携帯電話から聞こえた声
午後四時を少し過ぎた駅の構内は、帰宅途中の学生と買い物帰りの人たちでごった返していた。
ベビーカーを押しながら人波の隙間を縫うのは、相変わらず小さな戦いだ。
ベビーカーには幼稚園帰りの長男が座り、持ち手にはスーパーの袋がかかっている。中身は安売りの豚こま肉と、見切り品の野菜。
抱っこ紐の中の次男は人の多さにご機嫌ななめだ。
夕食の献立を考える気力もなく「今日は豚汁でいいや」と自分に言い聞かせながら、ふと昔を思い出す。
子どもの頃、母がよく焼いてくれた丸いパンの香り。
休日の朝にそれが漂うと、家中が柔らかくなるような気がした。
末っ子の私はよく母のそばをウロチョロしてお手伝いをしたもんだ。
私はあのような母になれているのだろうか?
母は一昨年亡くなったが、パンの匂いは記憶の中に残っている。
「もう少しでおうち着くからね、がんばろうね」
笑顔を作る。口角を上げるだけなら、もう慣れた。
でもその“笑顔”が本物じゃないことは、鏡を見るまでもなく自分が一番よくわかっていた。
駅を出たところで、ベビーカーの車輪が何かを軽く弾いた。
見ると、ベンチの下に古びた携帯電話が落ちていた。
「……ガラケー? まだ現役だったんだ」
思わず呟く。
角は欠けているし、画面には蜘蛛の巣のようなヒビが走っていた。
電源ボタンを押してみても、反応はない。
時代遅れのその姿が、なぜだか妙に懐かしかった。
数秒迷ったあと、周囲を見渡す。
誰も探している様子はない。
駅員に届けようかとも思ったけれど、この時間、改札まで戻るのは正直しんどい。
壊れているし、きっと誰も取りに来ないだろう。
「明日スーパーに行くとき、ついでに駅員さんに渡せばいいか」と、自分に言い訳をしながら、それを鞄のポケットに入れた。
帰り道、息子達は寝息を立て、夕方の風が頬を撫でた。
遠くから聞こえる子どもたちの笑い声が、やけに遠く感じた。
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家に帰ると、いつの間にか起きていた長男の声が玄関に響いた。
「ただいまー!ママー!見て見て!今日ね、クレヨンでゾウ描いたの!」
しっかり寝て元気になった長男がベビーカーの上で座って足をバタバタさせている。
「あとで見せてね、ちょっと待ってて」
そう言いながら靴を脱ごうとした瞬間――
「ねぇママ!」と、長男が立ち上がってこちらに手を伸ばし、ベビーカーが傾いた。
「ちょっと!なにやってるの!危ないってば!!」
間一髪受け止めれば思わず強い声が出てしまい、抱っこ紐の中で寝ていた次男もその声で起きてギャン泣きをする。
注意された長男も笑顔がしぼんでしまった。
小さな肩がしゅんと落ち、わたしは慌てて息を吸い直した。
「ごめんね、ママ疲れてるだけ。絵、あとで見せて?」
「……うん」
その小さな返事が胸の奥に刺さった。
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夜。
こどもたちを寝かしつけ、洗濯機を回しながら台所を片づける。
夫は出張中。
冷めた味噌汁の鍋が、今日一日の疲れを映しているみたいだった。
ふと、テーブルの上の鞄が目に入った。
あの古い携帯が入っている。
取り出してみると、手にひんやりとした金属の感触。
やっぱり電源は入らない。
今どきのスマホよりずっと小さくて、どこか“人のぬくもり”がある形だ。
「昔はこれで全部済んでたんだよね」
メールも、写真も、電話も。
あの頃の自分を思い出す。
まだ子どももいなくて、夫とデートして、友達と夜遅くまで電話して……。
思わず笑って、そして少し寂しくなった。
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「今日もやっと終わった…」
洗濯機の終了音が鳴る。
洗濯物を干して、リビングの灯りを消そうとしたその時――。
テーブルの上で、携帯が震えた。
え?
一瞬、息が止まる。
壊れていたはずの古い携帯の画面が、淡く光を放っていた。
ひびの入った液晶の奥で、かすかに文字が揺れている。
「着信中」
呼び出し音はしない。ただ、震え続けている。
心臓が、どくん、と跳ねた。
「……うそでしょ」
恐る恐る受話器のボタンを押す。
小さなクリック音のあと、耳の奥でノイズが弾けた。
「も、もしもし……?」
一瞬の静寂のあと――。
『もしもし? ふふ、びっくりさせたかしらね。急に話しかけちゃって。』
柔らかい女の声。
少し年配のようで、どこか懐かしい響き。
「い、いえ……あの、この電話……拾ったもので、落とし主の方ですか?」
『違うわ。でもね、少し前からあなたの声が聞こえたの。疲れた声だったから、つい。』
「え、それってどういう――」
『ねぇ、あなた。今、泣きそうな声をしているわね。』
「……え?」
『無理して笑ってる声って、すぐわかるのよ。』
その一言で、胸の奥がぐらっと揺れた。
思わず口を閉ざしたけれど、沈黙の間を縫うように、優しい声が続く。
『今日は大変な日だったのね。』
「……毎日、です」
自分でもびっくりするほど、あっさりと言葉が出た。
まるで、こぼれるみたいに。
「朝から下の子がぐずって、上の子は幼稚園行きたくないって泣いて。なんとか幼稚園に送っていったら下の子を病院に連れていって…洗濯は溜まってるし、掃除は2日もかけてないし、ご飯も作らなきゃ離乳食も作らなきゃで……気づいたら、もう夕方で」
『ええ。頑張ってるのね、あなた。』
「頑張ってるって言われると……なんか、泣けてきます」
喉が詰まって、笑いながら言うと、目の奥がじんと熱くなった。
顔も知らない人に、こんなふうに言われただけで、どうして。
『頑張ってる人ほど、自分では気づかないものよ。疲れの形にも気づけなくなるの。』
「疲れの、形……」
『そう。心がこぼれる音を、誰かに聞いてもらうだけで、少し軽くなるでしょう?』
彼女の声は、夜風みたいだった。静かで、優しくて、少し懐かしい。
私は気づいたら、子どものこと、夫のこと、自分の情けなさを全部話していた。
「夫が悪いわけじゃないんです。仕事で忙しいのもわかってる。でも、私ばっかり置いていかれてる気がして……」
『うんうん。』
「子どもが可愛いのも本当です。でも、たまに、ほんの一瞬だけ、全部投げ出したくなる時があるんです」
『あるわね。私も昔、そうだったもの。』
「え……おばあさんも?」
『ええ。子どもが三人いたの。末っ子がね、夜泣きがひどくて……夜の静けさが怖くなった時期があったのよ。』
おばあさんの声が、少し笑い混じりに続く。
『でもね、そんな夜に母が電話をくれたの。“大丈夫?”って。それだけで泣いちゃったわ。』
「……私、今まさにそれです」
『でしょうね。声の震えでわかるもの。あなた、よく頑張ってる。ほんとうに。』
たったそれだけの言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
涙が頬を伝っていく。止まらない。
テレビの小さな光が、ぼんやりと滲む。
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どれくらい話していただろう。
時計を見たら、もう一時間近く経っていた。
『もう、子どもたち寝ちゃったかしら?』
「はい。ぐっすり。なんか、私まで眠くなってきました」
『よかった。少しだけでも、心の荷物を置けたなら。』
「……ありがとうございます。顔も知らないのに、なんだか、ずっと前から知ってたみたいな感じです」
『それは、あなたが優しい人だからよ。優しい人はね、優しい声を覚えてるの。』
おばあさんの言葉が、胸に響く。
『ねえ、最後にひとつだけ。忘れないで。』
「……はい?」
『“ちゃんと疲れていい”のよ。お母さんだって人間だもの、喜怒哀楽のあって休むことの必要な生き物なんだから。』
その言葉を聞いた瞬間、涙がまたこぼれた。
何度も頷く。嗚咽が止まらない。
「……ありがとう、ございます」
『いいの。あなたの声、ちゃんと届いたから。』
その言葉と同時に、ふっと通話の音が遠ざかった。
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画面が暗くなる。
携帯を見つめて、しばらく動けなかった。
自分のスマホの通知音が鳴って、我に返る。
夫からのメッセージだった。
〈出張終わったよ。明日帰る〉
「……そっか」
涙を拭って、深呼吸する。
携帯をテーブルに置き、子どもたちの寝顔を見に行く。
穏やかな寝息。
世界が少しだけ、やさしく見えた。
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戻ってきて、さっきの携帯をもう一度手に取ろうとした。
けれど――ない。
テーブルの上にも、床にも、ソファの下にも。
どこを探しても、見つからなかった。
「……あれ?」
確かに、ここに置いたはずなのに。
そのとき、階段の方から足音がして、長男が寝ぼけ眼で顔を出した。
「ママ……まだ起きてるの?」
「うん、ちょっとね」
「……ママ、なんかいい匂いする。パンみたい」
「パン?」
「うん。おばあちゃんちで焼いてたパンの匂い」
不思議に思って笑うと、胸の奥が温かくなった。
「そっか……寝ようか、もう」
子どもを抱きしめながら、テーブルに視線を戻す。
あれだけ光っていたはずの携帯なのに、跡形もなかった。
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数日後の朝。
長男を見送り、次男をおんぶしながら洗濯物を干していた時。
庭のすみに、見覚えのない小さな花が咲いていた。
記憶の片隅にあった実家と同じ淡い紫のスミレ。
風に揺れて、微かにパンのような香りがした。
「……お母さん?」
思わず笑って、空を見上げた。
青空の中に、どこかで“もしもし”と笑う声が聞こえた気がした。
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それから時々、疲れた夜にふとあの匂いがする。
パンの香ばしさと、優しい声の記憶。
わたしはそのたびに台所の灯を落とし、小さく呟く。
「……大丈夫。今日もがんばれたよ」
スミレが窓辺でゆらりと揺れる。
まるで返事をするみたいに。




