表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
11.葵暦200年 猩瑯の戦い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

99/110

1.夢見が悪い朝


 小石が石畳の上を弾みながら去っていく。

 額に感じた痛みは次第に熱を帯び、つうー、と血を伝わせる。


(またか)


 峨鍈は思った。また夢を見ているのだ、と。

 幼い頃、ひとりで邸の外を歩いていると、決まって年長の少年達に絡まれたものだ。


 ――腐った血。


 彼らは口々にそう言い吐いて峨鍈を取り囲み、揶揄からかった。

 峨鍈の祖父は宦官だ。これはもう、峨鍈自身にはどうすることもできない事実だった。

 なぜなら、峨鍈の父が祖父の養子になったのは、峨鍈が生まれるよりもずっと以前のことだからだ。

 やめてくれ。宦官の養子になんかならないでくれと言って、父を止めることなどできるわけがなかった。

 

 だが、もしそれが可能だったとしても、父を止める気はない。

 祖父のことが好きだったからだ。


 祖父の生き方が好きだった。けして今の己に満足しない生き方が。

 上へ上へと手を伸ばしていくような生き方が。

 結果、祖父は中常侍や大長秋にまで登り詰め、侯爵位まで貰っている。


 祖父に倣って峨鍈も手を伸ばす。空へ。

 空のあおを見上げれば、それはどこまでも蒼い。


 見上げる蒼の眩しさに目が眩み、瞼を閉ざす。

 しばらくした後に再び開くと、峨鍈を取り囲んでいた少年達の姿は消えていた。

 代わりに現れたのは、瓊倶けいぐだ。

 

 瓊俱は出会った頃のような少年の姿をしていたが、次第に大きく成長していき、成人した姿になる。

 一方、峨鍈は幼い少年の姿のままで、瓊俱に見下され、そして、嗤われた。


『峨伯旋。お前はわたしには勝てん』


 瓊倶が言い放ち、峨鍈の頭を片手で押さえ付けてきた。その力の強いこと。

 峨鍈は必死で頭を持ち上げようとしたが、瓊倶の力にどうすることもできず、ガクンと膝を折った。

 両手を地につく。 土下座をするような格好を強いられ、峨鍈の頬に汗が伝った。


(――勝てない!)


 瓊倶を見上げて峨鍈は絶望する。

 みるみる瓊俱が巨大化していき、まるで巨人のようになって峨鍈の前に立ち塞がった。


(勝てるわけがない)


 がくっと肘が折れ、顔が地につく。

 まるで踏みつけられた蛙のような格好になり、惨めに思う。


(悔しい)


 だが、瓊倶には適わない。どうすることもできないのだ。

 

(嫌だ。嫌だ。――助けてくれ!)


 それでも負けたくないと足掻いて、助けを求める。

 どうすれば、どうすれば、と考えを巡らせる。そうやって死を迎えるその時まで足掻き続ける自信があった。それが喩えどんなにも無様であろうと。

 負けたくない!

 上へ上へ。

 手を高く伸ばして、峨鍈は空のあおを掴むのだ。



 △▼

 


「――せん? おいっ、伯旋!」

「……っ」

「大丈夫かよ? うなされていたぞ」

石塢せきうは?」

「は? 爸爸ちちうえ? 赴郡から呼び寄せるのか?」

「…………」


 瞼を開くと、すぐ目の前に蒼潤の顔があった。蒼潤は訝しげに自分の顔を覗き込んでいる。

 臥室の窓から朝陽が射し込んできているのを見て、峨鍈は牀榻の中で体を起こした。

 蒼潤も起き上がると、昨晩、峨鍈が剥ぎ取ったはだぎを拾い上げ、袖を通して羽織った。


「ひどい汗だ。顔色も悪い」

「ああ」


 久しぶりに気分の悪い夢を見たと峨鍈は額を両手で抑える。

 以前ならば、このような朝は従兄を呼び付け、腹いせとばかりに罵ったものだ。

 しかし、夏銚は今、赴郡だ。代わりに蒼潤がいると思い出して、峨鍈は蒼潤の腕を引いた。

 その体を自分の両腕の中に閉じ込めると、顎を捉えて口づける。息ができないと震える蒼潤に気付いて解放すれば、蒼潤が少し怒ったような顔をして言った。


「おい、大丈夫なのかよ」

「水が欲しいな。飲ませてくれ」

「分かった」


 蒼潤が峨鍈の手を退けて腕の中から出て行こうとしたので、峨鍈は慌ててその体を抱き締めた。


「やはりいらん。ここにいろ」

「伯旋、水を取りに行くだけだ。すぐに戻る」

「駄目だ。離れるな」

「――なら、徐姥か呂姥を呼んでもいいか? 水を持って来させる」


 峨鍈は頷いて蒼潤の肩口に顔を埋める。

 蒼潤が隣の室に向かって声を上げると、蒼潤が『徐姥』と呼ぶ乳母が水桶を抱えて臥室に入って来た。その後ろから『呂姥』と呼ばれる侍女も飲み水を手にして入って来る。

 徐姥は床に水桶を置き、呂姥は蒼潤に飲み水の入った器を差し出した。

 

「伯旋、水だ」

「飲ませてくれ」


 仕方がないな、と言わんばかりの顔をして蒼潤が器に唇を添える。口の中に水を含むと、峨鍈の唇に己の唇を押し当てて、ゆっくりと口を開く。

 峨鍈は蒼潤から貪るように水を受け取ると、喉を鳴らして飲み込んだ。


「もう一度だ」

「ん」


 峨鍈が蒼潤に強請るのを見て、乳母は水桶の縁に布を掛けて侍女と共に臥室を出て行った。

 蒼潤はもう一度、先ほどと同じ方法で峨鍈に水を飲ませると、布に手を伸ばして水桶の水に浸し、堅く絞ってからそれで峨鍈の額を拭う。


「気分はどうだ?」

「お前を抱きたい」

「まだ顔色が悪いな。熱はないようだが、……むしろ、低すぎるような」


 濡れた布で首を拭われ、肩を、腕を、そして、腕を持ち上げるようにして脇の下を拭われる。

 峨鍈は蒼潤にされるままになりながら、あの蒼潤が自分の世話を焼いてくれていることに胸を熱くして、すぐにでも蒼潤を組み敷きたい想いに駆られた。

 だが、蒼潤が峨鍈のために何かしてくれるのは本当に貴重だった。それを妨げたくない。だが、組み敷きたい。妨げたくない、と葛藤する。

 蒼潤は峨鍈の胸を拭き終えると、その胸に抱きつく格好で両腕を峨鍈の背中に回し、その背を拭う。


「はぁ…」


 峨鍈は吐息を漏らす。もはや我慢ならなかった。

 蒼潤の腰を抱き寄せて、耳元で囁く。


「熱が上がることがしたい」

「今日は朝議があると言っていなかったか?」

「1回だけだ。手早く済ませる」

「嫌だ。雑にされるくらいなら何もされたくない。お前が帰って来たら、ゆっくりやろう。だから、ほら。起きて支度をしろよ」

「……」

「お前が帰って来るのを、準備して待っててやるからさ」


 億劫だと思いながらも峨鍈は牀榻から足を下ろした。

 力ずくで蒼潤を組み敷いてしまうこともできたが、蒼潤が自分に抱かれるための準備を整えて自分の帰りを待っているというのも、胸にぐっと来るものがあった。


「仕方がない」


 峨鍈は膝を叩いて腰を上げる。

 床帳を払うようにして牀榻から出ると、昨晩、自ら脱ぎ捨てたはだぎを拾い上げて羽織り、隣の室に移動した。

 蒼潤もゆっくりと追って来る。

 隣の室で待機していた蒼潤の乳母と侍女の手を借りて朝服を身に着けると、髪を結い直して冠を被り、冠がずれないように簪を通した。

 ふと、蒼潤に振り返り、峨鍈は蒼潤の着替えに口を挟む。

 

「先日、選んでやった衣を着ろ」

「どれだ?」

「薄い青色の衣だ。蝶の模様の」

「ああ」


 蒼潤は侍女に視線を向けて深衣を持って来させる。


「裙は更に薄い色にするというのは如何ですか?」


 侍女がほとんど白色に見える裙を広げて見せてきたので、良いだろうと峨鍈は頷く。


「帯や中に合わせる深衣は濃い色の方が良いかもしれません」

「ならば、以前、買った物があったはずだ。簪は儂が選ぼう。全部、持って来い」

「おい。お前、時間がないだろう。こんなことをやっている場合か? 早く朝餉を食え」


 呆れ顔の蒼潤に促されて峨鍈は牀に腰を下ろす。すでに朝餉の支度は整えられていて、蒼潤の身支度を眺めながら羹を啜った。

 白い裙を穿き、露草色の深衣の上に白縹しろはなだ色の深衣を重ねる。あま色の帯を締めると、蒼潤は髪を侍女に梳かれ、華やかに結い上げられた。

 侍女はまず竜胆の花を模した簪を挿し、それから峨鍈の指示で青い蝶の簪を挿す。

 それから蒼潤の顔に薄く化粧を施し、耳には耳飾りを、首には首飾りをつけてようやく蒼潤の身支度が整った。


「なんだ、まだ食べていたのか」


 峨鍈の隣に腰かけて、蒼潤がそんなことを言う。


「やはり参内は取りやめよう。一日中、お前を眺めていたい」

「冗談だろ?」

「天下泰平となった暁には、何日でもずっとお前と臥室に籠っていたい」

「そんなに付き合い切れねぇよ」

「潤々」


 峨鍈は箸を膳の上に置いて蒼潤の方に体の向きを変えた。


「今日一日、お前はその格好をしていろ」

「いいけど……? お前、本当に大丈夫か? 具合が悪いのなら朝議は休めよ」

「先程まで行けと言っていたではないか」

「お前の様子がおかしいから」

「今日の朝議は必ず参列しなければならない」

「重要な案件でもあるのか?」

「そんなところだ」


 いよいよ瓊倶と雌雄を決する時がきた。

 しかし、その前に皇帝に『瓊倶は青王朝の敵である』と公言して貰う必要がある。瓊倶が青王朝の敵であるからこそ、峨鍈は青王朝の臣として青王朝の兵を率いて戦うことができるのだ。

 葵陽には今、峨鍈の私兵以外に、大尉たいい展璋てんしょうの兵がいる。その他にも多少なりとも私兵を抱えている者がいるので、それらを瓊倶討伐のために峨鍈に差し出させることができるか否かが勝敗を大きく左右した。


「潤」


 牀から立ち上がり、蒼潤を呼べば、蒼潤も立ち上がって峨鍈の前に回り込んで来た。


「行くのか? 門のところまで見送る」

「ああ」


 共に室から回廊に出て、階を降りて履に足を通す。

 中庭をゆっくりと歩いていると、蒼潤が峨鍈の腕に己の腕を通して身を寄せて来た。


「ここまでで良い」

「お前が馬車に乗るまで見送る」

「いや、ここまでだ。お前が綺麗過ぎる。他の者の目に触れさせたくない」

「なんだそれ」


 呆れたように言って蒼潤が峨鍈から体を離したので、峨鍈はすぐに腕を伸ばして蒼潤の腰を抱いて引き戻した。

 ぎゅっと抱き締めて、離れがたいと蒼潤の香りを胸いっぱいに吸い込む。


「お前を常に持ち運べたら良いのだが……」

「意味が分からないから早く行け。早く行って、早く帰って来い。ちゃんと待っているから」


 そう言って、蒼潤が峨鍈の襟元を掴み、踵を上げて口付けてきた。軽く触れただけのそれに胸を撃ち抜かれた心地になり、ますます離れがたくなる。

 しかし、蒼潤は無情で、峨鍈の両腕から抜け出ると、二ッと笑みを浮かべて言った。


「ほら、行って来い!」


 蒼潤に軽く手を払われて、峨鍈は渋々と皇城へと向かうのだった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ