EPISODE:09 バーミリオンゲート、収束します。
玄関の扉を静かに閉めると、春の夜風が肌を撫でた。
外はもう、すっかり夜の帳に包まれている。
頭上に浮かぶ星が一つ、小さく瞬いていたが、空全体は街の明かりに呑まれ、霞んでいる。
律塔堂の高台から見下ろしていた夜の漆黒とは、どこか違う、鈍く濁った、無数の光に沈む夜だった。
足元にはアスファルト。
街灯が路面を照らし、白線が淡く浮かんでいる。
歩道の隅には、乾ききった桜の花びらが、ひらひらと風に追われて転がっていた。
「……変な世界だ。」
誰に言うまでもなく、ぽつりと呟きながら、行き先も、目指す場所もなく、ただ歩く。
住宅街の合間を縫うようにして、時折通り過ぎる鉄の車輪の音、遠くから聞こえるベルの音が微かに流れる。
どれもが、どこか妙によそよそしく、どこまでも無関係に響いていた。
……何だ、この胸のざわつきは…。
これが、罪悪感なのか…?
私が罪悪感を抱えている…?どうしてだ?
何故私が、私なりに善を成す度に、人が悲しむんだ…?
ただ、よくやってくれたと、ありがとうと、褒めてもらいたいだけなのに、どうしてここまでどの世の中も上手くいかないんだ……。
やがて角を曲がった先で、コンビニと書かれた建物が白い光を放っていた。
自動でドアが滑らかに開き、どこかの誰かが、笑いながらジュースを買っている。
私はその光景を、しばし立ち止まって眺め、まるで夜に溶け込む影のように、また歩き出した。
ポロン…。
夜風に紛れて、何かが聞こえた。
ポロロン……。
「これは、ピアノの音か?」
不意に鼓膜を撫でるような、優しく、どこか不気味な旋律が、静かな住宅街に響く。
「この音…、まさか…!?」
私は音のする方へ、衝動的に駆け出した。
タッタッタッタッタッタ…
乾いたスニーカーの足音が、小さな石畳に響く。
誰もいない曲がり角をいくつもすり抜け、息を切らしながら、ピアノの旋律が鳴る方向へ導かれるように走る。
やがて視界が開け、細く流れる川沿いの小径へと出た。
水面は闇に沈んでいたが、街灯の光がところどころに反射し、ゆらりと揺れては溶けていく。
風は少し冷たく、けれど頬を撫でるその感触は、妙に心地よい。
川辺の桜はもう葉桜になりかけていたが、それでも枝の先に残る数枚の花びらが、走り抜ける足元でふわりと跳ね、ひとひら、肩に落ちた。
「あ…。」
風が吹き、前髪がふわりと持ち上がった。
開けた視界に映ったのは、一人、川を覗き込む少女。
柔らかな栗色の巻き髪が、肩のあたりでふわりと揺れ、頭には深いベレー帽をちょこんと乗せ、こっくりとしたチョコレートブラウンのワンピースの襟元には白いレースがあしらわれいる、まるで絵本から抜け出してきたような佇まいの、お嬢様風の姿。
「真香…?」
数歩、彼女に歩み寄るが、足が止まる。
「違う…。」
姿形は間違いなく真香なのに、なんというか、そこに纏う空気が違う。
木々がざわめき、風で川面が騒ぐ。
「貴様…、フィアノアだな?」
ピアノの音はもう止んでいた。
もしかして私は、彼女に誘われたのか…?
「まもなく、十時二十一分です!転生完了まで、残り一分!」
「何だ?見ないうちに時報を告げる鶏の役でも受け持ったのか?それとも、こんな成りの私だ。夜遅くに出歩くのを心配し、注意でもして来てくれたのか?」
話しかけるが、彼女の方から応じる気配はない。
「口も聞けぬか!鶏女め!!」
距離を詰め、私は彼女の首を両手で掴み、地面に押し倒す。
「律式が通じなくとも、私は貴様を容易く殺せるぞ。あのピアノの旋律、夥しい鉄の鳥の群れ、私の部屋への無断侵入、地響き、父上やメノリエの死、転生の意味、これらイカれた事象、全て知ってるんだろう?答えろ。簡潔に、丁寧に、全てを、今すぐにだ!!」
ポロン…。
またピアノの音がした。
どこからかはわからない。
彼女は目の前にいる。
じゃあ誰が弾いているんだ?
ポロン…。
「アルマリス国民全員の転生が完了しました!バーミリオンゲート、収束します!」
彼女が掠れた声で、そう言うと、役目を終えたように目を閉じた。
「アルマリス国民全員だと…?」
思わず、首を掴んでいた手を離す。
私の国の民全てがこの世界へ運ばれた?
そして運んだのは、この小娘ということか…?
どうやったらそんな事ができる?百万人はいるぞ…?
さっきニュースとやらで言っていた集団的異常行為、意識障害、別人が乗り移ったような振る舞いだとか……。
あれらはもしや、アルマリス国民が全員私のようにこの世界に運ばれてきたということか……。
それ、やばくないか…?
これが…、あの王宝の正体であり、父上の言っていた、アルマリス国民全てを災いから救い給う特別な律式…。
ということはまさか、私やメノリエや父上は、死んで転生したのではなく、この世界の住民として、滅びゆく世界を変えて、再びやり直す機会を得ただけにすぎない…?
それって…、
「最高じゃないか…。」
今、やるべき明確な目的ができた。
こちらに転生したと思われる全てのアルマリス国民を集め、ここに新しいアルマリス国を築き上げる。
それが、アルマリス国の王の務めであろう。
まずはノフィーナを、あの家族から連れ戻すか。
「眞人っ!!」
背後から、聞き覚えのある、震えた声がした。
「ま…、ひと…っ!!」
涙ぐんだ表情をしながら私に向かって全速力で走ってきて、バッ!と息が詰まるくらいに抱きしめられる。
「ごめん眞人ぉ!ごめんーーー!!!」
母は、声にもならない嗚咽で、子供のように泣きじゃくり、大粒の涙が私の肩を湿らせた。
「あんたを疑ったりしてごめん!どんなあんたでも、眞人は眞人や!だからもう、勝手にどこにも行かんといて!」
何だ…この女。
さっきまで猿が怒ったように、手当たり次第に怒声を浴びせ散らして叩きまくってたのに、少し離れてみれば癇癪を起こしながら反省し始めたぞ…。
というか、本当に別人なんだがな…。
これはバレたら、とんでもなくめんどくさいことになるぞ…。
「……わりだ。」
「ん…?」
「エビフライカレーを、おかわりだ。それ次第では今までの愚行、許してやっても構わん。」
「え!?エビフライカレー!?無理なんやって。どこも今の時間、店閉まっとるし。」
「では、この話は無しだな。」
「ちょっと待ってや!ここは仲直りする流れやんか!!」
「私はどんな流れにも受け流されん!!」
「くぅーーー!!中学生ってみんなこんな反抗的になるもんなんかあーー!?」
目的遂行の為だ…。
今は、この眞人という生活に溶け込む事が最優先だな…。
「どうやって私を見つけたんだ?」
「え?あの子の鼻よ。」
「ワンッ!!」
母の後ろには、息を荒くさせた飼い犬ロワと、首輪に付けられた手綱のような紐を持ち、月夜に照らされている真香の姿があった。
「真香!!?」
後ろを振り返ると、さっきまでいたフィアノアの姿はどこにもなかった。
「真香…、今、母とここに来たところか?」
「はい!あの…、なんとかなりましたね。」
「あぁ…。」
真香はここに来るまで母と一緒に行動していた…。
という事は、さっきまでいたフィアノアとはやはり、別人物というわけか…。
じゃあ、あのフィアノアとやらは一体何者なんだ…?
姿形を変えずに、転生し、この世界にやってきて、私の周りをうろついている…。
何が、目的なんだ…?