第一話
校門を通った俺は案内に従い、長い廊下を歩いていた。
覚悟は決まった。けれど、胸の奥にじりじりと燻る不安が残っていて、女だとバレていないか。そんな疑念が、誰かと擦れ違うたびにひやりと首筋を撫でてくる。
ようやく辿り着いたのは、【1-A】の文字が掲げられた教室の前だった。
(よし…)
扉を開いた瞬間、教室に満ちていたざわめきがピタリと止んだ。
クラス十数人の視線が一斉に、俺の全身を見定めるように向けられる。
相手の価値を測る冷たい目線——
それは、貴族の嗜みとでもいうべきものだった。
頭では理解していても、いざ自分に向けられると体が固まってしまう。
……お前の嘘なんて、見透かしてるぞ
そんなふうに告げられている気がしてならない。
でも、それもほんの一瞬のことだった。
次の瞬間には誰もが興味を失ったようにまた各々の会話へ戻っていた。
マフラーを口元まで上げ、そして小さく深呼吸をした。
教室には既に小さな派閥ができていた。
昔からの知り合いなのだろう。
お父さんが亡くなってからほとんど貴族の世界に馴染みなかった俺がその輪に入れるはずがない。
……いや、入る気も最初からなかった。
(ここに来たのは、誰かと馴れ合うためじゃない)
それに、うっかり気を許して女だとバレたりしたら元も子もない。
騒いでる集団を横目に、掲示された座席表に視線を落とす。
(一番後ろの、真ん中か……)
ただ何より驚いたのは、その隣の名前だった。
——スチュワート・ダレン
(スチュワート家って、まさかあの?)
お父さんが昔教えてくれた。王家に次ぐ権力を持つ5大貴族。その一つがスチュワート家だと。
まさか、そんな名家の人間と隣同士になるなんて——
後方に目をやると、すぐにそれとわかる人物がいた。
整った横顔。乱れのない制服。静かに孤立をまとい他を寄せ付けない存在感。峰の上で一人佇むオオカミのようだった。
(……かっこいい…)
思わず呟きそうになって、慌てて頭を振る。
(いやいやいや、見惚れちゃだめ!でも…流石に挨拶くらいは、したほうがいいよね)
彼の席に近づくと、軽く咳払いして声を落として話しかけた。
「今日からよろしく」
「……チッ」
……返事もない。視線すらよこさない。
それどころか舌打ちのような音だけが返ってくる。
(挨拶スルーどころか舌打ち!?なんなの。ちょっとでもかっこいいとか思った自分が恥ずかしい…)
口をついて出そうになった言葉を、グッと飲み込んだ時、後ろから声がした。
「こらこら、そんな態度とっちゃだめでしょ〜」
振り向くと、金髪の少年が立っていた。少し崩した制服。太陽みたいな笑顔。ダレンとはまた違う印象の青年だ。
「うるせー黙ってろ」
「ごめんね。ダレン朝弱くてさ。今は機嫌悪いから近づかないほうがいいよ」
金髪の少年はそのままスッと俺の隣の席に座った。
どうやら彼も隣の席らしい。
「えっと…二人は友達なの?」
「もちろん。」
彼は誇らしげに胸を張り、勢いよく立ち上がると、満面の笑みを浮かべダレンの肩に手を回した。
「親友も親友。超親友。物心ついた時からずっと一緒でニコイチってやつ?」
ダレンは露骨に嫌そうな顔で、その手を振り払う。
「…うるせー。離れろバカ」
「ほらね?息ぴったりでしょ?」
得意げに語る彼に思わず吹き出してしまった。
「…フフ…なにそれ」
緊張でこわばっていた身体が、ふっと和らぐのを感じた。
「おお!やっと笑ったね。校門の前でもめっちゃ険しい顔してたから、大丈夫かなって、僕もダレンも心配してたんだよ。クラスのみんなも、あれなんだって話で持ちきりでさ。」
「…なっ…」
顔が赤くなるのを感じる。
まさか…校門でうだうだしていたところを見られてたとは。
俺が入った時に皆んなから向けられた視線の理由が分かった。あれは品定めしてたんじゃなくて、ヤバいやつが来たって思われてたのか…
でも…ダレン…俺を心配してくれたのか。
もしかしたら意外といいやつなのかも。
「僕はアル、よろしくね」
「俺はシオン、よろしく」
差し出された手を握り返した。
握った手は太陽のように温かかった。その温度に、心が緩む。——だが次の瞬間、ぐっと腕を引かれる。
「きゃ…!」
「うーん……名前も声も、全部女の子っぽいよね」
「えっ……?」
アルが首をかしげる。でも——その目は、からかいの色をほんの少しだけ帯びている気がした。
「背も小さいし、目もぱっちりしてるし……ていうか、ほんとに男子?」
(やば、ばれた!?)
「も…もちろん男に決まってるだろ」
目を逸らして答える俺を、アルはさらにじっと見つめる。
「ほんとに?その辺の女の子より全然かわいいし…」
俺の心拍数に比例するようにアルの顔がどんどん近づいてくる。
(やば、近い近い近いって!)
「気色悪ぃ。ナンパなら外でしてこい」
ダレンが呟いた。
(助かった…)
アルが肩をすくめて笑う。
「ほら言われてるよ。シオン」
「なんでわた…俺!?」
思わず声が裏返る。
アルが「冗談」と笑い、ダレンはあいかわらず無表情。
(なっ…なんなんだ、この二人は…)
思考が追いつかない。たった今まで「初対面」だったはずなのに…
チャイムが鳴った。
「お前ら〜座れ!」
担任らしき教師が気だるそうに教室に入ってくる。俺も慌てて席に座る。
(はあ…心臓が飛び出るかと思った…)
ようやく一息つける…
この学校で生きていくの、思ったよりずっとハードかもしれない。
毎日がこれだと、ほんとに身がもたないってば……。
でも、逃げるわけにはいかない。
ただ、この“地獄の初日”はまだ始まったばかりなことを、俺は知らない。
教壇に立つ教師が含みのある笑みでボサボサの髪をかきながらこちらを見ている。
その笑みに、不吉な予感を感じた。
座席表を見て教師は気だるそうに呟く。
「確かキャロル家には男児はいなかったはずだが…」
——その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。