訊けよ嘯き 進めや共に
少し聞いていたが……いざ到着してみると、南門の前は予想以上にひどい有様だった。
映るモノほとんどが真っ黒だ。
地面も、建物も、防壁も、死骸も残骸も全部燃えて焦げている。
それから逃れたモノもあるが、そういうのは大体ドランに潰されているか、灰色になっていた。
――消防士の人が見たらぶち切れそうな光景だな。
樹々に跨り揺られながら、広間の中を移動する。
リーンが巨大な炎弾をバカスカと降らせている姿が視界に映った。一見する限り大きな怪我もない。
さすがというか、こういうときは本当に頼りに奴である。
ドランは……と。
視線を少し動かしてみれば、亜人の魔法使いに回復して貰っているドランの姿が。
手に武器は持っていない。代わりに、ボコボコに鉄板が凹んだ荷車が傍らに転がっている。
――あー、あれを使ってたのか。
荷車を振り回しているドランを想像し、少しだけファシオン兵に同情した。
絶対に、目の前でアレを振り回されたら怖い。
ただ、ドランも無事ではあるが、前衛で戦って無傷という訳にもいかなかったようだ。
外套には赤い染みが付いているし、それ以外の箇所も黒く煤けている。
回復はしているのだろうが、体力だって失っているはず。
ふら付いた様子をみせず、ドシリと構えていられるのは、頑丈なドランだからこそだろう。
他の人たちは、かなり忙しない様子で走り回っている。
サバラの部下も本隊の人も、色々な準備を進めたり、ときおり抜けてくる敵の相手をしていた。
んー……なんだかな。
駆け回っている人々から必死さが溢れている。みんなが頑張っているのことはわかった。
しかし、はたから見ていると、この雰囲気が決して良いとも思えなかった。
――やっぱり、少し必死すぎやしないか。
戦闘続きであるし、耐え続けるというのもかなり神経を使うのもわかるが、余裕がなくなるのはいただけない。
「おーい、兄さんっ!」
キョロキョロと周囲を見渡していると、不意に聞き覚えのある声が俺を呼んだ。
促されそちらに視線をやると、こちらに駆け寄ってくるサバラの姿が。
手を振ってやろうかと一瞬思ったものの、片手が動かないんだったと思い出して、大人しく近づいてくるのを待ち受けた。
樹々から下りることなく、俺は近づいてきたサバラに顔を向ける。
「おーサバラ、無事でなによりだな」
「……それはオイラの台詞だよ。シズルの姉さんから聞いたけど、赤錆四人を引き付けるとか、なにやってんのさ。
無理しなくて良いって言ったじゃないか」
「でも、撤退は上手くいっただろ?」
明るめの調子で俺が言うと、サバラはグルリと周囲を見渡し肩を竦めた。
「まあそうだね、聞いた感じだと、半分以上は逃げられたらしいよ。
でも、兄さんに死なれると赤錆の相手が一人いなくなるんだから、本当に気をつけてくれよっ」
「ふーん、半分よりね……」
六百くらいだろうか。
予想よりは多いが、心から喜ぶ気にもなれなかった。
昔の俺であれば、何百人も死んだと聞いても、『大変だったんだな』と思うだけだった気がする。
無意識で気にしているフリをしても完全な他人事。というか想像ができなかっただけなのだろう。
しかし、いまこれを聞くとかなり心象や印象が違かった。
こうやって死んで、こんな風に倒れていったんだ――と、簡単にその想像が浮かんでくる。
一人一人がナニかを抱え込んだままで倒れ、死んだ。
半分以上も助けたんだ、なんて偉ぶる気は微塵も湧いてこない。
「で、兄さんの状況は、怪我はない? 引き付けた赤錆はどうなってるの?」
爆音や怒号に耳を傾けながら、色々と脳裏に浮かべていると、サバラが真剣な面持ちを貼り付け問いかけてきた。
……どうだろう。
絶好調とはいえないが、樹々のお陰でかなり休めた。
腕もまた少し動くようになっていて、痛みもほんのりと退いている。
自分の身体を一度眺める。
血液やもろもろが付着していない。大丈夫そうだ。
「あー、怪我はないな、まだ余裕だ。でも急いだほうが良いぞ、赤錆もまだ元気だったし、ちょっと前まで追いかけてきてたからな」
「そりゃ……確かにマズイね」
サバラが少し思案するように頭を俯かせる。
それの邪魔をしないように大人しく待っていると、ふいに、リッツが振り返り目が合った。
ジトリと細められた半眼は、『よくもまあ、余裕とか言えるわね』とでも言いたげな様子である。
――やかましい、フサフサめ。
俺は、シッシッとアゴ先を追いやるように動かして、リッツの視線を振り払う。
「なにしてんの、兄さん、白い姉さん」
いつの間に頭を上げていたのか、サバラが俺たちのやりとりを不思議そうに眺めていた。
「いや、なんでもない。この白いフサフサの腕に毛玉ができたらしくて、絡まって取れないんだと」
途端、
ぺシッ! とサバラの死角――樹々の横腹付近で、俺の足が軽く蹴られる。
蹴るといっても、かなり加減されているもので押しただけのようなものだった。
別に痛くも痒くもなかったが、やられっぱなしは癪に障るので、俺も軽く蹴り返す。
すると、今度は『覚えてなさいよ』といった睨むような視線が返ってきた。
大丈夫、俺は記憶喪失らしいから、すぐに忘れます。
もし何か言われても、以前に自作した記憶喪失設定を盾に、誤魔化せば余裕だ。
一人フードの中でほくそ笑んでいると、サバラが『毛玉って大変だよね』と漏らした。
俺の知らないだけで、亜人には結構あることのようだ。
「とりあえず状況は分かったよ。すぐに出る準備を始めないと……そうだ、オイラは強行突破を考えてるけど、兄さんはなんか他に良い案ない?
もしないなら、突破のときは先頭を走ってもらいたいんだけど」
サバラの提案に一瞬だけ頭を悩ませたあと、返答する。
「他に案はないな。でも、隊列は先頭にリキヤマさん、次に騎乗した俺と白フサ、最後尾付近に赤い人で良いか?
サバラたちは中央で全体を見て、ハイクは遊撃させる感じで」
「うーん、できれば先頭走ってもらいたい気もするけど……足並みを考えればそっちのほうが良いかもね。
なら、せめて直前に兄さんからみんなに声かけてやってくれない? こー勇敢な感じで」
ああ、やっぱり似たようなこと考えるのなこいつ。
思わずサバラの台詞に苦笑が零れ出た。
勇敢な、との言葉からしても、『開始前に景気付けの神輿代わりになってくれ』ということだろう。
「わかった、勇敢な感じで、な。じゃあすぐに準備を頼む。あと、魔力回復薬もちょっとわけてくれ。赤錆をからかうのに全部使っちまった」
「シシっ、了解、すぐに届けさせるよ」
少し笑ってそう言ったあと、サバラは『お前らっ、兄さんが戻ってきた。すぐにとんずらするぞっ』と声を張りながら駆けていった。
早めに薬を貰えれば、魔力を回復できるのだが……どうなることか。
緊張でわずかに汗ばむ手を握り締め、俺はその時を静かに待った。
◆
(これは……中々の眺めね)
樹々の上――前に座っているメイの背中から顔を覗かせたリッツは、そんな感想を抱いていた。
前方に見えているのは、隊列を組んで並ぶ亜人や人々の姿。
武器を手に、険しい表情をしたその者たちからは、覚悟や恐怖や怒りといった、様々な感情が漏れている。
そんな彼らの視線の矛先は、全て自分――の前に座っているメイへと刺さっていた。
(こいつ、案外動じないわよねこういうの)
良くも悪くも、想いの篭った視線は一身に受けると緊張するものだ。
しかし、
現在それを受けているメイは、特にそういった様子を表立ってみせていない。
リッツからは表情が見えないので、本当なのか嘘なのかは判断できなかったが、『隠し通せるのも、ある意味才能なのだろう』とは思えた。
その証拠に、左側にいるドランなんて、馬車を握っていない手がフルフルしている。
前方に晒さぬよう、後ろにまわして我慢している辺り、頑張ってはいるようだが。
リッツから見える範囲で――ドリーを除く――特に動揺を見せていない人物は三人だった。
目の前にいるメイと、左に立つシズル、そして右側にいるサバラである。
(やっぱり、隊を率いた経験があるかないかの違いってところかしら?)
そんな気はする。
ただ、現在時間稼ぎのために魔法を撃ち続けているリーンも、この場にいたら普段通りなのだろう。
と、リッツがそんなことをつらつら考えている間にも、メイが動いた。
視線の束を受け止めながら、右手に握った斧槍を掲げて悠々と声を上げたのだ。
「さて、と。みんなずいぶん切羽詰った顔してるな。
いつも酒飲んで、賭け事して、『ファシオンの糞野郎ッ』なんて騒いでいた余裕はどこいったんだ?
本隊の人たちだって、そんなしょぼくれた顔してどうした?」
わざわざと、挑発するような調子でメイが語りかける。
少しおどけたその声は、不思議と騒音の中でも通っていた。
ただ、それを聞いても全員の表情は固い。サバラたちの部下はまだ良いが、本隊の人員の表情はかなり陰鬱だった。
そうなっても仕方ないことではある。
覚悟を決めて、城に攻め込んだのに敗走、そして逃げ出した先にはファシオンの増援だ。
現在外にいるファシオンでさえ、明らかに自分たちより多いのに、それでもまだ、敵の一部でしかないと云う。
そんな中へとこれから飛び込むのに、『明るく笑って怯えるな』なんて、かなり厳しい提案だ。
無茶を言うな。
声に出しては言わないものの、そんなことを言いたげな表情がチラホラとあった。
そんな表情を確認したからなのか、リッツの眼前でメイの背中が少し膨らんだ。
大きく呼吸した。
なんとなく嫌な予感がして、リッツは反射的に身構える。
瞬間。
「お前らッ――! この程度でいちいちビビッてんじゃねーぞッッッッッ――――!!」
雷喝。
騒音すらも切り裂くような叱咤が轟く。
その声には妙な威圧が乗っていて、身体から発する雰囲気も一新していた。
蟲毒で指示を放っていたあのときと、同じような空気だ。
一瞬だった。
視界の中で、強張っていた表情たちが、さきほどとは違う意味で引きつった。
力の入りすぎていた腕や身体が、突然のことにピクリと動く。
普段のおちゃらけた印象がリッツとしても根付いていたが、改めてこういう姿を見ると、やはり獄級走破者なのだと思い出す。
動揺が走ったのを見止めて、メイはそれを断ち切るように武器を右手に振るう。
轟ッ!
風を唸らせる強烈な横振りで、瞬く間に動揺すらもが沈黙する。
おどけから、怒声。そして力を示すような一振り。
斧槍を右肩に担ぎ、この場の空気を一挙に掌握したメイは、更なる言葉を吐き出した。
「いいかッ! 今からファシオンを切り裂いて都市外へと向かう。だが、勘違いすんな。
行うのは撤退戦じゃない! みっともない敗戦でもない!
目的へと、最後の勝ちへと繋げるために、俺たちはココを駆け抜けるんだッ!」
喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
お前たちは負けていない。負けを認めるのは許さない。
そんなことを言い聞かせるように。
「ここはただの通過点で、そこいらの道端みたいなもんだ! 死ぬ覚悟をするにはまだ早い!
相手は“たかが”数が多いだけのファシオン兵だッ、俺たちが今まで何人アイツらを倒してきたと思っている。
外にいるのだって全部雑魚ばっかりだろ。
余裕もてよ、自信もてよ、ここにいる全員は、ここまで生き残った“俺達”は、雑魚に殺られるほど弱かねーだろうが!」
それは問いかけではなく刷り込みだった。
穂先を外に向けて、全て雑魚だと言いきって、敗戦だと思っている者たちへと通過点だと言い放つ。
恐らく、内心ではいまごろ『頼むぞー』とか願っているには違いないが、知らない者にしてみれば頼りがいのあるように見える……かもしれない。
ただ、どちらにせよ……
(まだ腕も動かないくせに……よくやる)
感心せざるを得ない。メイの回復はまだ行っていないのだ。
予想以上にサバラの準備が迅速で、魔力こそ回復したものの、すぐにここまで引っ張られてしまい、間に合わなかった。
戦闘の最中で誤魔化しながら回復するとは言っていたが、左腕が動かないのは事実、身体も痛みで軋んでいるはずだ。
しかし、姿から、雰囲気から、その声音からはまるでそんな様子を伺わせない。
前よりも、覚えているその姿よりも、隠すことに、人を鼓舞することに慣れてきているようだ。
率いた人数こそ少ないが、あの蟲穴を諦めず最後まで走りきった経験は、それだけ濃密なものだったのだろう。
「さあ、答えは出たか? 俺は出ている。ファシオンなんて物の数じゃねぇッ!
それでもまだビビッてるってんなら、黙って怯えたままで後ろからついて来い!
その目の前で、俺達が真っ直ぐに切り開いてみせてやるッッ!」
鼓舞が貫いた。
同時に、ざわつきが完全に消失した。
ただの若者がコレを言ったのならば鼻で笑われる。
ただの走破者がソレ言ったのならば誰も耳を傾けはしない。
だがしかし。
いまこの場には、笑う者や、耳を貸さない者は、存在しなかった。
メイが、ドランが、リーンが、自分たちが、ここまで積み重ねたものがある。
例え言葉を交わしていなくとも、これまでの数ヶ月の間――彼らに戦う姿を見せてきた。
ここまで生き残り、赤錆を引き受け、撤退を援護し――
そして、
メイはあの城前に戦場から、本隊すらも逃亡させた。
今、彼らの目には一体どう見えているのだろうか。
赤錆四人を引っ掻き回し、ソレラを一手に引き受けて、一見すれば五体満足で、無事に戻ってきたようにしか見えないメイは、いったいどう映っているのだろうか。
答えは出ている。
見てみろ彼らの顔つきを、言いようのない感情が駆け巡っているのだと、ここから見てもハッキリと分かる。
敗戦ではない勝利へと向かうのだ。外にいるファシオンを薙ぎ払うのは、なにも困難なことではない。
それを信じさせてしまえるほどに、彼らの眼や、脳裏には、赤錆たちと戦っていた姿が焼き付いている。
だから、
そんなメイがかけた鼓舞は、とても自然な成り行きで、莫大な感情の発露を生み出した。
――ッッッ――ッッッ――――ッッツツツツ!!
咆哮が破裂した。
空気が怯えてるんじゃないかと思うほどの音が返ってきた。
まともな言葉にすらならないただの叫び声。でも、それは……とても力強いモノだった。
この程度、あんな奴らには負けない。
そう高らかに吠え立てて、剣、斧、槍、矢に杖――――
視界に入るそれら全てが、群れとなして天へとキバを剥いていた。
緊張と覚悟で染まっていた表情は、自信に満ちて。
無数の彼らの視線は、前へ前へと向かっている。
瞬間。
タイミングを合わせるかのように、指揮官二名のうちサバラが動いた。
「お前ら忘れたのか! 兄さんたちに負けんじゃねーって言っただろう!
動け動け、スルスを中心に魔法使いは身体強化! 足の遅い者は荷車に搭乗し、周囲を見て援護をしろ。
いいか、外に出たら敵のケイメルと荷車を率先して狙え!
オイラたちは元々ハズレもんだ。敵さんからだって、是非とも報酬を頂いてやろうじゃねーか!」
小さな身体で大きな叫びを上げ、サバラが部下たちに指示を投げつけると、部下たちはヤンヤヤンヤと騒ぎ出した。
と、そんなサバラたちに続き、負けじとシズルが剣を振り上げる。
「総員――構えッッ!
良いか、私たちがもっともこの中で人数が多い、それで救われるばかりじゃ格好もつかん。
剣を手に握り、味方を守れ、魔名を唱えて味方を救え!
誇りと信念と本隊である意地を、敵にも、味方にも魅せ付けてやるぞッ!」
シズルの声音に従って、本隊が整然と構えを取る。
刃を前に、杖を先に、意地を面持ちに貼り付けて、彼らの準備はしかと整った。
樹々がグルリと転進する。リッツの視界の先に真っ赤に燃える炎が映った。
ドランが馬車を手に取り前傾姿勢になり、ドリーが拳を握ったのか、蛇の口をムギャっとしかめた。
メイの背中が大きく動き、身体に力が篭っていく。
不意に、リッツは不思議な高揚感を覚え、ふつふつと肌が粟立った。
自分の身体が少しだけ震えていることに気が付いて、リッツは……勝気に笑う。
(――やってやろうじゃない。今だけは、アタシがしっかりと左腕の代わりをしてやるわよッ)
メイの右手はドリー以外に考えられない。なれば、仲間である自分が、いや自分たちが左腕の代わりをしてやるべきではないか。
そうだ。いや、そうでありたい。きっと、そういう気持ちが大事なんだ。
そうリッツが心に定めた瞬間。
リーンが撃ち続けていた炎弾が――時を計ったかのように、ピタリと止む。
炎が収まり、敵の姿が現れる。
武器とチャリオットとケイメルと、砂色の塊が門から一斉に溢れる。
メイが武器を握って、吸い込んでいた酸素を一斉に吐き出した。
「さあお前ら、――突撃の時間だッッ!」
――ォォォオオオオ雄雄雄雄ッッ!
怒号の群れと同時に、全ての人々が駆ける。容易に飲み込まれてしまいそうな、砂の波に向かって。
「グッ――ルルルォォ!」
一番手を買って出たのは、やはり先頭を担っているドランだった。
荷車を強引に振り回し、数で迫るファシオンを殴る、殴る、殴る!
強引に、強行に、ただ力ずくで突破口を開く竜人は、後方から飛び交う強化と回復を一身に受けて、その豪腕で背中を追う者のために道を作り上げていく。
「――撃てぇッ!」
次いで後方から指示が飛び、土や氷の魔法の矢が次々とドランの更に先へと降り注いだ。
兵士の頭部に容赦なく矢弾が刺さり、腕や足を吹き飛ばす。
少しでも体勢を崩した兵士は、次々と刃の海に飲み込まれていった。
『相棒、右から七つです』
「――応ッ」
「アンタたち、しっかり落としなさいよッ!」
ドリーの声でメイが右手に握った斧槍を振るう。目的はドランに向いた矢弾。
かなりの速度で飛び交うソレを、メイはいとも容易く見切って叩き切る。
左側からくる矢弾ですら、器用に武器を回して、片腕で跳ね除けている。
先ほどドランの活躍に隠れてこっそりと回復していたようだが、まだ戦闘に使えるほどには腕が回復していないらしい。
とはいえ、
前方でブンブンと振り回しているドランのお陰で、思ったよりも敵が少なく、切羽詰った状況ではなかった。
それに、
もともとメイは――ボルト・ライン以外――まともな攻撃魔法を持っていないのだから、片腕が残っているだけでも十分なのかもしれない。
(それでも、左側の援護はしてやるべきだけど……)
心中で呟きを漏らし、リッツは左方から迫る一人のファシオンの眼球に矢弾を一発撃ち込んだ。
切り開く――砂色の波を掻き分けるように、突き進む。
後から後からやってくる兵隊は、全てを押しつぶすように、迫り続けていた。
左右が狭まる。砂色の圧力が掛かる。
「砂色おおおお、滅ぶべしいいいいイイ!」
白と黒の戦斧を振り回し、巨体のハイクが疾駆する。
「ったく、ハイク、余り突っ込みすぎないでくれよ!!
お前らッ、左右に魔法を放て、潰されないように気合入れろ」
サバラはハイクに注意を促しながらも、荷車の上から部下たちに次々と指示を投げつけた。
「ほら皆さん、魔力が尽きそうな方々を見逃してはなりませんよ」
やはり裏方が好きなのか、ここでもスルスは補助に徹し、目をグルグル回しながらも補給物資を行き渡らせていた。
応答した部下たちが、広範囲の魔法を中央からばら撒く。
氷雨、雷撃の槍、風の弾丸の乱れ雨がファシオンを穿ってゆく。
直接戦いこそしなかったが、まん丸も、敵の足元に魔法で落とし穴を作ったり、土壁で味方を援護したりと、自分にできることを行っていた。
進む進む、波を掻き分けまだ先へ。
前方と左右だけだった砂色が、後方までもを覆い始める。
が、
「『サン・フレイム』」
リーンの唱えた魔名が連続で三回響く。
小さな太陽の如き火炎球が、その数の分だけ上空から降り堕ちて、後方のファシオンを塗りつぶした。
それを見て、シズルが左右を注視しながら叫んだ。
「味方の炎で炙られるなんて笑い話にもならない。後方、魔法使いはしっかり風で熱量を抑えつけろ!
負傷した者への回復は最優先、強化魔法は外から順に、敵の圧力が増えそうな箇所には土壁を!
おっと、前方後方に助けはいらんようだ、左右が負けてる証拠ではないか?」
リーンの作った火炎の波が、吹き荒れた強風に煽られ敵方へと雪崩れ込む。
魔名が響くたびに魔力光がキラキラと輝き、圧力を跳ね返す体力と力を周囲に与えた。
土壁が味方を守る防壁の如く左右に乱建し、敵の勢いを妨げる。
飛び交う敵の矢弾も、乱れる風で弾かれ届かない。
風。
渦巻く風、矢を放っても狙いに届きそうにないほどに、気流が暴れている。
だが、
リッツにはそんなもの関係なかった。
(邪魔な射手が右手に一、左手に一、二…………狙い定めているのもわんさか)
高速で思考が巡る。蠢く敵の動きがくっきりと見えた。
騒音は蚊帳の外に、当たらぬことは考えない。
樹々の上で、リッツは鞍に足を置き立ち上がり、片手をメイの肩に据え己の体を固定した。
視界が高くなり、視野が一気に広がる。
落ちる気はしない。すこしくらいの揺れでバランスを崩すほどヤワではない。
経験と己の腕を信じて、リッツは照準を邪魔な敵へと定めた。
風の音を訊き、ただ引き金を絞る。
弦が鳴く。
当たり前のように血潮が飛んだ。
『へい、白フサさんお待ちですっ』
「さあ、どんどん来なさい」
右側へと回していた矢筒から、ドリーが矢つかんで『はい』と差し出して、リッツが即座につがえてまた解き放つ。
渡して撃ってまた渡す。
流れるように延々と、単純作業を繰り返す。
「白フサ、わんこそばじゃねーんだから、焦って外すなよ」
「ハッ、誰に言ってんのよ、アタシが外すわけないでしょうがっ」
メイの台詞をリッツは鼻で笑って返した。
わんこソバってなんだろう、とも一瞬思ったが、良く分からないことを言い出すのはいつものことなので、リッツは気にも止めずにまた矢弾を放つ。
敵の数は馬鹿みたいに多く、すぐに矢筒は空になった。
しかし、後方へと手をかざして合図をすると、最初に決めてもいないのに、膨れた矢筒を誰かが投げてくれる。
矢筒を受け取り補給して、リッツは無言でまた撃った。
狙いは邪魔な射手と、チャリオットの搭乗者。
空になったチャリオットはサバラたちが『貰ったーー』などと言いながら奪い取っている。
一つ二つと荷車が増えて、足並みは加速していく。
焦げた臭いと血臭と怒号。
金属片を沢山入れた箱をひっくり返したかのような、喧しい剣戟の音が喚き続ける。
進む押して進む。
一丸となってただ前だけ目指すこの群れは、大勢を貫く槍先のような鋭さを持っていた。
倒れる者はもちろんいて、飲み込まれてしまう者だっている。
先頭で暴れて進むドランだって無傷ではない。
右腕に一本の剣が生えていた。外套はボロボロになり、血が滲んでいる。
でも、振り回すその手を止めることはない。ドランだけでなく全員そうだ。
俯いて足と手を止める者は誰一人としていなかった。
(このままいけば問題……な……い)
しかし、また暫く先へと進んだその時だ。
リッツは嫌なモノを見つけ、そして聞いてしまった。
視界に映ったのは遠く地平線に上がる進軍の土煙。
今までと比べるべくもなく膨大で、眩暈がするほどの量だ。
最後の増援。
そして聞いたのは、覚えのある風を貫く凶弾の鳴き声。
即座に振り返って空をみれば、剛矢が三本迫ってきていた。
――赤錆ッ、射手が移動した!?
コチラに二本、別の場所に一本。
その内の二本はドリーが気が付き落としたものの、残った一本は中央付近の亜人の頭を貫いてしまう。
一瞬で群れがざわめき、動揺が走る。
シルクリーク南門からは、大分距離を取れた。ファシオンの切れ目だってもう見えている。
なぜここで、そう思わずにはいられない。
「クロウエっ……増援が見える。多分このままいけば大丈夫だけど、赤錆に構ってると間に合わなくなるわ」
「そうか、くるとは思ったけど少し早いな――――」
飛ぶ矢弾をまた一つ落とし、メイが大きく息を吸った。
「訊けッッ!
ノロマな赤錆と増援が、もうすぐにでも抜け出ちまう俺達を、ようやく追いかけて来たらしい!
無駄骨ご苦労ってなところだが、わざわざ来てくれたんだッ。
笑いを抑えて俺達の背中だけ拝ませてやろうじゃないか!」
門前で叫んだ時よりも、とても明るい調子でメイが叫ぶ。
そして、後方と増援の土埃にヒラヒラと手を振ると、小馬鹿にするように『ご苦労さん!』と笑い声を上げた。
サバラがブッと噴出して、口元に手を当てながらもメイの真似をするように、手を振る。
シズルはやれやれとコメカミを抑えて、『だ、そうだ』と本隊の人員に呆れた顔を向けていた。
この塊を引っ張る三人が、それぞれ違う態度ではあるが、余裕を見せた。
そんな姿を目にして、雰囲気に促され。
自然と亜人や部下たちの間には、『ああ、なんだ間に合うのか』といった安堵が流れた。
上が慌てたら下が不安になる。でもそれは、上が怯えなければ下は安心するということでもある。
「クロウエ、アンタって本当に嘘つきね」
「失礼な、嘘じゃないぞ。増援の方はあの距離だ、普通に間に合うだろ。赤錆は凄いギリギリだけど、大丈夫っぽい計算だ」
『ふみゅ……つまり、私は手を振る準備をしてれば良いということでしょうか?』
周囲に聞えないようにメイが嘯いて、ドリーが良くわかっていないのか、手を上げたり下したりしている。
ギリギリであることには違いないのだろう。
でも、そんな態度を見ていると、リッツも焦るのが馬鹿らしくなった。
「さて、じゃあアタシも仕事しないとね」
そう言って、リッツは前方を向いていた体を器用に反転させ、メイの背中に座るように腰を下して固定する。
「ちょ、重いんだが、止めてくれません?」
「アンタ……それはケンカ売ってるのよね?」
「はは、馬鹿な。でも頼むから左肩のほうに乗るなよな」
女性に対して『重い』などというとは何事か。
リッツが声を落として文句を言うと、メイもさすがにマズイと思ったらしく、笑って誤魔化していた。
――さて、魔力がどれだけ持つかってところよね。
リッツはボウガンを肩へ、矢筒を邪魔にならないように動かすと、見えない弦を引き絞るように手を動かして、魔名を呟いた。
「『レイ・ボウ』」
手の中に象られた光矢を握る。ファシオンはもう無視すると決めていた。
リッツの今の仕事は、あの剛矢を撃ち落すことなのだから。
「ドリーちゃん、こっちに来るのはお願いね」
『大丈夫ですっ、相棒と白フサさんのお体はきっと守って見せましょうっ』
ドリーの返答を聞きながら、リッツは光矢を解き放った。
狙いは遠くに落ちるだろう剛矢のみ。自分たちに飛んでくるモノは完全に無視だ。
近くに飛んでくるモノは、しっかりとドリーが水弾を放って軌道を変えている。
遠くをリッツが、近くをドリーが落とす。
曇天に光りの花が次々と咲く。水弾が飛び散って霧雨のように散った。
意識を集中し、リッツはただ赤錆の弾丸を落とすことだけ考えていた。
撃って、撃って、魔名を唱え続けて撃ち続ける。
(相変わらず……向こうのほうが手数が多い。やっぱり魔力が持たなくなるッ)
まただ、また自分はこれで悩まなければならないのか。
目を苛立ちで細めながら、リッツは腰元に吊るしている袋から魔力回復薬を取り出し飲み干した。
その少しの隙の間に、亜人の頭が一つ……弾けた。
悔しい……悔しい。
ギリギリと歯を噛み締めて、魔名を唱えて魔法を放つ。
狙いは負けていないが弾数で負けている。だんだんと相手の撃つ数も増えてきて、追いつかなくなってきている。
それでも諦めずに落としていくも、やはり弾数の制限が付きまとう。
身体に巡る魔力が、また尽き始めているのを感じた。
残りは一発分。
なのに、彼方に見えるのは五本の剛矢だった。
(魔力が――足りないッ!)
回復する暇はない。
諦める……アレを落とすのは諦めるしかない。
そう考えた瞬間、リッツの胸中で怒気が渦巻いた。
活躍すると心に決めたのに、またこれか……そう自分自身に対して怒りが湧いた。
『白フサさん、私と一緒、いえ、蝶子さんと共に撃ち落すのですっ』
リッツの怒りが爆発しそうな直前で、ドリーが明るく言い放つ。
ドリーが歌うように魔名を唱えると、パタパタと飛ぶ蝶がリッツの前方に躍り出た。
蝶が、『さあいつでもどうぞ』そう言わんばかりに舞っている。
ドリーが自分に何をさせたいのかを即座に理解したリッツは、残った魔力を振り絞り、瞬く間に光矢を一本象った。
――上等よ、どうなるか知らないけど、やることやらずに諦めるなんて、ごめんだわッ!
空気を焼くような音と共に、リッツの手から一条の光が放たれる。
――蝶へと向かって。
燐粉が散り、光矢が一瞬で膨張した。
その瞬間。
リッツの視界内に、幾つもの白いラインが描かれる。五本は剛矢に残りは射手と搭乗者へ。
それらは、リッツが確認して狙い定めていた的たちだった。
パァンッ!
風船が割れたような音が弾け、光矢がとつぜん弾け飛ぶ。
一本だけだった光矢が分散し、二十ほどの光の線に分かれる。
光りの矢弾たちは、少しだけ高度を上げると――
まるで星降るように、描いた的へと飛び交った。
幾本もの白いラインが空気中に描かれていく。まるで蜂が飛ぶように鋭角に走り、味方の身体を避けていく。
ジャッッ――!
鋭い音を空気に残し、五本の剛矢が容易く撃ち落とされる。残った十五本全ての光矢も、同じ数の頭を破裂させていた。
自分の思い描いてた箇所に直撃した。イライラが破裂したかのように、飛び散って敵を貫いた。
(…………)
少しだけ呼吸を止めて、なんだか良く分からないままに、己の手を見ていたが、ふと我に返って顔を上げる。
そして、湧き上がった喜びのままに、彼方に向けて言い放った。
「ふんっ、ざまぁみなさい。アタシが外すわけないじゃない。すべて狙い通りだわ」
『なんだかキラキラして綺麗でしたねっー』
「そう? じゃあもう一回やってみましょうか」
『はいっ』
ドリーがパチパチと蛇の口を開閉させて拍手すると、リッツはツンと鼻を偉そうに逸らし、腰元から取り出した瓶を一気に煽った。
もう一度魔名を唱えて光矢を作り、自信満々に『さあいつでもいいわよっ』と言い放つ。
ただ、どうしても動く鼻頭と、にへらと緩む頬を、リッツは止めることができなかった。
◆
「ぅぁぁ、馬鹿毛玉……頼むから止めろ、もう魔力がないっ」
お願いします。マジで勘弁しやがれ……ください。
身体に満ちていたはずの魔力が引き抜かれるのを感じ、俺はリッツに『少しは手加減しろ』と懇願していた。
が、
「あら、回復すれば良いじゃない。で、ドリーちゃんに早く渡すのよ」
『ふおおおおお、蝶子さん乱舞カッコいいですっ』
戦犯である二人はなんだかとても乗り気で、きゃっきゃ言いながら光りをばら撒いている。
駄目だこいつら、とくにリッツが調子に乗っている。
リッツとドリーと蝶子さん。
三人(?)の協力攻撃は、すでに手放しで褒め称えても良いほどの戦果をたたき出していた。
いや、たたき出して“いた”、ではなく“いる”。
今も俺の目の前では、光矢の束は縦横無尽に飛び交って、邪魔そうな敵の頭部と飛来する矢を粉砕している。
なので戦果は今も止まらず上昇中であった。
ホーミングレーザーだこれ……。
非常に頼りになるし、逃げる速度だって明らかに上がったので文句はない。
だが、蝶子さんを使うために魔力をドリーに譲渡して、疲れだけが溜まる俺は、少しだけ溜息を吐きたい気持ちになっていた。
とはいえ、使わないと厳しいのも事実であり、嫌だ嫌だと良いながらも、本気で止めることはできないのだ。
くそ、あとでゆっくり休んでやる。
大して美味しくもない薬をまた飲み干した俺は、サラリーマンが栄養ドリンクを飲んでいるコマーシャルを思い返し、愚痴を零した。
でも、それもあと少しの我慢だ。
俺達の行き先――すこし前方には、もう兵士の終わりが見えているのだから。
もう少し。
倒れた者はそれなりに多いが、まだコチラの戦意は喪失していない。
背後を伺えば、赤錆が迫っているのが見えた。遠方の土煙だって近づいてきているのは理解している。
でも、アイツらはもう間に合わない――。
リッツの光矢で鬱陶しい敵が狙い打たれ、サバラたちが荷車を強奪する。
この流れによって、俺たちの速度は格段に上昇していたのだ。
――よしっ。
思わず拳を握る。
高揚感と、ギリギリで間に合わせることができた達成感が、全身に満ちていた。
「おら、あと少しだ、お前ら進め進めッッ!」
俺が叫んで速度を上げると、後方からは咆哮や気合の篭った雄叫びが返ってくる。
流石にここまでくれば、速度も気持ちも落ちることはない。
一丸となっている。
ドランが傷つきながらも前に進み、また道を開いた。リッツも光りをばら撒いて、敵を次々と貫いている。
背後では延々と爆音が轟き、リーンが無事なことを俺に報せてくれていた。
樹々が敵を踏み潰す。ドリーが明るく声援を上げ、足りない部分を補ってくれた。
サバラもスルスも、ハイクも、シズルさんも。
ここにいる全員が、各々にできることを精一杯に吐き出している。
ファシオンなど敵じゃない!
偉そうにいってみた俺の台詞は、俺ではなく、そんな彼らが現実にしてしまったようだ。
視界の中で砂波が割れ、兵士のいない大地があらわになる。
貫いた。切り開いた。
「――ッ――オオ雄雄ッ!」
やがて、先頭のドランが咆哮と共にソコを駆け抜けたッ!
ファシオンの堰が崩壊する。蓄えられ、閉じ込められていた俺たちは、解き放たれたようにそこから次々と飛び出してゆく。
――やッ……たッ。
視界に広がる兵士のいない景色に、途方もない歓喜が込み上がる。
偉そうな台詞を吐いて失敗したらどうしよう。
あそこまで言っておいて被害が大きかったらどうすればいい。
自分が吐いた言葉は、例え嘘でも見得でも責任が付きまとう。重みがのしかかる。
十人、二十人じゃなく何百の期待や不安は重い。
なんど抱えても慣れるものではない。幾度経験しても不安はなくならないだろう。
しかし、やりきって見せた。
向かい風は冷たく、熱くなった顔と身体にはちょうど良い塩梅だった。
曇天の隙間からは太陽が顔を覗かせており、光の線が大地に下りて綺麗だ。
そのままそれに浸っていたい衝動に駆られたが、俺はそれを振り切って仲間たちへと向けて口を開いた。
「樹々、反転だッ。リッツはもう座っとけ、ドランは抜けてきた荷車に乗って待機、俺が良いというまで、絶対に後ろを振り向くなよ」
近くに誰もいないのを良いことに、それぞれの本名を呼んで指示を出す。
樹々が即座に反転し、ドランは素直に頷いてくれる。
「ちょっとクロウエ、なにするつもりなの?」
「ん、もう一人……いや、もう一匹ストレス溜まってる奴がいるからな、足止め代わりに暴れさせる」
「……?」
さっさと座り込んだリッツが不思議そうに問いかけてきたが、詳しく説明する暇もなかった俺は、適当に誤魔化して話を打ち切った。
「サバラッ! シズルさんッ! 総員に通達してくれ、『後方を絶対に見るなッ!』だ」
俺がそう叫ぶと、ファシオンの群れから飛び出した二人は、異論を挟まずにそれぞれが声高に復唱してくれる。
移動を続けながらも、その指示が伝わるのを待った。
俺の横を次々と人々が駆け抜けていく。
全員に指示がしっかりと行き渡っているらしく、しっかりと前だけを見て走っていた。
そして、遂に最後尾のリーンがファシオンの群れから抜け出す。
すれ違う一瞬に『何するの?』といったリーンの視線を受けたが、俺がアゴをしゃくって『先に行ってくれ』と促すと、黙って横を駆け抜けていった。
前方には残ったファシオンが見えている。
更に奥には赤錆の姿も確認できた。剛矢も幾つか飛んで来たが、樹々が軽やかに避けてみせる。
――さあ、ここまで取って置いたんだ。張り切ってくれよ。馬鹿バエ。
武器をドリーに手渡して、右手をファシオンへと向ける。
渦巻く衝動は残っている。ハマの一撃を溜めたことでストックはできている……はず。
あの目が発動したことによって消えている可能性もあるが、そうなったらまた矢でも受けて使えば良いだけだ。
ギリギリ発動できるかどうかといった、残りかすの如き魔力を感じながら、
「『復讐者の羽ばたき』」
俺はその魔名を囁いた。
右手に魔力が駆け巡る。中位近い魔力が奪われて、黒い塊が俺の右手から吐き出された。
――こい、頼む、できれば蛍こいッ。蛍ぅ……。
ギュルギュルと形を変えていくソレを見つめながら、俺はそんなことを願っていた。
敵は大量、周囲に人は居ない。念のために『後方を見るな』という指示も出している。
足止めが目的なのだから、やはりこの状況で一番でてきて欲しいのは、蛍様しかあり得ない。
お……これは。
視界の中で魔力がスリッパくらいの大きさで固定された。
少なくとも、今まで出てきたことがない大きさだ。
――他の蟲にしては小さすぎる。きた、間違いない。いいぞハエ、お前はやれば出来る子だと俺は前から思っていたッ!
俺の期待を一身に受け、魔力が遂に形を変えて、蟲の姿を象りきった。
素晴らしい鋭角なライン。
身体はやはりスリッパを細くしたような形で、八つはしをすこし折り曲げたような漆黒の甲殻が、瓦を重ねるように並んでいる。
頭部には、鋭い針金のような二本の触覚と、ファルシオンの如き鋭さを誇るアギト。
小さい杭を繋げたような手が、身体の両側面にいっぱい生えている。
背中には、小さな葉っぱの如き雄々しい羽根が、ピヨピヨと羽ばたいているではないかっ。
どう見ても、色んな角度から見ても、これは間違いなく!
「ムカデです。本当にありがとうございました」
『おお、なんだか少しカッコ可愛いお姿です』
「すっごいちっちゃいんだけどナニあれ」
俺が少し呆然としながら呟くと、ドリーは嬉しそうにそいつを見てはしゃぎ、リッツは指差して呆れた声を出した。
肝心の黒ムカデはというと、『バッチコーイ』といわんばかりに左右の手を、空中でガッシャンガッシャン打ち付けている。
鋭角になっているお陰で、気持ち悪いというよりはちょっとカッコいい見た目だ。
なんだかやる気も十分に感じられる。
だが、しかし、でも。
大きさがスリッパである。
――えええ……。
期待はずれというか、残念な気持ちが胸を占める。敵で見たムカデとかあんなに大きかったし、主の攻撃だって凄く強かった。
なのに、出てきたのはちょっとかっこいいスリッパだ。
――えええぇぇ……。
なんだかなー、と思いながら見ていると、スリッパが『うおおおお』と両手を空に向かって掲げながら、小さな羽根を動かして高度を上げてゆく。
一瞬、『俺に襲いかかってくるのかなー』とか思って警戒したが、特にそんなこともなく、黒ムカデは十だか十五メートルほど上空まであがって停止した。
その瞬間。
パツゥ!! と妙な音と共に、腕が外れ四方八方の空へと拡散し、黒ムカデは完全に黒スリッパと変わった。
――もう駄目だこれ、とりあえず逃げよう。
が、
次に起こったムカデの変化を確認し、俺のその考えは即座に改められた。
とりあえずじゃなくて完全に逃げよう、と。
はね飛んだムカデの腕が空中で回転し、周囲の魔力っぽい何かを吸い取って、一気にマンホールの蓋ほどまでに膨れ上がった。
本体のムカデが『むおおお』と叫ぶように、後方に向かって海老反る。
そして、
反らした身体を反動で戻し、ないはずの腕を打ち下したッ!
広がった腕。大きくなった塊。ムカデの動き。
色々な情報を統合して考えた俺は、脳内警報にしたがって、
「樹々、逃げろおおおおお!」
逃亡宣言を高らかに上げた。
〈ぎゃっ〉
『わーーー』
「は、なに、なんなのよっ!?」
樹々が嘶き加速する。ドリーとリッツは、訳がわかっていないままに声を上げた。
直後。
空に浮かんでいた黒い球体が、次々と地面に降り注いだ。
「うおおおおおおおおおおッ!」
『むほぅぉぉぉおおっ!』
「ちょッ、危ない、潰れるっ」
すぐ横の地面が押しつぶされ、後方からドッカンドッカンと地鳴りが聞える。
数は百ほどあるのだろうか、その一つ一つの威力は中位と呼ぶには小さい。
しかしだ、人一人を殺すには十分な威力であった。
落ちてくる黒鉄球の狙いが絞れない。
ただ地面に落ちたりするものもあれば、ファシオンを潰しているモノもある。
俺たちの行き先を妨げるように降ってきたかと思えば、全く違う場所にも落ちていた。
完全に適当に殴っている。間違いなくなにか狙っているわけではないだろう。
なんというか……俺の記憶に刻まれているあの攻撃を、とてもよく再現していた。
広範囲、ランダム攻撃、敵も味方もお構いなし。
――使いづれぇ……。
ただ、ファシオンにもかなり被害が出ているらしく、チャリオットやなんかがボコボコと破壊されているのだから、まったく利益がないわけでもない。
――あれ?
ふと気がつくと、ムカデ本体がどこにもいなくなっている。
オカシイと思いながら周囲を見渡すと、落ち終わった黒塊が、溶けるように消えていくのを確認できた。
ああ、そういうことか。
どうやら、コイツはカマキリとかと違って、残って暴れるタイプではないらしい。
たぶん、一瞬だからこそ、ここまで広範囲を攻撃できるのではないだろうか。
ファシオンの足も止められたようだし、これは成功したと言っても良いよな……。
遠のいていく兵士や赤錆の姿を伺いながら、俺は『ありがとう、でも、もう出てくんな』と呟いた。
と、いきなり右肩がぎゅうと握られる。
振り返ってみれば、そこにはなんか首を小さく振っているリッツの顔が。
「……クロウエ、もし、アレを狭いところで使ったら、アタシは絶対にアンタを許さないから」
「……安心しろ、俺もそんな奴が近くにいたらきっと殴ってる」
心からリッツの言葉に同意してみたが、たぶんこれを使えるのは俺だけだろう。
自分を殴ることにならないように、俺は『使う機会がきませんように』と心からの祈りを上げた。
「で、これからどうするの? 逃げるのはいいけど、どっか街に入ったら追っ手にばれるんじゃない?」
リッツの言葉に、俺は黙って一度頷いた。
赤錆は結構根に持つタイプだし、たぶん追っ手くらいは出してくる気がする。
王の性格は良く分からないけれど、普通に考えれば、走破者斡旋所とかに賞金付きで晒される可能性は高い。
俺たち自体は本名明かしてないしなんの問題もないが、サバラやシズルさんは危ない。
街なんか入ったら、きっとすぐに見つかってしまうだろう。
ただ、実はそのあたりに関しては、余り心配していなかったりもする。
なぜなら、
「逃げ先はあるから心配すんな、ほら……拠点が一個残ってるだろ?」
「……ああ」
『おお、すっかり忘れてましたっ』
リッツの納得したような声と、ドリーの驚きの声を聞きながら、
俺は『なんでも用意しておくもんだな……』と零したのだった。