7.花嫁の旅立ち
「麗の側にも信頼できて、機転の利く者がいてくれたら良いのに。徐姥、麗の侍女は見つかったのか?」
「未だに。申し訳がございません」
蒼麗には2人ほど侍女がいたが、疑わしい行動を取っていたため徐姥に頼んで見張らせていると、蒼麗の装飾品を盗んでいたことが発覚した。
蒼麗に対する態度にも敬意を感じられなかったので、蒼潤は侍女たちを追い出して、代わりに玖姥に蒼麗の世話を任せている。
「麗の乳母は、足が痛いだの、腰が痛いだの言って、予州に行くことを拒んでいるらしいな」
「まったく信じられません。私であれば、天連様を追ってどこにでも参りますものを」
呂姥がぷんぷんと怒りながら言い、その言葉に玖姥が大きく頷いた。
事実、彼女たちは蒼潤が婚姻する際に当然の顔をして付いて来ている。
ただ、蒼潤は北原の南の端から中原に移り住んだけだ。深江を越えるとなると、怯んでしまう麗の乳母の気持ちも分からなくもなかった。
とは言え、情けは不要だ。
「あの乳母は愚鈍だし、文句ばかり口にするから昔から俺は好きじゃなかった。付いて行きたくないと言うのだから良い機会だ、ここで厄介払いしてしまおう」
「ならば、尚更、新しい侍女を早く探さねばなりません」
「しかし、新しく雇った者は天鈺様のことを何も理解していないので、正しくお仕えすることができません。――天鈺様は内に溜め込む方なので心配です」
困ったな、と蒼潤は蒼麗を見つめる。
だが、すぐに先程の言葉を口にした玖姥に視線を向けた。
玖姥は幼い頃から蒼麗を知っているとは言え、ここしばらくの世話を急に頼まれても不足なく行えているではないか。
「玖姥、麗と一緒に予州に行ってくれないか?」
「えっ、私がですか」
「だけど、玖姥が行ったままになってしまうと俺が困るから、麗の新しい侍女が慣れるまでだ。そうだな、1年か、2年くらいだ。――どうだろうか、麗。お前は玖姥をどう思う?」
突然のことに蒼麗は瞳を瞬いている。
蒼麗は内心どう思っていようと、『嫌だ』とは言えないたちなので、周囲の者が彼女の僅かな表情の変化で彼女の真意を測るしかない。
蒼潤は蒼麗の顔を見て、彼女が玖姥を好ましく思っていることを感じた。
玖姥も蒼麗の様子を見て、蒼潤と同じように感じたようだ。少しばかり誇らしい顔になって、蒼潤に振り向く。
「天連様のご命令でしたら、誠心誠意、天鈺様にお仕え致します」
「いいのか? 嫌だったら、嫌だと言って良いんだぞ」
「いいえ、天連様。知らぬ土地に行き、新しい知識を得る楽しみができたというものです。ですが、天連様のことも心配ですので、どんなに長くとも2年で戻って参ります。天連様は目を離すと、すくに勉学を怠けますので」
「えー」
「人間、生きているうちは常に学びが必要です」
ぐぐっ、と蒼潤の喉が鳴る。玖姥は幼い頃から蒼潤に学問や礼儀作法を教える任を担っていた。これがなかなか厳しかったおかげで、蒼潤は参内しても恥ずかしくない程度の礼儀作法は身についている。
学問に関しては、……まあ、それなりにである。
玖姥はスッと背筋を伸ばし、蒼潤に向かって、ぴしゃりと言い放った。
「私がお側にいないからと言って、学びを疎かにしてはなりません」
「分かってる。分かってるって。――もうさ。その調子で麗のことを頼むよ」
「はい、承りました」
玖姥が深々と頭を下げたのを見て蒼潤は視線を蒼麗に戻す。
すると、蒼麗は申し訳なさそうに眉根を寄せて蒼潤の袖を握った。
「私が至らないせいで、兄上の周りが寂しくなってしまいます」
「気にするな。春蘭が嫁いでしまい、その上、玖姥までいなくなってしまったら、確かに寂しいと思うだろうが、でも、俺は楽しいことを見つけるのが得意なんだ。それに、麗が至らないということはない。麗は何も悪くないし、麗ほど清い者はいないよ」
妹を安心させようと思って蒼潤は微笑みを浮かべたのだが、蒼麗はますます表情を曇らせて顔を俯かせる。
「私はちっとも清くありません。兄上は知らないのです、本当の私を」
「本当の何?」
「本当の私はちっとも綺麗ではなく、どろどろとした醜い心を抱いているのです」
「んー?」
蒼麗が何かを訴えてこようとしていることは分かったが、蒼潤にはそれが何か分からなかった。
蒼潤にとって蒼麗とは誰よりも美しい妹で、冬の澄み切った青空のような心の持ち主だ。
しかも、おそらく蒼潤だけではなく、誰もが蒼麗に対して蒼潤と同じように感じているはずだった。誰の目にも蒼麗は美しく映っているはずだからである。
蒼麗の美しさは、周囲の者たちの心を洗い、穏やかな心地にする力を持っているように思う。
事実、蒼潤には冷たく、言葉を交わすことさえめったにはない母親だって、蒼麗には優しい。
夫を亡くした桔佳郡主に蒼潤は帝都に移り住むことを勧めたが、その返事が届くことはなかった。
代わりに蒼麗のもとに文が届き、そこには3年間の喪に服した後は異母弟である斉喃県王の世話になることが記されていた。
(母上はご存知なのだ)
いったい誰が彼女の夫を殺したのか。
そして、それを黙認した蒼潤の罪も知っている。
もともと蒼潤に見向きもしなかった母親だったが、今は完全に蒼潤などいないものとして扱われているように感じた。
ふと、蒼潤は蒼麗の視線に気付いて我に返る。
蒼麗に向かって両手を掲げると、自嘲気味に笑みを浮かべた。
「お前の心がどろどろなら、俺の手は真っ赤だ」
「兄上?」
「きっと俺はろくな死に方をしない。位牌に名を記して貰えないかもしれないし、蒼家の廟に祀られることもない。とてもじゃないが、先祖に顔向けできないからな」
「兄上……」
「麗。お前は俺に優しくしてくれるけど、いいんだぞ、姉上のように俺を罵ってくれても」
「……」
気遣わしげに眉を下げた蒼麗の顔を見て、蒼潤は言うべきことではないことを口にしてしまったと悔やむ。
兄として蒼麗の話をもっと聞いてやらねばならなかったのに、結局、いつものように自分ばかりが話してしまう。
ぐっと奥歯を噛み締めると、蒼麗が蒼潤の手にそっと触れた。
「蒼家の者にとって龍の言葉は絶対だと姉上がおっしゃっていました。だから、姉上も納得がいかないと思いつつも、兄上のことはけして見捨てません。そして、蒼家の者の誰もが不本意であろうと、それがきっと兄上の定めなのです」
「定め?」
「かつて青龍は気まぐれに人間を助け、己の力を与えた。こうして始まった我らですが、始まりがあったものには必ず終わりが来ます。兄上は地上から龍の力を取り上げるために生まれてきたのです」
蒼麗はまるで蒼潤や歴代の龍が風雨を操る力を持っていることを知っているかのような口振りだった。
そして、その力は今後も人間が利用し続けて良い力ではないと考えているかのようだ。
「ですから、兄上の選ばれた道はいずれ皆に理解され、歴代の龍たちも先に亡くなった方々も皆、兄上を受け入れます」
蒼潤は瞳を瞬く。
よもや妹と、このような話をするとは考えてもいなかった。しかも、蒼潤は思いがけず己が許されたような心地になる。
「お前を励まそうと思っていたのに、逆に励まされてしまった。情けない。こんな兄ですまない」
いいえ、と言って蒼麗は緩やかに頭を左右に振った。
これが蒼潤が蒼麗と顔を合わせ、ゆっくりと言葉を交わした最後となる。蒼潤が蒼麗に穆珪との縁談を告げてから僅か5日後、蒼麗が予州に向かって旅立つ日となった。
蒼麗を見送るために蒼絃も皇城から出て来たので、葵陽は祭りのような騒ぎだ。
蒼潤も朝服を着て蒼絃の隣に立って蒼麗を見送る。
天下一の美女をひと目見ようと、人々は大通りに押し寄せてきたが、蒼麗は峨鍈邸からずっと馬車の中で、御簾が風に捲られることもなかった。
代わりに注目を浴びたのは蒼潤だ。妹の郡主と似た面立ちをしていると言われているので、人々は蒼潤の姿から蒼麗の姿に思いを馳せようとしたのだろう。
彼らは蒼潤の姿を見て高揚し、『皇帝陛下、万歳』『郡王殿下、万歳』と大声で繰り返している。
玉泉郡主の婚姻を祝う声も響き、それを聞きながら蒼潤は群衆に向かって片手を上げた。とたんに葵陽は熱狂の渦に包まれる。
蒼絃も蒼潤に倣って群衆に手を振りながら、蒼潤に視線を向けてきた。
蒼潤は朝服を着ていても冠は付けず、女のように髪を結って簪を挿している。その姿を揶揄して蒼絃が蒼潤の耳元に顔を寄せて言った。
「こうして我らが並んでいると、郡王はまるで朕の皇后のようだ」
「お戯れを。わたしの男に命を狙われますよ」
「はははは。真になりそうで恐ろしいな」
「真です。ですから、発言には気を付けてください。陛下に何かあっては、非常に厄介です。わたしは今の暮らしに大変満足しているので、陛下には玉座に座り続けて貰わねば困ります」
蒼絃は冠礼を終えてから髭を伸ばし始め、体も鍛え始めたので、ぐっと男らしくなっていた。
静泉郡主が蒼絃の子を身籠り、もうすぐ父親になるということも大きいのかもしれない。以前よりも落ち着いた印象になり、余裕のようなものが感じられた。
だから、蒼潤が些か際どい発言をしても蒼絃はさらりと受け流して笑うのだ。
「玉泉郡主とも、もう少しゆっくりと話がしてみたかったのだが、郡王がなかなか会わせてくれなかった」
「陛下が妹に懸想をされては大変なので」
「確かに玉泉郡主は美しい。あの美しさが予州の波乱の種とならねば良いが」
蒼絃が予言めいたことを口にしたので、蒼潤は驚いて彼の顔に振り向いた。
なんてことを言うのだろう。これほど大勢の者たちから祝福されて嫁ぐ蒼麗に向かって。
妹の美しさは、妹が誰よりも幸せになるために天から与えらえた宝であるはずだ。それを指して、蒼潤の不安を煽るような言い方をする蒼絃が信じられなかった。
蒼潤は今まさに葵陽の城門から出て行こうとする馬車の姿に視線を送り、胸が締め付けられる。
まだ間に合うのではないか。今からでも呼び戻して、婚礼など破綻にしてしまおう。そんな思いが胸を過る。
だけど、蒼潤はただ立ち尽くし、動けなかった。――いや、動かなかったのだ。
やがて蒼麗を乗せた馬車の姿は見えなくなる。
峨鍈は蒼麗の護衛のために2千の兵を率いさせた卞豹を付けた。
蒼麗は雅州から琲州を抜けて予州に入ることになるが、卞豹は琲州と予州の州境までしか同行できない。そこで蒼麗は穆家の者に引き渡されることになるだろう。
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