EPISODE:02 最も人間的な怪物。
朝日が差し込む律塔堂の窓辺に、毎日と同じ変わらぬ光が落ちている。
空は眩しいほどに青く、風はない。雲一つもない。
それ自体は珍しい事でもない。
けれど、それも一ヶ月も続けば話は別だ。
異様に、空が静かすぎる。
いつもは聞こえるはずの市場の喧騒が、ほんの少し遠く感じられた。
まるでこの世界の外に、膜のようなものがかかってしまったかのように何かが街を包み込み、世界全体の音量をひとつ下げたような、そんな感覚。
窓の隅に吊るしておいたてるてる坊主は、この一ヶ月、ぴくりとも揺れない。
空気さえ、息を潜めているようだった。
「テレウァン王子。」
扉越しに聞き慣れた声が届く。
「入れ。」
ギィッとドアを押し開けられると、そこにいたのは、いつも通り朝の報告をしに来たハニヴァだった。
「今日も暑いな。水でも飲むか。」
「お言葉に甘えて。」
テレウァンは杯に水を入れてやり、ハニヴァに差し出す。
この頃、ハニヴァの様子が少しだけ柔らかくなったようにも見える。
以前なら、こうした申し出も律儀に断っていたはずだった。
「報告だろ?」
「はい。」
「聞こうか。」
「中央塔の鐘が、ここ一週間ほど鳴らしても、音が遠くへ届かなくなったとの報告があります。鐘の構造も正常で、金属疲労も確認されていません。」
「ん?風がないからか?」
「次に、水路から魚がいなくなったと複数寄せられています。水質にも異常は見られないと。」
「へぇ。珍しいな。風がないから…か?」
「続けます。中央広場の時計塔が、日々ほんのわずかずつ時刻がズレ始めているようです。歯車は正常に動いています。」
「ほう。なんだろうな…。風が…、いや、何なのだ?さっきから妙な報告ばかりじゃないか。」
いつもの拍子抜けする平和な報告らしからぬ、見えない何かが異常を警告しているような妙な報告ばかりを、ハニヴァは淡々と続ける。
「一部地域では、快晴なのに洗濯物が何日経っても全く乾かないという声も出ています。」
「はあ?洗濯物が乾かない……?」
眉をひそめるテレウァンに、ハニヴァは静かに頷いた。
「はい。天気は快晴、湿度も低く、風もなし。なのに乾かないと。」
「…ふざけているのか!?」
「それから、テレウァン果樹園を含む複数の畑から、一ヶ月以上雨が降らない件で深刻な乾燥被害が報告されています。」
一ヶ月前までのヘンテコで平和な報告の数々はどこへ行ったのか?
妙に噛み合った異常な報告の数々が、何か良からぬ事態の前兆を告げている気がして、テレウァンはじわじわと落ち着かなくなっていた。
「なにか…不穏だな。」
「ええ。災害と呼べるほどの異変は起きていませんが、被害の声は増えています。どうされますか?」
ハニヴァの目の奥が、冷たく光る。
テレウァンは椅子に深く座り、頭の後ろで手を組んだ。
「うーん…。頭使うの苦手なんだよなあ…。」
正直なところ、現地へ行ったところで専門知識のない彼に理解する事など限られている。
彼にあるのは、王族にだけ許された──「あの力」くらいだ。
「ニニを行かせてはどうだ?あいつの方がそういう技術的な面に詳しいだろ。」
「それでは民が納得しません。王子の姿が、現地では必要です。」
「……。仕方ない。行くだけ行ってみるか。」
こうしてテレウァンとハニヴァは次々と異変の現場を巡った。
水路を眺め、時計塔を見上げ、風車の羽根をじっと見つめる。
そして現地で民にも話を聞く。
「……原因は?」
「ここ一ヶ月、全く風が吹かないのです。」
「では、どうすれば吹く?」
「それは……風が吹くよう、祈るしか……。」
答えは皆、曖昧だった。
ついにテレウァンは地面にしゃがみ込み、頭を抱えた。
「…だぁああもうッ! なんなんだよこれは!異常も何もないじゃないか!ただの季節のズレだろ!?ったく頭使うのってなんでこんなにしんどいんだよーー!!」
何とももどかしい気持ちになり、子供の駄々のように叫ぶテレウァンの耳に、民達の声が背後から届く。
「結局、王子は何もしてくれないんだな。」
「来ただけで、腰を据えて話も聞かぬ。」
「期待した俺たちが馬鹿だったんだよ。」
その言葉に、テレウァンの心がざらついた。
いつもペコペコと崇めてきて、助けを乞うが、何もできないとわかると急に手のひらを返して愚痴る。
テレウァンは、民のわかりやすすぎるこれらの習性に昔から心底嫌気が差し、呆れていた。
しかし、
「お前ら何様だ! 王子はここまで来て、考えてくださっているんだぞ!」
一人の若者が声を張り上げた。
「なに?」
「文句だけ言って、誰一人解決の糸口も見つけてないくせにッ!」
次の瞬間、火がついたように怒号が飛び交い、取っ組み合いが始まった。
民の中で、乱闘の火種が燃え広がっていく。
「王子、止めてください!」
群衆の一人が悲鳴に似た声を上げた。
テレウァンは眉をひそめて、立ち上がる。
「何だよ。君達はいつもそうだな。何もしてくれなかったんじゃないのか?この国の王子は。」
「いえ…、それは、その…。」
「まあいい。私は頭を使うより、力を振るう方が好きだ。」
そのまま彼は、乱闘騒ぎの間に割って入る。
「おい。これは誰が始めた事か?」
「お、王子!?」
一人の中年の男性が、苦虫を噛み潰したような顔で私を見て、冷や汗をかき始めた。
「お前か?」
「そうです!こいつが王子の事を陰口していたんです!」
さっきテレウァンを庇った若い青年が、中年男を指差し、正義感溢れる気迫で伝える。
「おいバカ!言うなっ!!」
「ほう。つまりお前はこの卑しい乱闘騒ぎを止めたい為に私に助けを乞うている。そういう事だな?」
「はい!そういう事です!」
テレウァンはその言葉を聞き入れた後、深く息を吸い、吹き出すように思いきり笑った。
「あっははははっ!!こういうのこういうの!こういうのを待ってたんだよ私はっ!!」
そして右手の人差し指と中指だけを揃えて突き出し、それを自身の右の首筋の上に当てた。
そのまま指先をなぞるように首から上に滑らせ、円を描くように腕を回し、拳に戻して前方へと突き出した。
「…かはぁっ!!」
直後、目の前にいた中年の男は突然胸を抑えてうずくまる。
「今、貴様の肺を掴んだ。」
「…ぎ…ぃ」
男は声にもならぬ悲痛の息を漏らす。
「肺を捻じられた事はあるか?」
「それは……」
「ないなら今、体験させてやろう。」
「……ぐっ!!たすけ…」
「貴様みたいな何の役にも立たず、隅で吠える事しかできぬ一言居士の外道、誰が生きる事を望む?なら多数決でもするか?私が国民全員に問いかけよう。私は今からこいつの肺を潰し、殺すと言って、賛成か反対かを問うた時、どちらの票が多くなると思う?答えは賛成だ。なら、逆に殺したくはないと私が言えば、多数決の答えは途端にひっくり返り、反対になる。つまり私の意思を民は尊重し、選択するという事だ。私がこの世に生まれ落ちた時から世界はそうだ。今までも、これからもな!」
テレウァンが再度、拳を開き、小指から順に折りたたんだ瞬間、
バタッ!!
男はまるで魂を抜き取られたように、その場に崩れ落ちた。
その命は、虫の息を指先で潰すが如く、あまりにも容易く、摘み取られていた。
「はあ。やはり私にはこういうのが向いている。民の想いに応えるのは、実に心地がいいものだ。」
テレウァンは満面の笑みを浮かべながら、その場をあとにした。
その後ろ姿は、圧倒的で絶対的なカリスマ性を持つ王子の姿にも、正義に忠実で最も人間的な怪物にも見えた。
この国が滅ぶまで、残り2時間。