(2)
「まだこの辺の事は分からなくて探すのが大変だったから、本当にありがとう」
……引っ越してきたばかりなのだろうか。
まあそれより、僕としては格好良く立ち振る舞っていたかったが、抱っこされている妹さんが安心したようにお姉さんの胸へ顔をうずめているから、口元が落ち着いてくれない。
……羨ましいなんて言ってはいけない領域!
だけどやっぱり羨ましいと、僕は心の中で涙しながら拍手する事しかできない。
「……どうしたの?」
そんな上の空とも言える僕の態度を見て、不思議そうにしているお姉さん。
「ぃいえっ! 何でもないです!」
なんて言葉しか落とす事ができなかったが、このタイミングで凄まじい音色がなってしまった。
「ぐぐぐぐぐぐううぅぅっ!…ギュルっ」
……どうしてとんでもない美人が目の前にいて緊張しているのに、よりによってこのタイミングで鳴るんだよ僕の腹の虫!
しかも最後のギュルって何だ! 今まで聞いた事ないぞそんな音!
なんて頭の中で僕はパニックを起こしかけてしまいそう。
だけど目の前のお姉さんは、あまりの音に目を見開いてきょとんとしたまま固まっている。
「あはっ、あはははは! すみませんっ、もうっね―――」
もはや単語を紡ぐ事さえ難しいくらいには、顔から火が吹き出そう。
どうして僕はいつもこうなんだ!
ちょっとは良い雰囲気になって美味しい思いをさせてくれたって良いじゃないかと、嘆きたくなるくらいには情けない。
だけどそんな僕の心情とは裏腹に、事態は一変。
「……ふっ」
なんとお姉さんは息を漏らすと、くすくすと笑いながら、こんな言葉を投げかけてきたのだった。
「君、お腹空いてるの?」
「ふえっ!? いや、その―――」
恥ずかしくて、お姉さんの顔がまともに見れない。
返事すらも返す余裕もないくらいには、僕は今穴があったら入りたい。
「もしよかったら私の家に遊びに来ないかな?」
「……えっ?」
だからお姉さんの声掛けに、思考回路が止まってしまう感覚を覚えてしまった。
……今、なんとおっしゃいました?
なんて声にならない疑問が、僕の表情に現れたのだろう。
お姉さんは一度ゆっくり微笑むと、改めて言葉を落としてくれた。
「今ちょうど、バイトで作るお菓子の試作品を、家で作って覚ましているところなの」
「バイトの試作品……」
「そうそう。私ね、お料理教室のアシスタントのバイトをしているのよ」
「はえー……。それは、すごいですね!」
料理教室のアシスタント。
それだけでもう目の前のお姉さんがどういった人生を送っているのか想像できる。
だからという訳ではないが、僕はもうお姉さんから誘われた事が何より胸いっぱいで思わず「良いんですか!?」と鼻息荒く食い付いてしまう。
「ええ、妹を助けてくれたお礼も兼ねて……」
なんて話すお姉さんの言葉に、有頂天になってしまったのは言うまでもない。
「これはついに俺にも春が来たのでは!?」
ついこんな事をバカ素直に声へと出してしまい、慌てて口をふさいだ。
「すみませんっ、つい本音がっ!」
「うん。君って面白いね」
……褒められているのか?
ふわりとほほ笑んでいる、綿菓子のような柔らかい表情。
その心をくすぐるような可憐な女の人を間近にして、世の大人の男性はどうして平然と口説けるのか疑問にすら思う。
「そういえばお名前は?」
なんて聞いてくるお姉さんの言葉を、僕の脳内は処理してくれない。
「はえっ!?」
「だから、お名前。君のお名前を教えてくれると嬉しいのだけど」
しまった! 緊張し過ぎてお姉さんに早くも幻滅されてしまうかも!
「佐津川勝佐です! 上から読んでも下から読んでも、さつかわかつさです!」
まるで息をするのすら忘れてしまったかのように。
喉が渇ききっているのを自分でも感じたくらいには、緊張で声を張り上げてしまった。
「佐津川、勝佐くん……。うん、覚えた。私の名前は甘密乃鈴香、大学一年生よ」
まるでぼくの名前を何かと一致させるかのように、ゆっくり繰り返したお姉さん。
「皆からは名前で呼ばれているから、君も名前で呼んでくれると嬉しいかな」
だけどお姉さん……、改め鈴香さんはそんな僕のテンパっている内情等お構いなしに、優しく微笑むと「それじゃあ、行こっか。」と歩き出そうとする。
「あっ、……はいっ!」
流れの展開が信じられなくて、目をぱちくりさせてしまっていた僕だったけど、鈴香さんはなんて事でもないように妹である少女を抱っこしながら歩き出す。
だけど僕には一つ叫びたい事がある。
……年上お姉さん、キタアアアアー!
きっと僕の浮足立ちぶりは、鈴香さんにも伝わっていたのだろう。
ニコニコ顔でガッツポーズをしてしまった僕とばっちり目が合い、クスリとほほ笑んでくれる鈴香さん。
そのなんとも言い表す事の出来ない感情に、僕はこれまでにない程胸のトキメキ……いや、高鳴りを感じずにはいられなかった。