8.かもしれないというだけで
出発の合図を受けて隊列がゆっくりと進み出すと、蒼潤が峨鍈に背中を預けてくる。
その後もずっと――日暮れ近くなってその日の進軍を終えても、蒼潤は峨鍈の傍らにいた。
今回の遠征には侍女たちも連れて来ていたので、夕餉と就寝支度を侍女たちの手を借りて行った後、彼女たちを下がらせて峨鍈は蒼潤と天幕の中で2人きりになる。
臥牀に並んで座ると、蒼潤の方から峨鍈に身を寄せてきたので、思う存分に甘やかしてやることにしたが、峨鍈には蒼潤が何を考えているのか分からなかった。
寧山郡王が急死し、その後すぐに越山郡王が病死した。どちらの死にも峨鍈が関わっており、そのことは蒼潤も知っていた。
寧山郡王には即効性のある毒を、越山郡王には病であるかのように見えるような遅効性の毒を盛るように不世に命じたのは峨鍈だ。
そして、互斡郡王――蒼昏には、その身辺に手の者を潜ませて遅効性の毒を少量ずつ月日を掛けて盛り続けた。
最期の数か月は、不世の後を継いだ不邑の指示で毒の量を増やしたと聞いている。
――お前以外の龍をすべて殺すことになる。
そのように事前に予告していたとはいえ、峨鍈は蒼潤にとって親の仇であり、一族の敵であった。
それにも関わらず、蒼潤は峨鍈に恨み言を口にせず、ただひたすらに甘えてくる。
「天連。……潤」
耳元に口を寄せて囁くように呼べば、蒼潤は吐息を漏らして峨鍈の首に両腕を絡めてきた。
しかし、その顔が青ざめているように見えて峨鍈は蒼潤の腰を抱いて額に額を軽くぶつける。
「無理をするな。今夜はそういう気分にはならんだろう」
「無理なんかしていない。だけど、分からないんだ。なぜ父上は死ななければならなかったんだ?」
そうか、と峨鍈は胸が苦しくなる。
きちんと語ったつもりだったが、蒼潤は理解できていなかったのだ。
ならば、さぞかし蒼潤の胸は痛んでいることだろう。蒼潤は、峨鍈がいずれ父親の命を奪うと知りながら、そのことを父親に知らせなかったのだから。
もしも蒼潤が蒼昏に対して、身辺に気を付けろと警戒を促すような文を送っていたら、結果は変わっていたかもしれない。
結局のところ蒼昏は死んだかもしれないが、それでも蒼潤にはやれることはやったという想いが湧く。それは、できたはずのことをやらなかったという想いよりは幾分もマシだろう。
父親を想って気に病んでいる様子であるのに、蒼潤は峨鍈の肩口に顔を埋めて言った。
「お前の邪魔になりたくなかった」
「お前が何をしても、お前が儂の邪魔になることはない」
「だけど……」
潤、と呼んで峨鍈は蒼潤の言葉を遮る。
蒼潤は俯いたまま、びくりと体を小さく揺らした。
「血や生まれを問われない国を、儂は興す。――そのためには龍が妨げになるのだ」
今更こんな話をしたところで、蒼潤の罪悪感は拭えないだろう。
それでも、この先、自分と蒼潤との間に僅かな誤解も生まれないように今こそ話しておくべきだと峨鍈は思った。
「お前たち龍は存在しているだけで他の者を圧倒し、蒼家の血の優位性を知らしめる。お前は、たかが髪の色が変わるだけだと思っているだろうが、髪の色が変わる者など龍以外に他にいない。人ならば、あり得ないことであり、それは人智を越えた力だからだ」
――龍は特異な存在である。
そういった存在は時に畏怖され、迫害されてきた歴史もあるが、青王朝においては龍は皇帝であり、絶対的な存在だった。
「その存在に近付きたいと人々は願い、蒼家の血を求める。蒼家の血を取り入れ、蒼家の血に近付いた家ほど名家を名乗り、朝廷で力を持つ。こうして青王朝が成り立ち、続いてきた」
分かるかと問えば、蒼潤がこくんと頷いた。
なぜ青王朝では血が何よりも重んじられ、蒼家の血が尊ばれるのか。その理由こそが、龍の存在だった。
「だけど、今の青王朝は病んでいる」
「龍ではない者が続けて玉座についたからだ。龍ではない皇帝は己の血で、蒼家の血の優位性を示せない。それは青王朝の根底を揺るがす事態なのだ。――儂はこの機を逃すつもりはない。玉座に龍がいないのならば、いずれ多くの者たちが血や生まれを問うことの無意味さに気付くはずだ」
「きっとお前にならできる」
「――だがな、ひとたび龍が玉座につけば、青王朝がどんなに弱っていて虫の息だろうと、たちまち息を吹き返してしまう。人智を越えた力の前では、人は実に無力だからだ」
そして、再び血や生まれを重んじる国に引き戻されてしまうだろう。
青王朝は腐り続けながら生きながらえ、名家と自称する輩だけが富と権力を握り、彼らに都合の良い政が行われていくのだ。
「尚且つ、龍の皇帝の中に比類ない名君が現れてみろ。やはり龍は偉大だ、蒼家の血は尊い、と蒼家が崇められ、蒼家に縁のある家の者が帝都で闊歩するようになる。だが、その一方で、どんなに有能な者がいたとしても蒼家とは程遠い生まれであるがために虫けらのように扱われてしまう。それでは、やってられないと儂は思うから、龍をこの地上から排除したいのだ。地上は人が治めるべきであり、人は誰ひとりとして虫けらではないからだ」
「――だったら、お前は俺も殺すべきだ」
ぽつりと蒼潤が峨鍈にしがみ付いたまま、顔だけを背けるようにして言った。
不貞腐れたような機嫌の悪さを感じ取って、峨鍈は蒼潤の頭をくしゃりと撫でる。
「己で自分自身を殺すような真似はしない」
「……っ」
「天連?」
「でも……」
まだ納得いかず胸に燻っているものがあるのだろう。蒼潤は峨鍈の肩口に額をぐりぐりと押し付けながら言った。
「父上は、互斡国から出るつもりなどなかった」
帝都に戻り、権力を握ろうとしていた寧山郡王や越山郡王とは違うと蒼潤は言いたいのだ。
そして、それは正しい。だから、峨鍈はまるで躊躇うかのように蒼昏の死を引き延ばしていた。だが――。
「互斡国は渕州だ」
ただひとつ、それだけが理由だった。
もし、蒼昏が渕州ではなく琲州にいたら……。程よく帝都から遠く、峨鍈の支配下にある土地で余生を送ってくれるのなら或いはと思い、蒼昏に領地替えを打診してみたことがあった。
しかし、蒼昏はこれに応じなかった。故に道はひとつしかなかったのだ。
「瓊倶がいつ互斡国に兵を進め、互斡郡王を捕らえたとしてもおかしくはなかった。互斡国は渕州の一部であり、渕州は瓊倶の手中だ。いくら互斡郡王にその気がなかったとしても、捕らえられ、脅され、担ぎ上げられたら、玉座に座るしかなくなる」
「でも、それはあくまで仮定の話だろう? 絶対にそうなるとは限らなかった。それに、瓊倶は自身が帝位に着きたいと考えているのかもしれない。瓊倶の異母弟の瓊堵は、予州で皇帝を名乗っているのだろう?」
「そうだな」
瓊倶には幼い頃から何かと張り合っていた仲の悪い弟がいて、その弟の瓊堵は、愚かにも予州で皇帝を名乗っていた。
しかし、そのために穆匡から見放され、孤立している。
自ら皇帝を名乗るということは、青王朝に反し、国敵になるということだ。瓊堵にはその辺りのことを理解できていなかったのだろう。
瓊堵の愚かさの巻き添えになる前に瓊堵から独立した穆匡は実に賢く、今や南の一大勢力になりつつあった。
「瓊堵は自称ではあるが、一応、皇帝になった。あの瓊俱が弟に先を越されたままでいられるわけがない。いずれ自らも皇帝を名乗るつもりでいるだろう。だが、あいつは弟ほど愚かではないからな。慎重に時期を見るはずだ。それまでの間、青王朝の真の皇帝として互斡郡王を担ぎ上げないとも限らなかった」
そうすることで、瓊俱は蒼絃を担いでいる峨鍈と張り合えるからだ。
ほらな、と蒼潤が言って峨鍈の背に回した手でぎゅっと峨鍈の褝を握った。
「やっぱり仮定の話だ。かもしれないというだけで、父上は死んだんだ」
「天連……」
「そして、俺はそれを黙認した。だから、俺が父上を殺したようなものだな。きっと俺はいつかこの報いを受ける」
蒼潤が峨鍈の胸に両手をついて体を離した。
温もりが去り、急激な冷えに体が襲われた気がして峨鍈は狼狽えて蒼潤を見やる。
「俺、明日から喪服を着るけど、――いいよな?」
「構わんが……」
青王朝では親が亡くなれば、通常3年ほど喪に服す。
しかし、戦が続いている今3年も故人を偲び、慎んでいられないのが現実だ。
どこもかしこも人出が足りないし、親を失った娘が3年の喪に服している間に婚約者が戦死したという事態も起こり得る。
故に、今では3年という期間は定められておらず、本人の気持ちと直属上司の意向によって喪に服す期間が自由に決められるようになっていた。
峨鍈が蒼潤に向かって人差し指を立てると、それを見て蒼潤は首を傾げる。
「1年?」
「いや」
「ひと月?」
「短すぎるか?」
「……いいけど」
けど? と蒼潤の言葉を繰り返して顔を覗き込むと、蒼潤は顔を上げて眉をキッと吊り上げた。
「その間、お前とはしない」
「なるほど、そうきたか。いや、それも当然か。――明日からだな?」
「うん、明日からだ」
承知した、と峨鍈は答えて蒼潤の頬に触れる。
指先で蒼潤の耳の縁をなぞり、それから、ゆっくりと臥牀の上に蒼潤の体を押し倒した。
△▼
翌日から蒼潤は白い衣を身に着け、侍女たちと共に馬車で移動するようになった。
陽が落ちた後は峨鍈の天幕ではなく、馬車の中の牀に布団を敷いて休む。食事も馬車の中だった。肉を除いた羹を口にしていると聞いている。
そうして峨鍈たちが蒲郡に向かって進んでいる間に、互斡国は互斡郡王が亡くなったことで朝廷に返還され、互斡郡と改められて、渕州牧を任じられている瓊倶の管轄領となった。
今後、深江軍への志願兵が互斡国から蒼潤のもとに送られてくることはなくなるだろう。




