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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
9.葵暦197年の夏から198年の春 葵陽から蒲郡へ

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10.拒馬槍


「いやいやいや! 無理だ! なぜか以前よりも華奢になっているように見える。お前の体のどこに触れたら良いのか、さっぱり分からん」

「どこにも触れるな」


 峨鍈は夏銚から蒼潤をべりっと引き剥がし、蒼潤の体を自分の両腕の中に閉じ込めた。


「華奢になったのではなく、儂の腕の中で美しく育ったのだ。天連ほど美しい者はこの世にはおらん。世間では玉泉郡主こそ天下一の美女と言われているが、儂にとっては天連こそが天下一だ」

「伯旋。お前よく恥ずかしげもなく、そんなことを言えるよな。俺の方が恥ずかしい」


 腕の中で蒼潤が呆れたような声を出し、夏銚も他の者たちも苦笑を浮かべていたが、峨鍈は構わなかった。


「儂は『勇』を選んだつもりが、実のところ、『美』も選んでいたのか」

「なんの話だよ? 意味分からないから、とりあえず放せ。俺は喪中だ。お前とは触れ合わない!」

「これくらい構わん」

「俺は構う! 放せって!」


 喪中であることを持ち出されれば、それが明けるまで、あと何日あるだろうかと思う。

 ひと月ではなく10日くらいにしておくべきだったと悔やみながら、峨鍈は両腕を上げて蒼潤を放した。

 それにしても相変わらず、蒼潤は峨鍈に対する態度と夏銚に対する態度が違う。

 峨鍈は蒼潤から『渋くて格好良い』と言われた覚えなどないし、まして『憧れる!』とキラキラした瞳を向けられたこともなかった。

 恨めしい気持ちをぶつけるように夏銚を睨めば、従兄は降参を宣言するかのように両手を掲げた。


 蒼潤はそんな様子を一瞥すると、峨鍈に背を向けて再び歩みを進め、胡氏と柚の案内で西宮へと向かって行く。

 そちらに柚の私室があるのだろう。

 峨鍈は、むっと顔を顰め、蒼潤を呼び止めようとした。通常、賓客は南宮より奥には通されない。北宮には太守の妻の私室があり、東宮や西宮は太守の家族の住まいだからだ。


 峨鍈も蒼潤も親族として受け入れられているのだろうが、それでも男を女たちの臥室の近くをうろつかせるわけにはいかない。

 ――にも関わらず、蒼潤を西宮まで通したということは、胡氏も柚も蒼潤を成人した男として認識していないからだろう。そのことに気付いて峨鍈は出掛かった言葉を呑み込む。


 夏銚の実子はどれも体格が良く、息子たちはひと目で夏銚の子だと分かるほど父親似の厳つい顔立ちをしていた。胡氏が産んだ夏範も夏苞も例外なく、じつに男らしい男たちであり、むさ苦しささえ覚えるほどである。

 そんな息子たちに見慣れている胡氏の目に、蒼潤が成人した男として映らなくとも仕方がなかった。


(心配はいらんか。あいつが女とどうこうなることはないだろうからな)


 岺姚れいように押し倒されながらガタガタと震えていた蒼潤だ。どれほどの美女たちに囲まれようと、蒼潤が過ちを犯す心配はなさそうである。

 峨鍈は蒼潤の後ろ姿を見送ると、峨驕と共に夏銚の案内で南院の客室に通され、その夜、夏銚や彼の家族たちと宴を楽しんだ。



 △▼



 予定通りに赴郡城を発つと、3月になり、ようやく蒲郡に入った。そこから更に数日進んで蒲郡城に着く。

 蒲郡にはしばらく留まる予定なので、夏葦かいを蒲郡太守の任を解いて、峨鍈自らが太守を兼任する。

 蒲郡への道中で喪が明けた蒼潤は、蒲郡城の北宮の北正殿を私室と定めて暮らし始めた。


 そうして夏を迎えた日のことだ。蒼潤は柢恵に誘われて深江軍を率いて城壁の外に出掛けた。

 柢恵が、晤貘の騎兵に対する策を試してみたいと言うので、蒼潤は柢恵が率いている軍と深江軍とで摸擬戦を行う。

 深江軍は騎馬5百だが、柢恵は歩兵1千で、弓兵5百。数の上では柢恵の有利だが、歩兵と騎兵では機動力がまったく異なる。

 さらに高い位置から振り下ろした武器には力が宿るが、騎乗した敵に向かって剣を振り上げ続けることの難しさは言うまでもない。

 故に蒼潤は、たとえ柢恵が深江軍の3倍の数を率いていても負ける気がしなかった。


 ところが、摸擬戦を開始してすぐに甄燕が違和感を訴えてきた。誘導されていると言うのだ。

 そんなはずはない。柢恵軍の弱いところを見定めてそこを突いているだけだ、と蒼潤は思った。

 現に、攻撃を受けた彼らは蜘蛛の子を散らしたように逃げているではないか。


「天連様、追ってはなりません!」


 甄燕が蒼潤の隣に馬を並べて、蒼潤から天狼の手綱を奪って自分の馬の手綱と共に引く。

 二頭は脚を止めたが、多くの馬たちは天狼の横を駆け抜け、敵大将である柢恵に向かって進んで行った。

 ――その時だ。

 突如、拒馬槍が地面から生える。その光景を目の当たりにして蒼潤は息を呑んだ。


 拒馬槍とは、本来、敵の侵入を防ぐための柵だ。

 丸太に槍を通して斜めに立たせた物のことで、歩兵でも騎兵でも目の前に拒馬槍があれば、それを避けて、回り込まねば前進できないため、騎兵に対しても有効的な障害物である。

 しかし、柢恵はそれだけでは満足できなかったようだ。拒馬槍を柵や障害物で終わらせず、武器として活用しようと考えた。


 通常、そこに拒馬槍があると分かっていれば、敵は拒馬槍を避けるように迂回して前進する。

 ならば、そこに拒馬槍があると分からないようにすればいい。

 そのように考えた柢恵は、事前に拒馬槍を地面に埋伏させて、知らずに前進してくる深江軍がその場所に近付いたのを見計らって拒馬槍を縄で引き起こしたのだ。


 勢いよく駆けてきた馬たちは次々に槍先に飛び込んで傷付けられ、或いは、槍に驚いて竿立ちになって乗り手を落とした。

 その惨憺さんたんたる光景を目の前にして蒼潤は全身から血の気が引き、嫌な汗が流れるのを感じた。

 大慌てで騎馬隊を反転させる。

 逃げて、後ろを振り返るように確認すると、半数以上が落馬しており、残った兵たちも柢恵が自ら率いた弓兵に手ひどくやられて、最終的に蒼潤の側には数十騎しか残されていなかった。

 甄燕が逃げ道を確保してくれなかったら、蒼潤は柢恵に捕らえられていただろう。


 蒼潤は天狼から降りると、大丈夫なはずだと思いつつも、まずは天狼の腹を、そして、首、蹄を確かめた。

 無傷だと分かると心からホッとして、それから辺りを見渡す。

 大丈夫ではなかった馬たちが嘶き、痛みに耐えかねたように足を踏み鳴らしている。


 救いなのは、拒馬槍の槍先が分厚く布で覆われていたことだ。

 なので、槍に貫かれた馬はいないが、馬は脚を一本折っただけで死ぬしかなくなる繊細な生き物だ。安心はできない。

 郭元から馬たちの負傷報告を受けて蒼潤は全身を震わせた。すぐに治療を命じると、再び天狼に跨り、一目散に柢恵の元へ駆ける。甄燕も慌てて追って来る。


 すると、柢恵は蒼潤の反応を予測していたのだろう。降参だと、両手を天高く上げて見せた。

 だけど、そんなことをされたって蒼潤の怒りは収まらなかった。柢恵の前で馬から降りると、その胸ぐらを掴んで声を荒げた。


「こんなの聞いていない!」

「当然だ。言ったら、本番同然の練習にならないだろ。――天連、ついに晤貘ごばくを討つ時が来たんだ。この調練は、晤貘が有している最強騎馬に対抗するための策の最終仕上げだったんだ」


 だから、あまり怒ってくれるな、と柢恵が蒼潤に向かって言う。だけど、馬を傷付けられて蒼潤は怒らずにはいられない。

 柢恵にとって馬は戦いの道具のひとつかもしれないが、蒼潤にとって馬は友であり、もっとも尊い生き物だ。

 そんな馬たちを目の前で傷付けられて、蒼潤は涙が滲んでしまうほど悔しかった。


「うわっ、泣くなよ」

「だって、お前。作戦には雨を利用するって言ってたじゃないか。だから、俺に何度も雨を降らさせたんじゃないのかよ?」


 悔しくて、悲しくて、傷付けられた馬たちが痛々しくて、ボロボロと涙が溢れ落ちてくる。

 柢恵は晤貘との戦いで、草地を想定して策を考えていた。随州には草原が多く、おそらく戦場は随州になるだろうと考えたからだ。

 草地は雨で濡れると滑りやすくなり、馬の脚を遅くすると甄燕から聞いて、戦闘の前に蒼潤が雨を降らせれば良いのではと柢恵が言った。

 なので、蒼潤は蒲郡に着いてから柢恵の指示で思いのまま雨を降らせる練習を重ねていた。それなのに――。


「ごめん、天連。じつは嘘をついていたんだ。拒馬槍を使うことは葵陽にいたころから考えていて、天連の雨は別の策で使えたら良いなぁって考えているんだ」

「別の策?」

「うん。それについてはそのうち話すけど、とにかく馬の脚を止めるには雨ではできないと思ったんだ」


 蒼潤は柢恵から手を放すと、自分の袖で目元を拭った。


「だけど、拒馬槍は馬が可哀想だ」

「傷付けるのは、敵の馬だけだ」

「敵の馬だろうと、馬は馬だ。偶々敵に所有されているというだけで、もし俺が手にしたら、俺の馬になる」

「それでも、拒馬槍をこうやって使うしか晤貘に勝つ策がない。晤貘の騎馬隊を封じなければ晤貘には勝てない。だから、天連。今回だけは目を閉ざしていて欲しい」

「……」


 蒼潤は口を閉ざして頭を左右に振った。この話はやめよう、と。

 馬が可哀想だなんて柢恵に話しても無意味なことだった。そして、誰に話しても意味がない。

 馬がどうなろうと、戦には勝たなければならないからだ。

 拒馬槍を使わなければ晤貘に勝てないというのならば、峨鍈も柢恵も蒼潤がどんなに止めたって使うだろう。


「天連!」

 

 不意に名を呼ばれて蒼潤は声がした方に視線を向けた。

 すると、峨鍈が夏銚をともなって、城壁の方から馬を駆けさせてやって来る姿が見えた。

 2人は蒼潤の近くまでやって来ると、馬の背から降りて蒼潤の姿を見下ろす。峨鍈が眉を顰めて、蒼潤の頬に触れてきた。


「泣いたのか? ――どういうことだ、陽慧」


 ぞくっとするほどに低い声を響かせて峨鍈が柢恵を見やった。

 柢恵は身を竦めながら答えた。



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