EPISODE:01 人の幸せを喜べない。
彼は、人の幸せを喜べない。
王都の中央に聳え立つ高塔、律塔堂。
その頂上にある部屋から、テレウァン王子は今日も街を見下ろしていた。
石畳の街路は腸のように蛇行し、広場は巨大な胃袋のように開けており、移動する群衆が、血流のように流れている。
空から降り注ぐ陽光でさえ、街に皮膚を剥がした後のような生々しさを照らし出す。
人々は、その日その日の命の運搬に満足し、明日にはまた別の誰かが流れの中に混ざる。
この国の王子である彼の瞳に映る街の景色は、そんな生々しい人の内蔵の断面図のように映っていた。
王子として生まれ落ちたその瞬間から、みんな彼を尊敬し、崇める。
けれどそれは、王子を持ち上げておけば、自分たちの責任や過去の過ちから逃れられる免罪符みたいなものなんじゃないかと、彼は常日頃思っていた。
この国では、王子という存在が決断を押し付けるシステムになっている。
そんなシステムに組み込まれた存在を、誰が一人の人間として見てくれるのだろうか。そんな思いからか、テレウァンも同等に、民を対等な人間として見れずにいた。
思いに耽りながら杯の縁を指でなぞっていた時、扉越しに聞き慣れた声が響いた。
「テレウァン王子。」
「ハニヴァか、入れ。」
扉が軋む音を立てて開かれ、姿を現したのは、彼の右腕にして幼馴染の女性だった。
金髪をきゅっと束ね、まるで律義さが服を着ているかのような歩き方。
真面目を絞って濃縮した挙げ句、煮詰まりすぎた人だ。
「テレウァン王子、ご報告が…、」
「肩に皺が寄っているぞ、ハニヴァ。力を抜け。ここは私とお前だけだ。」
王子の一言に、彼女ははっとして肩を見下ろし、頬をわずかに赤らめながら咳払いを一つ。
「では、改めてご報告を。民よりいくつか願い出が届いております。」
「聞こう。」
「まず南の果樹園より。王子の髪色と同じ色合いのリンゴが偶然採れたとのことで、テレウァン果樹園と名前を変更したいとの要望です。」
「私の髪は元々朱色寄りの赤だぞ?こじつけで名前を売りないだけじゃないか!却下だ!」
「かしこまりました。次に西門の老婦人達より、王子のくしゃみが福を呼ぶ音として評判になっております。たまにでいいので西門の広場で早朝、直接聴かせてもらえないかとの要望です。」
「私のくしゃみから始まる一日、正気か?縁起担ぎのレベルがもはや呪術だな。却下だ!」
「かしこまりました。最後に村の若者たちより、王子に似合いそうな髪型ランキングのアンケート結果が届いております。なお、一位は片編み込み+ゆるふわでございました。」
「そんな勝手なアンケートの開催を許可した覚えはないぞ!やけにマニアックではないか?…ちなみに二位はなんだ?」
「濡れ髪オールバックです。ちょっと悪い感じが逆に良いとの声が。」
「一位と真逆じゃないか!何だその振り幅は…。回答者は?」
「約一万五千名です。」
「この国は相変わらずヒマなのだな…。」
「私は何も申しておりませんが、ウルフカットのテレウァン王子は個人的に興味深いとは思いました。」
「お前も混ざってんじゃん!」
ハニヴァはその後も機械仕掛けの人形みたいに直立不動で、事務的に報告をスラスラと話した。
その報告のいずれもが、何ともいつも通りで、平和で、拍子抜けするようなものばかりだった。
「本日分、以上です。」
「…なあ、ハニヴァ。」
「何でしょう?」
「いつも思うんだが、お前は私の右腕として毎朝こうやって報告する事に何か疑問を抱いた事はないか?」
「いえ。」
即答される。
「私は時々ふと我に返って思う事がある。この部屋から見える街の風景を見ると、特にな。」
「どのような事を?」
「私は、民にとってどういう存在なんだろうと思ってな…。」
「テレウァン王子の存在は、まさに民の希望です。」
「私のくしゃみで目覚め、私の名前の畑を耕し、私の髪型を議論する事が民の希望なのか…。」
「誇るべき事だと思います。」
「……。」
テレウァンはまた、静かに杯の縁を指でなぞり、しばらく沈黙した後、ゆっくり口を開いた。
「考えが変わった。果樹園の件と、くしゃみの件、全て許可しよう。」
「了解しました。」
「朝から退屈させてはくれないな、この国は。」
そう言いながらも、彼の胸中には重い影があった。
なぜなら彼は、人の幸せを喜ぶことができないからだ。
その時、ハニヴァがふと思い出したように口を開いた。
「ところで王子。ここ最近、雨が降らなくなり、風も止んでいるとの声が多くなっております。」
「ずっと良い天気だからな。…しかし確かに農業には影響があるか。気に留めておこう。」
「風車も止まっており、民の間では少し不気味だという声もございます。」
「季節は必ず巡る。ここは砂漠じゃない。いずれ雨も必ず降るし、風もその度に吹く。その件に関しては祈り待つしかないな。」
「承知しました。では失礼します。」
踵を返すハニヴァにテレウァンは一つ、小さな願いを告げた。
「私からも要望だ。ハニヴァ、頼むからもう少し柔らかくなれ。」
「…検討します。」
変わらぬ調子で答えたハニヴァは、相変わらず規則性のある歩き方で部屋を後にした。
ふと、部屋の暑さに気づき、彼は眉をひそめた。
風車が止まっているのなら、風がなく、暑くもなる。
雨も、ここ一週間は確かに降っていなかったと気づく。
何かの前触れか?いや、考え過ぎだな。
「それにしても、私の髪と同じ色のリンゴかあ…。」
リンゴだって、雨が降らないとなれば実らない。
そう思ったテレウァンは、机の上に置かれていたティッシュを何枚か取り、てるてる坊主を作って、窓の隅に逆さまになるように吊っておいた。
この国が滅ぶまで、残り一ヶ月。