【短編小説】武蔵野クソ自転車
クソを漏らしそうだった。
仕事を終えた俺は帰路についている。そして夜道でクソを漏らしそうになっている。
ロードバイクのペダルを踏みながら頭の中で地図を開いたが、前後500m以内にコンビニは無い。
だが俺の活動限界は近い。
俺の人生には数少ない自慢がある。
虫歯になった事がないのがひとつ。全て自前の歯だ。
そしてもうひとつは、クソを漏らした事が無いことだ。ションベンを漏らした事も無い。
だがその自慢が今日、終わろうとしている。
しかもロードバイクに乗ったままだ。
ツールドフランスやブエルタアエスパーニャの選手なら、ロードバイクに乗ったままクソもションベンも自由自在だろう。
しかし俺は単なるサラリーマンだ。
夜風が脂汗を乾かす。
ペダルを踏む足が震える。
野糞、と言う文字が頭を過ぎる。
成人してから十何年経った?就職してから何年だ?
大した問題も起こさずにここまでやってきた。
学生の頃はボンクラ過ぎて、実の親にすら「マンション買って管理人でもさせるしかねぇか」などと言われたが、それでも必死に生きてきた。
その結果が野糞なのか?
冗談じゃあない。
俺はペダルを踏んでロードバイクを前に進めた。何か解決策があるはすだ。
それが何かは分からない。
だが停まるよりは進め。
俺は探した。コンビニ、ドラッグストア、牛丼チェーン店。
だが前方に光は無い。
「光あれよ!」
俺の怒鳴り声は暗闇に消える。だが便意は全く消えない。
腸が唸り、括約筋が絶叫する。
刺し込むような痛みが走り、苦痛に歪んだ俺の顔は鏡を見ずとも容易に想像ができた。
俺は探した。
例えば公的機関。そう、俺たちの暴力的な公僕でも良い。
「光あれ!」
果たしてそこに交番があった。
暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるオアシス。薄暗い天国。
俺はロードバイクを停めた。
箱の中に突っ立った公僕たちが俺を見る。
俺の膝は笑い、シュプレヒコールを上げる腸を宥めようと前傾姿勢になっていた。
光の後に言葉があった。
「すみません、ちょっといいですか」
俺は括約筋の限界を感じながら公僕たちに訊く。
「トイレは借りられますか」
いつも俺の職務について質問されるんだ、たまにはこちらから何か訊いたって良いだろう。
公僕たちが笑った。
「普段は貸さないんだけどね、そんなに切羽詰まった顔をされたら貸さない訳にはいかないよ」
俺も笑う。会心の愛想笑いだ。
御託はいい、頼むからさっさと貸してくれ。
それは救いだった。
俺は公僕の便所で腹の中にある糞と言う糞を出した。
それは解放だった。
腸は悦びの声を上げ、歓喜のリズムで躍動した。
括約筋は嬉し涙を流し、愉悦のテンポで踊り狂った。
公僕たちの便所、それはまさに天国だった。
俺はその天国を見回す。
白かった壁紙は手垢とヤニで茶色く変化していた。
何か警察標語のようなものがあると思ったが、何もなかった。
素晴らしい。薄暗い天国だ、光が無いなら言葉も要らない。
そこにあるのは、救いだけで良い。
俺は最後の糞を腹から落とし、固い紙でケツを拭いた。
ウォシュレットは無かった。
構わない。天国に酒池肉林は要らない。存在が救いなのだ。
俺は深いため息を吐いた。
俺は救われた。
便所を出たら親切な公僕たちに思う存分、職務質問をさせてやるのだ。
暇な交番勤務だ、退屈凌ぎにはなるだろう。
深夜にロードバイクを漕いでるクソが限界の男。
仕事は?この自転車はどこで?
帰り?身分証を拝見しても……
聴きたいことはあるだろう。
構わないさ、俺の尊厳を守ってくれたんだ。
俺は救われたのだ。
ズボンを履いて立ち上がる。
音だけは立派な換気扇が、俺のクソが放つ臭気をかき混ぜていた。
俺を救ってくれた公僕の箱。
その公僕の箱の中にある小さな箱。
サンキュー、ありがとう。
俺は手垢とヤニで汚れたドアノブを掴んだ。
来いよ、公僕。警察手帳なんか捨ててかかってこい!どんな質問にだって答えてやる!
俺がドアを開けると、そこは無限の荒野だった。
草も木も石すらない無限の荒野に俺は立ち尽くしていた。
振り向くと便所のドアが閉まり、世界から光が消えた。




