あーっ! 困りますお猫様! 尻尾を不意に振らないで!
お猫様が、廊下の真ん中に落ちている。
夏本番が迫り、空気の淀む暑さの中、風通しの良い場所を求めたお猫様は、廊下のフローリングをご寝所に選ばれたのだ。フローリングといってもフローリング風の床材が敷かれているだけのこと。浅く筋を引いた目に沿って、お猫様が縦長に寛がれ、御前足はお顔の横に伸ばされ、御後足は左右に大きく広げられ。いわゆる”猫開き“と呼ばれる、見事な仰臥にあらせられる。
お猫様は日頃より、我が家の室内くまなくご自由に過ごされている。だから、何処でどうお休みになろうとも構わない、勿論私めは構わないのである。ただ、今お猫様がお選びになった、廊下の真ん中というのが、これから激しく往来のある場所になる。そこは、洗濯機と物干し場を繋ぐ、唯一の動線。炊飯器を乗せているスチールラックが張り出して、格段に狭まっているところを、お猫様が鎮座ましました。自らふわふわに毛繕いされたお猫様がお寛ぎになると、お腹の左右は人間の足の平1つ分の隙間しか廊下に残らず、運動神経の悪い私には、その手の飛び石渡りは無茶だ。小股にお猫様の四肢の隙間を歩こうとすれば、毛先を踏みつけて、お猫様にツンッとした感覚を味わせてしまう。それ以上の恐ろしい事故も、あり得る。だからそれは諦めて、大股に通り過ぎるしかない。
私は、お猫様を跨ぎ仕らねば、生活が成り立たぬのだ。
お猫様がすっと投げ出された先白の尻尾。私はその細さに甘えて、尻尾の付け根の近くに、そろりと右のつま先を進める。次に、お猫様の体を掠めないように、しっかり左足を上げてお猫様のお顔の向こうに着地する。万が一にも、お猫様のお顔やお胸に過ちを犯すわけにはいかない。お顔の側には余裕を持って着地したい。させてほしい。不肖の私めから、心ばかりの安全策である。
ハンカチや枕カバーなど、細々した布類をかき集めて、お猫様を跨ぎ仕り、洗濯機の下に向かう。洗剤を注いでスイッチを入れる。洗濯機が仕事をしている間、物干し場を片付けておくために、再びお猫様を跨ぎ仕る。
うちの洗濯機は安物だ。洗濯槽が回転するたびに、ゴトンゴトンと喧しい。直に振動が伝わってくる廊下は、ご不快であらせられるのではないか? 私はお猫様のご様子を伺った。ぴくりとも身動がれない。私は、床に頬を着けて、仰臥のお猫様の表情を確かめた。
私は、細い眼光に射抜かれた。重力に従って弛みあそばす下瞼。私と目を合わせるのに必要なだけ引き下げられた上瞼。お猫様は鷹揚にお寛ぎのままだが、その眦はどこか剣呑で、私はたじろぐ。
洗濯機の喧騒は、お猫様のお気に召さないようだ。かといって、場所をお移りになるおつもりも、ないらしい。ふわふわの被毛が無い私にとって、洗濯は重要な身繕いだ。このまま、お猫様に御辛抱頂けるならば幸いである。
およそ40分、私はだらだらと時間を潰し、洗濯物が仕上がったら、お猫様のお顔の傍にすり足で歩み寄り、しっかり左足を上げて跨ぐ。物干し場と一往復。思い立って布団のシーツも剥ぎ取り、洗濯機に運ぶのに一往復。お猫様は、”猫開き“のままであらせられる。
シーツの洗濯が終わった。お猫様を跨ぎ仕るのは、これで七度目。これが済めば、お猫様も静かにお休み頂ける。私はくしゃくしゃに丸まったシーツを抱きかかえ、お猫様の先白の尻尾の脇に、足を着いた。
腕の中の荷物のせいで不案内の足運び。その最も床を踏みしめる、種子骨の辺りに、柔らかなものが触れた。
「ひょわあ」
私は、足を踏みしめる前に奇声を上げ、考える前に重心を後ろにずらした。2・3歩よろけて、肘が流し台の縁に引っかかって止まった。腕の内側の柔らかい所を痛めた。
お猫様の尻尾が、私の足の裏の着地点に滑り込んで来られたのだ。
私が踏み出したその瞬間、お猫様が、尻尾を振った。お猫様にとっても不意の仕草だったかもしれない。お猫様が尻尾を振るわれるのは、いわば貧乏揺すりのようなもので。忙しない私を煩わしく思われて、そのお気持ちがふと表われておしまいになったのだ。
その結果、私は危うく、お猫様の尻尾を踏みつけるところだった。
「お猫様、尻尾を不意に振らないで下さい」
お猫様とて、態となされたことではないでしょうけども。私はどうにもならない気持ちで、喉の奥から声を絞り出した。