届かなかったメール
取り戻せない時間と、消えない想いを描いた短編です。
そのメールは、届かなかった。
送信済みフォルダには、今も残っている。
宛先も間違っていない。
ただ、相手の受信箱には、一度も入らなかった。
沙織と付き合い始めたのは、大学二年の冬だった。
駅前の喫茶店「ミモザ」が、僕たちの場所だった。
沙織はいつもカフェオレを頼み、スティックシュガーを二本入れて、
一口飲んでから「甘すぎた」と笑った。
毎回そう言うのに、毎回二本入れた。
笑うときは、手の甲で口元を隠した。
卒業して、仕事が忙しくなっても、週末には会った。
会えない日は携帯にメールを送った。
いつか一緒に暮らそう。
いつか猫を飼おう。
まだ何も決めなくていい顔で、そんな話をしていた。
ある夜、ミモザの帰り道で、沙織が言った。
「子どもって、何人くらい欲しい?」
「まだ早いだろ」
僕は笑ってごまかした。
沙織も笑った。
手の甲は、上がらなかった。
その夜から、「いつか」という言葉が重くなった。
半年後、雨の夜に別れた。
駅までの道で、僕は何度も言葉を探して、結局「ごめん」としか言えなかった。
沙織はしばらく黙って、「そう」と言った。
傘を持つ手が、少しだけ動いた。
それで終わった。
さらに半年ほどして、沙織からメールが来た。
「久しぶり」
それだけだった。
僕は返信画面を開き、「元気?」と打って消し、「久しぶり」と打って、それも消した。
返さなかった。
返さないまま、一年が過ぎた。
ある夜、電車の窓に映る自分の顔を見ていて、帰ってすぐに書いた。
あのとき、怖かった。
将来が嫌だったんじゃない。
沙織といる未来が、はっきり見えてしまって、それが怖かった。
送信した。
翌朝、受信箱に、英語の件名のメールが届いていた。
配信エラーを知らせる自動通知だった。
件名の最初の数文字だけ目に入って、僕は開かずに閉じた。
開けば、もう一度、続きを書かなければならなくなる。
返事は来なかった。
僕は、拒まれたのだと決めた。
そのほうが、楽だった。
そうして二年が過ぎた。
職場を変わり、引っ越し、携帯も替えた。
何人かと食事をしたが、話が将来に向かうと、僕は話題を変えた。
冬の夜、処分するつもりの古いノートパソコンを開いた。
起動に時間がかかった。
メールを整理していると、あの通知が、受信箱の底に残っていた。
二年、未開封のまま。
開いた。
宛先のアドレスは存在しません、と書かれていた。
沙織のアドレスは、とっくになくなっていた。
携帯会社を替えたのだろう。
そういえば、あの頃、新しい機種の話をしていた。
僕は、拒まれてなんかいなかった。
ただ、届いていなかった。
届いていたら、と考えかけて、やめた。
届いたところで何が変わったか、分からない。
共通の友人の戸田に、沙織の連絡先を訊いた。
二週間後、新しいアドレスが転送されてきた。
僕は短く書いた。
「会えないか」
返事は、翌日に来た。
「ミモザ、まだあるよ」
店は内装が変わり、壁の時計も新しくなっていたが、窓際の席は同じ場所にあった。
沙織は先に来ていた。
髪が短くなっていた。
カフェオレの前に、スティックシュガーが二本、まだ袋のまま置いてあった。
「久しぶり」
笑って、手の甲で口元を隠した。
近況を話した。
仕事のこと。
引っ越しのこと。
沙織は結婚していて、二歳の男の子がいると言った。
スマートフォンで写真を見せてくれた。
公園の砂場で、顔中に砂をつけて笑っている。
「幸せだよ」
「そっか」
何人欲しいか、という問いの答えが、テーブルの上にあった。
僕はそれ以上、何も言えなかった。
沙織が、カップに目を落としたまま言った。
「アドレス、変えたとき、知らせなかったでしょ」
「うん」
「あのあと、何か送ってくれた?」
本当のことを言えば、続きを書かなければならなくなる。
「ううん」と僕は言った。
沙織は「そう」と言った。
雨の夜と、同じ声だった。
届いていなかったのは、あのメールだけじゃない。
沙織はスティックシュガーを二本とも入れて、一口飲んだ。
「甘すぎた」
僕は笑った。
沙織も笑って、今度は、手の甲で口元を隠した。
帰り際、沙織は「会えてよかった」と言った。
僕も、そう思った。
家に帰って、古いメールソフトを開いた。
自分のアドレスを宛先に入れ、件名に「届いた」と書いた。
本文は、二行だけにした。
「あのとき、好きだった。
今も、そのことだけは嘘じゃない」
送信ボタンを押した。
しばらくして、受信音が鳴った。
僕は、開かずに画面を閉じた。
たとえ届かなくても、確かに存在していた気持ちは消えないのだと思います。
少しでも何かを感じていただけたなら幸いです。




