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【短編小説】武蔵野クソ自転車

掲載日:2025/12/28

 クソを漏らしそうだった。

 仕事を終えた俺は帰路についている。そして夜道でクソを漏らしそうになっている。

 ロードバイクのペダルを踏みながら頭の中で地図を開いたが、前後500m以内にコンビニは無い。

 だが俺の活動限界は近い。


 俺の人生には数少ない自慢がある。

 虫歯になった事がないのがひとつ。全て自前の歯だ。

 そしてもうひとつは、クソを漏らした事が無いことだ。ションベンを漏らした事も無い。

 だがその自慢が今日、終わろうとしている。

 しかもロードバイクに乗ったままだ。

 ツールドフランスやブエルタアエスパーニャの選手なら、ロードバイクに乗ったままクソもションベンも自由自在だろう。

 しかし俺は単なるサラリーマンだ。



 夜風が脂汗を乾かす。

 ペダルを踏む足が震える。

 野糞、と言う文字が頭を過ぎる。

 成人してから十何年経った?就職してから何年だ?

 大した問題も起こさずにここまでやってきた。

 学生の頃はボンクラ過ぎて、実の親にすら「マンション買って管理人でもさせるしかねぇか」などと言われたが、それでも必死に生きてきた。

 その結果が野糞なのか?


 冗談じゃあない。

 俺はペダルを踏んでロードバイクを前に進めた。何か解決策があるはすだ。

 それが何かは分からない。

 だが停まるよりは進め。

 俺は探した。コンビニ、ドラッグストア、牛丼チェーン店。

 だが前方に光は無い。

「光あれよ!」

 俺の怒鳴り声は暗闇に消える。だが便意は全く消えない。

 腸が唸り、括約筋が絶叫する。

 刺し込むような痛みが走り、苦痛に歪んだ俺の顔は鏡を見ずとも容易に想像ができた。

 


 俺は探した。

 例えば公的機関。そう、俺たちの暴力的な公僕でも良い。

「光あれ!」

 果たしてそこに交番があった。

 暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるオアシス。薄暗い天国。

 俺はロードバイクを停めた。

 箱の中に突っ立った公僕たちが俺を見る。

 俺の膝は笑い、シュプレヒコールを上げる腸を宥めようと前傾姿勢になっていた。


 光の後に言葉があった。

「すみません、ちょっといいですか」

 俺は括約筋の限界を感じながら公僕たちに訊く。

「トイレは借りられますか」

 いつも俺の職務について質問されるんだ、たまにはこちらから何か訊いたって良いだろう。


 公僕たちが笑った。

「普段は貸さないんだけどね、そんなに切羽詰まった顔をされたら貸さない訳にはいかないよ」

 俺も笑う。会心の愛想笑いだ。

 御託はいい、頼むからさっさと貸してくれ。


 それは救いだった。

 俺は公僕の便所で腹の中にある糞と言う糞を出した。

 それは解放だった。

 腸は悦びの声を上げ、歓喜のリズムで躍動した。

 括約筋は嬉し涙を流し、愉悦のテンポで踊り狂った。


 公僕たちの便所、それはまさに天国だった。

 俺はその天国を見回す。

 白かった壁紙は手垢とヤニで茶色く変化していた。

 何か警察標語のようなものがあると思ったが、何もなかった。

 素晴らしい。薄暗い天国だ、光が無いなら言葉も要らない。

 そこにあるのは、救いだけで良い。


 俺は最後の糞を腹から落とし、固い紙でケツを拭いた。

 ウォシュレットは無かった。

 構わない。天国に酒池肉林は要らない。存在が救いなのだ。

 俺は深いため息を吐いた。

 俺は救われた。

 便所を出たら親切な公僕たちに思う存分、職務質問をさせてやるのだ。

 暇な交番勤務だ、退屈凌ぎにはなるだろう。


 深夜にロードバイクを漕いでるクソが限界の男。

 仕事は?この自転車はどこで?

 帰り?身分証を拝見しても……

 聴きたいことはあるだろう。

 構わないさ、俺の尊厳を守ってくれたんだ。

 俺は救われたのだ。


 ズボンを履いて立ち上がる。

 音だけは立派な換気扇が、俺のクソが放つ臭気をかき混ぜていた。

 俺を救ってくれた公僕の箱。

 その公僕の箱の中にある小さな箱。

 サンキュー、ありがとう。

 俺は手垢とヤニで汚れたドアノブを掴んだ。

 来いよ、公僕。警察手帳なんか捨ててかかってこい!どんな質問にだって答えてやる!


 俺がドアを開けると、そこは無限の荒野だった。

 草も木も石すらない無限の荒野に俺は立ち尽くしていた。

 振り向くと便所のドアが閉まり、世界から光が消えた。

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