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2.私がいない世界

 たとえば、学校の屋上。

 たとえば、駅のホーム。

 たとえば、赤信号の横断歩道。

 誰にだって向こう側へと踏み出したくなる、そんなときがあるはずだ。

 だからわざとではない……とは言えないけれど。

 少なくとも無自覚的に、私は境界線を踏み越えていた。


 瞼の裏に焼きついた迫り来る影と、刹那に反転する夕暮れの景色。

 いまも奥のほうで響いている、金属が擦れ合うような耳障りな音。

 痛いのかもよく分からなかった、とにかく息が詰まるほどの衝撃。

 私が覚えているのはそれだけで、だがしかし覚えているのだった。


 白い天井、白い壁、白いシーツ。白一色の世界。

 もう使い古された形容しか思い浮かばない、無感動な認識。

 あぁ――ここは病院だ。

 どこか神経をやられたのか、ろくに身体は動かない。

 快復するのか、それとも既に麻痺してしまっているのだろうか。

 最悪な気分で胸中毒づいてから、私は空っぽの心を宙に曝した。


 意識が戻ってから一週間も経つと、思考が現実世界に追いついてくる。

 事故の翌日に目を覚ましたらしいから、感覚的にはそれほど体内時計のズレもない。

 徐々に普段の自分を取り戻す作業。それは痛みを伴った。

 生き延びてしまったのなら、いっそ植物人間にでもなれば良かったのに。

 生活するのでなければ、ベッドに横になっているぶんには不自由ない。

 日常的に金縛りを経験している私は、身体が動かせないという感覚になれていたから。

 それなのに、リハビリをすれば生活には支障がないほど快復してしまうらしい。

 またあの地獄に戻らなければいけないと思うと、気が滅入ってしまう。

 生きたいという欲求も活力もない。

 だが、生きているからには生きなければならないのだろう。


 入院しているあいだ、お見舞いに来たのは両親と数人のお義理の知り合いくらいで。

 友達とかいうひとには一度もお目にかかれなかった。

 お手軽な携帯のアドレス帳にすら登録されている人間は少ない。

 私にとっては名刺よりも軽い電子機器。あってもなくてもいい。

 仕事で困ることはあっても、人間関係においては必須アイテムではないのだった。

 私に不幸があっても、誰も気づいてくれない。

 寂しいなんて感情はとっくに失われているけど。

 それでも、どうしても空虚さを埋められない。

 私はどうして世界に存在しているのだろう。

 誰ともつながらない。誰ともつながれないのに。

 きっかけは事故かもしれない。

 けれど、冷たい現実を突きつけられて、私は決意した。


 初めは乗り気でなかったリハビリに、一生懸命に取り組むようになった。

 そうはいっても暫くはベッドから出られず、簡単なことしか出来なかったけど。

 寝返りの練習や足を伸ばす練習。

 上半身を起こせるようになり、手すりにつかまりながら引きずるように歩く。

 松葉杖を借りてようやく歩けるようになった日。

 私は母と別れてから、独り病室を抜け出した。

 ごく自然な様子で屋上に出る。

 重い扉を開いて、広がった世界に、私は息を呑んだ。

 青い空、白い雲、眩しい光。そして、高く張り巡らした鉄柵。

 ここは牢獄だ。そんな絶望が心に染み付いた。

 いまの私は、死というものにすら望まれていない。

 舌を噛み切るだの、首を吊るだの、私は自殺がしたいわけじゃない。

 もう一度、境界線上に立って、裁きを下して欲しいだけだった。

 もし死が私を望んでくれるのなら、連れて行って欲しいだけだった。

 無意識の死を私は望んでいるのだ。


 蒼白の壁に絶望して、私は病室へと引き返した。

 しばらくは白の鎖に繋がれていなければならない。

 リハビリはいずれ終わり、日常生活へと戻っていく。

 まるで何事もなかったかのように続く日々。

 上辺だけの友達は呑気に戯言を吐き出し、私はうんざりした。

 誰も気づかないのか。いまでも私の歩き方は、少し不自然で不自由だ。


 私は毎日、マンションの屋上に足を運んでいる。

 世界の淵に立ち尽くして、血色の空を見上げる。

 いつか私を死が攫ってくれる日を待ちわびながら。

 いつまでも、いつまでも。

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