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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
9.葵暦197年の夏から198年の春 葵陽から蒲郡へ

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11.目をつぶる


「深江軍で拒馬槍を試しました。そうしたら、天連は馬が可愛そうになってしまったんです」

「拒馬槍か……」

「天連、怪我はないか?」


 柢恵から拒馬槍と聞いて、むっと黙り込んだ峨鍈に代わって、夏銚が心配そうに低い声を響かせる。

 同じように低い声だとしても夏銚の口調は穏やかで、温かな気持ちが伝わってくるので、蒼潤はその優しさに縋りつきたい気持ちになった。



爸爸ちちうえ、馬たちを傷付けられました。悔しいです」


 ぎゅっと拳を握り締め、涙を溜めた瞳で夏銚を見上げれば、彼がぐっと喉を鳴らす音が聞こえた。

 おそらく、この場に峨鍈がいなかったら、大きな手で頭を撫でてくれたはずだ。それから、慰めるように、ぎゅっと抱き締めてくれたかもしれない。


 だが、夏銚は峨鍈の視線を感じると、蒼潤の肩を掴んで、ぽいっと峨鍈の方にその体を押しやった。

 蒼潤は瞳を大きく瞬いて峨鍈に抱き付く格好になる。

 峨鍈は抱え込むように蒼潤の体を抱き締めると満足そうな顔になって柢恵に視線を戻した。


「うまくいったようだな」

「はい、縄を引く頃合いを見定めるのが難しかったのですが、天連のおかげで掴むことができました。ですが、あともう少しというところで、天連を逃してしまい、己の力不足を感じます」

「構わん。実戦では石塢せきうに後詰めを任せる。お前は敵を拒馬槍におびき寄せること、そして、縄を引く頃合いだけに集中すればいい」

「お任せください。必ず殿の期待に応えてみせます」

「ああ、期待しよう。――しかし、陽慧。深江軍で試すことはなかったのではないか? 天連が悲しむことは予想できただろう」

「理由は2つあります」


 柢恵は峨鍈に向かって人差し指と中指を立てて言った。


「第一に、晤貘の騎兵は精鋭揃いです。その動きに匹敵できるのは、峨鍈軍においては天連の深江軍しかいません。とは言え、深江軍は5百。晤貘の騎兵隊は1万千を超えるので、もちろん数を度外視した上でのことですが」


 深江軍への高評価に蒼潤は気を良くして柢恵の言葉に聞き入る。

 峨鍈の騎兵よりも蒼潤の私兵である深江軍の方が強く、晤貘の騎兵に匹敵するだなんて、過分すぎる称賛だ。

 惜しむべくは5百という数だが、少数だからこそ深江軍は指示が通りやすく、連携の取れた動きが素早くできるのだ。

 そのように考えると、1万の数であっても5百の深江軍と同じ動きができる晤貘の騎兵は、相当なものだということが分かる。

 

「それで、もう一つは?」

「第二の理由は、天連のためです。戦場でいきなりこの光景を見せられたら号泣しますよ、天連は」


 この光景と言って柢恵は、馬の手当てに追われている深江軍の兵士たちに視線を投げる。

 

「今日は槍に布を巻きましたが、戦場ではそんなことしません」

「なるほど。お前が正しい」


 峨鍈は腑に落ちたように頷くと、蒼潤の背中を擦ってきた。蒼潤の機嫌を取っているつもりなのだろう。

 だけど、もちろん背中を擦られたくらいで蒼潤の機嫌が良くなるわけがない。

 むー、と眉間に皺を寄せ続けていると、その様子に苦笑を浮かべて、天連、と夏銚が蒼潤を呼んだ。


「今日はもう、お前の兵たちを休ませた方がいいだろう。怪我をしている者も多い。馬の手当てだけではなく、自分たちもきちんと手当てをするように命じておけ」

「うん」


 頷いて蒼潤は甄燕に視線を向ける。甄燕はすぐに意図を察して自分の馬に騎乗すると、深江軍の兵たちの方へと駆けていった。

 不意に蒼潤の体が、ふわりと空に浮く。峨鍈に抱き上げられたのだと気付いた時には既に彼の馬の背に乗せられていた。

 峨鍈も騎乗して蒼潤の体を背中から抱き締めるように手綱を握る。


「帰るぞ」


 短く言って峨鍈が馬を駆けさせ始めたので、蒼潤は目の前の馬の鬣をぎゅっと握り締めた。


「悔しいだろうが、今回だけは目をつぶってくれ。晤貘にさえ勝てれば、拒馬槍をあのように使うことは二度とない」

「そんな約束しなくていい」

「だが……」

「お前はお前が勝つことだけを考えて、そのためにできることは何でもするといい」


 城壁に向かって馬を駆けさせる峨鍈の後ろを、彼の護衛が追ってくる。馬たちが立てる蹄の音に耳を澄ませながら、蒼潤はゆっくりと瞼を閉ざした。

 正直に言えば、柢恵の拒馬槍は許せない。

 拒馬槍そのものは構わないが、それをあんな風に使って馬を傷付けるなんてあり得なかった。

 だけど、蒼潤はもう口を閉ざすと決めた。目を閉じて、耳も塞ぐ。


「俺は、お前がいつかお前の国を俺にも見せてくれたら、それでいい」


 その日がやって来るまでに、喩え何を彼に奪われようと構わない。

 男としての人生を奪われ、親を殺され、姉妹たちとも引き離された。その上、大切にしている馬たちを傷付けられたが、それでも蒼潤は彼が好きだ。

 

 彼を好きだと自覚して以来、好きと思う気持ちが日に日に大きく膨らんで、自分の血肉をひとつひとつ剥いで、一滴残らず彼に捧げたっていいと思うようになっていた。

 そうすることで、彼が望む国が建ち、多くの者たちが身心共に豊かになるのであれば、蒼潤は喜んで自分の身を捧げるだろう。


 蒼潤は夏銚が好きだし、柢恵も好きだ。夏範も夏苞も胡氏も、それに、芳華や姥たち、梨蓉たちも好きだ。

 甄燕や深江軍のみんなも好きだが、その『好き』と峨鍈に対する『好き』はまるで違うのだということを、この頃ようやく理解できるようになっていた。


(――いや、違う。この頃ようやくではなくて、きっとずっと以前から分かってはいたんだ)


 峨鍈にだけは意地になって素直に言えなかったり、『いやだ』とか『きらいだ』とか、面と向かって言えてしまうのは、彼に対して甘えがあって、彼だけが特別だったからだ。

 彼が蒼潤だけに向かてくる眼差しや優しい笑み、そして、彼が蒼潤を呼ぶ声を聞けば、彼にとっても蒼潤だけが特別なのだと伝わってくる。

 自分も彼のように彼だけが特別なのだと伝えたいが、捻くれた言動でしかそれを伝えることができなくて、もどかしい。

 だから、せめて自分にできることなら何でも彼のためにしたいし、それができない時はせめて彼の邪魔にはなりたくない。


「伯旋」

 

 蒼潤は自分の腹の前に回された彼の腕の力強さと温かさを感じながら彼を呼ぶ。


「ん? どうした?」

「ムラムラしてきた」

「なんて?」

「だから! ムラム……っ‼」


 言い直そうと大きく開いた蒼潤の口を峨鍈の手が素早く塞いだ。

 んんんっ、と塞がれたまま声を上げて彼の顔を見上げれば、困惑したような、それでいて嬉しそうな、なんとも複雑な表情を浮かべている。


「そこの茂みに隠れるか」


 そこと指し示された場所に視線を向けて蒼潤は胡乱な目を峨鍈に向けた。

 口を塞がれたまま頭を左右に振ると、ならば、と他の場所を探すように彼が視線を辺りに流したので、蒼潤は彼の手を振り払って声を荒げる。


「冗談だろ!?」

「儂が冗談を言ったことがあったか?」

「あるだろう! ……たぶん?」


 具体的なことは思い出せないが、冗談を言われ揶揄われたことがあったはずだ。

 いや、もしかすると、その時も蒼潤は冗談だと受け取ったが、峨鍈は本気だったのかもしれない。


「お前、とんでもないな」

「何を言う? とんでもないのはお前だ。さっきまで泣いていたくせに、いきなり欲情するな。何がきっかけかさっぱり分からん」


 お前のことが好きだと思ったら堪らなくなったのだ! ――なんて口が裂けても言えるわけがないので、蒼潤はグッと喉を鳴らした。

 誤魔化すように大きな声を出す。 


「とにかく! 外は嫌だ‼」

「ならば、一刻も早く帰るしかないな」


 ははははっ、と上機嫌に笑って峨鍈は馬の脇腹を蹴った。

 馬が脚を速めたので、みるみると城壁が目の前に迫ってきた。


 

△▼



 9月に入って間もなく、裴郡から急報が届いた。

 晤貘の将である鍾信しょうしんが裴郡城を攻め落としたというのだ。

 蒼邦は身ひとつで逃げ出し、蒼彰や蒼麗の行方は分からなくなっている。これを聞いて蒼潤は浮足立って、すぐにでも裴郡に駆け付けたい気持ちになったが、すぐ隣で峨鍈がひどく落ち着いた様子を見せるので、ぐっと耐えるように思い留まった。


「ならば、今、晤貘のもとに鍾信がいないということだ」


 晤貘の本拠地は随州珂原郡の珂原かげん郡城である。

 峨鍈は蒲郡に移って以来、度々、蒲郡と珂原郡の境に向かって軍を進めてみせたりして晤貘を挑発し続けていた。

 故に、晤貘自身は峨鍈を意識して珂原城を動くことができなかったと見える。

 まず裴郡の蒼邦を破り、次に峨鍈と対峙するという晤貘の意思を感じられ、峨鍈はこれに応えるかたちで珂原郡への進軍を決めた。


「珂原郡のじょう城近辺に大きな平野があります。おそらくそこが戦場になるでしょう」


 晤貘の主力は騎兵であるため、唔貘は当然、騎兵に有利な戦場を選ぶ。騎兵が使えない戦場は避け、逃走することにも躊躇いがなかった。

 故に、唔貘と戦うには唔貘に有利な戦場を選ばざる得ない。

 

「我々が先に奘県に入って陣を敷けば、唔貘は必ず我々を討とうと騎兵を率いてやってくるでしょう。唔貘の騎兵さえ討ち破ってしまえば、もはや唔貘の首を取ったようなものです」


 騎兵は移動速度に優れ、尚且つ、強い。

 しかし、ひとたび損害を受ければ、歩兵に比べて容易には補充が利かないため、長期にわたって戦力を落としてしまうのだ。

 補充が利かないとは、騎兵であればまず馬が必要とすること、そして、その馬を乗りこなせるように新兵を鍛えねばならないためである。


 馬は容易に手に入るものではない。

 牝馬は1年に1頭しか仔馬を産まない上に、その仔馬が戦場を走れるようになるまで数年を要するからだ。――ここに柢恵が拒馬槍を武器として使う理由があった。







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