8.望みは、ひとつ
不意に蒼潤が何もかも諦めたような自嘲の笑みを、ふっと唇に浮かべた。
「俺を害するつもりはないと言ったな?」
おそらく開き直ったのだろう。大きく開いた襟元から白い肌を晒したまま上体を起こし、片膝を立てる格好に座り直した。
「では、お前は俺の味方になれるのか? 俺のために武力を差し出せるのか? お前の財力をすべて俺に捧げてくれるのなら、姉でも妹でもお前にくれてやる。蒼家の血が必要だから、ここまで来たんだろ? 姉か妹か選べばいい!」
ぞんざいで傲慢な蒼潤の物言いに峨鍈はしばし唖然とする。
しかし、これこそが自分が求めた龍なのだと思えば、次第に胸が熱くなり、口元に笑みが浮かんできた。
堪えきれず、くくくっと声を漏らせば、きょとんとした顔で蒼潤が峨鍈を見上げてくる。
「何が可笑しい?」
「確かにわたしには蒼家の血が必要だ。心から欲しいと願っている。――だが、わたしは貴方が欲しい。貴方だ、潤」
「は?」
蒼潤は一瞬ぽかんとして、それから、名を呼ばれた嫌悪感に青ざめ、顔を引き攣らせた。
「愚かな。俺は男だ。お前の妻にはなれない」
気でも狂ったかと言わんばかりに蒼潤が言うと、峨鍈はますます笑った。
己自身でもそう思ったのだ。とても正気ではない、と。
だが、欲しいものは欲しい。龍が欲しい。この幼い子供を必ず自分が手に入れたい!
「貴方が女でも貴方を選んだだろうが、男だと知って、ますます欲しくなった」
「それは、そういう趣味を持っているということか?」
「いや、違う。貴方の望みを叶えてやりたくなったのだ」
蒼潤の口調につられるように峨鍈も砕けた物言いになって蒼潤と向き合う。
「貴方が望めば、すべて叶えよう」
「俺の望みが何かも知らぬくせに」
「分かる気がする」
「それをお前は本当に叶えられるのか?」
「貴方がわたしのものになれば」
蒼潤は困惑し、そして辟易し、苛立っていった。
蒼潤の心の動きが手に取るように分かったが、峨鍈には到底、蒼潤を諦めることができなかった。
たとえ蒼潤に嫌悪されようとも、手を伸ばして掴み取りたい。
やがて、蒼潤は投げやりな様子で口を開いた。
「俺の望みは唯一つ。――玉座だ」
蒼潤が挑むような目つきで峨鍈を睨み付けてくる。
その口から零された蒼潤の望みは、峨鍈の予測通りのものだったが、それは一度熱を持った峨鍈の胸をすうっと冷まさせるようなものであった。
(玉座か)
あんなものが欲しいのかと思う一方で、たしかに龍には相応しい椅子だという想いがある。
蒼潤が龍であるのなら、当然、望んでしかるべきものだ。
峨鍈は蒼潤の眼差しを正面から受け止めた。
「本来その座にあるべき者が、玉座に座るべきだ」
「父君を帝位につかせたいのですね」
「しかし、父上にはその気概がない。口では、いずれと言われるが、今の暮らしに満足されている。よく俺に向かって言われるのだ。生きているだけで素晴らしい。生きてさえいればと。――はっ。そんなわけがない! こんな成りで生きていて、なんの意味がある!? 何も成し得ないまま生きて、ただ死ぬだけか? そんな生き方をするために、俺は生まれてきたというのか!」
蒼潤は激昂するように声を荒げ、そして、ぎゅっと拳を握り締めた。
「恙太后が死んだ時、反呈夙連盟が結成された時、父上は皆の前に立ち、号令をかけるべきだったのだ。それなのに、父上は怖じ気づいたんだ。――おそらく父上はもう帝都に戻るつもりがない。このままこの地で平穏無事に暮らしたいと、お考えなのだろう。父上はそれでいいのかもしれない。だか、俺は嫌だ!」
蒼潤が悔しげに言葉を吐き出して目を伏せると、彼の長い睫毛が目の下に影をつくる。
その影を眺め、蒼潤の頬に自分の指先を触れさせ、顎から耳、首筋までをなぞるように触れたいと思って峨鍈は視線を送った。
「俺は玉座が欲しい。――そのためにも、力が欲しい。この地から出るための力、呈夙から身を守るための力、そして、帝位に導いてくれる力だ」
「その力、わたしが貴方に捧げよう」
「今のお前の力では、呈夙には対抗できない」
「しばし時を頂ければ必ず。その時まで貴方を守り、貴方を教え導きたい」
蒼潤が、ぱっと顔を上げて黒々とした瞳で峨鍈を見る。濁りのない綺麗な瞳だと思った。
世の中の醜さなど映したことのない瞳だ。ひどく汚してやりたいと思う一方で、その綺麗な状態のまま頑丈な箱に仕舞っておきたいと思った。
(触れたい。早く。触れてみたい……)
一刻も早く自分のものにして、余すことなく触れたい。
すべて呑み込んで、自分の体の一部にしてしまいたかった。
峨鍈は己の欲望を悟られまいと、つとめて穏やかな口調で諭すように言う。
「貴方がわたしに貴方の血を下さるのなら、わたしは貴方にすべてを差し上げよう。貴方が持ち得ないものは、わたしがすべて持っている。わたしが持ち得ないものを貴方が持っているように」
しかし、蒼潤は頑なだった。
「繰り返すが、そんなに蒼家の血が欲しいのなら姉か妹を娶ればいい」
「こちらも繰り返そう。わたしは貴方が欲しいのだ!」
思わず荒げた声に蒼潤がびくっと体を震わせたので、峨鍈は、しまったと顔を顰めた。
蒼潤の強張った顔に恐る恐る手を伸ばして、その頬を両手でそっと包み込むと、蒼潤の体の震えが峨鍈の手に伝わってくる。
「貴方に冱斡の外の地を見せてさしあげたい。お教えしたいこともたくさんある」
「なぜ俺にそこまで?」
「さて、なぜかな。自分でも不思議なのだ」
徐々に顔を近付けていくと、蒼潤が息を呑んだのが分かった。はぁっと吐息を漏らして、揺れる瞳で見つめてくる。
――不思議だ。
梨蓉と初めて出会った時も、その美しさに惹かれて彼女を欲したが、あの時とは別種の強い欲が沸いてくる。
高貴な血を羨望する想いなどないはずなのに、この天下で最も尊い血が流れているというその小さな体を前にして、峨鍈は自分の心がひどく渇いていたことに初めて気が付いた。
渇望している。その事実に驚き、胸がざわつく。
どうにか、この少年を自分のものにしたくて、峨鍈は少年の気を惹けそうな言葉を探して、ふっと微笑んだ。
「きっと、貴方とわたしは比翼の鳥なのだ」
「比翼の鳥?」
それは伝説上の鳥のことだ。雌雄各一翼で、常に一体となって飛ぶのだという。
「わたしたちは互いに翼を分け合って生きている。貴方の翼には蒼家の血が。わたしの翼にはそれ以外が。共に羽ばたかねば、この乱世の空を飛び行くことができない」
蒼潤が、つと視線を峨鍈から逸らした。
「潤」
名を呼ぶと、蒼潤は逸らしていた視線を峨鍈に戻した。視線が絡み合う、その次の瞬間、心を惹きよせられたのは峨鍈の方だった。
薄く桃色に色づいた唇が視界に入って、堪らずそこに自分の唇を押し当てた。
ただ触れただけだ。名残惜しいと思いつつもすぐに顔を離すと、熟れた実のように顔を赤く染めた蒼潤が瞳を見開いている。
「――貴方を手に入れたい」
もう一度と思って顔を近付けようとしたが、その前に蒼潤がそっと唇を開いた。
静かに、だが、はっきりと強い意思を持った言葉を放つ。
「峨伯旋、俺を裏切らないと誓えるか?」
あともうひと押しなのだと峨鍈は思った。
蒼潤の心はすでに大きく峨鍈の方に傾いている様子で、最後の、本当に最後の確認をするための問い掛けをしていると感じた。
ならば、ここで言葉を誤るわけにはいかない。
「貴方はわたしの片翼だ。自身の体を傷付けたりはしない」
「俺の望みは玉座だ。時が来たら、本当に俺のために軍を貸してくれるのか?」
「差し上げる」
「お前は玉座を望んでいないのか? 俺が玉座に着いた時、お前はどうする?」
「その時は貴方の臣になろう。わたしは青王朝の玉座など望んではいないのだから――」
蒼潤は瞼を閉ざした。長く沈黙をつくり、まるで室の外の音を聞いているかのように、じっと身じろぎもしない。
少し焦れた想いで蒼潤を待っていると、蒼潤がゆっくりと瞼を開いて峨鍈の顔を真っ直ぐに見つめた。
そして、しっかりとした口調で言い放つ。
「俺を、お前にくれてやってもいい」
傲慢そのものの物言いだったが、峨鍈は歓喜した。すぐさま腕を伸ばして蒼潤の華奢な体を掻き抱く。
その首筋に顔を埋めれば、ふわりと暖かな日なたの香りがして、餓えていた心が潤っていく心地がした。
比翼の鳥だの、片翼だの、そんなもの咄嗟に口をついた出任せのようなものだったが、思いのほか、真実かもしれない。
ずっと、がらんどうだった場所にぴったりと収まるものをようやく手に入れた。そんな気持ちだ。
「伯旋、苦しい。それにちょっと痛い」
迷惑そうに蒼潤が言って、峨鍈の腕の中で身を捩った。
腕の中から抜け出そうとしているのは明白で、そんなことをされると余計に放してやりたくなくなる。
「潤、もう一回だ」
「は?」
何を? と怪訝顔の蒼潤の顎に指を掛けて顔を近付ければ、蒼潤は大きく頭を後ろに反らした。
何をされるのかが分かったらしい。
「する必要があるのか!?」
「ある。夫婦になるのだろう?」
「カタチだけだ! お前は蒼家の血。俺は玉座。そういう契約で縁を結ぶだけだ。だいたい、俺は男なのだから、そういうことはしない。できない!」
「いや、できることはしよう」
「なんで!?」
「したいからだ」
即答すれば、蒼潤は唖然として峨鍈を見上げてきた。
その顔があまりにも間抜けだったので、峨鍈は、はははっと機嫌よく笑った。