13.欲しいだろう?
「峨司空の仰せの通り、鍾信は義理堅く、情に厚い方と聞きます。喪服を身に着けた者に無体を働くような真似はしないはずです」
「それに、河環郡主様は賢い御方です。身の安全が保てると悟った故に、鍾信に捕まったのかもしれません」
魏壬が口を開き、蒼邦の言葉に付け加えた。
蒼潤は片眉を歪ませて魏壬の赤みの強い顔に視線を向ける。大部分が長い髭に覆われた顔は、日に焼けてそうなったのか、赤土でも塗っているのか、そのような色をしていた。
武具の隙間から見える肌も同じ色であるので、生まれ持った肌色なのかもしれない。
「姉上がわざと鍾信に捕まったと言うのか?」
「賢い郡主様ならば、逃げ切ることもできたはずだと思いましたので」
魏壬は蒼麗の賢さを強調しているが、蒼彰は手段を選ばないところがあるので、彼女が本気で逃げようと思えば蒼麗を囮にしてでも自分ひとりで逃げるはずである。
そうせず、蒼麗と共に大人しく捕まっているのだとしたら、それは逃げる必要がないからに違いない。
蒼潤は袍の裾を翻して峨鍈の隣に戻ると、すとんと牀に腰を下ろした。
「なら、これからどうするんだ? まさか捕らえられたままというわけにはいかないだろう?」
「もちろんお救い致します」
即座に答えた蒼邦に蒼潤はイラッとした。この男には『どうやって』という言葉が足りないのだ。
気持ちや想いばかりあっても具体的な方法がないように見えた。
再び苛立ちが込み上げてきて、怒鳴り散らしてやろうかと息を吸った時、峨鍈が蒼潤の肩を抱いた。
「近く、鍾信は裴城を捨てるはずだ。唔貘が珂原城で身動きが取れない以上、鍾信まで裴城に籠っていては唔貘に活路はないからな。唔貘は遊軍として鍾信を珂原城の近くまで呼び寄せるだろう。その時を狙って、蒼殿は裴城に向かうといい」
「そのようにさせて頂きます」
「――ところで」
不意に野太い声が響いたので、場が静まり返る。
声の主は、蒼邦の後ろで魏壬と共に控えた莫尚だった。
「郡王殿下は喪服をお召しになられないのですか? 父君が亡くなられたというのに、とても華やかな装いをしておられる」
蒼潤はギョッとして目を見張り、莫尚を見やる。
莫尚は虎のような髭を顔中に生やしており、ギョロギョロとした大きな目を持っていた。魏壬同様、かなり大柄で、2人が並んで立つと、まるで大きな壁が突然現れたように感じられた。
蒼潤は魚麟甲を身に着け、その上に戦袍を羽織っていたが、髪は未婚の少女のように結って簪を挿していた。
耳にはチラチラと揺れる藍玉の耳飾りを着けており、腕には峨鍈が選んでくれた腕輪を通している。
「喪は明けたのだ」
「喪が明けた? もう?」
蒼潤が答えると、莫尚はすぐに聞き返してきて、信じられないとばかりに肩を竦めた。
その不遜な態度に蒼潤は、サッと顔を青ざめさせる。
思えば、蒼邦が天幕に入ってきた時に蒼潤を見て驚いたのは、蒼潤の華やかさが理由だったのかもしれない。
姉妹たちは今もまだ喪に服しているというのに、蒼潤ひとりはさっさと喪服を脱いで、まるで女のように男の隣に侍っている。そう蒼邦や莫尚は言いたいのだ。
父である蒼昏に対する後悔と姉妹たちへの後ろめたさが蒼潤の胸を突き、どろりとした嫌な感情が溢れ出したその時、怒声が響いた。
「やめろ、無礼だぞ!」
魏壬が莫尚を叱りつけて、莫尚の頭を両手で床に抑えつける。
天幕の床は地面に絨毯を敷き詰めたものだ。――にも関わらず、ごつっと鈍い音が響いた。莫尚は相当強く額をぶつけたようだった。
蒼潤の隣で峨鍈も沸々と怒りを煮えさせて、地底から響いてきたかのような低い声で蒼邦を呼ぶ。
「その者は蒼殿の配下だ。蒼殿が処罰するのが道理であろう」
要するに、棒叩きの刑に処すべきだが、その回数は蒼邦に委ねると言っている。
峨鍈は口元こそ笑んでいたが、その眼はまったく笑っておらず、蒼邦が深々と頭を下げるのを見ると、片手を振って蒼邦たちを下がらせた。
天幕に2人きりになり、すぐに峨鍈は牀に腰かけたまま体の向きを変えて蒼潤に向き直った。
腕を引かれて蒼潤は彼の体の上に圧し掛かるような体勢になって、慌てて彼の胸に両手を着く。
「天連、すまなかった」
「お前が謝ることではない」
「だが、儂が喪をひと月と定めたから、お前に恥をかかせた」
「戦時なのだから長々と喪に服していられないと誰もが知っている。喪中の身では戦場に行くことができない」
だから、ろくに喪に服していないと言ってくる方がおかしいのだ。
――そうは言っても、まったく腹が立たないかと言えば、まったくそんなことはない! じつに腹立たしい!
これで、たった数回叩いただけの処罰なら、改めて蒼潤自らの手で叩いてやりたいところだ。
蒼潤が虎に似た莫尚の顔を思い出しながら、ぷんぷんと怒っていると、機嫌の悪い蒼潤の顎を掴んで、峨鍈が蒼潤の目を自分の方に向けさせてくる。
「それにしても、お前は本当にあの者が気に喰わないのだな」
「できることなら顔も見たくなかったし、声だって聞きたくなかった。目と耳が腐るからな!」
「まったく、お前にそこまで毛嫌いされる者など他にいないだろう」
言われて、確かにと蒼潤はハッとする。
基本的に蒼潤は人が好きであり、出会った人の大半を好きになる。
最初は嫌いだと思った柢恵も、怖くて苦手だと感じた潘立も今では大好きな人たちのひとりである。
ただし、潘立は未だに口やかましくて、柢恵と蒼潤を並べて説教をするのが生き甲斐みたいなところがあるので、柢恵と一緒にいる時に潘立を見かけたら、2人で回れ右をすることにしている。
だけど、柢恵も蒼潤もちゃんと分かっているのだ。潘立が口やかましいのは、柢恵や蒼潤のことを案じている証だ。
彼が自分たちのことを孫のように思い、好ましく思ってくれていると知っているから、蒼潤も彼が好きなのだ。
それでは、自分が嫌いだと感じている者とは、いったい誰だろうか。
まず功郁と貞糺の名が上がるが、どちらも既にこの世の者ではないので数には入らない。――だとしたら、他に誰かいるだろうか。
(帷緒と候覇も好きじゃないなぁ。負けたからな。でも、直接会ったわけじゃないから顔も知らないし)
その顔を思い出すだけで苛立ちが込み上げて来るような相手は、峨鍈の言う通り、蒼邦だけなのかもしれない。
先程のことで、莫尚も嫌いな者の一員に加わったかと言えば、不思議とそうはならない。
莫尚は何と言うか、短絡的なのだ。
よく言えば、実に正直者であり、蒼潤はそういった者が嫌いではなかった。
「魏壬と莫尚は、蒼邦にはもったいない人材だ。特に魏壬」
「ほう。お前もそう思うか」
「伯旋、欲しいだろう?」
牀の上に仰向けに横たわった峨鍈の体の上に乗り、彼の胸板に自分の胸を押し付けると、蒼潤は二ッと唇の端を引いた。
その顔を見て峨鍈は、ふっと微笑み、蒼潤の頬に触れる。
「そうだな。欲しいな。しかし、あの3人の絆は強くて、蒼邦から引き離せぬ」
「だから、仕方がなく、蒼邦を使ってやっているんだな?」
「儂はお前ほど蒼邦を嫌っていないからな。使えそうであれば使うだけだ」
「本当に使えそうか? 裴城を失って、姉上や麗すら守らずにひとりで逃げて来るような奴が」
「逃げずに死ねばそれまでだが、逃げて来れば再び別のことで使えるだろう」
「そういうもんなのかなぁ」
「蒼邦は良い人材を引き寄せる餌だと思えば良い。お前、知っているか? 蒼邦は兵を集めるのがうまい。失っても失っても、なぜかあの者の周りには人が集まる」
「意味が分からん。なんでだ?」
「分からん」
峨鍈が蒼潤を真似るように同じ言葉を繰り返したので、蒼潤はぷぷっと噴き出すように笑った。
そして、首を長く伸ばして彼の顔に自分の顔を近付けると、唇に唇を軽く押し当てる。
ふっと峨鍈が笑って蒼潤の頭を撫でた。
「機嫌が直ったな。――よし、土手の様子でも見に行こう」
「うん。でも、その前に1回やりたい」
蒼潤が人差し指を立てて言ったので、ぶっと噴き出して笑ったのは、今度は峨鍈の番だった。
△▼
冬が来た。
連日、肌に刺さるような冷風に晒されて、兵士たちは皆、凍えていた。
そんな中、いよいよ川の水を堰き止める作業に入っていた。身を切るような思いをしながら兵士たちは水の中に入り、丸太を組んで川底に突き立てる。
土手は人の高さよりも遥かに高いものが出来上がりつつあった。
蒼潤は毛皮を羽織って天狼に跨り、峨鍈と共に土手の様子を見て回る。彼は土手を眺めながらも峨鍈軍の兵糧が厳しくなってきていることを気にしていた。
峨鍈が予想した通り鍾信が裴城を捨てて珂原に進軍してきたので、蒼邦を裴城に向かわせると、鍾信に呼応するように唔貘が城壁から出撃する回数が日に日に増した。
唔貘は槍を片手に持つと、それをまるで毬のように投げる。1本の槍で必ずひとりは貫くので、その命中力に峨鍈軍の兵士たちは震え上がった。
そして、鍾信は珂原郡に向かう道中で峨鍈軍の輜重車を襲い、兵糧を奪ったので、峨鍈軍はたちまち兵糧不足に陥る。
峨鍈は鍾信を捕らえるようにと夏葦を出陣させたが、これに対する良い報告は未だ届いていない。
鍾信軍は珂原城に入っていない様子で、その所在は杳として知れなかった。
「兵糧が尽きかけている。尚且つ、この寒さだ。兵たちは唔貘に震え上がり、鍾信は所在が分からん。――陽慧、どうにかならんのか?」
「殿、もうしばらくです」
完成した堰を眺めながら柢恵がそう告げてから数日後、涕河と陲河の水の堰き止められて、完成した内側の土手に添って水が溜まり始める。
あとは、その溜まった水が十分な量になるのを待つだけとなった。
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