恋しくとぞ君は覚ゆる
初めての投稿です。
古典の時間は少し眠い。
さっきまでプールをしていたから尚更、頑張って起きようとしてもみんな気が付けば舟をこいでしまっている。
ほんのり塩素のにおいが鼻をくすぐって、しっとりした教室の中に窓から心地よい風が吹いてきて、カーテンがぶわりと大きく膨らんだ。
ああ、隣の席の瀬川君、何とか起きていようと目を開けていたけどついに睡魔に負けてしまっている。
こっくり、こっくり、頭が揺れる。
みんなの眠気など知らぬ風で、先生の長い指が教科書をパラリと捲った。
心地よい低い声が文章を読んでいく。
「二つ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる」
私はドキドキしながらその声を聴く。
「これはだな、二つ文字というのは『こ』、牛の角文字は『ひ』、直ぐな文字は『し』、歪み文字というのは『く』のことなんだ」
こ、ひ、し、く、とぞ君は覚ゆる
「意味としては、あなたを恋しく思います、ということだな」
恋しくとぞ君は覚ゆる
この気持ちが恋なのか、それとも大人の男の人に対するただの憧れの気持ちなのか、私には分からない。
だけど一つ言えるのは、先生を見ているととてもドキドキする。
それに、この気持ちが恋だったとしても、今は愛だの恋だの言っていられない受験生真っ只中だし、大人の先生が子供を相手に恋愛感情を抱くことなんてないってわかっている。
だからこの何とも言えない気持ちはだれにも打ち明けるつもりはない。
先生の授業でひっそりと先生を見ることができるだけで満足だ。
「この歌は、後嵯峨天皇の娘が父を恋しく思う気持ちを兼好法師が歌にしたもので…」
ゆったりと流れるこの時間が、永遠に止まってしまえばいいのに。
「標野さんって、天野先生のこと好きなの?」
下校時間、昇降口でたまたま会った瀬川君に唐突に聞かれて思わず固まってしまう。
爆弾発言をしてきた張本人は、別に興味津々というわけでもなくて、どちらかというとあまり興味なさそうな顔をしている。
「え、な、なんで?」
「いつも授業中、天野先生のことじっと見てるから」
「そうかな?」
そんなにじっと見つめていたかな?まさか見られていたなんて。
「俺、標野さんのことずっと見てたから、すぐにわかるよ」
何を言われたのか分からなくて、思わずポカンとした間抜けな顔で瀬川君を見つめてしまった。
瀬川君は苦笑いのような何とも言えない顔で私を見つめながら、「瀬川さんのこと、去年の春からずっと好きだったんだ」とまたまた爆弾発言を投下する。
「あの、えーと…」
何と言っていいか分からない私は言葉がなかなか出てこなくて、二人の間に気まずい沈黙が落ちた。
「…今日の古典のさ」
瀬川君が口を開いた。
古典の時間、瀬川君眠ってたと思ったけど、起きてたの?
「恋しくとぞ君を覚ゆる、ってのを聞いて、あー俺の標野さんへの気持ちは恋なんだなってしっくり来てさ」
「…そうなの?」
「うん。今日まで標野さんのことすごく気になって、いつも目で追ってたんだけど、自分でもなんでかなって分かんなくて。」
私と同じだ。
「だけど今日、天野先生の授業中に先生をじっと見てる標野さんと、恋しくとぞ君を覚ゆるって短歌が急につながった気がしてさ。ああ、標野さんは先生に恋してるんだって。そんで俺も標野さんに恋してるから、いつも目で追っちゃうんだって気づいたんだ。」
真剣な瀬川君の顔を見て、私も、天野先生への気持ちが恋だっていうことに気づいてしまった。
そっか、そうだったんだ。
「標野さんが天野先生のこと好きなのは分かってる。だけど玉砕覚悟で言わせて。俺と付き合ってください」
家に帰りついて自室に入る。お行儀悪いけど、ラグの上でゴロンと横になった。
今日のことを思い出して一人で赤面してしまう。
あの後、瀬川君の告白は丁重にお断りさせてもらった。
瀬川君のおかげで、私のこの気持ちが恋心だって気が付いてしまって、こんな気持ちで瀬川君と付き合うなんて瀬川君に失礼だと思ったからだ。
瀬川君はちょっと笑いながら、「俺、まだまだ標野さんのことあきらめないから」と謎の宣言をされたしまった。
天野先生宛に文を書く。
二つ文字 牛の角文字 直ぐな文字 歪み文字とぞ君を覚ゆる
たったこの一文だけ書いて、明日先生に渡そうと思う。
きっとちょっと驚いて、ありがとうと言いながら、そしてきちんとお断りしてくれるだろう。
そう思いながら、初めて自覚した短い片思いをせめて明日まで味わおう。