あーっ! 困りますお猫様! 窓をお開けにならないで!
あーっ! 困ります! 困ります!!
「にゃあん」
お猫様が、私を呼んでいる。
本州に接近していた台風が、陸地に触れる直前で、解けた。渦を巻くはずだった雨雲が、漫然と日本上空に張り付いている。強風が雨を掻き回して、連れ去り後に台風一過の晴れが訪れる、はずだったのに。べったりと紫雲が張り付いたまま。
「にゃあん」
「はぁい」
私は返事だけ返した。
「にゃあん」
よく透る声だ。芯があって、腹の底から発する声だ。団体競技のスポーツ選手が仲間と声掛けしあう時、「オーライ、走れ」なんていうのと、同じ声色。
呼ぶ、というのは、指示する、というのは、猫も人間も同じ言い方になるのだ。不思議だなぁ。
「にゃあん」
お猫様は、窓枠に座り込んで、部屋の隅の私を見ている。私は、ちゃぶ台の前に胡坐をかいて、お猫様の声を聞いている。聞かざるを得なくなっている。だって結構な声量なのだ。スポーツ選手を例えに出すくらいの、音圧があるのだ。音楽を聴いても掻き消される。動画を見ても集中できない。
ああ、とうとう、先白の尻尾が、不機嫌そうに揺れ始めた。お猫様の存在を無視するなど、人間にはどだい無理なのだ。
「お猫様、少々お待ちください」
飼い主は、弱弱しく平伏するしかない。私の手元には今、封を切ったハッピーターンがある。薄いフィルムでネジネジしただけの個包装――この米菓は、魔性の味付けに全コストを割り振ったに違いない。
「にゃあん」
お猫様は待たない。窓ガラスに横腹を押し付けるように座り、首だけ、私に振り向いて、呼んでいる。窓の向こうは雨模様。酷い湿気に違いない。窓を閉め切りクロッシェント錠までおろしていても、土っぽいような、草っぽいような、雨の臭いが漂ってくるような気がする。だがお猫様は『気がする』では、納得しない。本物の雨の臭いを嗅がせろと、窓を開けて強烈に嗅がせろと、そう仰っておられるのだ。
でも、お猫様、先ほど嗅いで頂いたばかりです。私、ほんの30分前までは、窓を開けて換気を務め、十分ご満足されたのを確かめてございますよ。お猫様はご愛用の猫ちぐらの中に戻られて、尻尾も出さずに丸くおなりでしたよ。お忘れですか。
「にゃあん」
「はい」
「にゃあん」
とうとう、業を煮やしたお猫様は、クロッシェント錠のツマミに、前足をかけた。
「あーっ、お止めください、困ります」
そう、お猫様は、自力で窓を開けることが、お出来になる。ただ、私に開けさせるのが好きなだけで、不甲斐ない飼い主がモタモタしているとなれば、お猫様はご自分でおやりになってしまうのだ。
お猫様がお出ましにならないよう、窓枠の外には金網を取り付けてある。普段はお猫様のお好きになさって頂いても構わないのだけど、今は。我が家の安くて軽いクロッシェント錠よ、どうか耐えてくれ。
「お待ちください! お待ちください!」
私はハッピーターンを貪り食う。この高湿度、薄いフィルムをネジネジしただけの個包装の煎餅は、ひとたまりもない。窓を閉め切り、除湿器をかけ、封を切ったなら即食べきらねばならない。
カツン、と音がする。お猫様が日頃から、お戯れにお鍛えなさった腕力で、クロッシェント錠が跳ね上げられた。両前足の爪を窓枠にお掛けになり、後脚を強くお張りあそばし、腹筋のしなりで、窓をお開けになる。尻尾の付け根は、胴の躍動に釣られて高く立ち上がり、白い先っぽは無意識に脱力されていた。
「あーっ! 困りますお猫様!」
私は悲鳴を上げ、ハッピーターンの個包装を引っ張った。