氾濫の流れはどこへと運ばれる
その日、シルクリークは悪天候にみまわれていた。
滝のように降りしきる豪雨。太陽を覆い隠す雷雲。雷光はいくども瞬き、雷鳴は人々の恐怖を煽るように鳴っている。吹き荒ぶ風も、まるでタイタニアスの息吹きのように強く荒かった。
ここまでの悪天候は、シルクリークでは比較的に珍しいことだった。
もっとも、そんなもの珍しさを堪能する余裕は、ほとんどの者にはなかっただろう。
潜んでいた騒乱は這い出した。蛇のようにヒッソリと、ぞろりと牙を覗かせながら――
早朝。
シルクリークから北方にある少し大きめの街――その大通りの中を、ゴラッソは五千の兵士を引き連れ進んでいた。
ざぁざぁ、と石畳で雨が跳ね。
ザッザッ、と一定の間隔で兵士の足音が響ている。
溢れる音は多かった。しかし同時に、異常なほどに静かでもあった。
通りには、住民の姿が見えなかった。民家や店の鎧戸は落とされ、開店準備をしている気配すらもない。
――妙だな。いくら雨が降ってるからって、もう七時……さすがにこれはねーだろ?
兵士がいるから隠れているのか、そう考えればうなずける状況だったが、ゴラッソは妙な胸騒ぎを感じた。
静かに周囲を注視する。しかし、やはり見る限りでは誰もいない。それこそ、街の住民が全員消え去ってしまったかのようにだ。
――馬鹿馬鹿しい。誰もいないはずがねぇんだ……うざってぇこと考えるくらいなら、いっそのことどこかの民家に乗り込んで確かめてみるか。
幸いにも家ならいくらでもある。多少乱暴な手段だが、まだるっこしく悩むよりは明快で小気味良いように思えた。
だが、『名案だな』とゴラッソが止めていた足を踏み出そうとした直後。
ガつン
と、ナニかが撃ち出されるような音が響きわたった。
「――ッ――」
躊躇う余裕も、瞬きの暇すらもないような刹那の一瞬、ゴラッソは背負っていた武器を抜刀――下へと向いていた槌頭を手首の返しのみで半回転させた。
鍔鳴りのような金属音。火花が散って雨と混じり消え、カラリと飛来した物体が地面に落ちる。無意識に動く視線。ゴラッソの瞳にぎらつく鋭利な金属矢が一本映りこんだ。
――狙われた……。
首筋が炙られたようにちりつく。いまさらながらに肝が冷きった。本当に、危なかった。当たっていれば間違いなく死んでいたのだから。
恐怖がわずかに膨らむ。しかし冷えきった頭が温度を取り戻し始め、今度は逆に煮え立った。
ゆるせない――狙われる理由などいくらでもあるが、だからといって命を狙われて笑えるほど、ゴラッソは温厚ではない。
「誰だッ、こんなモンぶっ放しやがった奴は!」
竜が炎を吐くが如く怒りを吐露して、ゴラッソは攻撃の軌道を辿った。
視線が向かった先は、右後方にある民家の屋根上。見えたのは先ほどまでいなかったはずの、外套を着込んだ三十名ほどの集団だった。
外套たちは、各々に武器を手に持って黙ってこちらを見つめている。体格などから男女の区別こそつくが、素顔は布やフードで隠されて見えない。
ただ、その中でも――
集団の先頭で座るように腰を落とし、右手につけた装着型のボウガンを突き出すように構えた男。
その男の両脇にいる剣を持った女戦士と、杖を二本持った男の魔法使い。そして、すぐ後ろの、裾から猫科の尻尾を覗かせ、かっこつけようとしてクシャミしている亜人の女。
この四名は、妙にゴラッソの目についた。
――立ち位置からして、リーダー格はあのボウガンの男。オレを撃ったのもあの野郎かッ!
「不意打ちとは中々やってくれるな、おいッ!」
殺気をこめた怒声を放ちながら、ゴラッソは右手を軽く動かし『構えろ』と指示を出した。
無言で構えられた武器の矛先が針山のように並ぶ。が、ボウガンの男はとくに焦るでもなく、革手袋に包まれた人差し指を小馬鹿にするようにチッチと振った。
「まったく、不意打ちぐらいで怒鳴るたァ、ずいぶんとご機嫌な脳みそしてやがる。手前さん、もしかして三流の走破者か? いや、弾き落とした腕からして、脳みそだけが三流ってところか」
「なァッ――んだと!? 三下が吼えてんじゃねーぞ!」
明らかな挑発に一瞬で乗り、怒りのままに槌を地面に叩きつけた。石畳が砕け、音に反応した周囲の兵士が、足を撓ませ飛び出す体勢をとる。
張り詰める空気。いつ弾けてもおかしくない緊張感が溢れた。しかし、それでもボウガンの男は不敵な余裕を崩さない。
――どこまでも、気に喰わねぇ。
腸が煮えくり返るような怒気で、ゴラッソの双眸がけわしく歪む。視線だけで人が殺せるならば、きっと、いまごろ敵は全滅している。
イライラが、収まらない。元々短気な性分ではあるが、その沸点は明らかに普段より低下していた。
原因はわかっている。間違いなく、このあいだの一件が原因だ――。
そう、アレは少し前――資材集めにアチラコチラへと奔走している最中のことだった。
資材をたんと積み込んだ荷車を引き連れたゴラッソは、首元に蛇を巻いた黒尽くめに襲わ……露骨な嫌がらせを受けたのである。
本当にろくな目にあわなかった。それはもう、散々だった。
橋を渡れば、なんらかの仕掛けで橋を破壊されて浅川に叩き落され。
キャンプを張って休んでいれば、魔法の突風で自分の食事を砂だらけにされた。
他にもいっぱいあるが、ほとんどが子供じみた神経を逆撫でするようなものばかりであった。
もちろん、何度も待ち伏せて殺そうとした。でも、相手は兵数に警戒してか、常に安全圏から爆笑して転げまわるだけで、一度も近づいてこなかった。
もちろん、大量の兵を連れて追いかけもした。でも、あまりにも足が速すぎて取り囲むこともできず馬鹿にされただけだった。
一言で言えば、最悪だ。
ただ、いま考えるとそこまでは幸せだったとさえ思えてくる。
もっと不幸で、もっとも精神的にきたのは、やはり黒ずくめを取り逃がしたあと、憤死しそうになるのを抑えキャンプ地に帰ったときのことだろう。
キャンプ地は、兵士がいないせいで閑散としていた。いや違う。閑散としていたのは他のことが原因だった。
そう、ほとんど全てが消えていたからだ――武器も、薬も、テントも、荷車も、集めた資材が煙のようにすっかりと。
ああ、黒ずくめは囮か、ゴラッソはそう気が付いて、そして愕然とした。
『まあ、濡れた体はこれで拭いとけよ。風邪ひくぜっ』と言わんばかり残された一枚の布切れを見つけたときは、思わず混乱して『お、おう。ありがてぇ?』と呟いてしまった。思い出すと死にそうになる。
最終的に、
ゴラッソはほとんど手ぶらで帰還することとなった。期日が決められており、集めなおすことすらできなかったのである。
たぶん自分は殺されるかもしれない、そう思ったが、なぜか赤錆たちは『蛇を巻いた黒尽くめが』という話をすると『次はないぞ』と許してくれた。珍しいこともある。
ともかく、
最低で最悪の記憶なのは間違いない。きっとこの悔しさを忘れることなど一生できないだろう。事実、昨日の夜も恥かしさと悔しさで頭を抱えたのだから。
「――っぐ」
思い返したせいで、怒りが滾る。考えなければよかった。
八つ当たり気味に武器の柄を握りしめ、ゴラッソは歯の根を震わせながらもボウガンの男へと槌頭を向ける。
「ぐぐぐッ、お前らがあのクソ黒尽くめの仲間だってことはわかってんだッ。絶対に許さねー、覚悟しやがれよ。
兵隊共ッ! 上から二百、残りは下から向かえ、絶対にアイツらをふん捕まえろ! 抵抗するなら遠慮なくぶっ殺してもいいッ! むしろぶっ殺せ!」
迷わず口をつく殺伐とした命令。もうゴラッソの倫理観など、赤錆から刺された釘と黒ずくめからの嫌がらせで、チーズのように穴だらけだった。
指示の直後、タンっと石畳を蹴る音が響き兵士が駆け出していた。数秒かからず最前列の兵が民家の壁へと到着、後続の兵がその肩を足蹴に次々と屋根へと跳躍していく。
「――ハッ、気色ばんで兵隊がおいでなすった。そう簡単に殺られっかよ」
ボウガンの男が鼻を鳴らして言い放ち、転進。導かれるように集団も踵を返して街外へと逃亡を開始した。
「絶対に逃すなッ!」
怒号を上げてゴラッソも追う。
誘導されていることはなんとなく分かったが、外には待機させた二万の兵士がいる。広い場所で戦うほうが当然数で押しやすい。合流できるのならば好都合でもあった。
地を蹴り、水浸しの通りを疾走する。
揺れる体にあわせて金属装備が軋みをあげ、石畳に溜まった水が一足ごとに跳ねて飛沫を撒き散らした。
足場が悪い。靴底が滑る感覚がしたが、腐っても走破者だ。この程度で足を取られて間抜けは晒さない。
不意打ちにはしっかりと警戒し、ゴラッソは屋根上を飛ぶように駆ける外套たちの姿を伺う。
――例の奴はいねぇな、これなら大丈夫そうだ。
なんど見ても、ジャイナから『注意しろ』と言われた赤銅杖持ちの姿はない。警戒すべき相手は数名聞いておりボウガン使いもその中の一人だ。
しかし相手の体捌きから察するに、その実力は『一対一で真正面から戦うなら、自分が確実に勝てる』程度と思われた……見た限りでは、との言葉はつくが。
ただ、侮りや過剰な自信ではないつもりだ。これは経験に裏づけされた勘であり、ゴラッソにとって今までに自身を救ってきた頼るべきモノだった。
これを信じずになにを信じるというのか。
『弱いものには強く、強いものには弱い、それが自分だ』自覚しているからこそ、相手の強さを把握することは得意だと自負している。
外れたことは……そこまでない。最近ではドランという男の成長を見抜けなかったことくらいだろうか。
思えば、アレがケチの付き始めだった――
「……下らねー」
盛大に負けた記憶を思い出し、ゴラッソは苛立ちを追い出すように速度を上げる。
逃亡していく外套たちの姿を追いながら、ゴラッソは『しかしどうする』と珍しくも頭を働かせた。面倒なので考えたくもなかったが、ラッセルが一緒にいないのでは仕方がない。
追う自分と逃げる相手。
先行く外套たちの速度は兵士よりは早いが、身体強化の魔法を行使すれば自分ならば十分に追いつけそうだ。
この辺りで一人討っておけば相手もさすがに焦る。今後を考えればソレも悪くない気がした。
ただ、最短距離で追走しようとすると、自分も屋根へと上るべきだ。
――どうする。
もういちど自身に問いかけ四秒ほどの時間を割いたが、早々に『止めておこう』と結論を下した。
なんとなく上を走るのは嫌な感じがする。ただの勘でしかないが、大体いつも考えて出した結果よりは的確だった。
上は面倒だ……兵士に任せよう、ゴラッソがそう指針を決定した直後。
まるでソレを肯定するかのようなタイミングで、集団最後尾を走っていた外套が動いた。
「『アイス・パイカー』」
聞えたのは魔名の囁き。わずかに遅れて槍衾のごとき氷の棘が屋根上に出現する。それは屋根上を追走していると確実に踏んでしまう最悪な位置だった。
民家から民家へに飛んでいたファシオン三名が、空中で軌道を変えられずに無残に着地する。
肉を裂く嫌な音。伝い落ちるどす黒い血液の雫。氷杭に貫かれもがく不気味な装飾が、見事に屋根上へと飾られた。
「ふん、やっぱり下が正解か」
鼻で笑い視線を外す。ファシオン兵がいくら犠牲になろうと知ったことではない。
感情も、熱意も、怒りも、まるで生きていると感じさせぬ者たち相手に情など湧かせられるものか。
「――ん?」
大通りから横道へと逸れるように外套たちが進行方向を変えていく。
すぐに追いかけようかと思ったが、脳裏に『相手は指揮官を狙う節がある、前に出ないほうが良いさね』とのジャイナの言葉が浮かび、無意識のうちに速度が落とされていた。
ジャイナは言うことを聞かないと毎回後がうるさい。それはもうギャーギャー喚く。ゴラッソ的には面倒なので自然と避ける方を選んでいただけだった。
両脇を兵たちが追い抜き、躊躇いなく角を曲がり、少し遅れてゴラッソも入り込む。
が、
「――ッッ」
視界に映ったモノのせいで、そのまま走り抜けることは叶わず、全力で急制動をかけなければならなくなった。
石畳に転がっている複数の首無し死体。非常に確認し難いが、死体の上――首辺りの位置にヌラリと赤い液体を滴らせた線が張ってある。
――仕掛け、罠、恐らくは鋼糸、なんとしてでも止まらねーとッ!
全身が総毛立つ。心臓の鼓動が跳ね上がった。全力で両足に力を込めるが濡れた石畳はよく滑り、このままでは勢いを殺せないッ。
迫る首刈り糸――止められぬ勢い……
「ッッツ、舐め――んなよッ、コラッ」
咆哮を上げながら槌柄を縦に掲げ首を死守。止まりきれずに突っ込み糸を柄で受ける。
金属が擦れる嫌な悲鳴が手元からあがる。次いで、張られた鋼糸が体重と勢いを支えられず立てた断裂音が聞えた。
千切れた糸が跳ね、目深に被っていたフードの一部が切れる。チクリと痛む。いつの間にか、ゴラッソの頬には一線の赤い筋が浮かんでいた。
「やってッ……くれるじゃねーかッッ」
滴る己の血をグイと親指で拭う。ゴラッソの瞳は獰猛な怒りで揺れていた。
「兵士どもッ、武器を縦に構えて突っ込めや。首だッ、首だけ守ってりゃあんなもんただの糸切れと変わらねぇッ! つまらねー小細工なんぞ叩き斬っちまえ!」
シャリンと刃を並べる音が鳴る。直後、剣を縦に構え兵士が三列横並びで疾走し、足音と金属が擦れる音が連続した。
張り巡らされた首刈り糸が次々と切れる。ただ、全てが予想通りとはいかなかった。
先頭を駆ける兵士の膝から下が突然痛々しくも引き千切れる。続く兵士の腕や胴体も次々と裂かれている。
「……首だけじゃねーのか。面倒くせぇ」
吐き捨てて顔をしかめたゴラッソだったが、迷うことなく右手を前方へと振って後方に続く兵士に指示を放つ。
「こまけーことなんて知ったことか、突っ込め突っ込めッ。別の場所に張ってある糸は見つけしだい後ろが切ればいいッ!」
見えないのならばわざと掛かれば問題ない。それが高さと位置を知るのに一番手っ取り早い方法だ。
先を行く兵士が崩れ落ちるが、後に続く兵士が位置を見つけて糸を切る。進む者にも指示を出すゴラッソにも、微塵も躊躇は見当たらない。
強引に、乱暴にゴラッソは己の安全と進路を確保する。雨と血液が混じった水は蹴り飛ばし、転がる死体は踏み越えた。
――ファシオンなんていくらでも壁に使ってやる。正義だとか悪とか、そんな難しいことは知ったことか。
どうしても功績が必要なんだ。己のために、なによりも……どうしようもない仲間たちのために。
頭を空っぽにして前に、前に。
つまらぬことなど考えない。頬に張り付く血飛沫は拭わない。
戦士とは、汚れることこそ本分なのだから。
◆
ファシオンが消え失せた大通り横道から、周囲を伺いながらも人影が二つ現れる。
一人はシズルの部下でもある黒髪の女性。もう一人はこの街を治める町長とも呼べる壮年男性だった。
「どうにかこちらの思い通り、街外へと向かってくれたようですね……」
安堵するような溜息を一つ。濡れて張り付いた髪を少し鬱陶しそうに手で退かすと、女性はさらに言葉を重ねた。
「では、兵が外に出たのを確認しだい入り口の門を締め切ってください。罠や仕掛けの解除は絶対にお忘れなく」
「わかりました。おい皆、仕事だ仕事っ」
女性の言葉に返答し、壮年男性が手を叩いて周囲の民家へと声をかける。
あれだけ静かだった民家のドアが次々と開いた。中から人々が姿を現して、瞬く間のうちに通りには騒がしさと忙しなさが溢れ返っていく。
「補給物資は裏から外に運ぶだけでお願いします。皆さん、くれぐれも兵にだけは見つからないように気をつけて。表面上ではこの街は参加していないという態度を貫いてください」
その指示に従い、人々が次々と鋼糸を取り外して、矢弾や食料などの資材が入った木箱を運び始めた。
女性は雨の中を文句一つ零さず働く彼らに微笑みを向け、『目立たぬように』、ともう一度たしなめるように警告を飛ばす。
彼らが目立つのは望んでいない。一般市民が表だって動くのは避けたかった。
“街や村は協力していない”。
たとえすぐに予測が付くバレバレの嘘であっても、そのスタンスを貫くことが重要だったのだ。
逆らう者や邪魔をする者をファシオンは容赦なく殺す、ソレは間違いないが、同時に今まで疑わしいだけの住民たちを皆殺しにするようなことはなかった。
優しさや人間らしさがあったのか? 違う、きっと全ては戦争のためだ。
ファシオンが狙う戦争相手は位置関係からしても、魔法と刻印の先進国でもあるホーリンデル。いくらなんでもゴリ押しで勝てる相手ではない。
戦争に勝つには、炸裂樽、武器、矢弾、その他諸々――そういった物資がファシオンといえども不可欠だ。
だからこそ、資材を生む国民を迂闊には殺せない。
ようは飼い殺しだ。ファシオンは単純に効率の良い方法を選択しているだけ。もしかしたら、本当に市民を徴兵するつもりだってあるのかもしれない。
その時は、きっと死んでも構わぬような運用方法で使われることだろう。
胸糞の悪くなるような理由だが、この状況なら逆手に取れた。しょせん相手の出方次第では軽く吹き飛ぶ手立て……しかし、何もしないよりは住民の危険は取り除ける。
戦闘を行えない者たちの安全確保は、シズルたちにとっては譲れぬラインでもあったのだ。
「……ん、どうやら外に着いたようですね」
戦闘音と雄叫びが雨音に混じって街の外から届く。女性は呟きながらも視線をそちらに向けた。
噴煙が薄くあがっている。ゲントたちが外の部隊と合流し戦闘を開始した証だ。
相手はファシオン二万五千で、対するこちらは千届くかどうか。戦闘とはいっても、逃げながら距離を保ち敵の目を派手に引き付け続けるだけだ。
情けない気もするが、この状況であれば有効的な戦い方だろう。
集めた荷車と足の数は十分、数の少なさと広々とした立地は不利には働かず、身動きが軽い分優位になることすら考えられる。容易くは捕まらない。
「私も早く合流しなければいけませんね」
いまごろ、ここから東に位置する街付近でも分かれた部隊がファシオン兵を襲っているはず。あちらには岩爺とシルがいる。ある意味ではこちらよりも強力な布陣だ。
ただ、だからといって安全というわけでは決してない。不安はいつだってある。
「全員ご無事で……」
外のゲントたち……分かれた部隊と他の場所で動いている皆々。その全員の安否を願うように呟いて、黒髪女性は人々の姿へと視線を戻した。
風が強い。豪雨も続いているが人々の動きは機敏だった。意思の篭った眼差しと、気合の入った掛け声が雷鳴に負けないように響いている。
戦力としては数えられないが、その姿は十二分に頼もしい。
冷たい気温と雨は確かに人々の体を冷やすだろう。
だがしかし、
どうやら人々の熱意までもを冷やすことなど、できないらしい。
◆
北の街に負けぬほどに、リドルの斡旋所前も喧騒で溢れ返っていた。
雨の下で声が飛び交い、一抱えもある木箱を両手に走破者たちが右往左往と動き回っては、いまにも出立しそうな荷車へと次々と資材を載せている。
「オラオラ、運べは運べッ! モタモタしてっと北側の資材が尽きちまうぞッ! おいこら、そこの手前ッ! そいつはもうちっと丁寧に運べっつってんだろうが!」
そんな騒がしさの中でも、ひときわ目立つ声がひとつ。街の警備隊長でもあるスキンヘッドの男――つまりハゲた男の怒声である。
今も、男は近くの走破者の尻を蹴らんばかりに怒鳴りつけ、絶えず発破をかけている。言われた走破者たちは慣れているのか、特に反論するわけでもなく『ほいさー』などと返して従っていた。
馬が嘶き、積載の終わった荷車が次々と走り出す。この運ばれる資材の行く先は、北側二箇所で暴れているゲントたちのもとだった。
身体強化の魔法と上質な馬がおかげで、きっと荷物は日が暮れる前には辿り着くだろう。
走り行く積荷を眺めていたハゲた男は、思わず己にできる事柄の小ささに苦笑し、
――オレたちまで町から離れるわけにはいかんし、今はできるのはこれくらいのものか。と呟いた。
蟲の襲撃を受けてから、まだたった数ヶ月。
常識的に考えれば傷を癒すことに精一杯で、リドルには補給を請け負う余裕などなかったはず。
しかし、
周囲の町や村からの支援。まるまる残されたメイの報酬。新たに落とされたゲントたちからの資金などにより、こと金銭面での不安は解消されていたのだ。
ファシオンが資材を奪いにこなかったことや、クレスタリアに向かおうとしていた商人たちがこぞってリドルに戻ってきたことも、町に余裕が生まれた要因のひとつである。
「ファシオンがなんぼのもんじゃーー!」
「いまさらビビッテられるか、こっちは前にも襲われてんだ馬鹿野郎が!」
いや、獄の蟲と兵士の襲撃を経験し、異様に強かに育ってしまった町民の度胸こそが、もっとも大きな原因なのかもしれない。
「さあ、金と借りはしっかり返さにゃならねぇ! オレたちがキツイときに助けてくれたもんを返す気持ちで荷物を運べッ。蟲を追い払い、兵士を追い返した怒りを思い出しながら動くんだッ! いいか、オレたちはリドルの警備が仕事だが、これもその中に入ることを忘れんな。国が潰れりゃここも潰れ、回り回って自分たちに返ってくる。余裕ぶっこいて手を抜きやがったら、蹴り飛ばしてやっから覚悟しとけよ!!」
応ッ! と男の怒声を咆声が押し返す。言われるまでもなく、周囲には顔を俯かせている者などいない。
――こともなかった。
「あいつはよぉ……」
手こそ抜いてはいないが、なぜか肩を落として荷物を運んでいる者がひとりいた。
少し重めの鎧を着こんだ男。妙にトボトボ歩いている彼は、蟲毒を走破した前衛職の戦士だった。
荷物を運ぶ男の動作は無駄に機敏だが、明らかに表情や動きが不貞腐れている。それを見て、ハゲた男は『なにやってんだ』と呆れながらも声をかけた。
「まーだしけたツラしてんのか手前は。別にいいじゃねーか、今回は危険な場所にいかねーで済んだとでも思って喜んどけよ」
「――ッツ!?」
慰めるようなその言葉に、戦士は俯かせていた顔を勢いよく上げた。口は真一文字結ばれ、鼻頭にはシワがよっている。どこから見ても不満気な表情そのものだ。
「危険とかどうでも良いんですって! アソコよりも危ない場所なんて滅多にないじゃないですかッ。それよりもっ、それーよーりーも! オレにとって大事なことがあるんですッ!」
唐突に凛々しく表情を引き締め戦士は叫んだ。拳を握り『危険なんてどうでも良い』と言い切って、闘志っぽい何かを全身からモヤモヤさせている。
そして、
戦士は『大事なことが、譲れないものが!』と悔しさを存分に滲ませると、
「……ちくしょうッ! 完全に出番に乗り遅れたっ!」
『うわーー』と悔しそうに声を上げ、膝を付いて嘆いたのだった。
片拳が地面を打ち、石畳に少しのヒビが走る。
『どれだけ力込めてんだこの馬鹿』というハゲた男の眼差しを浴びながらも、まだ憤りが収まらないのか、立ち上がって文句を吐き出し始めた。
「くそ、依頼受けて帰ってきたらなんか大事になってるし、いつの間にか皆いないし。オレだって……オレだって……なんか格好良く金貨をばら撒きたかったのにッッ!」
心からの叫び。おぅふ……と溜息を吐き、男は両手で顔を覆う。手に持っていた荷物は、妙に冷静な仕草で荷車へと載せている。
『もう放っておいていいんじゃねーか』とハゲた男は思った。だが構って欲しそうな雰囲気が露骨に出ているため、慰める対応を選択せざるを得ない。
いちおう、彼もこの町の恩人の一人……余り無碍にもできないのだ。
「まあ、アレだ。今回はこっちで頑張って、次はどっかで活躍するといいじゃねーか、なあ?」
ポンポンと戦士の肩を叩き、慰める。すると彼は、ニヒルに口角を歪めフッと鼻で笑った。
「次っていつきますかね?」
「次……は、お前、次だよ」
んなもん知るかよ、という気持ちが伝わったのかはわからないが、やはり戦士は納得がいかなかったのか小さくかぶりを振った。
悲しそうに戦士が東北へと視線を向ける。まるで儚いものでも眺めているような、妙にイラっとくる遠い眼差だった。
「オレの……相方っていうわけじゃないけど、一緒に潜って戦った奴がいるんです。知ってるでしょ? 実はそいつがね、大分前に『なんかもう、だいたいのことは怖くなくなったし、自分でも騎士とかなれる気がしたからいちど故郷に戻るわ』って言ってグランウッドに行っちゃったんです……」
「お、おう。それがどうした。いいことじゃねーか」
故郷を守る為に騎士に――いかにもいい理由ではないか。だがハゲた男がそう返した途端、戦士の目の色が変わった。まるで明日世界が終わるかのような、深い絶望の表情を貼り付けて。
「全然ッ、良くないでしょッ! いいですか? アイツのことだから、もし騎士になったら『なあ、自分騎士になっちゃったわー。え、ところでお前いまなにしてんの?』って手紙送ってくるに決まってるでしょッ! どうすんの、その時オレはなんて返事すれば良いの。どうせなら、『あ、そういえば、シルクリークのアレ知ってる? 実はオレ、アレに関わってたんだけどね』って返したいでしょ?」
「――知るかッ! もうさっさと働けボケがッ!」
さすがに堪忍袋の尾が爆散し、男がハゲに血管を浮かせて怒鳴る。
と、戦士は『ぅわぁぁ、隊長ぉ……オレも伝説に混ぜてぇ』と力の抜ける声を漏らして『いやいや』と駄々をこねた。
――どうしようもねーなこいつ。
この劣勢で微塵も負けを考えていない辺りは褒めても良いが、真面目に相手をしていると気力が根こそぎ奪われる気がした。
もう一度『働けッ』と怒鳴ると、戦士はようやくヨロヨロとした足取りで歩き出し、荷物を運び始める。それでもまだ、なんかグズグズと言っているが。
――こ、こいつ。
思い切り背中を蹴り飛ばしてやりたかったが、なんだかんだで他の走破者よりもしっかりと働いているせいで、それもできない。
……なんて面倒臭い奴だ。
お調子者というか、こうなってくるとゲントか岩爺、もしくは未だに隊長と呼ぶメイの言うことくらいしか真面目に聞きはしないだろう。
「坊主、いやもうゲントでいい。頼むからもうこいつ引き取ってくれよぉ……」
遠くへと向けた男の呟きは、とくに誰に届くわけでもなく喧騒に紛れて消えていく。
リドルの街はかくも忙しく騒がしい。
おそらくは、シルクリーク領内にあるどこの町や村よりも、陰鬱さからかけ離れていた。
◆
シルクリーク城門前では、少し以前を思いださせる騒ぎが繰り広げられていた。
渦巻く爆音と噴煙。轟音と爆発音が鳴り続ける。
都市外には、陣取った千二百ほどの反抗勢力の姿。彼らの周囲には改造された荷車がズラリと並び、縁に備え付けられている金属筒の先が、硬く閉ざされた金属門と、高く阻んだ砂色の防壁に向けられていた。
「魔力込めッ、筒入れ、射手用意――」
シズルの号令――樽の導火印に微細な魔力が流され筒に込められる。
「――放てッ!」
振り下ろされた銀剣と同時に、風の下位魔法の魔名が響きわたった。
風が破裂する悲鳴が戦慄く。逃げ場のない筒内に発生した暴風が恐ろしい勢いで樽を射出する。
火気にだけ反応する炸裂樽はなだらかな放物線を描きながらも空へ。その飛距離は投擲などよりも格段に長い。
防壁の間近、何もない中空、はたまた地面に落ちて砂を巻き上げながらも連爆が起こる。
空気は震え、燐炎が瞬き、すぐさま雨と混じって蒸気を生んだ。
「ふむ……」
満足そうにシズルがうなずく。樽の威力は中位にこそ及ばないが、下位以上は確実だ。使用した魔力の量を考えると十分元は取れている。
とはいえだ、
あの威力でさえも、砂壁の防壁には焦げ跡だけで傷一つ付けられてはいなかった。
「さすが我が国の防壁というべきか、素晴らしい頑強さだな。……だいたい穴を開けられるほうがオカシイ、けしからんのだ」
ほんの少しだけまなじりを下げ、シズルは穴を開けた誰某に向けて小言を呟く。
隣で筒に新たな炸裂樽を込めていた部下も苦笑を漏らすだけで、焦った様子もなく城壁の上へと視線をやっている。
「まあまあ隊長、終わったらちゃんと塞げばいいではないですか。っと、それはいいとして、このまましばらくは撃ち続けますか? それとも少し待ちましょうか?」
「そうだな……相手の反応がどうにも鈍い。ここはもう少し撃ちながら様子見だ。ただ、いくら相手が出てこないとはいえ気を抜くなよ。弓持ちの赤錆がくればこの距離でも安全圏ではないのだからな――よし、次弾装填、放て!」
荷車に積んだ山のような炸裂小樽がシズルの声に従い再装填。よどみない動きでもう一度放たれる。
結果は先ほどと同じで、防壁は傷つかずに終わる。
――こんなものだろう。
シズルとしてはこの結果に不満はなかった。元々派手に暴れて注意を引くことが目的なのだから、下手に壊れられても困るというものだ。
――しかし静かすぎるな。
眉をひそめて城壁上を伺う。ファシオン兵の姿がチラホラとある。武器は持っているようだが、とくに攻撃を返してくる気配はなかった。
「もう少し動きがあってもいいのだが……」
これだけ騒いでいるのだから、気が付かないというわけがない。何か企んでいるのか、とシズルが少し困惑していると、少し経ってようやく相手側に動きが起こった。
「……ん?」
唐突に鳴る低い軋み。それに伴いまるで招き入れるかのように都市門が開いていく。
――兵士がでるか?
警戒して身構えたが、実際はその逆――開いてみれば門の先は無人だった。
「ああ、そうくるか。確かに、思ったよりも慎重だな」
相手の意図の汲み取り、シズルは感心するように呟きを漏らした。
たぶん、これは陽動と気が付いている相手が、ソレを確定させたかったための行動だろう。この分だと、動かず放置しているのは資材を消費させるのが目的だとも考えられる。
自分は資材を減らさず高みの見物を決め込む。攻めてくるようならば数で潰す。コチラの資材が切れても同じか。
――手堅い手段ではあるが、あまり舐めないで貰いたい。
普通に考えれば苛立たしいほどに悪い状況ではあるが、今は別だ。
「ふん、動こうが動くまいが、こちらには関係のない話だ。総員気にせず撃て! 都市内に入らないように方向だけは気をつけろよ!」
特に気にすることもなく、攻撃が再開される。
わざわざ門を開放して確かめた……それはつまり、あるていど狙い通りに相手の思考が流れている証拠だった。
兵をつり出そうとしている――相手の脳裏にはこの考えがしつこくへばりついている。
ソレさえやらなければほぼ勝ち戦なのだから当然ではある。
そうやって大人しくしてくれるのは願ってもない話。少しでも時間を稼げるのはありがたい。
各地で暴れて誤魔化しているとはいえ、気が付かれてしまうことも十分ありえることだ。
むしろソコが本当に大事な場所であるならば、『もしや、そちらが目的では』と浮かんでくる。そうなってくると少々面倒だ。援軍でも出されてはこちらとしては堪らない。
だからこその襲撃でもある。この戦闘行為の本来の目的はソレを防ぐためなのだ。
仮に三級区域が目的だと相手が気が付いたところで、わざとらしく都市を攻められ、各地からファシオンが襲われているといった報告が届いたら? 間違いなく迂闊には動けない。
ついこの前に行った強襲だって、縛りつける糸の一本にすぎない。明らかに戦闘が不慣れな一般市民を交えての一戦。アレはわざとバレるようにしていた。
そう、『いかにも見せ掛けだけの数だと悟らせたかったように』だ。
この現在の状況をつり出しだと仮定し、相手が馬鹿ではなく、裏を読んでくる頭があるとすれば、『あのわざとらしさは、本当に多い数を隠すためか』と多少なりとも考えるはずだ。
違うかもしれない。でも本当かもしれない。
裏を考えれば考えるほど、全てが怪しく見えて深みにハマる。こんがらがった糸は上手く解かねば悪化する…………らしい。
「……はぁ」
ニヤニヤと笑いながらもこの話を語っていたメイとサバラを思い出してしまう。シズルは妙な頭痛に襲われ深く溜息を吐いた。
凄く嫌だ。自分が相手だったら絶対にグルグル巻きになる自信があった。
半分の兵はすでに外。各地では氾濫。さらには都市の外からわざとらしくも攻撃を受けている。
怪しい一般市民はこぞって白をきって、迂闊に手を出せない。
仮に市民に襲いかかっても、すでに『ファシオンがどうでるかわからないから、注意してくれ』との報せだけは回してあるので、即座に逃亡されてしまうだろう。
その状況で、重要な拠点に援軍を出すべきか、それとも自身がいる都市を守るべきなのかの判断を下す。
考えただけでもウンザリした。
曰く、『完全に騙すんじゃなくて、表面上選択権を残して、自分で判断を下せるようにするのがポイントなんですよっ』、だとか。
相手がどう動くか結果は誰にも予測はできない。ただ、少なくとも時間稼ぎとしては十分通用するのではないだろうか。
不意に、
『んーどっちかなー、どっちが正解だろうなー』と言いながら、首下で砂蛇を揺らして挑発してくる彼の姿を想像してしまい、一瞬だけ剣を叩き折りたい衝動に駆られた。
どうにも『相手側に自分がいたら』と考えすぎていたらしい。
「敵も味方も……できるだけ選んだほうがいいのだろうなぁ、良くも悪くも」
「……? なにがです?」
「なんでもない。気にしないでくれ」
部下の言葉を手を振って遮る。この部下はまだ若い。あんがい簡単に理解して自分の頭の硬さが浮き彫りにされてしまう気がした。いや、若さは関係ない。まだ自分も十分若いのだ。
――阿呆か私は。
最近どうにも緩んでいる気がする。下らぬ方向に思考が行きかけた思考を即座に戻す。
状況を見る限り、今のところは上手くいっている。警戒すべきは弓の赤錆だが、姿は未だにない。仮に兵士が出てきも迷わず逃げる予定だった。
自分たちがやることすでに決まっている。攻撃を続けて敵が出たら撤退し、ほとぼりが冷めたらまた攻撃を再開するだけ。
嫌がらせのように、しつこく。何度も、何度も……何度も。
――すまんな。うるさいだろうが、今は我慢してくれ。
安眠妨害され、間違いなくストレスフルな生活を強いられているであろう人々に、思わず心からの謝罪を送る。
……ただし、『どんどん撃てッ』と指示を出しながらではあったが。
◆
「だーーー、せっかく辺境でゆっくりしてたってのにまたこれかい!? いい加減におしよアイツらッ」
岩溢れる三級区域の東出入り口付近で、ジャイナがわめいていた。
背後に六千ほどの兵を控えさせ、前方を射殺さんばかりに睨んでいるその姿は、若干ヒステリックな様子である。
「ぅぅ、最初だけは良かったのに……」
二級区域の警護。本当に出始めだけは絶好調だった。
ゴラッソから聞いてここまで来たのが少し前、最初は戦々恐々としていたジャイナだったが、ついてみればどうだ、化け物はどこにもいなかった。それどころか、依頼を引き払っているので人すらこない。なんとも予想外なことに、ここは――薄気味悪い兵士を我慢すれば――静かで素晴らしく快適な場所だったのだ。
失敗する可能性なんて微塵も見当たらないし、現実味のない化け物はいない。
正しく夢のような場所、だったのに……
「ぎぎ、もうアタイは知らないよ。いつまでも大人しくしてると思ったら大間違いさねッ!」
かなり前方に見えるのは、は望んでもいない敵影。何も起こらないと思っていればこれだ!
堪らず踏まれた地団駄に泥が跳ねる。ローブの裾が汚れたがソレを気にしている余裕はない。
視界の中には砂と土が入り混じった大地が広がっている。なだらかではなく、起伏がかなりある地形だ。
砂土山がいくつもあった。一軒家ていどの高さのモノもあれば、その倍以上の高さのモノもある。
見た目はもう少し遠方にある砂丘に近いが、砂が少ないため土質はかなり異なっている。
いや、違う。そんなことはジャイナにとってどうでもいいことだ。
一番の問題は、彼女の苛立ちの原因が、六百メートルほど先にのさばっていることだ。
「なんだってんだいアイツらは……行く先々で現れてくれちゃってさ」
歯噛みしながらも、持っていた円筒状の望遠鏡を覗く。雨でグチャグチャになった地面の上には、昨日までなかった奇妙なモノが建っていた。
高さ四~五メートルほどの岩の防壁が、囲いのようにズラリと並んだ建物。その後方、中央には伸びた円柱状の見張り台らしき物体もあった。
妙な筒が設置された防壁は通路にでもなっているのか、蟻のように忙しなく動く亜人や走破者の姿が見える。
数は多く見積もっても千ほど。
岩でできた奇妙な囲いはデコボコで、丁寧に作ってあるとは言い難い。
千人収容できるだけ大したもの……とは言えるのだが、どう見てもギュウギュウ詰めにしているだけなので、大きさも立派だとは思えなかった。
かなりオマケをして、あえて言葉で例えるとすれば、
「超即席の……小型砦のつもりかい」
言ってはみたものの、ただ岩壁で囲っただけのアレを一緒にするのは、なんとなく砦に失礼な気がした。
よくこの速度で作ったと感心はするが、アノ人数がいるならば不可能でもない。
作り方も大体の予想がつく。
アース・メイクで形を作り、チェンジ・ロックで強度を向上させて一気に建てたのだろう。
ロックウォールなどとは違い、メイクとチェンジの魔法は――腐敗や破砕、風化はあれど――時間経過で形や効果が消えることがない。
それを利用した建築は――強度の問題から現在では廃れてしまっているが――古くから使われていた技術のひとつだった。
――あんなモンで本当にこの数の差をどうにかできると思ってんのかい? アイツらってもしかして本当はかなり馬鹿なんじゃ。
攻城戦では攻める側が三倍の戦力を必要とするとは訊くが、今の戦力差は大よそ六倍。しかも城の完璧な防壁ではなく、アレは所詮ただの囲い。
なにか対抗策でもあるのか。
いちおう警戒はしてみたが、敵は待ち受けるつもりなようで出てくる様子はなかった。『放っておけば良いのでは』、という気持ちもわずかに湧いたが、さすが目を離すのも怖い。
早めに潰しておくほうが安心はできる。しいて問題点を上げるならば、『報告をするべきか……しないべきか』といったくらいだ。
『守りきった』、『報告を上げるまでもなく、自分だけで潰しました。えへへ』――そう伝えた方が赤錆の性格からして点数を稼ぐには良い。
下手に援軍を送られて赤錆がきたらそれすらも掻っ攫われてしまう。
とはいえ、敗走して事後報告なんてことになれば、それこそもう終わりではあるが。
非常に難しい……この前のこともある。余り相手を舐める気にはなれなかった。
だが、
六倍の戦力差に加え、さらに区域の奥から援軍を呼べる、らしい。呼ぶためには兵士の数を減らさなければならない、といった訳の分からない条件があったが、それでも十分だ。
大丈夫――小分けにして兵士を繰り出し、減ったそばから援軍を呼ぶ……これだけで勝てる。
呼べる量にも限度があるとは聞いたものの、相手の数は少ない。そこまで削られる心配はいらないだろう。
――さすがにやるしかないよ。
覚悟と決心を固めて、もういちど前方にいる反抗勢力の姿を確認した。
『オラッ、びびってんのか、かかって来いよ!!』
『ははッ、指揮官が臆病者じゃあその数も飾りもんだなッ!』
『ばーか、ばーか、えっと……オバサンッ』
『お肌の白さがなくなってしまっては終わりデスっ。砂色と同じデスっ』
『うおおお、若さが足りないッ!』
――アイツら、ぶっ殺してやる……特に口がオバサンと動いた気がする亜人は絶対に殺す。
距離が遠くて実際に声が聞えたわけではないが、騒いではコチラを挑発する仕草から、馬鹿にされていることだけは確実だった。
ひとまず報告は後回しだ。状況が悪くなったら援軍を呼んで防衛、そのあいだに兵を走らせよう。
「数は三千、前にでなッ。その内の千は矢構え中列。残りは不測の事態に備えて待機、なによりもアタイの安全を守ることを重視するんだよッ」
三倍の戦力で落とせるなら三千で十分だ。駄目なら追加していくのみ。
張り上げた声に反応し、武器の刃先を一斉に揃え歩兵が雨の中を駆け出す。ソレに少し遅れ、背負っていた弓を手に取った兵士千人が、早足ほどの速度で前進していった。
「油断はしない。もう躊躇わないよ。すまないねぇ……アタイたちのために死んでおくれ」
握った拳はこの間のように震えてはいない。ジャイナは安全な三千の兵檻の中、前を見据えて粘つく唾を嚥下した。
前方から押し迫る砂色の敵群を、防壁の縁に片足を掛けながらもサバラが待ち受ける。
相手は半分を押し出してきた。おおむね予想通りの対応だ。
この指揮官は自身を守ることを優先する……との北側から届いた情報はどうやら間違いなかったらしい。
一斉にこられたらかなりマズかったが、この数であれば耐えられる。
「いいかお前ら、ようやく敵さんがおいでなすった、準備はいいなッ!」
獲物の前で爪を研ぐようにサバラは両手の鉤爪を擦りあわせ、咆声を放つ。
木霊で返るは怒声。鳴り響いたのは武器が抜き放たれる音々。
雨の中を掛けてくる敵影は不気味にうごめき、雷光を反射する武器の刃は恐怖を煽る。
――怖くない。まったく全然怖くない。
サバラは己に言い聞かせ、表情に自信の仮面を貼り付けた。
張り詰めた緊張はすでに限界に達している。攻め込んでくる敵の脅威は盛大だった。
きっと皆気持ちは同じだ。腹の底に渦巻く恐怖は等しいだろう。
「まさかビビッテ漏らしてる奴らはいねーだろうなッ!」
されど、サバラの声に彼らは怯えず遠吼えを返してくる。
「兄さんたちがいないからって、簡単に負けましたなんて許さねーぞ!」
されど彼らは気迫を放ってみせた。
局地戦。脱出戦。潜り抜けた修羅場は多い。ここまで準備を進めた状態で、たかが三千程度には負けられない。
これは逃げるための戦いではなく、勝利を掴むための戦いだ。怯えてどうする。ここで必死にならないでどうする。
「さて、兄さんたちばっかりじゃなく、オイラたちの力も見せてやらないとな」
「そうデスね。僕は最初から砂色に負ける気などないデスけど」
迫り来る兵士を見つめながらサバラが言い、隣に立っていたハイクが素直にうなずく。
ハイクの表情は真剣で、戦斧を握る姿は頼もしさすら覚える。
珍しい、とサバラは思わず眼を見開いた。普段は妙なことをのたまって興奮するだけの彼が、真面目に返すとは思いもよらなかった。
「なんか、ハイクも真面目な時があるんだなぁ」
「ヤ、失礼なことを言いマスね。僕は何時だって真剣デスよ。ただ、砂色は斑君や黒い君に迷惑かけるので、特に好ましくない」
ピクンッ、とサバラの耳が立つ。『信じられない』、と口は半開きに開けられた。
「――ッツ!? うおお、ハイクって案外良い奴だな。いや、オイラずっと前から信じてたぜっ」
まさかハイクからそんな言葉を聞けるとは……妙に嬉しくなったサバラは、彼の足をバシバシと叩いて喜びを表した。
が、ハイクの大きな手ですぐに頭を遠くへと押し返されてしまう。
――何をする、とハイクを見ると、彼の耳はいかにも面倒臭そうにヒコヒコ動いていた。
「斑君が困るとご飯がなくなります。黒い君が困ると、すぅんばらしい色々が貰えなくなって大変デス。あと、濡れてベチャベチャしてるので、ちょっと近づかないでくだサイ。ちべたいデス」
「お、おまッ!? ったく、濡れてんのはどっちも一緒じゃんか……まあ、ハイクだしそんなもんだよね。期待したオイラが馬鹿だった。いや、この際なんでもいいさ。戦闘で頼りにしてるよ」
「ふむ、そろそろ僕が白黒つけてやらないとなりまセン。物事は明確に美しくッ!」
がくりと首を落としたサバラの言葉に、ハイクは無駄に気合の入った面持ちで武器を振り上げて返す。
しまらないなぁ。
そう呟きながら、サバラは距離を詰めてきている敵影を確認した。
距離はすでに二百メートル近く。そろそろ対応せねば間に合わなくなるころか。
――まだちょっと遠い……ここは少し待って。
「――よし、良いぞッ、まずは挨拶代わりだ盛大にぶっ放せ!」
距離を測ったサバラの指示に、魔名の返答が続く。
射出音。樽が飛来し、少し遅れて爆音。
狙い通りファシオンの最前列に次々と着弾し、並列するように土砂柱を幾つも立ち上げる。
爆風と衝撃で、突っ込んできた最前列の兵が肉片と血雨が降った。だがやはり相手はファシオン。ダメージすらお構いなしで、蒸気と豪雨を掻き分け突撃してくる。
「そのまま近づける前に数を減らせッ!」
躊躇うことなくもう一射。指示が樽が飛び交う。
そのあいだにも亜人たちが動く。防壁内側で下方に溜め置かれた樽をつかんでは上へと投げ渡し、樽の補給を行っていた。
ヒョイヒョイと投げ渡される炸裂樽。衝撃では爆発しないと分かっていても、わずかに肝が冷える光景だった。
「頭ぁッ、きやしたぜ!」
一人の部下が前方を指差し警告を飛ばす。促され視線を向ければ、七十メートルほどにまで距離を詰めている兵士の姿が見える。
砂土柱をすり抜けるように兵士たちが駆けてくる。
やはりしつこいが、効果がないわけではない。整然と並んでいた兵士はすでに疎ら、その数も一割ほどは減っている。
弓兵はほぼ無傷ではあるけれど、それでも十分な成果だ。
されどまだ数は相手が上で、全く油断できる状況ではない。
サバラは、そんな押し迫る兵士の群れを前にして、牙を剥いて笑ってみせた。
「シシっ、こっちの準備は万全だ。そら、クソ兵士共、足元ご注意だっ」
距離五十メートル。ファシオンの先駆けがその場所に乗った瞬間、一斉に足元の大地が崩れ去った。
縦の深さは六メートルほど。アースメイクで抉り返し、ある程度の重量が乗ったら割れるように木板を被せただけの即席の堀――ソコに雪崩れ込むようにファシオンが落ちてゆく。
「さて、魔法が届くぞッ。一斉掃射ァッ!」
間抜けを晒して足を止めた兵士に、筒先の代わりに向けられたのは片手と杖。
歌うように口々から魔名の響きが飛び出し、魔力光が淡く輝いた。曇天の薄暗さを一時だけ紛らわせて、魔法の凶刃が空を駆う。
雨粒の代わりに降ったのは雹。獣の牙の代わりに牙を剥いたのは土槍だった。雨で出来上がった水溜りが急速に膨らみ、まるで曲刀のようになって切り裂いては、暴風の向きが強引に変わって、風の刃が暴れに暴れた。
腕が落ち、足が落ち、首が落ち、頭が弾けて大地が塗り変わる。
「来るぞお前ら、気合入れろッ!」
それでもファシオンは止まらない。仲間の死骸で作られた凹みを渡る橋を踏みつけただ走る。
弓を持った兵士の群れが射程に入って矢を天へと構えた。直後に鳴り響く弦の声。
空は雨ではなく矢弾で埋まった。
「風で散らせ、恐らく全部は落とせない。下方に備えた盾構え、仲間を守ってやれ!」
正攻法とも呼べるサバラの指示にすぐさま風が舞うものの、やはり降りしきる矢雨は多く、全てを逸らすことは叶わない。
わずかに狙いは逸れたが、矢雨はまだ襲いかかってくる。
亜人たちの対応は迅速だった。
彼らは、すでに防壁の足元に置かれていた身の丈ほどもある大盾を二名ほどで構え、待ち受けている。
サバラの頭上もハイクが一人で盾を担ぎ守っていた。
ザッ、と矢弾が降り注ぎ、けたたましい音が轟いた。
金属板を貼り付けた盾の表面を矢が叩き、火花の一言では表せないほどにチカチカとした瞬きが生まれる。
光っては消え、また光る。ソレは、まるで星々が落ちてきたような光景だ。
「うるさいデス。耳がキーンとしました……」
「ハイク助かったよ。で、怪我人はッ? いたらすぐに治してやれ。まさか死んだ奴はいないだろうな。この程度で倒れるなんて許さないからなッ!」
のそりとハイクが盾を退かす。下から無事現れたサバラは、声を掛けながらも周囲を見渡す。
さすがに無傷ではいられなかったか、怪我人はいる。だが、撃ち抜かれている箇所は足や腕などで、すぐに治せそうな場所ばかりだった。
――これなら問題はないな。
タフさはファシオンだけの特権ではない。頭と心臓――即死さえしなければなんどだって立ち上がって噛み付いてやるッ!
「さあ本番だ、抜刀しろッ! 絶対に中に入れるなッ!」
牙をむき出し剣を抜く亜人たち、サバラ自身も己の鉤爪と足に『エント・アース』を纏わせ戦闘準備を整えた。
兵が迫りくる。
肩に氷の槍を突き立てたまま、腕が一本落ちたままで。
明らかに心臓部分に大穴が開いている者たちが、生者に群がる亡者の如く――走る、走る、走る。
水溜りが乱雑に跳ねる。雷光が一瞬だけ光った。
ついには距離が縮まって、抜刀したサバラたちと兵士の先頭が矛先を交えた。
剣戟。
もっとも早くファシオンを殺したのは、やはりハイクだった。
「うじゃうじゃと鬱陶しいデス。砂色おおおおおおッ」
防壁に縋りつくように近づく兵士に、繰り出されていく白と黒の戦斧。本来なら届かぬであろう場所にいる兵士の首を、黒が刃先を伸ばして刈り取っていく。
仲間を足蹴に上ってこようとする兵士の頭を、白が消し飛ばす。ときおり飛んでくる矢弾すらも、白斧で蒸発させるかのように弾く。
黒が過ぎ去った後には残るのは死骸。白が過ぎ去った後には、残滓が蒸気と共にあった。
「ハイクに負けるなッ、落とせ落とせッ!」
小柄な体を有効に使い、サバラが右へ左と走り回っては、鉤爪で首や縁に掛かっている指や腕を落とす。
自分たちの頭に引っ張られてか、部下たちも負けじとファシオンへと襲いかかっている。
「死ねッ、すぐに死ねッ。もう手前らなんかに好き勝手させねーぞッ!」
犬型の亜人が長槍で兵士の頭部を貫く。
「おい右ッ、見逃してんなよッ! ――ッチ!」
這い上がるファシオンを発見し、戦士が舌打ちを漏らして手斧を投げた。斧は見事頭部に命中し、兵士一名を叩き落す。
直後、戦士は左手に持った鎖を手繰った。繋がる先は手斧の柄尻――強引に引き抜かれた武器が宙を舞う。
戦士は慣れた手つきでソレを受け取ると、また危ない箇所はないかと視線を巡らせた。
「撃て撃て、後方の弓兵は魔法使いと弓の獲物だッ!」
猿型の亜人が吼え立てて、握っていた杖先から氷の刃を放つ。
囲いの下方、内側に待機していた弓持ちたちも、見張り台からの指示に従い、敵影を目視することなく矢弾を天高く撃った。
「いいかお前ら、撃つのはできるだけ下位の魔法だけにしろ。魔力を切らすな、回復は絶対に怠るなよッ。資材の心配はしなくていいガンガン飲んでいけ」
穿たれる兵士たちを視界に収めながら、サバラが次の指示を届ける。
即座に投げ渡され、手渡されていく回復の瓶の数々。魔力量の少ないものから順次ソレを飲み干しては、また魔法を放ち始める。
見た限りでは未だ戦死者はおらず、兵士の侵入を許してはいない。良い調子だ。明らかにこちらに流れが傾いている。
資材は存分だ。たとえ切れたとしても、補給は受けられるのだし。
経路は少し前からコソコソと作っていた見張り台の真下の地下通路。
長さは三百メートルほどしかないが、入り口はしっかりと起伏ある地面の裏側に作ってある。ここで戦闘を続けているうちは、相手に気がつかれることもないはずだ。
近隣の町や村の人々が補給に協力的だったことや、この辺りの土質が砂ほどに崩れ易いモノでなかったことが幸いしている。
運が良かった、そう言っても過言ではない。
「このままいければ……一番いいんだけど」
ただ、今の優勢は様々な要因が重なっているからでしかない。
もし敵が一斉に攻め込んできたら。もし敵がこちらの動きに対応してきたら。すぐにでも形勢の天秤は揺らいでしまうことだろう。
――できれば長期戦は避けたいし、さっさと済ませてくれよ兄さん。
ほんのわずかな時間だけ、サバラは南方を願い見た。ソコは二級区域の下方入り口のある方角……本命とも言える彼らがいる場所だ。
◆
耳に届く雷鳴の唸り声は、不気味なほどに低い。
フードを伝う雨の量もやたら多く、払っても払っても流れ落ちてくる雫が鬱陶しい。
そんな悪天候極まりない空の下――俺は三級区域の中にいた。
溜息を押し殺しながらも目を凝らし、左右に視線を這わせる。
辺りにはいたるところから生えだした岩々があった。ときおりやせ細った木々も生えているが、その色は全て暗い灰色だ。
灰世界。
ここまでくると、植物までもが岩でできているかのように見えてくる。
――地面は……。
確かめるようになんどか足踏みをすると、地面から硬い小さな音が返ってきた。
やはり砂利や石もそれなりに混じっているのか、感触もずいぶんと硬い。
ただ、
話に訊けば、ここはまだアースメイクを使える地形なのだとか。土と岩(鉱物も)とかの割合で使えるか否かが決まるらしいが、そんなもの調べる機械があるわけでもないので、感覚で覚えていくしかないだろう。
〈とりあえずは無事に入ることはできたのは良かった。この近くに兵士はいるか? 俺としてはいないと思うんだけど〉
隣にいたリッツに小声で問いかけると、彼女はいちど左右を見渡した。
〈アタシの目からも今のところは見えないわね。ただ、雨が降ってて視界も悪いしなんとも言えないけど〉
『はいはいっ、私の警戒網にも引っ掛かってはおりませんっ』
肩を竦めてリッツが答え、首元でもドリーがババッと周囲を探って教えてくれる。
雨のせいで見通しは悪いけど、この二人が言うのならばまず大丈夫だろう。
――サバラたちには感謝しないと。ここまで兵士に会わなかったのは誘導が上手くいっているおかげだ。後は俺たち次第ってことか。
俺が慎重に足を進めはじめると、仲間たちも後に続いて歩き出す。
キョロキョロと周りを見ながらも、俺は仲間たちの様子をうかがった。
隣を歩いているのは、いまも周囲を警戒しているリッツ。
すぐ後ろでは、ドランが地図へと視線を落として先の地形を頭に叩き込んでいた。
雨に濡れることを気にしてない様子からすると、手帳は特別な紙とインクでも使用しているのか。
中列を歩くのは樹々、彼女は天へと首をもたげて雨水を飲み、いたってご機嫌な様子である。
全く鳴かないので状況を理解しているのだろうが、堂々としたその姿に『肝が据わりすぎだろ』と思わなくもない。
そして後列には、軽装を纏ったサバラの部下である、狼っぽい亜人の男性と、たぶんウサギじゃないかと思う亜人女性。そしてシズルの部下である男性が一名……とローブ姿の“スルス”が続いている。
彼らは外套を羽織っていない。いまさら姿を隠す気もないのだろう。
殿は、戦闘に長けているリーンに担ってもらっていた。
抜き放った大剣の刃を肩に背負い、油断なく周囲に視線を送っている姿は頼もしい限りだ。
できればいつもこうあって貰いたい……と一瞬思ったが、彼女がいつもしっかりしているのは異常である。それこそ、大雨どころか、ボーリングの球並みの雹が降りかねない。
まあ、別に余裕のある日常でヘマをやらかすくらいは、十分許容範囲なので、そのままで居てくれるのが一番か。
と、この俺も含めて総勢十名が今回突入メンバーである――若干一名を除き――必要最低限で抑えたつもりだが、少しだけ多い気もする。
でもこれ以上削ると、不測の事態に対応できなくなるかもしれない。難しいところだ。
樹々は行き帰りの荷車を引く役目を担うために必須(荷車は途中で埋めてある)。俺の仲間たちは戦力的に外せない。
サバラの部下とシズルの部下は、補助を始め俺たちに足りない属性を使いこなせる器用系とも呼べる三名だ。
唯一外せる人物……と言えばスルスくらいか。
ぶっちゃけて言うと、『なぜスルス?』と思うくらいには謎の人選だ。
許可したのは確かに俺自身なのだが、べつに選んだわけではない。俺はサバラから『絶対に役に立つから連れて行ってくれ』、と出立直前に押されて同行を許可しただけだ。
実力を把握できていない者を連れて行くなど、かなり迂闊な対応だといえるが、『じゃあなぜつれてきた?』と聞かれたら俺は特に迷うことなく答えられた。
『サバラは考えなしにそんなことをする奴じゃない』、と。
アイツが言うならばきっとスルスは役に立つ。彼らと共にした時間と、交友関係は俺をうなずかせるほどには長かったのだ。
信頼で判断を下すなど馬鹿馬鹿しい、とも思えるが、俺個人の意見としては少し違う。
信頼が命を救い、信頼が折れそうな膝を支えてくれることがある。
経験則に近い判断だ。蟲毒でのオッちゃんたちが良い例なのかもしれない。
俺は、そういったモノを捨てることしたくなかった。たとえ、いくら心が擦れていったとしても。
甘い考えだ。糖蜜よりも子供臭い。でも、人としては大事な気がした。
ただでさえ自分の身体の変化に違和感を覚え、『俺まで化け物になってしまうんじゃ』と不安になることもあるのに。
そんな気持ちすらもなくしてしまえば、それこそ化け物と変わらなくなるんじゃないか、そう思えてならなかった。
感情にうながされるままに視線を落とし、俺は右手に持った武器を見た。
流線型の歪みない斧刃。槍先に近い形をした刃先と、鷹の爪のようなピック。柄尻から刃先まで全てが総ミスリル製で、綺麗な白銀色をしている。
なんとなく、前使っていた騎士の斧槍に似ている形だ。
蒼槍よりも重量があり頼もしい。『ありがたいな』と胸中で零し、俺は少し太めの柄を固く握り締めた。
サバラから訊くに、この斧槍は町の小さな武器屋から渡されたらしい。
きっと目が飛び出るような武器ではない。俺の本来使っている武器とは悪い意味で比べ物にならない質に違いない。
だがしかし、
『アナタ方の役に立てるなら』『この苦難を払ってくれるのならば』そう言って無料で差し出してくれたこの武器は、俺の斧槍に負けないほどの重さがあった。
会話を交わしたことすらもない……俺のためにと渡されたのだ。
信頼と期待が詰まっている。戦うことができない人の想いは、きっとこの武器に託されているのだろう。
大事にしたい。この武器もサバラやスルスに対する信頼も。
それらの想いに答えるためにも、ココを潰すことは絶対に完遂しなければならない。
油断なんて微塵もできない。できると信じてはいるが、過信はしてはいけない。
獄関連を舐めていたら、間違いなく死ぬ。
だからこそ、
俺はハンドやアイビー、リコイルの魔法制限を解除することを決めたのだ。さすがに潜入という役割上ボルト関係は使えそうにはないが、これで多少の戦力アップは図れるはず。チャンスは一回きりだと思っていかなければ。
〈よし……〉
思案を一度打ち切って、俺は力強く聞えるように言葉を続ける。
〈少し急ぐぞ……できるだけ早く進むんだ、サバラたちが耐えてくれている内にも〉
『アイアイですっ。ふふ、相棒という名のメイちゃんさんに任せておけば、きっと瞬く間のうちに全てが解決されることでしょうっ』
真っ先に、ドリーが『わー』と頭をビョンビョン揺らす。
――いや、俺の本名は相棒じゃないんだが。本当に勘弁してください。
俺が『ええ……』と首元を見ていると、リーンたちがクスクスと笑っていた。
声が聞えないスルスたちは、当然の如く『訳がわからない』と言った表情で首を捻っている。
ただ、リーンたちが笑っているおかげもあってか、体からは無駄な緊張が抜けているようだった。
良かった……その様子に、少しだけ安堵してしまう。
実は俺の中には懸念があったのだ。俺たちにとってはただ潰すべきだけのここは、スルスたちにとっては違うだろう、と。
彼らにとって、ここは仲間が殺された忌むべき大地。けれど、あまり熱くなられてもらっては困る。
復讐心。
いまさらだ、とも、人はすでに一杯死んでいる、とも思う。でも人はそういう感情に慣れるのは、中々に難しいと俺は知っている。
どんなに抑えたって、復讐心や怒りはきっと心のどこかに残る。
だいたい、真ん丸の話を聞いただけの俺でさえなんだかとても悲しくなったと言うのに、彼らが何も感じないはずがないじゃないか。
でも、それでも、
ここがもし獄に近しい場所になっていたら、冷静さを失うことや、感情的になるのは自殺行為に等しくなる。
話に訊く化け物は――切れ切れの会話の内容から察するに――いないだろうし、スルスが冷静さを失うとも思えないけれど、ここの突破を任されている身としてはやはり気にしてやるべき部分だった。
――その辺りも、後で暇を見つけて触れておくか。スルスたちに死なれるのは俺だって嫌だし。
ザンザン降りの雨の中は凍てつくように寒い。吐息は熱を持っているせいか、白く、吐き出された魂のようにもやがかっていた。