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届かなかったメール

掲載日:2026/10/10

取り戻せない時間と、消えない想いを描いた短編です。

そのメールは、届かなかった。


送信済みフォルダには、今も残っている。

宛先も間違っていない。

ただ、相手の受信箱には、一度も入らなかった。



沙織と付き合い始めたのは、大学二年の冬だった。


駅前の喫茶店「ミモザ」が、僕たちの場所だった。

沙織はいつもカフェオレを頼み、スティックシュガーを二本入れて、

一口飲んでから「甘すぎた」と笑った。

毎回そう言うのに、毎回二本入れた。

笑うときは、手の甲で口元を隠した。


卒業して、仕事が忙しくなっても、週末には会った。

会えない日は携帯にメールを送った。


いつか一緒に暮らそう。

いつか猫を飼おう。


まだ何も決めなくていい顔で、そんな話をしていた。



ある夜、ミモザの帰り道で、沙織が言った。


「子どもって、何人くらい欲しい?」


「まだ早いだろ」


僕は笑ってごまかした。

沙織も笑った。

手の甲は、上がらなかった。


その夜から、「いつか」という言葉が重くなった。


半年後、雨の夜に別れた。

駅までの道で、僕は何度も言葉を探して、結局「ごめん」としか言えなかった。

沙織はしばらく黙って、「そう」と言った。

傘を持つ手が、少しだけ動いた。


それで終わった。



さらに半年ほどして、沙織からメールが来た。


「久しぶり」


それだけだった。

僕は返信画面を開き、「元気?」と打って消し、「久しぶり」と打って、それも消した。

返さなかった。


返さないまま、一年が過ぎた。


ある夜、電車の窓に映る自分の顔を見ていて、帰ってすぐに書いた。


あのとき、怖かった。

将来が嫌だったんじゃない。

沙織といる未来が、はっきり見えてしまって、それが怖かった。


送信した。


翌朝、受信箱に、英語の件名のメールが届いていた。

配信エラーを知らせる自動通知だった。

件名の最初の数文字だけ目に入って、僕は開かずに閉じた。


開けば、もう一度、続きを書かなければならなくなる。


返事は来なかった。

僕は、拒まれたのだと決めた。

そのほうが、楽だった。



そうして二年が過ぎた。


職場を変わり、引っ越し、携帯も替えた。

何人かと食事をしたが、話が将来に向かうと、僕は話題を変えた。


冬の夜、処分するつもりの古いノートパソコンを開いた。

起動に時間がかかった。

メールを整理していると、あの通知が、受信箱の底に残っていた。


二年、未開封のまま。


開いた。


宛先のアドレスは存在しません、と書かれていた。


沙織のアドレスは、とっくになくなっていた。

携帯会社を替えたのだろう。

そういえば、あの頃、新しい機種の話をしていた。


僕は、拒まれてなんかいなかった。

ただ、届いていなかった。


届いていたら、と考えかけて、やめた。

届いたところで何が変わったか、分からない。


共通の友人の戸田に、沙織の連絡先を訊いた。

二週間後、新しいアドレスが転送されてきた。

僕は短く書いた。


「会えないか」


返事は、翌日に来た。


「ミモザ、まだあるよ」



店は内装が変わり、壁の時計も新しくなっていたが、窓際の席は同じ場所にあった。

沙織は先に来ていた。

髪が短くなっていた。

カフェオレの前に、スティックシュガーが二本、まだ袋のまま置いてあった。


「久しぶり」


笑って、手の甲で口元を隠した。


近況を話した。

仕事のこと。

引っ越しのこと。

沙織は結婚していて、二歳の男の子がいると言った。

スマートフォンで写真を見せてくれた。

公園の砂場で、顔中に砂をつけて笑っている。


「幸せだよ」


「そっか」


何人欲しいか、という問いの答えが、テーブルの上にあった。

僕はそれ以上、何も言えなかった。


沙織が、カップに目を落としたまま言った。


「アドレス、変えたとき、知らせなかったでしょ」


「うん」


「あのあと、何か送ってくれた?」


本当のことを言えば、続きを書かなければならなくなる。


「ううん」と僕は言った。


沙織は「そう」と言った。

雨の夜と、同じ声だった。


届いていなかったのは、あのメールだけじゃない。


沙織はスティックシュガーを二本とも入れて、一口飲んだ。


「甘すぎた」


僕は笑った。

沙織も笑って、今度は、手の甲で口元を隠した。


帰り際、沙織は「会えてよかった」と言った。


僕も、そう思った。



家に帰って、古いメールソフトを開いた。

自分のアドレスを宛先に入れ、件名に「届いた」と書いた。


本文は、二行だけにした。


「あのとき、好きだった。


今も、そのことだけは嘘じゃない」


送信ボタンを押した。


しばらくして、受信音が鳴った。


僕は、開かずに画面を閉じた。


たとえ届かなくても、確かに存在していた気持ちは消えないのだと思います。

少しでも何かを感じていただけたなら幸いです。

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