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1.聖ヴァレンティーヌスの導き

 裏切りだなんて、酷い言い草。

 わかってる。人の心は移ろうものだから、仕方がないことなんだって。

 だけどやっぱり、そう簡単に納得はできないのだ。


 貴方は私を忘れて、新しい女と幸せそうな毎日を過ごしている。

 私は貴方の残滓に惑わされて、思い出の檻に閉じ込められている。

 いったい、この差は何?

 どうして私だけが、こんな惨めな思いをしなければいけないの?

 勝手に別れ話を切り出して、勝手に決着をつけて。

 貴方は私の都合なんてお構いなしだったよね?

 自分勝手すぎるよ。

 いつまでも引き摺って、何も変われていない私がいるのに。

 想いが薄れることなんてなくて、行き場を失った気持ちを持て余しているのに。

 ねぇ、毎晩のように孤独を慰める私の気持ちがわかる?

 貴方には想像もできないよね。気持ち悪いって、思うのかな?

 いつもそうだった。貴方は私の気持ちなんて、何もわかってくれなかった。

 ううん、わかろうともしてくれなかった。

 自由で気ままで何事にも縛られない。

 でもそんなところが眩しくて、好きなところでもあったんだ。

 何がいけなかったんだろう……何が、か。きっと全部だよね。

 私は初めから間違えていた。最後まで間違えてしまった。

 贈る言葉も、貰う行為も、いまなら少しは理解できるのに。

 もしやり直せるのなら、何か変わるのかな?

 選択を間違っていなければ、違う結末もあったのだろうか。

 最期に聞いてみたかった。


 バレンタインデーに「会いたい」と連絡をした私に対して、彼の反応は鈍かった。

 もう何ヶ月も会っていないけど、彼の困惑顔がメールの文面から想像できる。

 もちろん新しい彼女との予定はあっただろう。

 それほどイベントを意識するタイプではないのに、彼は律儀だから。

 大事なひとにはマメなのに、それ以外となるとどうでもよくなってしまう。

 熱するは難く、冷めるは易い。私はもう用済みということだ。

 どうしてもと頼み込んだ私に折れて、渋々ながら彼はOKを出してくれた。

 ただし夜遅い時間なら、と。私としても都合はいいのかもしれない。

 ……本当に些細なことなんだけど。

 メールを一、二通交わしただけで、どうしてこんなにも愛しさが溢れてくるのだろう。

 私は間違っている。けれど、後悔だけはしないつもりだったのに。


 キッチンから一本借りて、慎重に布で包んだ。何重にもしないと危ない。

 今日ばかりは、久しぶりにおめかしをして、少しでも可愛く見えるようにしたい。

 目の隈が酷かったり、頬がこけてしまっているけど、化粧でなんとか誤魔化せる。

 貴方がくれた洋服に身を包んで、漆黒のコートを羽織る。

 貴方がくれた手袋をつけて、真紅のマフラーを首に巻く。

 鏡の前でくるりと一回転すると、ドキドキと懐かしい気持ちが蘇ってきた。

 誰もいない家にお別れの挨拶をして、待ち合わせの場所に向かう。

 待ち合わせは二十三時。

 聖ヴァレンティーヌスが殉じたその日のうちに、私もいかなければ。


 駅の改札を通り過ぎるときには緊張した。

 反応するわけないって、わかってはいるけど。

 無用心だなと思う。公共機関には金属探知機をつけるべきだ。

 電車に揺られている間、手提げのバッグから覗く柄をじっと見てしまった。

 どうしても鼓動が早くなるのは抑えられない。

 遅刻魔の私が珍しく十分前に着いて待っていても、彼は珍しく遅れてやってきた。

 ただでさえ短い逢瀬の時間。もったいない……彼女とお楽しみだったのだろうか。

 下世話な妄想に思考を奪われそうになるが、かろうじて邪念を追いやった。


 やっぱり、もう無理なんだね。

 貴方がいなければ、奪われることに恐れる必要もない。

 私は生きてるから、奪われることを恐れる。

 同じ世界に二人は存在しちゃいけないのだ。片方は居ちゃいけない。

 それなら消えるべきは……私は揺れていた。

 正しくはない。どの選択も間違ってはいるのだ。

 けれど、後悔はしたくない。


 思い出の公園に辿りついたとき、日付が変わる三十分前になっていた。

 時間は刻一刻と迫っているのに、どう切り出していいのか分からない。

 言葉よりも行動で。だからこそ難しい。

 彼から話しかけてくれることは、ほとんどない。

 話ベタなのか、私が相手だからなのかは、いまだに分からないけど。

 私からアクションを起こさないと何も始まらないのだ。

「あのさ……えっと、彼女とは順調?」

 苦笑いを浮かべて、どうしようもない一言目。

 終わりにするために来たのに。手探りの言葉をぶつけて、馬鹿みたい。

 きっと歪んだ表情で、寂しげに問いかけているのだろう。

 こんなときにまで縋るような自分が情けない。

「新しい彼女ができたら一番に教えてくれるって、約束だったでしょ?」

 強がって自分を制するために伝えた偽りの数々。納得なんてできてない。

 貴方のせいで心を壊した。これはどうしようもない現実だけれど。

 傷ついたぶん、傷つけないと気が済まない。もう綺麗事を並べる段階は終わったのだ。


 私って貴方にとって何? もう友達ですらないよね?

 恋人同士じゃなくても、親友になれるはずじゃなかったの?

 新しい人たちと付き合い始めたら、もう私は必要ないの?

 だから捨てたの? 用済みだから、捨てたの?

 過去に置き去りにした人間は、単なる知り合いでしかないのだろうか。


「あのね……今日はお別れに来たの。ちゃんと、けじめをつけたくて」

 手提げから覗く柄を握り、引き抜く。

 巻いていた布が冷たい風にさらわれて、はらりと地面に落ちた。

 公園の灯に照らされて、鋭い刃が光を反射した。

 彼の驚きの表情を見て、私は満足する。そんな顔を見てみたかったのだ。

 驚愕、怯え、恐怖。一方で現実を認識しきれていない混乱。

 彼が立ち竦んで動けないうちに、そっと寄り添う。

 包丁を逆手に握って、自分の胸に切っ先を合わせる。

 そして、彼の手を取って柄を握らせようとした。

「貴方がいなきゃ、もう私は生きていけない。

 生きていけないのに、怖くて自殺できないの。

 ねぇ、どうしてくれるの?

 ちゃんと責任を取ってよ。ちゃんと終わりにしてよ。

 お願い、殺して……殺せえええぇぇっ!」

 私の慟哭が冬空に響き渡る。

 彼は知らない人を見るような表情で私を見た。異物を見る目。異常者を見る目。

 あの日の貴方はもういない。貴方は、もう私と一緒に歩いてはくれない。

 ひとりで幸せに、なるんだね……


 私は包丁を握らせるのを諦めて、腕をだらりと下ろした。

 そっか……残念、だよ。

 視界の端で大時計の長針が動くのが見えた。

 じゃりっと彼の靴が地面を擦る音がする。

 私は後ずさろうとする彼に迫って、強引に唇を重ねた。

 歪んだ彼の顔が、涙でぼやける瞳のなかに映し出される。

「ごめんね……さようなら」

 最期の口づけと薄れゆく温もりを感じながら、私は瞼を閉じた。

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