6.兄と妹の合図
「なんで笑うんだよ?」
「いや、べつに。――穆匡にはな、異母兄がいるのだ。穆珪という。この異母兄がなかなかの美丈夫らしい」
「ふーん? それで?」
「穆匡と穆珪は仲の良い兄弟で、幼い頃から共に育った。穆珪の美しく整った顔に見慣れている穆匡は、少しばかり美しい程度の女では何も感じないようになってしまったらしい」
「目が肥えてるっていうわけだな」
「――と言うよりも、本来、女の美しさを愉しむ心が異母兄が側にいることで満たされてしまって、女に気持ちがいかないようだ。加えて、戦が何よりも楽しいようだな。女と触れ合う楽しさを知らんだけなのかもしれんが」
言いながら峨鍈は蒼潤の顔をじいっと見つめてしまう。言えば言うほど、蒼潤のことではないかと思ってしまった。
蒼潤も天下一の美貌と称される妹を見て育ち、並みの美女では心を動かされることはない。書物を読むよりも、剣を握り、馬を駆ることが好きで、戦と聞けば気持ちが高揚するようだった。
ところで、と蒼潤が腕を組み、首を傾げながら口を開く。
「蒼珪の方が兄なんだろ?」
「そうだな。しかも、穆珪の生母の方が穆遜の正室だ」
「えっ、だったら、嫡子は穆珪のはずだろ? なぜ、穆匡が後を継いだんだ?」
「穆珪は体が弱いのだ。その儚さが美しさを増していると言われている」
そうか、と蒼潤は小さく呟くように言って頷いた。
平穏な時代ならまだしも、乱世では体の弱い当主ではやっていけない。
穆家は穆遜を突然亡くし、残されたのは若い息子たちだ。父親に代わって戦場に出向かなければいけないとなれば、穆珪ではなく穆匡が当主になるのが妥当だろう。
「予州が遠いっていうのが不安だけど、穆匡は嫌な奴じゃないかもしれない」
「ほう。妹君を嫁がせる気になったか。だが、なぜ嫌な奴ではないと思う?」
「兄弟仲が良いというところだ。病弱で当主になれない兄を弟が軽んじてもおかしくないのに、穆匡には兄を敬う気持ちがあるから、ふたりは仲が良いんだ。つまり、穆匡には当主でありながら誰かを敬える気持ちがある。嫌な奴どころか、いい奴なのかもしれない」
「なるほどな。――ならば、妹君の婚姻については姉君に一任して、こちらからは口を出さないことにしよう」
「うん、それでいいよ」
蒼麗の縁談に関して峨鍈と蒼潤に否はないことを書状に書き記し、峨鍈は不邑に命じて蒼彰に届けさせた。
その返事が三ヶ月ほど経ってから届く。その間に峨鍈は蒼潤と蒼麗を連れて葵陽に戻っていた。
長らく婚約状態にあった柢恵と芳華に婚礼を挙げさせて、瓊俱との決戦が近付きつつあることを感じながらも、穏やかな日々を過ごしている頃だった。
峨鍈は蒼潤を私室に呼んで共に蒼彰からの文を読む。
「穆珪? なんで?」
文を読むと、蒼麗の相手が穆匡から穆珪に変更になったことが記されていた。
峨鍈は、なるほどな、と低く唸る。
「これは良い手かもしれん」
「どういうことだ?」
「穆珪はいよいよ体が弱り、余命が幾ばくもないらしい」
「ええっ、そんな奴に麗を嫁がせると言うのか!?」
「だからこそだ。穆珪が死ねば、夜逃げのように予州から逃げ帰ってくる必要がなくなるぞ」
「あー」
腑に落ちたように蒼潤が長く息を漏らすように声を出した。
夫を亡くした女にはいくつかの選択肢がある。
夫を追って死ぬ。
霊廟に籠り、夫を弔って余生を送る。
婚家にて息子を頼って生きる。
婚家を出て実家に戻る。その後、再婚する。或いは、実家にて兄弟や甥を頼って生きる。
穆珪を亡くした後、蒼麗が婚家を出ることを望めば――すんなり事が運ぶとは限らないが――穆家も蒼麗を手放さざるを得なくなるだろう。
「おそらく穆珪は閨事ができぬだろう」
「それなら、清い体のまま帰ってくることになるな。別のところに堂々と嫁がせることができる。次は麗の気持ちを聞いて、麗の望む相手を探してやりたい」
「では、相手が穆珪で構わぬということだな」
「うん」
「しかし、お前、一番大切なことを忘れているぞ」
えっ、と蒼潤が瞳を大きく見開いたので峨鍈は苦笑を浮かべる。
「縁談があるという話を妹君に伝えてあるのか? 姉君から妹君への文はいっさい届いていないが。お前が伝えていないのであれば、妹君は何ひとつ把握していないはずだ」
「あ……」
「婚礼は秋だ。予州で挙げるのだから、すぐにでも葵陽を発たねばならん」
「そんなの、準備がとても間に合わない!」
蒼潤は、たったひとりの妹が婚家で肩身の狭い思いをしないように、抜かりなく嫁入り道具を揃えて、持参金を多めに持たせるつもりでいた。
さっと顔色を変えて声を上げた蒼潤に、峨鍈は片手を掲げる。
「安心しろ。既に梨蓉に頼んで整えて貰っている。後日、不足がないか、仲草にも確かめて貰おう」
「良かった。俺、うっかりしてたよ。遠い地に嫁ぐだけに時間がないのだな」
胸を撫で下ろす蒼潤を見て、峨鍈は微笑を洩らした。
▽▲
覚悟はできています、と蒼麗は言ったが、その言葉とは裏腹に膝の上に置かれた拳が震えていたので、蒼潤は妹のことが哀れになった。
天下には、ふたつの大きな河が流れている。――清河と深江である。
清河は天下の北部を流れ、深江は南部を流れ、ふたつの河の間にある大地――雅州、併州、琲州、随州の辺りを『中原』といった。
清河よりも北の大地――敖州、渕州、壬州、和州を『北原』といい、敖州や和州より北は異民族の大地であるため、青王朝においては天下の外という認識である。
一方、深江より南の大地――越州、黄州、予州は、『江南』といい、それより南は異民族の大地であるため、やはり天下の外である。
江南の3州は広大であり、その3州だけで中原と北原を合わせた広さに匹敵する。しかし、その多くは森林に覆われ、或いは、山々が連なっているため、人の住める土地は僅かだった。
特に越州の南方は未開の土地であり、青王朝において、しばしは流刑地として利用されていた。
予州は東で海に接しており、海上交易が行われているため、江南3州の中では栄えている方だ。とは言え、深江の北で暮らす者たちにとって、深江の南は辺境であるという認識が覆ることはない。
気候も深江を境に大きくことなり、それに伴い、食生活や人々の気質にもかなりの違いがあった。
(食べ物が合わなくて病になってしまうかもしれない)
蒼麗のことを思うと、蒼潤は何から何まで心配だった。
妹が口にできる物がないと腹を空かせて、痩せ細っている姿が脳裏に浮かんで仕方がない!
干して乾燥させた肉や果物など日持ちする食料をたくさん持たせるべきではないかと本気で考えていた。
しかし、嫁げばその土地に慣れていくしかないのだと徐姥に諭される。
中原や北原は寒冷乾燥地帯であり、稲作に不向きである。そのため、主食は麦だ。
冬の厳しさに備える必要があるため、計画性や合理性に富んだ者が多く、組織の調和を乱す者に厳しい。
対して、深江以南は温暖多湿であり、稲作に適する。
当然、主食は米であり、多くの作物は種さえ撒けば育つため、何事においても人々はおおらかである。
そのおおらかさが北の者たちの目には、いい加減で怠慢に映るため、北の者たちは南の者たちをあまり好ましく思っていなかった。
「無遠慮で、無作法な者たちが多いと聞く。心ないことを言われて、麗が傷付けられないか心配だ。――麗。耐えられないことがあれば、何でも言え。いつでも迎えに行く」
蒼潤は妹の手を取って言った。
優しさを装っていたが、行かなくて良いとは言ってやることができなかった。
玉泉郡主の穆珪の縁談は纏まっており、それを覆せば、穆匡に北上する理由を与えるようなものだった。
「そうだ。合図を決めよう。俺と麗だけの合図だ。麗からそれを記した文が届いたら、俺は必ず麗を迎えに行くよ」
「合図ですか?」
「うん。俺たちのやり取りは盗み見られる可能性が高い。だから、誰かの目に触れても俺たちにしか分からないようにするんだ」
予州に嫁いだ後も蒼麗は蒼潤との文のやり取りを禁じられることはないだろうが、そこから予州や穆家の内情が漏れることを恐れて蒼麗の文は穆家の者がその内容を確認するはずだ。
――と言うのも、かつて蒼潤が蒼彰宛てに書いていた文は、蒼潤の気が付かないようなところで峨鍈が目を通していたらしい。
それを知った時には、正直、良い気はしなかったが、自分が何でもかんでも文に書いてしまうような子供だったことは自覚していた。
今は書いて良いことと絶対に漏らしてはならないことの判断が付くようになったので、峨鍈もそんな蒼潤を信用して蒼潤の文を確認することはしていない――はずだ。
「さて。どういう合図にしようか」
蒼潤は自分の私室に蒼麗を招いて話をしていたので、室の中には蒼潤の乳母の徐姥、侍女の呂姥と玖姥が控えている。
蒼麗の乳母は、蒼潤にとって信用がならなかったので、中庭で待たせていた。
ふと、玖姥に視線を向けると、彼女がにっこりと笑みを浮かべた。
「竜胆の花は如何ですか? 天連様と言えば、竜胆です」
玖姥は蒼潤が好んで竜胆の花を模した簪を挿していることを指摘しながら言う。
「例えば、文に『竜胆の花が見たい』と書くのです。これは『天連様に会いたい』という意味になり、天鈺様からの助けを求める合図になります」
「なるほど。それで良いじゃないか。どんなに文に『元気だ』『問題ない』『楽しくやっている』と書いてあっても『竜胆の花が見たい』と書いてあったら、天鈺が助けを求めているということだな」
「そうです。穆家の者の目に触れると思えば、『つらい』『帰りたい』『迎えに来てほしい』などとは書けなくなるでしょう。また、そのように書けば葵陽には届けて貰えなくなるかもしれません。穆家が郡主を粗雑に扱っていると、予州に攻め入る理由にされるのを恐れるからです」
うんうんと蒼潤は玖姥の言葉に頷く。蒼潤がなぜ合図を決めようと言い出したのか、彼女はちゃんと理解していた。
そのことを嬉しく思いながら、それにしても、と蒼潤は眉を顰めて蒼麗を見やる。




