【書籍化進行中】婚約破棄されましたが、わらしべ結婚で幸せを掴みました!
わらしべものです。
楽しんでいただけると嬉しいです。
馬車はガタガタと揺れながら、ぬかるんだ道をひたすら進んでいく。
目的地である、ヴィクトール王国を目指して――
ミシュリアが生まれ故郷であるロザリンド王国を出発したのは今朝のこと。
しかし、早朝から慣れない揺れに耐え続けている彼女のお尻は、すでに悲鳴を上げていた。
「ソフィ、ごめんなさいね。私のせいであなたまでこんな目に……。お尻が痛いでしょう?」
「私のことならどうぞご心配なく。それよりお嬢様の体調が気がかりですわ。もっとクッションをご用意できれば良かったのですけど」
「仕方がないわ。そんな余裕はなかったし、荷物になるもの」
「それはそうなのですけど。あ、もうすぐ国境ですね」
「ええ、気を抜かないようにしなければ」
侍女と頷き合ったミシュリアは、かつて乗ることのなかったみすぼらしい馬車の中から、外の景色を窺い見たのだった。
◆◆◆
ミシュリアはロザリンド王国の公爵令嬢だった。
――いや、一応今現在も公爵令嬢であるはずなのだが、婚約相手の第一王子に夜会で婚約破棄をされ、命の危険を感じた彼女は、今、国外逃亡に挑んでいる真っ最中なのである。
それは昨晩の出来事だ。
「ミシュリア・バンフォード、お前との婚約をこの場で破棄する! 俺の愛するマーリンの腹には子がいるのだ。お前の出る幕などない。とっとと去れ!」
ロザリンド王国の第一王子リッカルドは、夜会が始まって早々にミシュリアに大声で婚約破棄を宣言した。
その傍らにはマーリンが豊満なボディを見せつけるように、露出度の高いドレス姿で妖艶に微笑んでいる。
二人の仲なんてとっくに気付いていたけれど、まさか妊娠までしているなんて。
お父様も陛下に婚約解消を願い出てくれていたというのに、どうやら遅かったみたいね。
マーリンはミシュリアと同じ、公爵令嬢という立場にある。
しかし、二人は外見も性格も全く違っていた。
一つ年上のマーリンとは幼少時から顔を合わせる機会も多かったが、華やかで美しく、プライドの高いマーリンに、ミシュリアは少し苦手意識を持っていた。
どちらかといえば内向的なミシュリアは、外見も人並みであることを自覚していた為、敢えて深く関わることもなかったのだが――
そんな二人の微妙な関係性は、ミシュリアがリッカルドの婚約者に抜擢されたことで脆くも崩れ去った。
色々な政治的側面があっての決定だったにも関わらず、負けず嫌いのマーリンは、自分が選ばれなかったことでミシュリアを敵だとみなしたらしい。
マーリン様ったら、そんな勝ち誇ったような顔をなさらなくても、もっと穏便な方法があったでしょうに……。
ミシュリアは一度心の中で溜め息を吐くと、起きてしまったことは仕方がないと気持ちを切り替えることにした。
ショックではあるものの、彼女にとって婚約者や王子妃という立場への未練が全くないことは幸いだった。
それどころか、リッカルドの婚約者でなくなるのなら、思いっきり絵を描いてみたいという子供の時からの夢だって叶うかもしれない。
ミシュリアは自分の心が弾み出すのを感じていた。
「かしこまりました。わたくしに異存はございませんわ。それでは失礼いたします」
「……は?」
「え、それだけ?」
見苦しく騒ぎ立てることもなく、毅然とした態度で笑みすら浮かべ、『とっとと』会場を去ろうとするミシュリア。
そのあっさりとした態度が、二人には面白くなかったようで。
驚いたような声が聞こえたあと、リッカルドとマーリンは慌てたようにミシュリアを呼び止めた。
「待て、ミシュリア! お前にも言いたいことがあるのではないか? 特別に許してやるから何でも言うがいい」
「そうよ、虚勢を張る必要なんてなくてよ? あなたは長い間、殿下の婚約者だったのだから」
一見、親切にも思える言葉だが、二人がミシュリアのみっともなく取り乱す様子を見たいだけなのは明白だった。
特に伝えたいこともなかったミシュリアだが、渋々振り返ると上品な笑顔を張り付け、一言だけ口にした。
「お二人の幸せを願っておりますわ」
しかし、その一言が余計だったと気付かされたのは、夜会会場から屋敷へ帰ってすぐのことだった。
ミシュリアが夜会から屋敷へと戻り、ドレスから部屋着のワンピースへと着替えが終わる頃、執事が急な来客を告げた。
幼馴染の伯爵令嬢デボラが、慌てた様子で面会を希望しているという。
なぜ夜会に出席しているはずのデボラがここにいるのかしら?
不思議に思ったミシュリアだったが、自室に彼女を招き入れると――
「ミシュリア、逃げて! リッカルド様とマーリン様があなたの命を狙っているわ!」
「え? どういうこと?」
デボラによれば、リッカルドたちは期待と異なるミシュリアの反応に、ひどく腹を立てていたらしい。
不穏な空気を察したデボラがこっそり聞き耳を立てていたところ、ミシュリアの最後の言葉の『二人』はお腹の子供の存在を無視した恐ろしい発言だとマーリンが言い出したそうだ。
「つまり、ミシュリアがお腹の子を害そうとしているって主張し始めたのよ。あなたを反逆罪で罰するべきだって」
「なんていうことなの! 私はそんなつもりで言っていないわ」
「もちろんわかっているわよ。ただの言いがかりだわ。あのお二人は、初めから理由を付けてあなたを処分するつもりだったのよ。陛下たちがいない間に」
なるほど、私が邪魔ってことね。
そういうことなら納得だわ。
両陛下と王弟殿下は、隣国の建国パーティーに出席する為に国を留守にされているし、うちの両親も領地を訪れている今が、彼らには色々と都合が良かったというわけね。
ちなみにリッカルドが第一王子なのは、いまだ王太子として認められていないからである。
国王は、年の離れた優秀な弟と、自分の息子のどちらに後を継がせるかをまだ悩んでいるのだ。
ミシュリアの父が中立派なこともあって、ミシュリアが婚約者に選ばれたのだが、それもリッカルドには不満だったのだろう。
おそらく国王は婚約破棄の件も、マーリンの妊娠も聞かされていないに違いない。
リッカルドは国王と王弟が不在の間に、第一王子派であるマーリンの父と共に王宮を掌握するつもりなのだ。
こうしてはいられないわね。
捕まったら最後、理由をつけて処刑されてしまうかもしれないもの。
ミシュリアはすぐに家令とメイド長を呼んで事情を説明した。
初めは顔色を変えて動揺を見せた二人だったが、さすが公爵家の使用人、すぐさま我に返ると屋敷中へ指示を出し始めた。
公爵が滞在する領地へと伝令が走り、とりあえずミシュリアは日の出と共にヴィクトール王国へと出発することになった。
父の妹である叔母がヴィクトールの王族に嫁いでおり、仲の良い彼女なら姪であるミシュリアを匿ってくれるはずだからだ。
「ミシュリア、これをお守りに持っていって。きっとあなたを幸運へと導いてくれるはずよ」
「デボラ、これって確か街で……」
手のひらに握らされたものを確認したミシュリアは、思わず目を見張った。
それは、かつて二人で街を訪れた際にデボラが一目ぼれして購入した、ミモザが描かれたブローチだった。
「ミモザは幸運を呼ぶ花だもの。無事に逃げ切って、今度こそミシュリアが望む未来が開けますように」
「ありがとう、デボラ。向こうへ着いたら必ず連絡するわ」
二人はお互いの手を固く握りしめ合うと、再会の日を夢見たのだった。
◆◆◆
翌日、夜明けと共にミシュリアは慌ただしく屋敷を後にした。
ヴィクトールへと向かうミシュリアに同行するのは、侍女のソフィと護衛が二人だけである。
目立たぬように最低限の荷物を乗せた質素な馬車は、あっけなく国境を越えることができた。
リッカルドたちもまさかこんなに早く、ミシュリアが命の危険を察して逃げ出すとは予想していなかったのだろう。
知らせてくれたデボラには感謝しなくちゃね。
私は傷心の旅に出たということになっているから、使用人たちが罰せられることはないだろうし、あとはお父様がなんとかしてくださるでしょう。
ミシュリアは胸元を飾るミモザのブローチにそっと触れると、幼馴染に心の中でお礼を言った。
「無事にロザリンドからは出られたけれど、問題はここからよね」
「はい。そろそろお嬢様が屋敷に居ないことに気付かれたかもしれませんからね。追っ手がかかることを想定すると、我々は山を越えないといけません」
ロザリンドの国境を越え、踏み入れたこの地はロンメル王国と呼ばれている。
多数の人種が暮らしているこの国は、文化面でもロザリンドと大きな違いがあり、ミシュリアには非常に興味深かった。
ゆっくり寄り道したいところだが、今回はそうもいかないのが残念だ。
最短ルートでヴィクトールへ抜けるには、中央の山を越えるのが一番手っ取り早いと言われている。
狼が生息している為、追加で警護の兵士を雇う必要があるが、迂回をしていて追っ手に捕まってしまったら身も蓋も無いのだから、すでに選択肢は決まっていた。
「お嬢様、町で兵士を探してきました。三人雇いましたが、あとは俺たちもいるので大丈夫かと」
「ありがとう」
公爵家の護衛に軽く微笑むと、ミシュリアは雇われた兵士たちと向き合った。
まだ年若い三人の兵士を目にしたミシュリアは、彼らの風貌に驚きを隠せなかった。
ロザリンドでは目にしたことのない彫りの深い顔立ちと浅黒い肌を持つ彼らは、どうやら少数民族の出身らしい。
鍛え上げられた体躯はまさに兵士そのものなのだが、着ているものも風変わりである。
彼らは一様に頭に布を巻き、袖の無いワンピースのような簡素な服を着て、腰部分をベルトで留めている。
装飾なのか、ベルトには大きくて鮮やかな赤い羽根が数本刺さっており、ひときわ目を惹いていた。
「このたびは仕事を引き受けてくださって感謝いたします。危険かと思いますが、山を越えるまでの間、どうぞよろしくお願いいたします」
ミシュリアが礼儀正しく頭を下げると、彼らは「お、おう」「ま、任せとけ」と、少し驚いたような態度を見せた。
どうやら貴族とはもっと横柄な生き物だと思っていたようだ。
三人のうちの一人は、どこか心ここにあらずといった感じで無言で立っていたが、ミシュリアは無口なだけだと特に気にしてはいなかった――その時は。
翌日、乗ってきた馬車を捨てて山へと入ったが、狼との遭遇は一度だけで、なんとか被害はないまま夜を迎えることができた。
今晩は山の中で野宿をしなければならない。
「お嬢様、スープが出来ましたよ。熱いので気を付けて召し上がってくださいね」
「ありがとう、ソフィ。あなたも慣れない登山で疲れたのでは? 荷物もあるし」
「それほどでもありませんわ。食事を作ってくださったのも兵士の方々ですし」
話題に上がった兵士の様子をこっそり窺うと、談笑しながら食事をしているのは二人だけで、無口な兵士がその場にいないことに気付いてしまった。
ミシュリアは勇気を出して話しかけてみることにした。
「あの、もう一人の方は? もしかして具合でも悪いのですか?」
「ああ、ルアンなら心配いらないさ。あいつの意中の女に縁談がきたとかで、精神的に参ってるだけだ」
「悩んでいる暇があるなら告白しちまえばいいのにな」
「その通りだ」「当たって砕けろ!」などと、二人は陽気に笑い合っている。
なるほど、無口だと思っていた兵士はルアンという名で、口数が減り、食事が喉を通らなくなるほど恋に悩んでいるらしい。
私とリッカルド様の婚約は、政治的意味合いが強かったから恋愛感情なんて無かったものね。
……恋ってどういうものなのかしら?
無事にヴィクトールへ着いたら、思いっきり絵を描いてみたいけれど、素敵な恋もしてみたいわ。
ルアンの様子が何となく気になったミシュリアは、焚火の向こう側に一人離れて座っている彼の元まで、スープを持っていくことにした。
「えーと、ルアンさん? 何か召し上がらないと体がもちませんよ?」
「いや、俺はいい」
「でも、スープだけでも……」
日が暮れてからの山の中は気温が下がり、温かい飲み物でも飲まないと体が冷え切ってしまう。
思い切ってスープを目の前に差し出すと、ルアンはやっと目線を上げてくれた。
「俺のことは気にするな。一日くらい食べなくても……ん? その花はミモザか?」
「え? ああ、このブローチですか? はい、ミモザですね。ルアンさんはお花に詳しいのですね」
「いや、サラが……知り合いが好きな花だと言っていたから……。この国ではそんな洒落たアクセサリーは売っていないが」
ルアンはミシュリアがデボラからもらったミモザのブローチに目を留めると、一瞬切なそうに口角を上げた。
サラという女性がルアンの想い人であることを、ミシュリアは瞬時に理解した。
「このブローチ、よろしければルアンさんに差し上げます。大きなお世話かもしれませんが、これをサラさんに渡して気持ちを伝えましょう」
余計なことだとは思いつつも、ミシュリアは急いでブローチをはずすとルアンに手渡した。
ついでに自分は婚約者に裏切られ、相手の女性に子供ができたのだと冗談めかして伝えたら、途端にルアンは気の毒そうな目を向けてくる。
おまけに命まで狙われているのだから、確かにミシュリアは不運だと自分でも思った。
「ルアンさん次第で未来は変わるんです。ミモザは幸運を呼ぶ花ですし」
「でもいいのか? 俺がもらっちまって」
「お役に立てるなら喜んで」
きっとデボラも怒らないはずだ。
もしかしてこのブローチがきっかけで、一組のカップルが誕生するかもしれないのだから。
「じゃあ代わりにこの羽根をやる。俺たちの種族に伝わる開運の羽だ」
「え、大事なものなのでは? いいのですか?」
「ああ。めでたい物同士でちょうどいいだろう」
「ふふっ、確かにそうですね」
ルアンが腰のベルトに挿していた赤い羽根を一本抜き、渡してくれる。
ミシュリアが丁寧に受け取り、騎士の剣ほどもありそうな赤い羽根を掲げてみると、焚火に照らされた赤い羽根は、まるで燃えているかのようにさらに真っ赤に輝いて見えた。
こんな美しい羽根は初めて見たわ。
こうして、デボラにもらったミモザのブローチは、大きな赤い羽根へと変わったのだった。
◆◆◆
ミシュリア一行は、無事に山を越え、兵士らとお別れの時を迎えた。
ここからは平坦な道が続き、治安も悪くないので、バンフォード公爵家の護衛だけでも問題ないだろう。
始めは無口だったルアンの表情も今や明るく変化し、別れ際には「サラとうまくいったらヴィクトールまで報告へ行ってやるよ」などと、軽口を叩けるほど元気になっている。
ぜひとも恋が成就してほしいと願うミシュリアは、馬車から大きく手を振った。
ロンメル国内を縦断すれば、いよいよヴィクトールとの国境へ辿り着くことができる。
新しく手に入れた馬車は、出発した時のものより乗り心地も上々で、外の景色も良く望めた。
ミシュリアが見慣れない牧草地の景色を楽しんでいると、一台の馬車が停まっているのが目に入った。
知らない紋章が入った馬車は豪華な造りで、ミシュリアたちが来た方向へ向かおうとしているみたいだが、母親だろうか、仕立てのいいドレス姿の女性が馬車の外で体を揺らしながら、泣き叫ぶ赤ん坊をあやしている。
まあ、赤ちゃんを連れての移動は大変でしょうね。
赤ちゃんは環境の変化を敏感に感じ取るというし、こんな場所では機嫌をとるのも難しいのではないかしら。
気になったミシュリアは、馬車を停めてもらうと、馬車を降りてゆっくり母親の元に近付いた。
この旅に出てからというもの、ミシュリアは自分が積極的になっていくのを感じていた。
「どうかなさいましたか?」
「この子、馬車に乗るのが初めてだからか、ずっと泣きっぱなしなの。いつもはオルゴールを流せば寝てくれるのに、今日は全然だめなのよ。急いでいたから今日は乳母も連れてきていないし」
「それはお困りでしょうね。赤ちゃんの体調も心配ですし」
もう長い時間子供が泣いているのか、貴族らしき美しい母親の顔にも疲れが浮かんで見える。
傍でオルゴールを流している若い侍女も、不安そうに赤ん坊を覗き込んでいた。
赤ちゃんが泣くのは当たり前のことだけれど、ずっと泣き続けているのは可哀想だし、まわりも参ってしまうわよね。
到着時間の予定だってあるだろうし。
ミシュリアは少し考える素振りをすると、馬車から羽根を持ってきた。
ルアンからもらった、あの大きな赤い羽根である。
ミシュリアは、羽根の大きさに目を丸くしている母親に許可をとると、腕に抱かれた赤ん坊に優しく話しかけた。
「いい子だからそんなに泣かないで。そんなに泣いたら目が腫れちゃうわよ? ほら、これを見て。大きな羽根よ? 綺麗でしょう?」
真っ赤な色が気になったのか、ミシュリアが羽根を振って見せると、途端に赤ん坊は泣き止んだ。
不思議そうに開かれた目がフワフワと揺れる赤い羽根を追いかけ、小さな手を伸ばしたかと思うと――やがてキャッキャと可愛い声で笑い始める。
「あら、すごい! 泣き止んでくれたわ!」
「良かったです。赤ちゃんはこの羽根が気に入ったのかしら?」
安堵したように息を吐く母親に、ミシュリアも笑いかける。
「よかったらこの羽根をお持ちになってください。まだ目的地へは時間がかかるのですよね?」
「ありがたい申し出だけれど、それはできないわ。だってこの羽根、とても貴重な物でしょう? 確か開運の羽根と言われていて、滅多に手に入らないものだって」
この羽根って、そんなに貴重なものだったのね……。
ルアンたちが無造作に何本も挿していたから、正直そこまで貴重だとは思っていなかったわ。
羽根に目をやれば、触りたそうに赤ん坊が両手を伸ばし、はしゃいでいる。
よほど羽根がお気に入りのようだ。
ミシュリアは羽根を母親に手渡しながら、ルアンのことを思い浮かべた。
彼なら、こうすることを笑って許してくれそうだ。
「この羽根で赤ちゃんが笑顔になるなら私も嬉しいですから」
「本当にいいの? でも助かるわ。代わりといってはなんだけど、良かったらこのオルゴールを差し上げるわ。子守歌だからあなたには必要ないだろうけれど、腕のいい工房に作らせたから小物入れにはなるでしょう」
そう言うと、母親は侍女に目配せをした。
侍女が差し出したオルゴールは、名のある職人が作ったと推察されるほど立派な意匠のもので、公爵令嬢のミシュリアにはすぐに価値がわかってしまった。
「こんな高価なものはいただけません」
「いいのよ。似たようなオルゴールをいくつか作ってもらったから」
「でも……」
「私の気持ちだから受け取ってちょうだい。きっとこの羽根だって、売ったら相当な値がつくはずよ? もちろん売らないけれど」
悪戯っぽく笑う母親につられ、ミシュリアも顔をほころばせると、遠慮がちにオルゴールを受け取る。
ずっしりと重いオルゴールは重厚感があり、蓋を開くと軽やかなメロディーが牧草地に流れ出した。
「では私たちはそろそろ失礼するわ。主人がこの子に会いたいって出張先で駄々をこねてるらしいの。まったく困った人よね」
少しも困って無さそうに肩を竦めた母親は、ゆっくり馬車に乗り込むと「ありがとう」と窓から手を振った。
ミシュリアも笑顔で母子を見送ると、スカートの裾をはためかせながら爽やかな風が吹き抜けていった。
こうして、大きな赤い羽根は、子守歌が流れるオルゴールへと変わったのだった。
◆◆◆
ロンメル国内を走り抜けた馬車は、いよいよヴィクトール王国領内へと入った。
王都へはさらに一日ほどかかる見込みで、車窓からは凪いだ湖が見える。
どうやらこの辺はヴィクトールの上位貴族が所有する高級別荘が多い地域らしく、湖を囲むようにして立派な別荘がいくつも建てられていた。
「お嬢様、あそこの木のふもと……誰か倒れていませんか?」
「え、どこ? ……まあ大変! 確かに女性が倒れているように見えるわね!」
「どうなさいますか?」
「もちろん確認してみるわ」
突然侍女のソフィが外の異変に気付いた為、ミシュリアは彼女を連れて女性の元へと駆け寄った。
そこには五、六十代の、シンプルながら上質な生地で作られたドレスを着た婦人が、木にもたれかかるように目を閉じて座っていた。
手元には読みかけの本があり、どうやら眠っているだけのようだ。
「具合が悪いわけではなさそうですね。どうしましょう?」
「起こすのは忍びないけれど、一人では危ないし……。風邪をひいたら大変だから声をかけてみるわ」
ミシュリアは小さな声で呼びかけながら、婦人の肩を優しく揺らした。
「こんな場所でうたた寝をなさるのは危険ですよ」
すると、ハッとしたように目覚めた婦人は、ゆっくりとその目にミシュリアを映す。
淡い紫色の瞳が驚いたように見開かれ、やがて口を開いた。
「あなたは?」
「突然お声がけして申し訳ございません。馬車から姿が見えたもので、つい心配になって……」
「ああ、私は眠ってしまっていたのね。起こしてくれて助かったわ。最近、寝付きの悪い日が続いていたせいか、ついうとうとしてしまって」
「まあ、寝られないのはお辛いですね」
気付けば、ミシュリアとソフィも婦人の傍に座り込み、三人で話し込んでいた。
お互い簡単な自己紹介をすると、婦人はクリスティーヌという名で、バカンス中だという。
クリスティーヌには不思議と人を惹きつける雰囲気があり、初対面だというのに自然と会話が弾んだ。
「もしや、何か心配事でもおありなのでは?」
普段は前に出過ぎないソフィが、珍しく突っ込んだ質問をしている。
「そうねぇ、孫がいい年をして、恋人の一人もいないのよ。祖母の私が言うのもなんだけど、なかなか見た目はいいのよ? それなりにモテるはずなのに、恋愛に興味が無いらしくて」
「そ、それは残念ですね……」
相槌を打ちながら、ミシュリアは苦笑してしまった。
孫といえど、恋愛事に口出しをするべきではないと思うものの、それでも心配せずにはいられないのが祖母というものなのかもしれない。
「寝る前にリラックスできるといいかもしれませんね。ハーブティーとか」
「ソフィ、それはいい案だわ。あとは音楽ね。オルゴールとか……あ! オルゴール!」
ミシュリアが閃いた途端、ソフィが馬車へと走り出していた。
気が利く彼女は、ミシュリアの意図にすぐ気付き、赤ん坊の母親からもらった例のオルゴールを取りに行ってくれたのである。
「お嬢様、こちらを」
「ありがとう。さすがソフィね。……クリスティーヌ様、よろしければこちらのオルゴールを使ってみませんか? 素敵な子守歌が流れるのです」
ミシュリアがネジを巻いて蓋を開けると、ポロンと弾むようにメロディーが流れ始める。
すると、耳にしたクリスティーヌが弾かれたように顔を上げた。
「この曲、知っているわ。よく孫に歌って聞かせたもの。懐かしいわぁ。私がこの子守歌を歌うと、すぐに目がトロンとしてね。ああ、あの頃は可愛かったわ」
昔を懐かしむような表情には、幸せと愛情が溢れている。
このオルゴールはクリスティーヌ様にこそふさわしいわ。
きっと素晴らしい夢路を辿れるはず……。
あの母親も、小物入れとしてより、オルゴールを役立ててくれるほうが嬉しいだろう。
「こちらを差し上げるので、寝る前にお使いになってみてください」
「いいの? ありがとう。なんだか今から寝るのが楽しみになってきたわ」
可愛らしく笑ったクリスティーヌは、オルゴールを撫でながら孫の話を続けた。
「あの子ったら、フラフラして絵ばっかり描いているのよ。あ、私も絵を描くことに反対はしていないのよ? むしろ賛成しているのだけど」
「お孫さんは絵を描かれるのですか? 素敵! 私も王都に着いたら描いてみたいのです」
「あら、ミシュリアさんも絵を描くのがお好きなの?」
「はい! というか、まだきちんと描いたことはないのですが」
ミシュリアは、ロザリンドでは女性が絵を描くことは歓迎されなかったことを伝えた。
訳あって婚約者と別れたので、これを機に叔母の住むヴィクトールで絵を描きたいのだと告げると、クリスティーヌはパチンと手のひらを合わせて喜んだ。
「だったらいい画材を扱う店があるのよ。そうだわ、このハンカチを持って訪ねてみて。相談に乗ってくれるはずよ」
「それは助かります。王都に着いたら訪ねてみますね」
場所を教えてもらい、ミシュリアはハンカチを受け取った。
そのシルクのハンカチには『クリス』と刺繍されていて、滑らかな触り心地からしても高級品に違いなかった。
「お返しする為に、またお会いできるといいのですが。いつまでこちらの別荘地にいらっしゃいますか?」
「あら、返却の必要なんてないわ。オルゴールをいただいたしね。それに……」
「え?」
「何でもないわ。さあ、早く王都を目指さないといけないのでしょう? そろそろ出発したほうがいいわ」
急き立てるようにミシュリアたちを馬車に乗せると、クリスティーヌは見送りながら楽しそうに呟いた。
「またすぐに会えるわ、ミシュリアさん」
こうして、子守歌の流れるオルゴールは、シルクのハンカチに変わったのだった。
◆◆◆
翌日、予定通りにミシュリア一行は、ヴィクトールの王都へと到着した。
ミシュリアの叔母は先代の王弟の息子に嫁いでおり、現在はヴィクトール王国の公爵夫人として生活している。
高位の貴族らしく、その屋敷は王城にほど近い場所に建っていた。
さすが公爵家という荘厳な佇まいの屋敷に関わらず、出迎えてくれた叔母は相変わらず気さくな雰囲気だった。
「ミシュリア、よく来たわね! 長旅で疲れたでしょう? それにしても災難だったわねぇ」
「ご無沙汰しております、叔母様。こちらの事情をもうご存じなのですか?」
「今朝早馬で文が届いたから、そろそろ着く頃かと思って待っていたのよ。頼ってもらえて嬉しいわ。いくらでも滞在してちょうだい」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますわ」
どうやら家令が知らせてくれていたらしく、ミシュリアは叔母の家にすんなりと受け入れられた。
客間を与えられ、侍女のソフィと護衛二人にもお茶がふるまわれ、ミシュリアはようやく人心地がついたのだった。
夕食時には、仕事から戻った叔父とも顔を合わせた。
公爵である叔父の見立てによると、ロザリンド国内はしばらく荒れるらしい。
「元々、近い内に王弟派と第一王子派の諍いが表面化するとは思っていたんだよ」
「だからって、どうしてミシュリアが公の場で辱められなきゃいけなかったのかしらね。しかも反逆罪って、何を寝ぼけたことを言っているのかしら。本当に腹立たしいったらないわ」
「これを機に、ロザリンド国王は嫌でも跡継ぎを決めなければならなくなったわけで、それ自体は自業自得なんだが、我々の可愛い姪っ子が傷付けられたのは見過ごせないな」
「そうよ。しかもあのマーリンが王子の相手だなんて! あの娘の母親とはちょっとした因縁があるのよ、私!」
叔父と話している内に興奮し始めた叔母が昔話を始め、それをミシュリアと叔父が笑いながら相槌を打ち、楽しい晩餐の時間が流れる。
叔父様は叔母様の明るくて素直なところがお好きなのでしょうね。
お父様は、叔母様の性格は開放的なヴィクトール向きだと言っていたけれど、叔父様のような包容力のある方と結婚できた叔母様が羨ましいわ。
私も滞在中に素敵な出会いがあればいいけれど……婚約破棄された傷物令嬢の私には難しいかしらね。
笑いの絶えない叔母夫婦の様子を観察しながら、ミシュリアは明日からのヴィクトールでの暮らしに思いを馳せていた。
あくる日、ミシュリアは早速画材屋を訪れてみることにした。
せっかくクリスティーヌ様に教えていただいたお店だもの。
叔母さまも快く送り出してくれたし、楽しみだわ。
ここで絵を描きたいのだと、昨晩ミシュリアがおずおずと打ち明けたところ、夫妻は快く賛成し、絵を描く為の部屋まで用意してくれたのだ。
ヴィクトールの令嬢は、ある程度自由に振舞うことを許されているらしい。
「素晴らしいわね、ソフィ。騎士を目指す令嬢や、小説を書く令嬢もいるのですって」
「ロザリンドでは考えられませんね。お嬢様が楽しそうで私も嬉しいです」
画材を扱う店はすぐに見つかり、ミシュリアは店主と思われる眼鏡をかけた年配の男性に声をかけた。
「すみません。画材を買いにきたのですけど」
「いらっしゃい。うちは何でもそろっていますよ。どんなものをお探しですか?」
「ええと、油絵を始めたくて。それで、このハンカチの持ち主がこのお店を教えてくれたのですが……」
ハンカチを店主に差し出すと、彼は慌てたようにハンカチを覗き込み、眼鏡をはずして間近で観察し始めた。
「クリス様!? これは驚いた。お嬢さんはクリス様のお知り合いでしたか」
「ええと、旅の途中で少しお話しさせていただいただけなのですけど……」
あまりの食いつきぶりにミシュリアのほうが驚いていると、店主は瞬く間に画材をカウンターに集めていく。
絵具、木製パレット、キャンバスにイーゼル、パレットナイフや筆などをどんどん積んでいる。
絵を描くのって、こんなに道具が必要なのね。
一体いくらかかるのかとミシュリアが不安になっていると、お代はいらないと店主が言い出した。
クリスティーヌの知り合いからお代などもらえないと言うのだが、ミシュリアだって引くわけにはいかない。
結局、すったもんだした後に、ミシュリアが折れることになった。
もしかして、クリスティーナは最初からオルゴールのお礼のつもりで、この店を教えてくれたのかもしれないと考えたからだ。
クリスティーヌ様にはまたお会いできるかしら?
ハンカチをお返しして、お礼を伝えられればいいのだけれど。
屋敷まで荷物の配達を頼み、ソフィが店主と手続きをしている間、ミシュリアは店内をブラブラしていた。
入口近くに置いてある画材を見ていると、急に扉が力強く開き、誰かがヌッと入ってきた。
「きゃっ」
「おっ、悪い! ぶつからなかったか? この店に客がいるのは珍しいから、ついいつもの癖で入っちまった」
「い、いえ、大丈夫です」
ぶつかりそうになったミシュリアが慌てて視線をあげると、そこには絵具で汚れたエプロンをつけた若い男性が立っている。
濡羽色の髪を揺らしながら謝罪する青年は、年は二十代の前半といったところか、ミシュリアより頭一つ分大きく、ラフなシャツとズボンにエプロンを着用している。
油絵具の匂いをまとっていることから、絵を描くことを生業にしていると思われた。
「驚かせて悪かった。でも、若い女の子がこの店にいるなんて珍しいな。君も絵を描くの?」
「はい。と言ってもまだこの国に来たばかりで、正確にはこれから始めるところなのですけれど」
ミシュリアが答えると、青年は楽しげに目を細めた。
「それは嬉しいな。まだ女性の絵描きはそんなに多くはないから」
女性の趣味に寛容なヴィクトールといえど、男性に比べると女性の画家はまだまだ少ないのだという。
確かに画材は値が張る上、油絵となれば匂いや汚れなど、女性には躊躇してしまうデメリットも多いのかもしれない。
「私はロザリンドの出身なのですが、あちらでは女性が絵を描くことは良しとされていなくて……」
「ああ、なるほど。良くも悪くも伝統を重んじるかの国らしいな。ヴィクトールは君を歓迎するよ。ようこそ、ヴィクトールへ」
そう言った青年は、親し気に右手をミシュリアに向けて差し出した。
白い歯を見せながら微笑む青年は、よく見れば整った顔をしていて、砕けた口調ながらどことなく気品が感じられる。
他国の風土にも通じているらしく、ロザリンドについても知見がある素振りである。
もしかして画家ではないのかしら?
よく見ると体格もしっかりとしているし、この淡い紫の瞳……どこかで見たことがあるような。
不思議に思いながらも、ミシュリアが握手をしようと手を差し出すと。
「あ、俺の手、絵具で汚れているかも。悪い、気が付かなくて」
焦ったように引っ込めようとした青年の手を、ミシュリアは無意識に自分から追いかけて握っていた。
そんな大胆な行動は、公爵令嬢として貞淑に育てられた彼女にしてはとても珍しいことだった。
「絵具は汚れだと思っておりませんので、お気遣いは無用ですわ」
ミシュリアがはにかんで笑ってみせると、青年はわずかに目を見張った後、嬉しそうに破顔した。
「その意見には同意するよ。あ、俺のことはハルと呼んでくれ。君の名前を聞いても?」
「ええ。私はミシュリアと申します」
「ミシュリアか。いい名前だ」
見つめられ、ギュッと手のひらを握られると、ミシュリアは自分の心臓がドキンと大きく弾むのを感じた。
彼の手の大きさとぬくもりを意識してしまい、たちまちミシュリアの頬は赤く染まっていく。
私ってばどうしてしまったのかしら?
動悸が激しいし、なぜか彼のまわりがキラキラと輝いているように見えるのだけど。
やがて握手の為に触れあっていた手がゆっくり離れると、ミシュリアは途端に寂しさを感じてしまった。
婚約者であるリッカルドとは、何度か踊る際に手を繋いだことがあったが、こんな気持ちになるのは初めてのことだった。
「しばらくは王都にいるの?」
「ええ。叔母の家に滞在しているので」
「じゃあ、今度俺のアトリエに招待するよ。ここから近いし」
「まあ! それは楽しみです。じゃあ、私も上手に描けたらお見せしますね」
「そうか、楽しみだな」
その頃には店主との話が終わっていた侍女が、興味深そうに二人の様子を窺っていた。
名残惜しく感じながらも、店主とハルに別れを告げたミシュリアは店を後にした。
「お嬢様、楽しそうでしたね」
「そうね、とても楽しかったわ」
ふとハルと握手した手に目をやると、青い絵具がうっすらと付いている。
あら、ハルの絵具が移っているわ。
くすぐったそうに微笑み、愛おしげに手のひらを握り込むミシュリアを、ソフィが不思議そうに眺めていた。
◆◆◆
ミシュリアがヴィクトール王国へやってきてから、早三週間が過ぎようとしていた。
こちらでの生活は至って平和そのもので、ミシュリアは今日も熱心に静物画を描いている。
ハルにもう一度会えないかと画材屋を一度訪ねてみたものの、残念ながら彼の姿は店にはなかった。
やはり、そう運良くは逢えないらしい。
店主にハルのことを尋ねてみたが、「お嬢さんになら教えてもいいかもしれませんが……あの方、いや、彼には別に本業があるんですよ。今はそちらが忙しいのかもしれませんね」と言われてしまった。
やはりハルは専業の画家ではなかったようだ。
ということは、ハルは趣味で絵を描いているということかしら?
確かに思い出してみると、画家にしては腕も逞しかったし、手のひらも硬かったような……
気付けば、ミシュリアは一日に何度もハルと出会った時のことを反芻してしまっている。
匂いが記憶を呼び起こすとはよく聞くが、油絵具の匂いを嗅ぐと、どうしても彼のことを思い出してしまうのだ。
そのたびに、彼の手の感触や温かさの記憶が鮮明に蘇り、恥ずかしくなったミシュリアは頭をブンブンと振って、熱を追い払おうと試みる。
その繰り返しで、今や何かにつけてハルのことを思い出しては急に赤くなって挙動不審になるミシュリアを、叔母夫妻が面白そうに見守るのが日常となりつつあった。
そんな中、叔母に夜会に誘われたミシュリア。
王宮で開催されるらしく、なんと国王直々にミシュリアを連れてきてはどうかと打診があったのだとか。
「気が乗らなかったら断って構わないからね? ああ、私がつい姪っ子が可愛いなどと、あの人の前で口走ったばかりに……」
「あの人って陛下のことね。うちの人、陛下の従弟でしょう? 普段から仲がいいのよ」
「な、なるほど」
叔父様ったら、陛下の前でそんな話を……。
嬉しいけれど、恥ずかしいわ。
しかし、ミシュリアは自国の王子に婚約破棄され、逃げてきたいわくつきの令嬢である。
とても国王に会える立場ではない。
「ありがたいお話ですが、今の私の状況では、叔父様たちにもご迷惑をおかけするだけかと」
眉を下げながらミシュリアが申し訳なさそうに口にすると、二人は途端に否定した。
「迷惑なんてとんでもないわ! ミシュリアは何も悪くないのだから!」
「そうだよ。もし君を傷付ける者がいたら私たちが容赦しないし」
「そうよ、なんだかロザリンドでも面白いことになっているみたいだし、ミシュリアは気にせずに一緒に楽しみましょう? 焼き物や彫刻が趣味のご令嬢もいるのよ?」
「まあ! それはぜひお会いしてみたいです!」
結局、叔母に乗せられた単純なミシュリアは、夜会に出席することになっていた。
さっき、叔父様の目が一瞬光った気がしたけれど、容赦しないって何をなさるつもりかしら?
それに、ロザリンドが面白いことになっているっていうのも気になるわ。
部屋に戻ってから首を傾げたミシュリアだったが、謎は解けないまま夜会の日を迎えたのだった。
◆◆◆
夜会当日、初めは緊張していたミシュリアは、すぐに場に馴染んで楽しんでいた。
建築様式やドレス、人々の振る舞い方が故郷のロザリンドとは違っていて、参加しているだけでもワクワクしてしまう。
やっぱりヴィクトールは素敵な国ね。
陛下も朗らかな方だったし、皆さんも大らかで。
こういうサバサバとした雰囲気は、今の私にはとても有難いわ。
叔母に紹介された令嬢らと話していると、遠くに会話が弾んでいる一団が目に入った。
どうやら令息、令嬢が入り交じった輪の中心には、一人の男性がいるようだ。
「あら、ハロルド様だわ。警護以外で夜会にいらっしゃるなんて珍しいわね」
「ハロルド様?」
「ああ、ミシュリア様は初対面かもしれませんわね。この国の第三王子ですわ」
「明るくて話しやすい方で、王族ながら騎士団に所属されておりますの」
「男女問わず、国民に人気がある方ですのよ。まあ、婚約者すらいらっしゃらないのですけどね」
「そうなのですね」
疑問に答えてくれた令嬢たちに相槌を打ちながら、ミシュリアが人垣の合間に見える背の高い第三王子の横顔を眺めていると、ふいに王子がこちらに視線を向けた。
すると、彼は何かに気付いたように動きを止め、驚いたように口を開いた。
「ミシュリア!?」
え、私?
どうして王子殿下が私のことをご存知なのかしら?
つかつかと足早に近付いてくる王子から、ミシュリアが目を離せずにいると、ふとその姿が誰かと重なる気がした。
あら?
髪型も服装も違うけれど、もしかして……
「ハル?」
思わず零れ落ちたミシュリアの小さな声は、きちんと彼の耳まで届いたらしい。
「また会えたな、ミシュリア」
嬉しそうなハルの笑顔がそこにはあった。
◆◆◆
現在、ミシュリアはハロルドに連れられ、人気の少ない王宮の中庭へと向かっている。
どうしてそんなことになっているのかといえば――
「君と二人きりになりたい」
そんな意味深で甘い台詞を、ハロルドが大勢の貴族の前で唐突に吐き、勝手にミシュリアの手をとって歩き出したからに他ならない。
第三王子の暴走により、ただでさえ賑やかだった夜会の喧騒は、たちまち今夜のピークを迎えることになった。
最初は困惑していたミシュリアだったが、ホールから離れ、徐々に好奇の目がなくなるにつれ、他のことが気になりだしていた。
静かな夜の庭園に、ドキドキと高鳴る自分の鼓動が響き渡っているのではないかと心配になったのだ。
どうかハル……いえ、ハロルド様に私の胸の高鳴りが聞こえていませんように。
ああ、緊張で指先まで震えてきたような……。
そこで何かに気付いたように、ハロルドが足を止めた。
ミシュリアは己の緊張が伝わってしまったかと一瞬身を固くしたが、ハロルドはそっと繋いでいた手を離すと、自分の上着を脱いでミシュリアに着せかけてくれた。
「悪い。寒かったよな」
「い、いえ、大丈夫です。でもこの上着……」
「嫌でなければそのまま羽織っていてくれ」
「ありがとうございます」
背が高く、肩幅もあるハロルドの上着は、ミシュリアには思っていた以上に大きかった。
緊張のあまり自覚はなかったが、夜風にさらされ冷え始めていた身体には、温もりが心地よく感じられる。
ミシュリアはホッと息を吐くと、自然と笑みを零していた。
一方で、ハロルドは自分の上着に包まれ、照れたように俯く小柄なミシュリアを、ただひたすら見つめていた。
しかし、その愛おし気に細められ甘く見つめる淡い紫色の瞳に、ミシュリアが気付くことはなかった。
再び手を握られ、歩き出したハロルドの後ろ姿を見つめながら、ミシュリアはぼんやりと令嬢たちとのやり取りについて考えていた。
こんなに優しくて素敵な方なのに、婚約者もいらっしゃらないというのは本当なのかしら?
それなのにハロルド様に話しかけられた私に対して、敵意を向けてくる令嬢もいなかったし……不思議ね。
ミシュリアは生まれ故郷で、『夜会とはより身分が高く優れた令息に見初められるための場であり、令嬢の主戦場である』と散々刷り込まれてきた。
実際、王族を巡る色恋沙汰が原因で、すでに痛い目にも遭っている。
第三王子に親し気に話しかけられ、真っ先に『ここにも居づらくなったらどうしよう』と、身構えてしまったのは仕方のないことだろう。
街で出会った『ハル』には確かに心を惹かれたけれど、第三王子の『ハロルド様』に近付いてはいけないわ。
絶対好きになっては駄目――ミシュリアはそう自分に言い聞かせていた。
しかし、ハロルドに「二人きりになりたい」と請われ、困ったように退出するミシュリアを見送る令嬢たちの反応は、予想していたものとは大きく違っていた。
「まあ! ごゆっくり~」
「行ってらっしゃい。ここのお庭は夜でも楽しめると思うわ」
「あら、愛する二人には場所なんて関係なくてよ?」
「きゃ~! 二人でいれば、どこだって楽園っていうものね!」
若い令嬢の高い声がホールに反響し、むしろ二人の仲を歓迎するかのような言葉に、ミシュリアは動揺するしかなかった。
『愛する二人』!?
恨まれてはいないようで嬉しいけれど、さすがに話が飛躍し過ぎているわ。
私にとっては印象的な出会いでも、彼にとっては取るに足らない出来事だったでしょうし。
あ、もしかして……
ハロルドは街で会ったことを秘密にしたくて、口止めをする為に場所を変えたいのだとミシュリアは思い至った。
第三王子がエプロン姿で街に溶け込んでいるというのは、世間体が悪いことなのかもしれない。
「違います。私たちはそんな関係じゃ……」
「ミシュリア、今夜は月が綺麗だ。さあ、行こう」
ミシュリアの否定の言葉は、呆気なくハロルドの力強く、それでいて艶っぽい声にかき消されてしまう。
ハロルドはためらいなくミシュリアの手を取ると、悠々と庭の方へと歩を進め始めた。
そんな迷いのないハロルドの様子に、更に沸き立つ人々――
困ったミシュリアは、『騎士団で鍛えているから手のひらが硬いのね……』などと、思わず現実逃避をしてみたものの、ハロルドは『ちゃんと俺を見ろ』と言わんばかりに、ミシュリアの手の甲を器用に指で撫でさすってくる。
ひゃ~~、ハロルド殿下ったらどうしてしまったの?
私が知らないだけで、元から強引で誘い慣れている方なのかしら?
こんなことをされたら、私に興味があるのかと勘違いしてしまうじゃないの。
慌てて抗議するように見上げたハロルドは、王族らしい金糸をふんだんにあしらった夜会服に逞しい体格が映え、凛々しくも格好いい。
ミシュリアと目が合ったハロルドは、満足そうに口角を上げると、「綺麗だ、ミシュリア」と彼女の耳元で囁いた。
ああ、もう自分を誤魔化せないわ。
私はこの方に心を捉われている……。
ますますときめいてしまったミシュリアは、ようやく自分の恋心を認めることにした。
ハルが王子殿下だとわかったのに、好きになるのを止められないなんて。
恋には憧れていたけれど、王族なんてもうこりごりだと思っていたはずなのに……駄目な私ね。
恋は理屈じゃないとはよく言ったものだと、ミシュリアはハロルドの逞しい背中を見つめながら、生まれて初めての想いに戸惑っていた。
やがて中央に噴水のある中庭へとやって来ると、ハロルドは立ち止まった。
繋いでいた手を離してミシュリアと向かい合う形になったが、自分の気持ちを自覚したばかりのミシュリアは、うまく顔を上げることが出来ないでいた。
頭上には美しい月、噴水の水は光がキラキラと反射して輝いている。
そんなムード満点の空気に耐え切れなくなったミシュリアは、思わず自分から話しかけていた。
「あの、ハロルド様は王家の方だったのですね。知らずに失礼いたしました」
「いや、黙っていたのは俺のほうだ。絵を描いていることを隠しているわけではないのだが……ハルとは呼んでくれないのか?」
「王子殿下をそんな親し気に呼ぶわけにはまいりませんわ」
「なぜ? どこに問題が?」
隠していないのなら、ハロルドはどうしてミシュリアをここまで連れてきたのだろうか。
しかも、いくらヴィクトール王国が寛容だと言っても、王族を愛称呼びするのはまずいに決まっている。
『問題大有りです!』と言いたい気持ちを抑え、ミシュリアは続けた。
好きだと気付いてしまった以上、自分の置かれている立場について黙っているのはフェアじゃない――と、恋に不慣れながらも真面目なミシュリアは考えたからである。
「私は他国の出身ですし、ハロルド様には釣り合わないです。ご存じないかと思いますが、私は婚約者に……」
「言わなくていい!」
怒ったように言葉を遮ったハロルドが、ミシュリアの腕を引き、大きな体で彼女を包み込む。
借りた上着越しに力強いハロルドの腕の強さを感じ、ミシュリアは安堵のあまり涙が溢れそうになってしまった。
婚約破棄をされた日からずっと、ミシュリアは自分が強がってきたことにようやく気付いた。
本当は誰かに守って欲しかったし、悲しくて思い切り泣きたかったのだ。
「ロザリンドの夜会で起きたことなら、同僚の噂話で聞いている。その令嬢がミシュリアだと気付いたのはついさっきだが、俺は今猛烈に腹が立っているよ」
「え?」
「俺の愛するミシュリアを傷付けるとはいい度胸だと思わないか? ちょっとロザリンドまで斬りにいってこようか……」
「は? 愛する? それに、斬るってリッカルド様を? ……駄目ですよ!」
「ミシュリアは俺よりあいつのほうがいいのか? 君がリッカルドと名を呼ぶだけでも嫉妬しそうなのだが」
「違います! ハロルド様が関わるほどの相手ではありませんし、私はハロルドさ……ハルに出会えて、好きになって、今幸せなんです!」
「……好き? 君が俺をか?」
抱きしめていた体を離したハロルドが、信じられないといった顔でミシュリアを覗き込む。
「はい。私はハルのことが好きなんです。ですから、ロザリンドから逃げることになって良かったです」
「ははっ、そうか。そうだな。そう考えると、俺たちが出会うきっかけになった奴らにも感謝……はする必要ないな」
「ふふっ」
離れた距離が寂しくなったミシュリアが、今度は自分からハロルドの胸へ飛び込むと、ハロルドが笑ったのを感じた。
「微かに油絵具の香りがするな」
「え! あ、出かける前に、絵が乾いたかどうか確認をした時かしら!? 離してください!」
「なぜだ? いい香りだ。俺にとって絵具の香りは心地いいものだからな」
「私も油絵具の匂いは好きですけれど」
ミシュリアの髪を一度撫で、額にキスを落としながらハロルドは甘い声で囁く。
「君を愛している、ミシュリア」
「ハル……」
「あの店で出会った時、絵を描くのだと瞳を輝かせている君をとても可愛いと思った。だから身分を明かさず、絵を描く先輩として力になれればと思ったんだ。でもミシュリアが絵具で汚れた俺の手を握った時、ああ好きだと、手放したくないと気付いた」
「私も……私もずっとハルのことが忘れられなくて」
「ミシュリア……」
恋愛初心者のミシュリアでも、ハロルドが求めているものがわかってしまう。
ゆっくり顔を上げると、そこには熱に浮かされたようなハロルドの瞳があった。
ミシュリアが静かに瞼を閉じると――
「あら、そこにいるのはハロルドではなくて?」
女性の穏やかな声が静かな庭園に響き、驚いた二人はたちまち距離をとった。
ミシュリアは恥ずかしさで両頬を手のひらで押さえたが、頬は燃えるように熱くなっている。
「ったく、こんな時に誰が……って、お祖母様?」
「え、お祖母様!?」
声の主を確かめると、威厳すら漂うような贅沢なドレスに、ティアラを着けた年配の女性が立っている。
しかし、その女性の顔は見覚えのあるもので。
「クリスティーヌ様?」
「まあ、ミシュリアさんじゃないの! って、あらあら、あなたたち上手く出会えたようね。しかも二人きりでいるってことは……まあ、私の作戦勝ちね!」
なぜかそこにいるのは、こちらへ向かう途中に出会った、オルゴールを渡したクリスティーヌだった。
え、クリスティーヌ様がハルのお祖母様ってことは、クリスティーヌ様は王太后様なのでは?
まさか話していたお孫さんって、ハルのこと?
あ、確かに瞳の色が同じだわ。
驚くミシュリアの隣で、ハロルドがふてくされている。
「なるほどな。あの店に若い娘がいるなんて珍しいとは思ったんだ」
「いつまでも独り身のあなたに、ピッタリなお嬢さんに出会ったのだもの。紹介したくなるのは当然でしょう? でも素直にあなたが会うわけもないから、一計を案じたのよ。本当に出会えるかは運まかせだったけれど、二人がうまくいって良かったわ」
結局、渡したオルゴールがハンカチに変わり、ハンカチを持って画材屋に行ったことで、ミシュリアは素敵な出会いを得ることができたというわけだ。
なんとも不思議な巡り合わせである。
「デボラにもらったブローチが、私に幸運を運んでくれたのだわ」
「ブローチ?」
怪訝そうな顔をするハロルドに、ミシュリアはミモザのブローチが赤い羽根、オルゴール、ハンカチへと変わり、ハロルドに出会わせてくれたのだと経緯を語って聞かせた。
なんとも摩訶不思議な出来事だったが、クリスティーヌは「なんてロマンチックなのかしら! さっそく皆に話さないと!」と、その場から足早にいなくなってしまった。
オルゴールのおかげなのか、体調は良さそうで何よりである。
キスを邪魔された二人が苦笑し、仲良く夜の散歩から会場に戻ると、すっかり噂は広まっていた。
小説を書いている令嬢が、さっそく物語にすると意気込み、帰って行った。
この国の令嬢は、自分の恋愛より趣味に興味があるのかもしれない。
「私はロザリンドから逃げてきた身なのにいいのかしら……」
「気にすることないわ」
ミシュリアの肩をポンと叩いたのは叔母で、ロザリンドの現状について教えてくれた。
それによると、ロザリンドの国王はリッカルドとマーリンに対して酷く立腹し、弟を王太子にすることを決めたのだという。
ミシュリアの父が中立派から王弟派へ乗り換えたことや、夜会での非常識な言動でリッカルドは求心力を失っていた為、あっさり決まったらしい――まあ、当然だろう。
一番驚いたのはマーリンで、彼女のお腹の子の父親はリッカルドではないかもしれないそうだ。
「リッカルド様でなければ、誰の子なのですか?」
「それがね、候補が何人もいるんですって。さすがあの母親の娘よねぇ」
叔母は、ざまあみろと言わんばかりにほくそ笑んでいる。
マーリンは出産後、修道院へ送られることになるのだとか。
一気に力が抜けてしまったミシュリアの腰を、ハロルドがしっかりと支えてくれる。
「ミシュリア、ロザリンドに帰るなんて言わないよな? 俺とこの国で共に生きて欲しい」
「ハル……もちろんよ!」
再びの夜会の場で、今度はプロポーズをされたミシュリアは、皆の祝福を受け幸せそうに微笑んでいた。
◆◆◆
二人の結婚式当日。
ハロルドと並んで馬車に乗るミシュリアは、沿道を埋め尽くす人々に笑顔で手を振っていた。
身分に寛容なヴィクトールらしく、貴族と庶民が入り混じって歓声を上げる中、見知った顔があることに気付く。
あら、デボラったらいつの間にヴィクトールへ到着していたのかしら?
え、あれは羽根をくれたルアンよね?
ブローチを着けた女性と一緒だけれど……もしかしてサラさん?
それに、赤い羽根を振っている子供を抱くお母さんは、あの時の……。
沿道には懐かしい顔が揃い、もちろん王宮では王太后であるクリスティーヌが待っている。
ミシュリアは、偶然がもたらした今の幸せを嚙みしめずにはいられなかった。
「ミシュリア、今日のドレスもとても似合っているな」
「ハルこそ、騎士の正装が素敵です」
「この美しい姿を描き残しておかないといけないな」
「ふふ、私もハルを描きたいです」
馬車の上で二人がくちづけると、沿道の歓声は一段と大きくなり、誰もが二人の結婚を祝っていた。
その後、ハロルドが描いた『最愛の妻シリーズ』とよばれる一連の絵画には、彼のミシュリアへの愛情が溢れていると話題になり、二人は仲睦まじくヴィクトールで暮らしたのだった。
お読みいただき、ありがとうございました!