(3)
「ここが私の家よ」
出会った公園からそう遠くない、僕が住んでいるマンションからも割とすぐ近くにあった鈴香さんの家。
……はっきり言って、そこそこご立派。
もしや鈴香さんはお嬢様なのではないのだろうかといった、様々な憶測が僕の頭の中で繰り広げられる。
「ふふっ、どうかした?」
唖然としている僕の表情を見て、少しだけ首を傾げながら笑った鈴香さんは「入って。」と口にしながら、僕をリビングまで案内してくれた。
「琴音……、妹も眠っちゃったみたいだし、少しだけ待っててね」
ドが付くほどの緊張で、もはや手足が一緒に出ているのではないかと思えるくらい、まっすぐ歩けているのかさえ分からない状態の中、鈴香さんは僕の事を置いてリビングから出ていってしまう。
「あっ、はい―――」
なんて返事はしたものの、僕は完全に手持無沙汰状態である。
一人リビングに残った僕は、既に漂っている甘い匂いと緊張で、ソワソワソワソワ落ち着かない。
……というより、正直異性の住んでいる家に上げてもらった事すらないから、心臓が鳴り止まないのだけど!
しかしあまりキョロキョロするのもかえって不自然……いや、失礼だろう。
だからここは、冷静にお経でも唱えながら心を無にする事を選んだ。
「ジュゲムジュゲム、五行でブチギレ…」
……本当は何だっけ?
というより、これはお経でもない。
だけど僕はお経なんて唱えられないし、ごくごく一般的なネットで育った高校生男子。
必死に邪念を飛ばそうとはしたけれど、所詮はこんなものしか頭に思い浮かばず、己の未熟さに愕然とした。
「どうしたの?」
「ひょわああああっ!」
いつの間にやらリビングへ戻って来ていたのか、鈴香さんが急に僕の顔を覗き込んできた為、なんとも間抜けな奇声を上げてしまった。
……しかも某五つ子君に出てくるようなシェエエエエを思い出させるポーズ付き。
「ふふっ、そんなにびっくりしなくても」
「いやっ、あのっ! おおおっ、おかえりなさい!」
「おかえりなさいって、ここ私の家よ?」
「そっ! そうですよね―――」
……だああああ、何をやっているんだ僕は!
こんな奇声を発する高校生なんて、そうそういない。
確実に鈴香さんに笑われてしまった。
でもこれは言ってしまえば、急にこんな美人なお姉さんが、僕の顔を覗き込んできたのがいけない。
こちとらまだ身の潔白を証明できるくらいの乙女もびっくり、清き身体の持ち主なんだ。
「ふふっ、君って本当に楽しいね」
だけどそんな僕の事はなんとも思っていないかのように、鈴香さんはふわりと笑ってキッチンへ向かってしまう。
「えっとコップは……、あー」
なんて呟いている声と、カシャカシャガッシャーン……ガッシャーン?
そこそこ大き目な食器の音も聞こえ、再び目をぱちくりさせていた僕の前に、焼き菓子と飲み物を持って戻ってきた。
「甘いものは好きかしら?」
「はい! めちゃめちゃ好きです!」
「飲み物も紅茶でいいかな?」
「はいっ! なんでも!」
まるでこれから起こる事柄の前章のように、他愛のない会話を進める鈴香さんと僕。
手の汗がバレないよう、こっそりとズボンのすそを握りしめたが、そんな僕とは裏腹に「それならよかった。」とほほ笑む鈴香さんは、なぜか僕の目の前を通り過ぎていく。
「…えっ?」
その行動が理解できず、素の声が出てしまった僕は、身動きが取れない。
だけど鈴香さんは、ついてこない僕の事を不思議に思ったのか、お盆を持ったまま廊下へと続く扉の前で、首をかしげていた。
「あらっ? 私の部屋じゃ嫌?」
……今、部屋と言いました?
聞こえてはいけない単語ではないはずなのに、一気に心臓がドクリと鳴る。
てっきりこのままリビングにいるのかと思っていた僕は、思わぬ方向へと話が進んでしまった為に、過去一慌てた声を出した。
「いいいっ、良いんですか!?」
「ええ、もちろん」
「だって! そんな見ず知らずの男を―――」
「もうっ、そんな事言わないの」
なんて言って鈴香は含みを持たせた微笑みを見せて、僕の事を視線だけで吸い寄せた。
「これは妹がお世話になったお礼なの。遠慮しないで?」
なんという事でしょう。
僕はそんなこれまでたしかに真っ当に生きてはきましたが、こんな破廉恥……失礼。
素晴らしいような、でも罪悪感が生まれそうなご褒美をもらっていいのでしょうか。
「それとも、やっぱり嫌?」
「いっいえ! とんでもないです! むしろ嬉しいというか!」
「ふふっ。じゃあ、お礼させて欲しいから、来て?」
「―――はいっ」
覚悟は決めた。
……いややっぱちょっと待って。
これは期待してもいいのか!? でもちょっと良心は痛むぞ!?
だって僕は別に妹さんに何もしてあげていないのに、こんな素晴らしい特典を頂けるなんて、それこそおこがましいのではと、色々な感情で心が爆発してしまいそう。
それなのに鈴香さんはお構いなしに「リビングだと、いつ両親が入ってくるか分からないしね。」なんて言って、甘い匂いを漂わせて笑っている。
「さすがに親が入ってきたら、大変でしょ?」
それは一体どういう事でしょうか。
ご両親が入ってきたらマズいって!?
やっぱりこの展開ってもしや!?
きっと僕の考えている事は、表情を通して鈴香さんに伝わっているはず。
音が聞こえそうなほど、ゆっくりと喉を鳴らしてつばを飲み込んだ僕を見て、鈴香さんは一瞬だけ微笑んでからさっさと廊下へ進んでしまう。
……いざ、出陣!
もはや思考回路はショート寸前だったが、二階へと続く階段を上がっていく鈴香さんの後ろを、僕は意を決して追いかけた。