あーっ! 困りますお猫様! お食事はしっかり召し上がって下さい!
お猫様は、餌鉢の中のカリカリに御鼻をお近付けになったが、マグロ風味の匂いをお確かめになるだけで、召し上がろうとはしなかった。私を見上げて、「なぅん」とお断りされる。
普段通りのお食事の時間ではあるけれど、食指が動かない――お猫様におかれましては、御髭が動かない、と表現すべきか――ようである。私の知らないところで、お昼寝を多めに取られたのかもしれない。あるいは、一寸「なぅん」と仰りたい日なのかもしれない。そういう日もある。暫くはご気分にお任せしよう。
かくいう私も、食欲が無い。6月にして早くも夏バテなのである。これではいけない。栄養を摂らなければ、胃のぜん動運動も弱る、身体が弱れば食べやすい食事を用意するのも億劫になって、負のスパイラルに陥ってしまう。夏は、食べる努力をしなければならないのだ。
うん……。まずはお猫様に、しっかり召し上がって頂こう。お猫様が健やかにお召し上がりになる姿が、私めにとって、何よりの食欲そそるスパイスなのだ。
私は、お猫様のご様子を拝見する。耳はぴっと前を向いて、お目目をくりくりと見開いて、蛍光灯の光を受けた瞳孔は縦長に窄まり、複雑な色の光彩が艶やかなハイライトを弾いていらっしゃる。小さなお鼻は力強き呼吸も鮮か、お口元のひげ袋はぷっくりとお活力が漲っておられる。
可愛い。困ってしまうほど、可愛い。
まずは、気分転換をご提案させて頂く。本棚の隙間に差し込んでいた猫じゃらしを取り出し、道端の雑草の穂先に良く似た、フェルトの先端を振って御覧に入れる。お猫様は、その紫色の獲物をしかと目で追われたけれど、筋肉の細やかなる筋一つも奮わさないままに、また「なぅん」と仰った。
お猫様は、違う玩具を使うご気分なのかもしれない。
私は、台所から輪ゴムを一つ取って来て、ちゃぶ台の上に置いた。オレンジ色の細い輪の、ありふれた輪ゴムである。ごく一部を人差し指で押さえる。押さえつけたまま横に滑らせる。角の立った切断面を持つ輪ゴムは、その弾力を発揮してもがき、やがてぺこんと直立する。空に辛うじて円形を保つ輪ゴムを、私の指一本でバランスを保つ。ほんの僅かな力の入れ加減で、輪ゴムが震える。
お猫様は、爛々とした眼で輪ゴムを凝視されたが、お狩りになるのをぐっと堪えられ、また「なぅん」と仰った。
私は、運動で食欲を刺激する作戦を、諦めた。
「お猫様……、ちょっと、味見してみませんか? 結構いけると思うんです、このカリカリ」
餌鉢の前に陣を敷かれたお猫様に呼びかけ、配膳済みのカリカリを、私めの小指でかき混ぜる。陶器の餌鉢と乾いたカリカリの粒が、硬い音を立てた。お猫様は、好まし気に耳を傾けられたが、お目目は私を見上げて、また「なぅん」と仰るのだ。
「昨日、召し上がられたものと同じですよ。いつも綺麗にお上がりになるでしょう?」
説得空しく、お猫様は、私の腕に、お顔を擦り付けられるのだった。
「…………」
私は沈黙する。お猫様の健やかな食生活のために、私が出来ることを、考える。私がすべきことは何であるか。カリカリのマグロ風味が抜けてしまうまで、寝転んで待つか。気が乗らないお猫様に、猫じゃらしを振り続けるべきか。あるいは。
私は、実のところ、お猫様にお食事を召し上がって頂くための、最強の策を持っている。だがこの策を乱用したくはないのだ。
攻めるべきか攻めざるべきか。ああ、しかし、夏バテは万病の元だ。お猫様にとっても、私にとっても。
お猫様は、私の心の揺らぐ瞬間を逃さない。私を見上げて、「なぅん」と仰る。
まん丸の大きな眼差しが、真っすぐに私を射抜く。天井の蛍光灯を映しこんで、複雑な色味の光彩にハイライトを入れて。三角のお耳まで、きゅっと私の方を向いている。小さな切り欠きのある、薄く柔らかな縁までキリリと、私めに訴えかけていらっしゃる。口元の御髭は、毛根から期待に沸き立ち、その下には待ちきれない御口がちょっと開いていらっしゃる。そしてお猫様ご自慢の先白の尻尾を高く掲げ、親愛のために、その先白を撓らせて。御前足は丁寧に左右を揃えて、ぷっくりしたお姿の愛らしいこと。
私は折れた。戸棚から猫用鰹節を出してきて、お猫様の餌鉢のカリカリに、一つまみ振りかけさせて頂く。
お猫様は威厳たっぷりに、餌鉢に歩み寄った。ほんの一息、すん、と鰹節の匂いを堪能されて、躊躇いなくお食事を始められた。
猫用とはいえ、鰹節の食べ過ぎは、御身体に障る。私めとしては乱用したくない。お猫様にはどうお判りいただいたものか。
「お猫様、困りますよ」
注進虚しく、お猫様はご満悦に喉を鳴らして、鰹節の味をお楽しみであらせられる。