あーっ! 困りますお猫様! 来てはなりません!
がちゃん、がちゃん。レバー式のドアノブが、引き下げられては、内蔵のバネの力で元に戻る。
バリケードで塞いだドアの向こう。お猫様が二本足で立ち上がり、前足の肉球でノブをお掴みになり、体重をかけて引き下げていらっしゃる。その姿が容易に目に浮かぶ。
お猫様は、私めを呼びつけてドアを開けさせるのがお好きだ。今日もそうなさった。が、とうにその段階を通り過ぎ、口を閉ざされて実力行使に至る。普段なら難なく開くはずのドアが、何故か開かないので、お猫様は躍起になっておられるようだ。
ドアノブを引き下げると同時に、押し開けるため、お猫様は体当たりの要領を用いられる。此度はその勢いが激しくあらせられる。がちゃん、とドアノブが鳴る度に、蝶番が緩んでいくような気がする。私は畏れ慄いた。お猫様はお怒りなのだ。
「困りますお猫様。今は、来てはなりません!」
私は今、風呂場で漂白系の洗剤を使っている。お猫様には、お体に障らぬよう、廊下を隔てた更に向こうで、一室に匿い奉っているのだ。
私は、スプレータイプの洗剤を、風呂場の壁にまんべんなく吹きかける。独特の、ツンとした臭いが立ち上る。風呂場の換気扇は回しっぱなしにしているが、換気が間に合わない。とてもとても、お猫様を近づけられない。
私だって本当は、漂白系の洗剤など使いたくはない。臭いが苦手だし、吸い込み過ぎれば人間の体にも毒となる。正直なところ、今すでに吐き気がする。だが、我等がボロ家は、賃貸契約の時分からカビっぽく、強い洗剤の使用は避けられない。人間にとっても、お猫様にとっても、カビが有害であることに変わりは無く、たまの掃除のときはお猫様にお隠れ頂くしかないのだ。
お猫様は思断たれずドアノブを引き下ろし続ける。時折、ドスン、と床が鳴る。二本足で立ち上がって、ドアノブを掴まれていたのが、前足を下ろしてお休みになるのだろう。その踏み鳴らす音の強さたるや。ドアと廊下を挟んでも、鮮明に響く。足音を忍ばせるなど十八番のはずのお猫様が、あえて、私にそれを聞かせるのである。お猫様の、お気持ちの荒ぶり様が伺える。
日頃自由にお過ごしになれる住まいにて、唐突に移動の制限を妨げられたお猫様は、たいへん、お怒りなのだ。そのドアの向こうで、私が勝手にゴソゴソしているとなれば、尚のこと腹立たしかろうと、当方としましても承知致しますところではある。
お猫様のお気持ちは尤もであらせられども、どうかドアにはご慈悲を賜りたく。私はせめて、お猫様に声を掛け続けるのだった。
「お猫様、困ります。困りますったら。どうかお怒りを鎮め下さい」
どんな言葉を継いだところで、お猫様は治まらないだろう。耳はあまり寝かさないままで、鼻先に皺を寄せ、目を見開き、犬歯を余さず見せつけながら、「フーッ」とお叱りになる姿――怒髪天を衝く、いや、逆毛天を衝く、恐ろしくも貴重な表情。
不肖私、お猫様とは良いお付き合いをさせて頂いているので、そういう風に叱られる機会は、滅多に無いのだ。私は少し、楽しみにしている。