り着いたのかドランは手を止め、俺たちの目に映り易いようにページを差し出した。


 ページいっぱいに描かれているのは、以前すこし見たことがある三級区域の全体図だった。

 

 いびつな煎餅のような円の外周。その内側には拳で叩いて割ったかのような亀裂が縦横無尽に広がっている。確かあの亀裂の全ては底に川が流れる深い谷で、それを跨ぐように黒く塗られているのは橋の印だったか。

 ――なんど見ても、嫌な地形だ。

 

〈えっと、オラたちが今いるのはここなんだけんども……〉


 ドランは現在位置を最初に示し、付近の亀裂に向けて指を横滑りさせた。止まった場所は左方向にある橋。さらに指が動き、今度は右にある橋を差す。右に二つ、左に二つ。しかも二つ固まった橋の位置は、互いを視認できるほどに近い。


〈ここから近い位置を探すと、どうやっても二つの谷に行き当たるだで。普通ならかかってる橋を渡っていけば問題はないんだけんども、今はたぶん――――〉

〈そこにも見張りが立っている、か……間違いなくいるだろうな〉


 引き継ぐように俺が呟くと、テストに花丸を付けられた子供のように、ドランはコクコクとうなずいた。

 一緒だからって正解とは限らないんだけど、と俺の口元は自然と苦笑の形になる。

 

〈しかしそうなると……〉

 

 正面にいたスルスが、地図に右手を伸ばして言葉を紡ぐ。


〈当然、橋を視認できる位置にいると思ったほうが良いでしょうね。もう一方の橋からも警戒できるココを渡るのは少々難しい。リキヤマさん、この谷の幅はいかほどありますか? 飛び越える、とかできる範囲で?〉


 長い指、鉤のようなスルスの爪先は、少し幅が狭く見える谷部分を示している。

 別の場所から渡る……か、案としては悪くない。と、俺は考えていたが、


〈地図だと狭く見えるかもしれないけんども、実際はかなり広いらしいだで。身体強化をかけたカゲーヌどんでも、きっと半分も飛べないくらいでねーかな〉

〈げ……まじかよ、俺としてはその半分くらいを想像してたんだが。〉


 あっけなくドランの言葉に否定されてしまう。

 思っていたよりもデカイ。少なくとも百メートル近くはあるか。

 

 ――これじゃ魔法で橋をかけたりもできなさそうだな。絶対にみつかっちまう。

 飛び越すのだって、俺一人ならドリーのハンドで投げてもらうなり、アイビーを使うなりすればどうとでもなるが……ドランやスルスたちにやれというのは無茶だ。


 一度すべての案を捨て去り、新たに打開策を考える。すぐに浮かんできたのは二つほど。

 一つは、遠回りして別のルートを探す。

 二つ目は、五人の見張りをどうにか片付けて進む、だ。

 

 安全なのは間違いなくルート変更。だがそれだって『到着した先がどうなっているかわからない』という問題がある。ドランの地図は確かに詳細で分かり易いけれども、岩の所在を全て把握できるほどではないのだし。

 進むだけ進んで進路変更なんて、勘弁願いたい。やはり五人の見張りを倒して進むのが現実的な手段か。

 あとは実行する方法だが――。

 基本的に、魔法は音が喧しいし目立つから却下。接近戦をするのが正解だとは思う。が、足音をたてず素早く接近するにはドリーの力を借りねばならず、定員に限界がある。

 

 ――どう足掻いてもひとり、最悪でふたりは討ち漏らす……困ったな。

 

 ひとりで考えても埒があかなさそうだ。俺は一旦思考を寸断し、意見を求めるためにもみんなに考えを伝えていった――。

 

 

 短く纏めたこともあり、内容はすぐに伝え終わった。

 見えるのは小難しい顔。特に名案が浮かばないのか、みんな頭を捻っている。

 だが、

 ――こりゃ駄目そうか? と胸中に焦りが湧き始めたその時。


〈ちょっと……いいですか〉


 声と共に、俺の正面で緑色の腕があがった。

 腕の主はスルス――どうやらなにか意見があるらしい。俺が顎を引きうながすと、彼は礼を述べるように頭を下げた。

 

〈槍使いさんのお話を聞く分に、『残った二名を排除できれば突破は可能』と判断できるのですが、それで構いませんか?〉

〈ああ、それで大丈夫だ。もしかしてなにか良い方法でも思いついた?〉


 我知らずと前のめりになる。笑顔のつもりなのか、スルスの口が裂けんばかりに弧を描く。


〈良い方法、というほど大したものではないのですが……残った二人の始末は私が引き受けましょう〉

〈え、スルスが? できるってんなら願ってもないけど、大丈夫なのか?〉

〈言い出したからには、もちろん〉


 少々の驚きを胸に俺が訊くと、予想外にも自信ある肯定が返ってくる。スルスは真剣な表情で俺を見つめ、最後に言った。

 

〈信用してください、と言うには十分な実績をお見せしてはいませんが、どうかここは私にお任せくださいませんか?〉

 

 自分自身でも使ったことがあるけれど、俺はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ『ズルイな』と思った。

 だって、共に戦っている誰かにそれを言われたら、よほどのことがない限り首を縦に振りたくなってしまうのだから。




 ◆




〈さて、ずいぶん久々ではありますが、私の特技を披露するとしましょうか……あ、皆さん、できればココで見たことは、余り広めないで頂けると助かります〉

 

 先ほどの位置から少しさがった後方――俺たちの目の前で、スルスは長い指を『しぃー』と口にあてながら言った。

 よく分からないままに了承する。と、彼は短く礼を言い、おもむろに近くの岩に右手をあてた。

 

 ――なにするんだ?

 疑惑と好奇が混じった視線が集まる。周囲の警戒をしていたリーンたちも、気になったのかちょくちょく横目をやっている。

 

「――ッツ!?」


 ほんの数秒でスルスに変化が起こり、俺をふくむほぼ全員が息を呑んだ。

 目の前で、スルスの体色が絵の具を継ぎ足したかのように変わっている。緑から岩色へ――眼球の色も塗りかわるように染まっていたのだ。

 それは、まるで幻覚でも見ているかのような不思議な光景だった。

 時間にしてみればたった数十秒ほど。そんな短い時間で、スルスは衣服を残し、全身岩色へと成り代わっていった。

 

 ――おお……すげぇええ!?


 驚く……という感情よりも先に、関心と喜びが湧いた。

 というのも、『カメレオンの体色変化は限定的で、別に自由自在に変わるわけではないんだぜ』と子供のころに図鑑で知って、戦慄を覚えた記憶があったからだ。


 あのときはショックだった。

 純粋で真っ白だった当事の俺は、その衝撃に耐え切れず巻き添え……もとい理解者を増やすべく、友達の家に全力疾走したほどだ。

 『嘘だっ』と騒ぐ友達に『現実って夢がないよな』と言ったのは、今でも記憶に深く残っている。

 それに比べるとどうだ、この世界のカメレオンはずいぶんと気合が入っているらしい。なんとなく夢が叶ったような気分だ。

 

 ともかく、その思い出と比較すると今の驚きなんてせいぜいミジンコレベル、大したことじゃ――。

  

『あ、ああ、あ、相棒っ。ゼンマイさんは、岩のお爺さんとお仲間だったのですかっ。なぜ今まで隠していたのでしょうか……ああ、いけません、きっとただならぬ事情があるのですね。

 どどど、どうしましょうっ、きっと雨で色が落ちてしまったのです。こしょこしょっと教えてあげないと、隠せているつもりで後で気が付き、恥かしぃー思いをしてしまいますっ』

 

 いや、そういうんじゃねーから。つかどんだけ驚いてるんだよドリー。

 と思わずツッコミそうになったが、直前で飲み下す。

 堂々と会話するわけにもいかないし、そもそも驚いているのはドリーだけではなかったのだ。

 

 リッツは二度見、三度見しながら『蟲?』とか呟き挙動不審。

 ドランは左足を前に上半身を仰け反らせ『まさかオラにもでき……』などといって驚いている。亜人二名ともう一人の男性も、知らなかったのか瞬きを忘れている様子。

 残ったリーンは、一瞬なぜか警戒するようにピクリと腕をあげ――そしてすぐに思い直したかのように押し下げていた。

 

 ――なんだこの反応……もしかして、カメレオンってここじゃ一般的じゃないのか? 別に不思議じゃないけど、ちょっと予想外だったな。


〈槍使いさんは、そこまで驚かないのですね。もしや、私と同種族の誰かに会ったことがあるので?〉


 俺がひとり感心していると、ふいに奇妙な色となったスルスから、疑念を感じさせる問いかけが飛んできた。

 敵意とかはないが、その眼差しには妙に真剣な光りが灯っている。

 なんだか触れないほうが良さそうだ。


〈いや、十分驚いたよ。ただ、周りのみんなが驚きすぎで気が逸れただけだ〉

〈ああ、そうでしたか、失礼しました。私たち【メレオル】の体質は、ほとんど世間様に知られていないはずなので……〉


 嘘を被せた俺の言葉に納得したのか、スルスは少し声音を沈ませうつむいた。

 なにか声でもかけようか、そう思ったが、その前に『……それよりも準備を続けましょう』とスルスに話を打ち切られてしまう。


 なにか言い辛い事情でもあるようだが、俺としてはわざわざそれを訊く気もなかった。

 隠し事なんて、生きていればいくらでてくる。それに、この中で一番隠し事をしているであろう人物は――たぶん俺なのだろうし。

 

  黙って口をつぐんだ俺を見てスルスはいちど柔らかに微笑むと、手早く準備を進め始めた。

 ゼンマイのような尻尾がにょろりともたげ、尾先がスルスの腰元に差した武器へと伸びる。そして、差してあった三本のうち一本の柄を器用に巻き取った。

 抜き放たれた武器が前面に回され、俺の視界に入る。

 乱雑な皮巻きの柄と、釣り針のような奇妙な形を描く両刃。

 前に武器屋で見かけたことがあるが、〈ショーテル〉とかいう武器だったか。

 奇剣は、今も雷光で怪しく輝いている。なぜそう思ったかわからないが、少しだけ不気味で、不吉に感じた。

 沈黙の中、スルスは指を刃にそっと添えると、静かに魔名を紡いだ。


〈『エント・カモフラージュ』〉


 淡い魔力光が薄皮のように銀刃を覆う。ショーテルは、眩い銀から岩色へ――刃の色をみるみる濁していく。

 予期していたこともあって、驚きは先ほどよりも少なかった。

 

――こういう魔法もあるんだな。分岐魔法ってやつか。

 

 エントの名からして付加。みればわかるように効果は偽装であるらしい。

 ただ、俺の目から見て違和感が皆無なことから、別に精神に作用する幻覚の類ではないようだ。

 考えられるのは、光の屈折を利用した視覚効果。

 だとすると属性は陽が一番候補、次は風や水……素材の色調変化と考えると土の可能性も――。

 と、そんなことを考えている間にも、スルスはサンダル状の履物を脱ぎ捨て、ローブやベルトなどにも魔法をかけている。

 慣れているのか随分と手際が良い。数十秒も経たないうちに、俺の見える範囲全ては岩一色となっていた。

 

〈どうでしょう。これで大丈夫かと思いますが?〉

 

全身を確認しながらスルスが言う。その姿はさながら岩でできた彫像のようだ。

 

 ――ああ、なるほど、そういうことか。

 

 今更ながらに、スルスが隠したがっている理由のひとつに思い当たる。

 難しい理由ではない。悪用されたり狙われないようにするためだ。 

 透明人間というほどには凄まじくはないが、スルスの魔法と体質はそれに近しい効果を発揮する。

正直いって、いくらでも悪い用途に使える。ぱっと思いつくだけでも数えるのが億劫になるほどだ。

 もしあの魔法が『メレオルにしか教えない、もしくは使えない』ということだったりすると、とても面倒なことになるだろ。

 狙われるし、利用される。悪人にかかわらず、国とかからもきっと。

 

 ――特別ってのは、なにもいいことばっかじゃないってことか……でも、スルスが今まで隠していたってのは、ちょっと意外な気がするけど。


 隠さなければいけない理由はわかった。しかしかなり便利な力だ。仲間が死ぬのを甘受してまで隠そうとするのは、正直スルスらしくもない。

 こんな魔法があるなら、それこそ赤錆を暗殺することくらい――。

 が、一瞬妙案に思えたその考えも、すぐに『無理だ』と思い至った。


 そう、あの魔法は“見え難い”ってだけで“いなくなる”わけじゃない。

 つまり、音や気配、空気の動きとか感じ取って動いてくるレベル――赤錆や、爺とか爺とか爺とかが相手だと、暗殺する前に発見され、失敗に終わるだけなのだ。

 密偵なら十分に使える気もするが、スルスが抜けるリスクと見合う結果が伴うかは、まあ微妙である。

 強力な魔法効果。しかし相手が格下の場合に限る、なんて――スルスとしては歯がゆい思いだったに違いない。

一瞬『俺が使えたら』という考えが膨らんだが、きっとそれは、傲慢でなんの意味もない考えだ。大体、そんなことができるのならばスルスがとっくに提案している。

 

〈――槍使いさんっ、準備が整いましたので、そろそろ〉

〈っ、ああそうだな〉


 思考に浸っていた俺は、スルスの言葉ではっと我に返り顔をあげた。

 また考え込んでしまっていたらしい。悪い癖だと自覚はしていたが、中々直ってはくれない。

 ――しっかりしないと。


〈よし、全員配置についてくれ。さっさとここを抜けちまおう〉

『頑張りまっしょいっ』


 気を取り直して放った俺の言葉に、重ねるようにドリーが鎌首を持ちあげる。大声こそは出せなかったが、みんなも動きで応えてくれた。




 気配を殺し、その時を待つ。

 現在、俺は最初よりも五メートルほど詰めた位置にある、岩陰に潜んでいた。わずかに下がった場所では、リッツがボウガンを構えて待機している。

 リーンは右方の岩陰。ドランと樹々はいまごろ先ほどの場所に。部下たち三名は左方で周囲の警戒を行っている。

 

 そして、

 現在キーマンでもあるスルスは、左方の敵の背後――少し上部の岩肌に張り付いて接近中、なのだとか。

 どうしても不確定な物言いになってしまうが、この場合は仕方あるまい。

 

『相棒、ゼンマイさんが到着しました。尻尾で掴んだ武器が届く少し手前の位置でしょうか。ほら、なんか壁にぺタっとくっついています』

〈いや見えねーから……だめだ、ぜんッぜん分からん〉


 そう、この距離からじゃ俺にはスルスの姿を視認できなかったからだ。

 ドリー曰く、『手と足の爪で岩肌を掴み、岩を越えるようにして下に移動した』らしいのだが、視界の悪さも相まって見えるのは兵士の姿だけ。

 近距離にいるファシオンでさえも気がつかないのだから、スルスも中々やる。

 

『相棒、準備はいいですか? そろそろ行きますよ』

〈おう、しっかり投げてくれよ〉

『にゅははー、私に任せてくださいっ……んむぅーー、へいっ!』


 気合入れの掛け声を一つ。ドリーはすぐにやる気満点の声音で『ウッド・ハンド』を唱えた。

 背後で小さな出現音。

 振り返れば、懐かしの樹手がドリーの動きに対応し、準備運動でもするように指をワキワキさせている。

 

 ――なんかこういうのも久々だな。

 口元を覆う黒布の中で笑みを浮かべ、俺は背後の樹手の上に飛び乗った。重量軽減をかけた武器と身体はすこぶる軽い。これならば、何の問題もないだろう。

 

『ふむむむむっ!』

 

 樹手が弓なりになってギリギリと力を溜め込む。俺は左手に斧槍を握ったままで、後方に向けて右手の指を三本立てた。

 無言のカウントダウン、ゆっくりと指を折り曲げる。

 三、二……一。

 ゼロと同時に掲げた腕を前に、後方でカシュ、と矢弾が放たれた音がささやかに鳴る。


 一拍。

 ほんのわずかな間を置いて、

〈やれッ〉

 俺は小声でさらなる指示を放つ。

 

『ふんにゅぅらーーー』


 奇妙な掛け声と共に、ドリーが引き絞られた樹手の豪腕を振るう。一瞬で身体に加速がかかり、凶悪に強まった雨風が全身を叩きはじめる。耳元で風が逆巻く音がして、一斉に景色が後ろに流れていく。

 俺は一瞬の内に、さながら弾丸のように空へと放たれた。

 

 視界が――

 鳥にでもなったかのように視界が高く、高く上がる。実際はそこまでの高度ではないはずだが、雷雲と雷光が……とても近く感じた。


 空へと舞った身体は重力に引かれて斜めに墜落する。

 高速で動く景色は慣れたもの、たった一瞬の出来事のはずなのに、俺の瞳は余すことなく全てを捉えていた。

 

 左右に立ち並ぶ岩々。降りしきる雨。見張りの兵士。リッツの放った矢弾。

 瞬きを一度する間にも距離が消失し、空を駆う俺は足音を立てずに風切り迫る。 

 鮮血。

 リッツの矢弾が弓兵の頭部を貫く。

 直後、唐突に矢弾が弾け飛び、低いくぐもった胡乱うろんな音をわたらせた。

 頭蓋が投げられたリンゴのように粉々に、血飛沫が雨と混じって溶け込むように消える。

 

 アレは監修を任されたリッツが職権乱用し、二十本ばかり作って貰った特別製の炸裂矢弾。試しに作っただといってはいたが、どうやら兵士の頭を割るには十分な威力があるらしい。

 音に反応し他の兵士の注意がそちらに向く。その手は、胸元の警笛へと伸びていた。

 

 だが、遅い。

 その時には、背後から蛇のように現れたスルスが尻尾の武器を横薙いでいたからだ。

 稲でも刈り取らるように、生首が二つ飛ぶ。笛を吹こうにもアレではもう使えまい。

 残る兵士はあと二名。俺が狙うファシオンの口元には、すでに警笛が。

 でも焦りはない。ゆっくりと流れる時間の中で、俺は『間に合う』と確信を持っていた。

 

 大地と兵士の大きさが増す。着地予想地点は二人のファシオンの中間。素晴らしいコントロールだ。

 ドリーがわずかに動いて手助けし、中空でのバランスを整える。俺は左手に握っている武器の刃先を左後方に、右手もそろえるように左へと向けた。

 考えを巡らせる暇すらなかったが、俺の口は意識せずとも魔名を紡ぐ形に動く。

 

「『ウィンド・リコイルッ』」


 ドンッ、と暴風の砲弾が放たれ懐かしい反動が俺を押す。

 身体が右にグルンと回り、左手に握った斧槍と視界も一気に回転。万華鏡を覗き込んだように景色が溶けた。

 

「――ラァッ!」

 

 小さな雄叫びと共に、俺は斧槍を全力で振り切る。手の平に肉と骨を断った感触が二度伝わる。

 ドア程度の隙間を潜り抜け、回転の勢いをそのままに着地。軸足は左。衝撃が体に伝うが、俺は地を這う旋風脚でも放つかのような姿勢で、砂利と水を蹴散らしソレを逃していく。

 

 水飛沫。弧を描いた俺の右足で地面が盛大に削れ続ける。

 やがて勢いは消失し――気がつくと、俺は武器を水平に構え、右手を地面に付けて停止していた。

 

〈はぁ……こけたらどうしようかと思った〉

 

 排気するように熱くなった酸素を吐き、俺は少し間の抜けた台詞を呟いた。視界にはゴトリと落ちる兵士の首が二つ。

 少し遅れてファシオンの身体が水溜りに突っ伏して、短い戦闘の終わりを告げた。

 

〈ちょっと久々すぎて不安だったけど、まあまあ上手くいったか?〉

『にゅふふ、相棒の動き、以前よりもずっと良くなっていましたよ?』

〈マジでっ? なんかドリーに言われると滅茶苦茶嬉しいなっ〉

『――ッ!? 完璧でしたっ。万全でしたっ。むわっほい世界一でしたっ! 素晴らしい! ふっふー嬉しいですか』


 おう凄いなドリーは、こんなに早く言葉の価値をなくしていく奴を俺ははじめてみたぞ。

 死んだ魚のような蛇の目で『喜んでください』と訴えかけるドリーに、『嬉しい嬉しい』と言いながら、俺はどす黒い血液を落とすため、いちど武器を切り払った。


 ――ああ、面倒臭いけど死体を埋めとかないと。

 雨にうたれる五つの死体を眺めて溜息を吐く。俺の頭の中は、突破に成功した喜びよりも、次の行動予定でいっぱいになっていた。

 



 ◆

 

 

 

 澱んだ空気が漂う牢内で、イシュは岩壁に背をもたれ座り込んでいた。

 その姿は力ない。絵画に描かれたような姿も、色あせてくすんでしまっているかのようだった。

 

 ――……さすがに、そろそろキツクなってきたかな。

 

 よほど怒りを買ってしまったのか、ダドと会話を交わしたアノ日から――食事がいっきに減らされた。

 殺す気だけはないのか、たまに少量の硬いパンと泥水のようなスープが与えられたが、とても十分な栄養を取れるようなモノではない。

 唇がかすれ、身体の節々は痛い。幾日経ったのかだって、時間の感覚が狂い始めているせいでもうよく分からない。

 身体の限界が少しずつ近づいてきているように感じる。

 

 ピクリとも動かず、歯を食いしばる力すら惜しんで、イシュはただ座って時を過ごしていた。

 かびとすえた悪臭が漂っている。湿気も多く虫やネズミなどの姿もちょくちょく見えた。

 蔓延する陰鬱な空気に汚されるように、身体が弱り細っていく。いままでどうにか耐えてきたが、精神は促されるように、暗く、暗く沈みはじめていた。


 寂しさを感じる。 

 以前までは、ラッセルという会話相手に気晴らしができていたのに、最近では兵士が来るばかり。太陽もみれず、人とも話せず、食事を制限されると人はここまで弱くなってしまうのか。

 情けない。

 人恋しいと感じる自分が情けなく、もう駄目だ、そんな諦めの気持ちを抱きそうになる自分が、このままでは許せなくなりそうだった。

 

 流れなくなった水は腐り果てるしかない。欝という名の腐水はいまも蓄えられていて、そのうち心のすべて浸かってしまう。

 自分が強いと思ったことこそないが、ここまで弱いと思うのも久しぶりだ。


 闇を固めたような牢屋の隅を眺め、イシュは人知れず溜息を吐いた。

 負の種が芽生えた切っ掛けは、やはり弟の死を突きつけられたからだろうか。

 きっとそうだろう。

 頭では受け入れるつもりでも、いまだって心の底では罪悪感や悲しみがもがき、悲鳴を上げているのだから。


「なにが……なにがいけなかったんだろうな……」


 震える指先で己の右肩から腹部に掛けてを斜めになぞり、イシュは一人頭を落として思考に浸る。

 すぐに浮かんでくるのは、やはり弟のことだった。

 楽しい思い出はもちろんあったが、この状況で出てくるのは悔やみや後悔を抱く記憶だ――。

 

 

 兄弟仲はよかった、と言っても良い。

 自分は弟を可愛がっていたし、弟の言動を見ても、彼は自分を兄として慕ってくれていたと思う。

 ただ、兄弟喧嘩は少しだけ多かった気がする。

 自分にも弟にも譲れない部分があり、それがいつだって口論を生んでいたのだ。


 ――亜人は野蛮だ。亜人は粗暴だ。

 それが、弟が二人きりのときによく口にしていた台詞だった。いくら『そんなことはない』と宥めてもまるで聞く耳を持たなかったのを覚えている。

 

 ――これだから亜人は……。

 ――またそれか、ジンもいい加減にわかってくれないかい?

 ――兄さん、僕が一番わかっているさ。

 

 喧嘩のほとんどがそんな会話から始まった。

 自らの考えを貫くジンと、どうにか説得しようと試みる自分。

 いつだって決着はつかなかった。

 ジンが負の感情だけでソレを言っているのならばまだよかったものを、彼は彼なりの理論武装で身を固め、説得の言葉を入らせる隙間を見せなかった。


 イシュが反論しようにも、その理屈は事実に基づいた偏見だったのだ……。


 亜人の中には本能に流されてしまう者がいる。これが事実であることは、いままでの歴史や調べから証明されていた。

 本能の種類は様々だ。

 狩猟本能から望まぬとも暴れてしまう者がいて、今ではほとんど姿を見なくなったらしいが、昔は愛すべき者を喰らいたがる種族もいたらしい。

 

 抑えたくても本人ではどうしようもない。人でいうところの睡眠欲や食欲に近いのかもしれない。

 自分が我慢できないから他人を傷つける。

 そう考えると、倫理観に照らし合わせ大雑把に括るのならば……確かに彼らはジンの言う通り野蛮ではあるのだろう。

 実際、そういう風に亜人を嫌っている人も世の中にはいたし、これからもたぶんいるはずだ。

 ジンの場合は少し事情が異なっていたが、括りで言えば彼もそういった“者”の一人であった。

 

 でも『本能を抑えきれないのは人間だって同じだ』、とイシュは思う。

 亜人と同じように、人種にだって仕方なく悪事を働く者もいれば、ソレを楽しんで実行する者だっている。

 やはり『亜人だから、人間だから』といった差異こそあれ、そこに差などないのではないか。

 大多数の人間もそう考えているからこそ、共に暮らせているはずなんだ。

 

 イシュはただ、それを弟にもわかって欲しかった。

 自分の考えを強引に押し付けるつもりではなく、ほんの少しだけこの気持ちを理解して欲しかった。

 そうでなければ、きっと苦しいだけなのだから。

 世の中にいる亜人の数は多く、とても優しい者だって沢山いる。それを理解せぬまま受け入れられぬままで生きるなど、ただ辛いだけではないか。

 兄として、家族として、そんな弟を放っておくことなどできるわけがない。

 だが、もう手遅れだ。

 願っても想っても……弟はもう、いないのだから。


 ――兄貴は知らないだろ。自分では本能を抑えることさえできない恐ろしさを。

 ――兄貴は覚えていないのかい? そうなった時の凶暴な本性を。

 

 ぐるり、ぐるりとジンの言葉が脳裏を回る。

 冷たい反論の数々は、返す相手がいなくなったいまとなれば、ただ心を抉る槍の穂先だ。

 ぐさり、ぐさりと突き刺さる。心の芯を抉って削ぎ落とす。


 ――シルクリークの第二王子は亜人が大嫌いなんだとさ。

 ――へえ、イシュ様じゃなくて、ジン様のほうがかい?

 ――そうそう、“あの”弟君のほうがさ。

 

 鬱々と顔を項垂れさせているうちに、今度はそんな噂話が脳内に浮かんだ。

 ジンは公の場で亜人を非難するような言葉こそ吐かなかったが、態度にはチラチラと滲ませていたことがある。

 言葉にださなくても、そういったモノは伝わるものだ。民や人々の間ではそう囁かれていたのだという。


 亜人に冷たいジン・シルクリーク。弟はそんな認識のままで死んでしまった。


 違う、違うんだ。そう公言してやりたい。

 確かにジンは亜人を好いてはいなかったが、冷たいやつではなかった。

 

 ファシオンのように迫害を実行するわけではなく、己の中に伏せて一人悩むだけだった。

 よほど悩んでいたのか、部屋で一人泣いたことだって知っている。

 

 弟が優しいやつだということは、イシュが一番良く知っていた。

 このままダドが好き放題に暴れてしまえば、ジンの名は悪い意味で歴史に残るだろう。

 暴君。悪逆非道なジン。

 今ですら危ういのに、これ以上の惨劇が起こればこれからずっと最低な王として人々の心に残ってしまう。

 

 死体に鞭打つような仕打ちだ。弟はそんなやつではなかった。

 絶対に、こんな簡単に死んでいい奴では……なかったのだッ。

 

 心が痛い。胸が苦しい。魂が軋みをあげ、また涙が溢れ出そうになる。

 後悔。懺悔。悔やみ。悲しみ。

 駆け巡る陰鬱さはまた少しだけ増して、心の汚水は腐って澱む。

 

 なぜ、世界はこんなにも残酷で容赦がないのだろうか。良い者も、悪い者も区別なく死んでしまう。

 不平等で平等。

 世界を現すならば、きっとそんな言葉が相応しい。

 生まれ、才能、散らばっている様々な不平等がある。

 だが同時に、天才が不運にも落雷で死に、強者が治せぬ病魔に侵され死ぬような、平等があった。


 死は誰かを選んで降り注ぎはしない。

 善悪の区別もなく、性格を選り好みして訪れるモノでもない。

 弟が死んだのも、ソレが訪れた結果である。

 不運だった。たった一言で片付けてしまえばそれだけだ。

 わかっている。

 そんなことはわかっていたが、実際に納得して飲み込むのは……とても、とても難しいことだった。

 

 胸部を斜めに走っている古傷が、心の痛み伝えているかのようにジクジクと痛んだ。

 助けを求める声を出したかったが、叫んだところで同じく捕らわれている者にだけしか届かない。

 誰かに、会いたい。

 愛する民に、いつだって自分を守ってくれていた部下や兵士たちに。

 そして、失ってしまった弟に。

 

 このまま、なにもかもを救えず、なにもかもが消えてしまう気がして、どうにか逃げ出さなければならないと思った。

 しかし、

 ダドが簡単に捻り上げた鉄格子は硬く、自分の細腕では到底曲げることなどできはしない。

 弱い。なぜこんなに泣きたくなるほどまでに自分は弱いのだろうか。

 

 悔やしさから睨みつけても、暗く陰湿な牢は冷たく進路を阻み続けている。

 ここで死ぬのか。

 誰にも知られず、誰とも話せず、惨めに弱って死ぬのだろうか。

 それも、悪くないのか?

 死んでしまえば考えなくていい。死んでしまえば苦しくない。

 耐え忍ぶことは耐え難く、一人きりで考え込むのは悶えるほどに辛かった。

 おいで、おいで。

 そんな風に、部屋の天井に蠢く闇が手招きしているように思えた。

 

 ――ッッ、駄目だッ。

 

 ギリ、とイシュの歯が軋んだ。

 闇に誘われるように意識が流れる直前で、イシュは己を律して踏みとどまった。

 こんなことで負けてはいけない。

 ただでさえ身体は衰えていっているのに、気持ちまで負けてしまえばそこで終わりだ。

 それだけは駄目だ。

 刺殺、絞殺、飢え死に、様々な死に方はあるが……精神を病ませ、諦めを抱えて死ぬなどという情けない倒れかたなど、自分は絶対にしてはならない。

 

 澱んではいけない。暗く落ちてはいけない。

 ――太陽のような王様になって、皆を明るく照らしてやりたい。

 王になろうと思ったあの日から、民を導こうと心に定めたその日から、ソレをずっと心に決めていた。

 

 太陽は、人が生きていくうえでとても重要で、希望を抱くために必要なモノ。

 民に支えられて生きている王は、そうやって人々に返してやるのが仕事なのだ。

 苦しみや、痛み――獄などの不条理な死で人々が曇らせた表情を、明るくしてやるのが王である。

 その想いを、その決心を裏切ることなどあってはならない。

 

 【俯くな、顔を上げろ――――】

 

 脳裏に声が響いた気がして、イシュは俯かせていた顔をあげた。

 その言葉は、自分が王になるのだと初めて決心した日に聞いた言葉だった。


 ――はは、外に出れないこの状況。少しあの日に似ているな。

 

 胸中で一人呟き、イシュは苦笑いと嬉しさが混じった笑いを零す。

 嫌なことばかり考えるから駄目なんだ。少しでも良いことを、明るいことを考えよう。

 イシュはもういちど胸にある傷を斜めになぞり、ゆるゆると大切にしまっていたモノを掘り起こす。

 精彩に繊細に。

 あんなにも昔のことなのに、脳裏にくっきりと描きだされていくモノがある。

 忘れはしない。薄れなどしない。

 あたりまえだ。この思い出は、自分に初めて亜人の友人(?)ができた、喜ばしい日のことなのだから――。

 

 

 

 古い記憶。

 まだイシュが八歳、弟が五歳になったころのことだった。

 兄弟にとって忘れられない出来事が起こった二日後、イシュが胸に受けた深い傷と失った体力を癒すために、自室で静養を余儀なくされていたときの話だ。

 

 シルクリーク城内の一室で、イシュは窓の外に見えるのは曇天を眺めていた。

 ポツポツと落ちる雨を寝たきりで見つめ続けるのは、イシュにとって極めて退屈な時間であった。

 

 ――つまらないな。

 

 寝転んだままで一人ごちる。まともな話し相手すらいないのだから、そう思うのも当然だ。

 部屋の中に、自分以外は誰もいない。

 父親は政務で忙しく、母は弟を産んで死んでしまったので今はいない。頼りの弟は塞ぎこんで部屋に篭っている。

 くるとしても医者と侍女ばかり、会話を交わしても王族だと気を使ってちっとも面白いものではない。

 暇というものは、子供にとっての一番の天敵だ。

 ソレを退治してくれる友がいれば良いのだが、残念ながらイシュにはいなかった。

 王族の子供は孤独である。

 身の安全を保障するため、血縁が途切れるのを防ぐため、普通の子供たちのように生活することは許されていない。

 欲しくても、そう簡単に許されるモノではなかったのだ。

 

 ――僕はきっと不幸なんだ。

 

 イシュの立場を羨む者はそれこそ吐いて捨てるほどいるであろうが、子供だった彼はそんな自分を不幸だと思っていた。

 

 ――なぜ、なんでなんだろう。

 疑問ばかりがイシュの脳裏を巡る。

 ときおり見に行く街の子供たちは、いつもとても楽しそうに友達と遊んでいた。なんであそこに混ざってはいけないのか。なぜ自分ばかりがのけものにされるんだ。

 イシュが抱いた疑問の感情は、大人にとっては小さいけれど、子供にとってはとても重大なモノだった。

 

 ――つまらない。つまらない……つまらない。ジンのやつも、べつに気にしないで遊びにきてくれれば良いのに……。


 拗ねるように呟いてみたが、弟はこない。

 凄まじい孤独を感じるほどに、部屋の中は静まり返っている気がした。

 外や庭はいつもより少々騒がしかったが、イシュにとってはなんら関係のない話。自分がかたることも出来ない騒ぎなど、ただ降り注ぐ雨音の雑音と変わらない。

 

 ――ずっとずっと、自分はこのまま一人ですごすんだ。

 考えれば考えるほど落ち込んだ。外で遊んでいた子供たちのことを思い出すと、胸のうちがモヤモヤと疼いた。

 それが嫉妬という感情であることを後で知ったが、いまのイシュにはわけの分からない嫌な感情にすぎなかった。

 

 傷はそのうち癒えるのは間違いない。そうなれば表面上は一人じゃなくなる。だが、本質的な部分でイシュは一人きりだと思っていた。

 永遠に、自分はこの寂しさを抱えていくんだ。そう信じ込んでいた。


 その時までは――。

 

 

 イシュが彼と出会ったその時の記憶はとても鮮明で、同時に少しだけあやふやだ。 

 ――なんだろう?

 不貞腐れるように寝転んでいたイシュの頬を、にわかに風が撫でる。

 閉じきった室内では吹くはずのない外気を感じ取り、イシュはうながされるまま視線をやって、驚きで眼を見開いた。

 いつの間にか窓が開け放たれていて、窓のへりになぜか亜人の男が一人座っていたのだ。

 

 男の服装は黒尽くめだった。体格はそれなりで、少し恰幅がよく腹が出ている。

 後方には、棍棒のような形をした茶色い尻尾が伸びていて、頭部には半円の耳が見えた。

 口元を覆う布のせいで顔はよくわからないが、とにかく亜人の男性だということは理解できた。

 男の左手は胸元に、右手は鉈のような刃物を握っている。

 不思議な男だ。

 そこにいるのはずなのに、まるでそこには誰もいないような、すさまじく気配の薄い男だった。

 

 ――だ、だれ?

 

 明らかな不審者にイシュが恐る恐ると尋ねる。

 男は視線を油断なく彷徨わせたあと、少し考える素振りをみせながら、低く小さな声で返答した。

 

 ――オレか? オレは大泥棒さまだ。そりゃあもう悪い悪ーい悪党だ。わかるか? だから静かにしてろよガキンチョ。もし大声なんて出したら、お前みたいなチンチクリンの命なんか、片手で簡単に盗っちまうからな。

 

――え、う、うん。わかった。

 

 凄みを利かせて男が睨み、イシュは素直にうなずいた。

 イシュの中に戸惑いはもちろんあったが、不思議と恐怖はない。

 殺気の有無。

 イシュが明確に理解できるわけもなかったが、子供の鋭敏な本能はソレを悟っていたのだろう。

 

 なんだか悪い人じゃない気がする。なんとなく、そう思った。

 泥棒がなんなのかという知識は頭の中にある。でも、悪人という者に会ったこと自体が初めてで、いまいち実感が持てなかった。

 人から聞いた知識を信じるのか、それとも自分の目で見たモノを信じるのか。

 そんな選択肢が目の前にぶら下ったとき、イシュが迷わず手に取ったのは自分の目で見た現実だった。

 泡が弾けるように戸惑いがパチリと消え失せると、現金なもので今度は好奇心がムクムクと湧いてくる。

 

 ――ねえ、おじちゃん。“大”って付くってことは凄いの? 凄いなら、どれくらい凄いの?


 ――あぁん? いや、どれくらいって……お前。

 

 そんな言葉が飛び出すとは考えてもいなかったらしく、少し力ませていた男の体から力が抜ける。

 男は考え込むように指で武器の柄をカツカツ叩き、数拍の間をあけイシュに視線をやった。

 

 ――んー、そりゃもうすげーな。わんさかいた城の見張りも振り切って、こんな場所にまで辿り着いたのが証拠だ。どうだ?

 

 元々そういう性格なのか、大げさに両手を広げた男は、自慢げにイシュの質問に答える。

 

 ――んー、じゃあなんで怪我してるの? やっぱりあんまり凄くないの? 泥棒だから嘘つきなの?

 

 イシュは矢継ぎ早に質問を飛ばし、男が抑えていた胸元を指差した。

 男がハッと顔を下に向ける。そこには、イシュが受けたのと同じような、斜めにバッサリと切り裂かれた傷跡があった。

 よく見れば、抑えていた男の左腕も血に染まっている。耳を澄ませば、今にも死にそうな、荒い呼吸が聞えてくるようだ。

 かわいそう。

 同じ痛みを知っているイシュとしては、どうにも同情せずにはいられない姿だ。

 

 ――こりゃ、こりゃお前あれだ……オレがちょいと力を入れすぎたせいで胸がはり裂けちまったんだ。いや、凄いってのも色々大変なんだ。わかったか、覚えておけよ。

 

 哀れみが篭った視線に気が付いたのか、男の口からうさん臭い台詞が飛び出す。男の黒い瞳は盛大に泳いでいる。動作も少し挙動不審になっていたが、イシュはとくに気にせず鵜呑みにした。

 

 ――よくわかんないけど、痛そうだしそれあげる。

 

 ベッドの傍らに置かれていた小さな机を示す。そこには最近イシュが服用している薬が置かれていた。

 アレを飲むと痛みが楽になる。

 自分用の薬ではあるが、苦しそうにしている男はやっぱり可哀想だった。だから、気にせず分けてやるのが当然だ。とイシュはそう思った。

 

 ――ふーん、薬か……。

 ネコよりも足音を立てずに部屋に入ると、男は薬を手に取り蓋を開け、中身を確かめるように臭いを嗅いだ。


 ――おお、かなり上等なやつじゃねーか。やっぱお偉いさんの薬は違うな。まあ遠慮はしねーさ貰っとくぜ。

 

 背を向けて薬を一息で飲み干し、下品なげっぷを一つ吐く。

 男はでっぱっている腹をポンポンと叩き、少しだけ悩む素振りをみせたあと――地面にドカリと座り込んだ。

 

 ――おいガキンチョ、少しの間ここで休ませて貰うことに決めたが、下手に騒いだりするなよ。騒いだら痛いことが起きるぞ。胸が張り裂けるよりもな。本当だ、やめておいたほうが良い。絶対に止めとけよ? 本当に痛いからな。

 

 ――……? わかった。やめとく。

 

 脅すというよりは頼み込むかのように男が念を押すと、イシュは素直に従った。

 こうして、

 なぜか王族の部屋の中に、盗賊の男が居つくことになったのだ――。

 

 

 部屋で休息を取り出してから、イシュはずっと手馴れた男の手当てを眺めてすごした。

 妙な関係だった。

 ときおり思いついたかのように、『何をしにきたの?』『大丈夫』などとイシュが問いかけて、男がうさん臭い返答をする――それだけだった。

 

 男はときおり注意深く耳をそばだてたりしていたが、別段イシュに危害を加えるでもなく、いつだって寝転で尻をかいては屁を漏らしたりと、好き勝手に寛いでいる。

 近衛の者が見たら卒倒する光景だ。しかしそこに流れる空気は、至って平和なものだった。


 なんだろう、楽しいな。

 なんでもない時間であったが、イシュはそれを楽しんでいた。

 暇を持て余しているイシュにとって、色々と反応を返してくれる男は絶好の話し相手でしかなかったのだ。

 

 ――ねえ、おじちゃんって何歳?

 ――つい先日生まれたばっかだな。

 ――嘘だー。

 ――本当、本当、年下だ。まあ甘やかしてくれ。あ、水が飲みたい。

 

  男の口から出るのは大体が嘘だった。それも本気で騙す気があるのか疑わしいほど下らないものばかり。

 だが、妙にかしこまったことしか言わない者たちよりは、とても話がはずむ気がした。

 

 だからだろうか、

 近衛の兵士が部屋にやってきて不審者がどうのと言ったさいも、イシュは衣服棚に隠れた男のことを口にしなかったし、外に立っている見張りに告げ口することだってしなかった。

 

 子供ながらにイシュは『兵士が探しているのはこの男だ』、と確信していた。

 だが同時に、それを伝えてしまえば話し相手がいなくなってしまうのも理解していた。

 

 せっかく見つけた話し相手。せっかく捕まえた面白い男。

 そんな彼がいなくなることは、イシュにとっては絶対に避けねばならない重要な事柄だった。

 

 だからむずかしいことは考えず、イシュは自分の感情に従い男をかくまい続けた。

 運ばれた食事を男にわけ、なくなった薬の補充のために嘘までついた。

 悪いことをしているのだという自覚は漠然とあったが、やめようとは思わない。

 第三者からみれば、反対されたペットを親から隠して飼っているような稚拙な行動だ。しかしイシュ自身は、とても必死だった。

 

 その甲斐もあってか、イシュと男が交わす言葉の回数は徐々に徐々に増えていく。男もかくまってくれる彼に思うところがあったのか――元々刺々しいものではないが――態度は更に適当な方向に軟化していった。

 

 秘密の遊び相手と楽しい時間が二日ほどすぎる。

 イシュにとって二日という時間は短いもので、文字通り瞬く間のうちだった。

 与えた薬と男が常備していた薬草、そして回復魔法のおかげなのか……男の傷は深いものではあったが、問題なく治っていく。

 男の傷が治るのはイシュとしても嬉しいことなのだが、『治ったらいなくなってしまうのか』と思うと寂しさを感じずにはいられない。

 だから、

 

 ――まだ見張りがうるせーから、もうちょっとだけいる。悪いなガキンチョ。

 

 少しばつが悪そうに言った男の台詞を聞いたとき、イシュは嬉しくて表情をほころばせてしまった。

 まだ話せる。まだ一人にならなくていいと喜んだ。

 傷が治らないことを望む自分は嫌なやつだと感じたが、『ずっと治らなければ良いのに』、と思うのも事実だった。

 

 時間はいつだって、あっという間だ。

 まるで時を惜しむように、イシュは見張りの警戒が収まるまでの間、男に様々なことを話した。

 弟のこと。毎日がつまらないこと。自分たちばかりが城に押し込まれて窮屈だということ。

 男はつまらなそうに聞いていたが、やはり根っこの部分が悪人でないのか、なんだかんだと答えてくれた。

 

 ――生まれなんて選びたくても選べねぇ。だけど、生まれてきたからには俯いてたってしょうがないだろ。

 誰だって後悔や不満はある。そりゃ楽しそうに遊んでいる子供だって、無敵なオレにだってある。

 だから、開き直って楽しく生きろ。飯喰って寝て、口を開けることに感謝して生きろ。弟だって欲しくてもいないやつはいるんだ。さっさと仲直りして、しっかりと兄貴分の務めを果たすほうが楽じゃねーかな。

 

 妙に真面目ぶって男が話し、イシュが口をつぐんで聞き入る。

 男はそんなイシュを見て、さらに言葉を重ねていった。先ほどよりも真剣に、先ほどよりも声を落として。

 

 ――自分ばかりが、なんて思うのはきっとみーんな一緒なんだ。

 他の奴から見ればガキンチョはすこぶる運がいいし、恵まれているように見える。もしかしたら、ガキンチョが大きくなって、自分の立場をそう思う日だってくるかもしれねーよ。

 だがな、だからといって偉ぶるのは駄目だ。たとえオレみたいな碌でなしでも、同じように生きている。そこに上も下もねーんだ。

 違いがあるとしたら、死んじまったか生きてるかだけなんだ。死んじまったやつこそ、きっと運が悪かったんだろうな。

 ああ、仕方なかったんだ……きっと、な。

 

 男の独白はそこで途切れた。

 イシュには後半は難しすぎてよく理解できなかったが、真剣な男の様子と言葉は記憶に刻み込まれていた。

 語り終わった男は妙に疲れた様子で、いつものうさん臭さが消えている。

 ずっといるようでいない不思議な男だと思っていたけれど、そのときばかりは彼の本質に少しだけ触れられた気がした。

 

 そのあとの一日、男は妙に優しかった。

 聞けばいろんなことを教えてくれたし、悩みを言えば解消できるように考えてくれた。

 ただ、『それはソイツがトンチキだったな』、『あーそいつはお前がド間抜けだった』、『つまり、スカタンだったわけだ』などと男が答えるせいで、イシュは聞いたこともない悪口を覚えてしまったが。

 それでも、気を使われないのは心地いい。イシュの中で、男はドンドンと重要な位置を占めていく。

 イシュはその日、ずっと考えていた。

 どうにか男が城で暮らせないか、と。

 いくつも案を考えては捨て去って、この楽しい時間を引き延ばすことを望んだ。これが友達なんだ、と思った。

 大事な弟とは少しだけいる場所が違うけれど、同じように近い場所にいる誰か。その居心地はとても捨て難く、幸せな気持ちになるものだった。

 

 だが、

 いくら頑張ったところで別れは訪れる。

 一番楽しかった気がする次の日、男はついにこう言った。

 

 ――傷の具合は上々。見張りもオレが逃げたと思って解けやがった。ずいぶんと世話になったなガキンチョよ。そろそろオレは出て行くとするぜ。

 

 男の瞳は真剣で、『もうソレは決まったことだ』と語っていた。

 城で暮らせる方法を考えていたことや、ずっと遊んで欲しいと望んでいることを告げたかったのに、イシュの口は固まって動かない。

 嫌だ。

 そう叫びたかったのに、騒ぐと男が危なくなりそうな気がしてできない。

 いかないで。

 腕を掴んで駄々を捏ねたかったのに、涙を零し、うつむくことしかできない。


 ――ああ、なんだよおい……止めてくれよ。

 

 ポロポロ涙を零すイシュを見て、男は困惑したのかように額に片手を当てた。

 が、しばらく唸るように首を捻っているうちに何か思いついたのか、男は指を鳴らす真似をして見せた。音は、残念ながら鳴っていない。

 

 ――そうだな……うん。命の価値ってのは、実は金じゃ買えないほどに重いって知ってるか? だからな、なにかしてほしいことがあればなんでも言ってみろ。ひとつだけならどうにか叶えてやる。だからグジグジ泣くなよ、どうにも気分が悪くて堪らねー。

 

 この場を取り繕うために嘘のなのか、本当に恩義を感じていった言葉なのかは分からない。

 だがイシュは男の問いに顔をあげ、迷わずこう願った。

 

 ――僕と、友達になってはくれませんか? と。

 

 男はその言葉を聞いて笑った。

 ――泥棒の自分と王族が友達? 

 そう言って声を押し殺しながら笑って笑って、腹を抱えて笑い続け、やがてひいひい言いながらも、不安そうな顔をするイシュに答えた。

 

 ――友達ってのはなぁ……対等じゃないといけないんだ。互いに何かしてやれる関係が友達なんだ。お偉いさんのガキンチョと今のオレじゃあさすがに友達にはなれねえよ。

 でもだ、約束は守るのが筋ではある。ガキンチョはどうすればいいと思う?

 

 対等になるためには。

 男から出された質問に、イシュはとても単純に答えた。

 

 ――おじちゃんが王様になる?

 

 それを聞いた瞬間、男は『ぶはっ』と噴出した。口を押さえていたせいで鼻水でも飛び出たのか、ズズとだらしなく鼻を啜った。

 

 ――いや、さすがにオレが国の王さまになるのは無理だろ。あーどうっすか……じゃあわかった。なら代わりにオレは違う王様になってやるってのはどうだ?

 裏の王さまだ。普通の王さまが太陽ならオレは月ってところだな。

 簡単に言えば悪い悪い王さまってやつだ。長い間は会うこともできねーが、ガキンチョが跡目をついだ暁には、オレが裏で街の平和を守ってやるよ。

 ガキンチョがオレのために国を良くする。オレがガキンチョのために悪い奴らを手下に従える。

 ほら、対等だ。これなら友達になれるだろ?

 

 こくりとイシュが顎を引いたのを見て、男は満足そうに先を続けた。

 

 ――ガキンチョが王さまになったらいやと言ってもオレが会いにくる。まあ楽しみにしていろよ? 子供と交わした約束は絶対に守ってやるもんさ。

 ほら、俯くな、顔を上げろ。王さまってのは太陽だっていっただろ? 目指すんだったら上を見ろ。わかるだろ、お日さまってのはな、地面に転がっちゃいねーんだよ。

 

 それだけ言うと、男は窓から飛び出して、まるで夢か幻かのように静かに静かに消えていったのだった――。

 

 

 

「懐かしい……懐かしいな」

 

 思い出に浸る思考を引き上げて、イシュは陰鬱さの感じられない苦笑を漏らす。

 妙な男だった。なんで泥棒なんてやっているのか不思議なほどに、可笑しくて奇天烈な男だった。

 

 でも、あの出会いがあったからこそ自分から王になろうと心に決められた。嫌だった勉強もして、街の子供に嫉妬することだってしなくなった。

 最初は、ずいぶんと自分勝手な思いから王を目指したものだ。友達を作るために王になるなんて、自分の知り合いに教えたらなんと言われるだろうか。

 

 きっとシズルは『危険なことをっ』などと怒るに違いない。父上は呆れて物も言えなくなりそうだ。弟は『亜人と友になるなどと』なんて言うだろう。

 

 少しだけ笑いが零れる。自分でも馬鹿な動機だと思っている。

 でも、確かに切っ掛けはそれだし、いまでもその約束を待っている部分はあったが、王になりたいと願う気持ちの方向性は、あのときとはずいぶんと違っている。

 街で暮す人々。ときおり見に行く彼らの笑顔。

 聞える活気は心地よく、知れば知るほど自分の手で守りたくなる。

 

 いまはもう、約束なんてなかったとしても王になりたいと願っている。

 後一歩だった。もう少しで約束を果たせたのに、なんとも間が悪いものだと思う。

 

 あれから、彼はいったいどうしているのか。まだ一度も会ってはいないし、言葉を交わしてすらもいない。

 いや、無事に抜け出したことは知っているし、所在だって実は分かっている。

 ただ、自ら会いに行くことや、調べることはしなかった。

 

 また、会いにくる。

 男がそう言ったのだから、自分から尋ねていくのは約束を破ってしまう気がして躊躇われた。

 

 たった一度の出会い。たった少しの関係性。

 普通ならば約束を律儀に守っているとは思わないし、考えない。

 でも、大泥棒――というわりにはずいぶんと優しかった気がするし、きっと覚えていてくれている気がした。

 

 牢に捕まってから、彼の話は耳に入っていない。

 ――無事でいてくれるといいのだが。

 城の警備を突破して、結局無事に出て行ったのだから腕は確かなのだろう。そう易々と死ぬような男とも思えなかったが、少しだけ不安だった。


「約束、あまり守れていなかったなぁ」

 

 男の姿を思い起こし、イシュは自分を戒めるように呟いた。

 王様にも未だなれていない。仲直りして守ってやるはずの弟も死なせてしまった。

 これじゃあ彼が無事でも会う資格なんてないだろう。というよりも、恥かしくてあわせる顔がなかった。

 

 ――いや……まだ私は生きている。諦めては駄目だな。


 弟との思い出と、友人予定である彼のことを考えて、イシュは消えそうだった力を取り戻す。

 今できることは、諦めないことだけだ。

 せめて弟の身体くらいは取り返してやりたい。悪評が広がりきる前にどうにかしてやりたい。

 それに、ちゃんと王になって彼との約束を叶えなければ。

 

 太陽は地面に転がっちゃいない。俯いて死んではなにもならない。

 

 まだ、己の命は燃えている。このていどで死んでなど堪るものか。

 愛すべき民衆と、愛すべき人々を導き、立派な王になるまでは――。

 

 日は、いつだって沈んでもまた昇る。

 暗い暗い牢獄のカビと陰気に塗れながらも、未だイシュの灯火は消えることはなかった。

 太陽が燃え続けているように、

 決して、決して、決して……。

 

 

 



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