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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
9.葵暦197年の夏から198年の春 葵陽から蒲郡へ

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12.涕河と陲河


 かくして、峨鍈軍は随州珂原郡奘県まで兵を進めた。

 すると、唔貘が8千の騎兵を含む1万2千を率いて北上してくる。鍾信が不在のため柢恵が予測していた騎兵の数よりも少なかった。

 おそらく2千ほどの騎兵は鍾信が率いているのだろう。


 それぞれ陣営を敷き、睨み合って数日が過ぎた頃、蒼彰と蒼麗が裴城で鍾信に捕らえられていることが分かった。

 一方、ひとりで逃げた蒼邦は散り散りになった配下たちを呼び集めながらこう城に向かい、峨鍈軍との合流を目指して奘県に進軍しているという。


 だが、峨鍈と唔貘の決戦は蒼邦が辿り着く前に始まり、そして、終わった。


 大方、柢恵の思惑通りに事が運び、わざと逃げた夏範と夏苞が率いた隊を唔貘軍が追う。そして、その唔貘軍を拒馬槍の罠が襲った。

 そこで大半の馬が倒れ、騎乗していた兵士たちが振り落とされる。

 運よく拒馬槍から逃れられた敵兵も、それぞれ5千を率いた夏銚と夏葦に追い詰められ、その頭上から大きな網を掛けられて捕らえられた。


 唔貘も騎乗した馬共々に網に掛かり獣のように捕らえられたが、その直後だ。柢恵はもちろん、誰もが予想しなかった事態が起こる。

 唔貘が大きくげきを振るい、網を裂いて逃げたのだ。そのまま唔貘は休むことなく珂原城まで駆け続け、逃げ延びたようだ。


「致し方あるまい。規格外の獣だったのだ」


 意気消沈して跪く柢恵に峨鍈は己の顎を擦りながら言った。

 蒼潤も彼と同じように思ったので大きく頷き、唔貘に対する驚きを口にする。


「まさか網を破るとは思わなかった。かなり頑丈な縄で作った網だったのに」


 天下一の豪傑というよりも、手負いの獣が渾身の力を振り絞って逃げたという印象だった。

 しかし、と言って柢恵は自ら立ち上がる。すぐさまいつもの不敵な表情を浮かべると、天幕に集まった顔ぶれを見渡した。


「次の策も用意しています。唔貘は騎兵を多く失ったため珂原城に籠るでしょう」

「籠城か。珂原城は涕河ていが陲河すいがに守られていて城攻めは難しいぞ。それ故に、唔貘を奘県の平野まで誘き寄せたのだろう?」

「そうです。なので、もちろん唔貘もそのように思っていることでしょう。しかし、その涕河と陲河を我らの味方につけることができたのなら、珂原城の攻略も容易いものとなります」


 ほう、と言って峨鍈は柢恵に話の続きを促した。

 柢恵は配下の兵士を呼び入れて、天幕の床に珂原城周辺の地図を広げさせる。それは敷物のように大きな地図で、柢恵は地図の上を踏みながら話し始めた。


「ご存知の通り珂原城は、北から南東へと流れる涕河と西から東へと流れる陲河の合流地点の手前にあります」


 腰から剣を抜いて、その剣先で涕河を、そして陲河の流れを追い、2つの川が合流してできた三角州にある珂原城を示す。

 峨鍈は上座に置かれた牀から床に広げられた地図を覗き込み、蒼潤も峨鍈の隣に立って地図を見下した。

 天幕の中には夏銚や夏葦の他、熊匀ゆうきん卞豹べんひょう衛善えんぜんといった将がいて、柢恵の他にもうひとり阮能げんのうという軍師がいた。

 彼らは左右に分かれて立ち並び、峨驕は夏範や夏苞と共に彼らよりも後方に立っている。甄燕と馬頑はその更に後ろだが、彼らも軍議への参加を許されていた。


「涕河と陲河に背後と側面を守られている珂原城を攻める場合、通常であれば、正面からぶつかるしか手がありません。また、この土地は水源の確保が容易で、土地も肥沃。珂原城の貯えは十分だと予想できます」

「いよいよ城攻めは困難だということだな」

「そこで、涕河と陲河です。この2つの川の流れを変えます」

「川の流れを変える?」


 意味が分からないと蒼潤が柢恵を見やれば、柢恵はニヤリと笑みを浮かべて剣先で涕河を、そして、陲河を指した。


「2つの川をひとつにして珂原城にぶつけるのです。――まず、涕河と陲河に土手を築きます。珂原城から見て外側の土手は今あるものを補強すれば良いですが、内側の土手は今ある位置よりも1里ほど内側に築き直します」


 柢恵は手にしていた剣を配下の兵士に渡すと、代わりに墨のついた筆を受け取り、地図の上に筆を滑らせる。


「この辺りから上流に向かって半里ほどの距離を築けば良いでしょう。この内側の土手には堰を造ります。この辺りです。次に、外側の土手と内側の土手を結ぶように土手を築き、川の水を堰き止めます。あとは、川の水が十分に溜まったのを見計らい、堰を壊せば良いのです。この地は珂原城に向かって下っているので、堰を壊せば涕河と陲河の水が珂原城に向かって流れていきます」

「随分と大掛かりだな」


 要するに、本来、珂原城の後方で合流する2つ川を珂原城の手前で合流させてしまおうということなのだが、1里だの、半里だの、土手を築くとなると、柢恵が軽く言ってのけたほど実際の作業は簡単なものではない。

 とは言え、闇雲に城攻めをさせて失わなくて良い命を失ったり、珂原城の兵糧が尽きるのを黙して待っているよりは、兵士たちに何かしらの仕事を与えた方が良いのは確かだ。

 峨鍈は柢恵の策を受け入れ、唔貘を追うように珂原城まで進軍すると、城を囲みつつ、兵士たちに命じて土手を築き始めた。


 涕河の土手は夏銚と熊匀ゆうきんが、陲河の土手は夏葦と卞豹べんひょうが担当し、峨鍈の本軍と衛善えんぜんの隊が珂原城を囲んでいる。

 柢恵は涕河と陲河を交互に監督し、そして、もうひとりの軍師である阮能げんのうは峨鍈の側に置かれる。

 そうして10月の半ばが過ぎた頃、蒼邦が峨鍈の陣営に到着した。


 蒼潤は、蒼彰と蒼麗を見捨てて逃げた蒼邦がどうしても許せず、罵ってやるつもりで峨鍈が蒼邦と対面する時に一緒にその場にいさせて貰った。

 蒼邦は、義兄弟の契りを結んだ魏壬ぎじん莫尚ばくしょうを後ろに控えさせて峨鍈の天幕の中に入って来ると、峨鍈と共にひとつの牀に腰かけている蒼潤を見て僅かに目を見開いて、それから悠々と頭を垂れた。


「峨司空、この度はお任せ頂いた裴城を失ってしまったことをお詫びいたします。このうえは、挽回すべく馳せ参じました」


 峨鍈は蒼邦本人よりも彼の義弟たちである魏壬と莫尚に興味があるようで、まるで夏銚のように体格の良い彼らに視線を向けると、ふむと低く唸って頷いた。


「ならば、さっそく働いて貰おうか。我らは今、陲河と陲河に土手を築いているが、これを唔貘に邪魔されたくない。適度に城に攻撃を仕掛けていると、時折、唔貘は騎兵を率いて城門から出て来る。相手をしてやって欲しい」


 騎兵と言っても、もはや唔貘のもとには数百騎しか残っておらず、パッと現れては少しばかり峨鍈軍を掻き乱し、すぐに城門の中に逃げ込むといったことを1日の間に数回繰り返しているだけだった。

 なので、大した被害はないのだが、それがいつ現れるのか分からないとなると、峨鍈軍の兵士たちは常に緊張状態にあって、だんだんと疲労が蓄積していた。

 御意、と言って蒼邦が再び頭を下げた後、峨鍈がそのまま彼らを下がらせようとしたので、蒼潤は気色ばんで自ら蒼邦に向かって声を発した。

 

「姉上と麗をどうするつもりだ!」


 おいっ、と言って峨鍈が蒼潤の腕を掴んで体を抑え付けようとしてきたので、蒼潤は彼の手を振り払って牀から立ち上がる。


「斐城で囚われている2人をどうするつもりなんだと聞いている! 姉上はお前なんかを選んで失敗した!」

「殿下」


 蒼邦が蒼潤に向き直って跪いた。蒼潤は蒼邦を睨みつけ、それから彼の後ろに控えた彼の義弟たちを見やる。

 魏壬の表情は読めなかったが、莫尚は苛立ちを眼に宿して蒼潤を睨み付けて来たので、蒼潤も怒りを込めて睨み返してやった。

 すると、すぐに魏壬が気が付いて莫尚の頭を片手で抑えつけ、額を床につけさせる。


「郡主様たちはご無事です」


 蒼邦は信じられないくらいに落ち着いた声音で言った。

 まるで波のない水面のような穏やかさに、蒼潤の怒りは頂点に達する。


「無事? なぜ無事だと分かるんだ! 敵に捕らえられているんだぞ」


 女が敵に捕らえられたらどうなるのか、蒼潤は斉郡城で身をもって知った。功郁と貞糺に捕らえられ、辱められた楓莉が自死を選んだ記憶は何年経っても忘れることができない。

 女にとって、命に別状がなければ『無事』であるということではないのだ。


「郡主様たちを手にかける者などおりません」

「そんなことは分かっている! だけど、郡主であればこそ、その身を狙う者がいるのだ!」


 功郁と貞糺の目的は最初から楓莉だったわけではなかった。峨鍈の娘を辱めることを目的としており、狙われたのは柚だ。

 とくに貞糺の柚への執着は強く、蒼潤が郡主の価値を説いて身を晒さなければ、柚を救うことは叶わなかっただろう。

 功郁は、峨鍈の娘と郡主の価値を天秤にかけて、郡主に自分の息子を生ませることを選んだのだ。

 つまり、郡主の真の価値は、子を孕ませることにある。


「麗はまだ男を知らないのに!」


 尚且つ、蒼麗は絶世の美女と名高い。

 蒼彰と蒼麗が並んでいたら、おそらく誰もが蒼麗を選んで臥室に引きずっていくはずだ。


「天連、落ち着け。おそらくお前が案じているようなことは起きていないだろう。裴城を攻め落とした鍾信はじつに忠実な男だ。鍾信の軍は厳しい軍令のもと統制が取れていると聞く。お前の妹の玉泉郡主は、かつて唔貘と婚約していた。ならば、生真面目な鍾信は主の許可なく玉泉郡主に触れることはないだろう」


 蒼潤は峨鍈に振り返り、瞳を瞬く。それから、頭に血が上り過ぎている自分を自覚して押し黙り、探るように峨鍈の顔を見つめたが、彼が蒼潤を安心させようとして偽りを言っているようには見えなかった。


「麗が大丈夫だとして……、姉上は?」

「おふたりは、喪服を身に着けておりました」


 蒼邦が再び口を開いたので、蒼潤はパッと蒼邦に振り向き、彼を睨み付けた。



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