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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
9.葵暦197年の夏から198年の春 葵陽から蒲郡へ

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7.風雨を操る力

 

(雨降れ。雨降れ)


 心の中で念じる。

 何度か念じていると、もどかしさを伴なうような違和感があったので、蒼潤は組んでいた指を外して、その両手を頭の上に掲げた。

 天に向かって腕を伸ばせば、まるで自分が天を支えているような気分になる。

 陽の光が蒼潤の手のひらを照らして、ジリジリと熱を伝えてきた。


(暑い)


 なんせ今は夏だ。一年で最も日差しが強い。

 ひと月近く葵陽では雨が降っておらず大気は乾いていた。風すら吹かず、人や馬が動けば、足元で砂埃が舞う。


(雨……。雨……)


 不意に蒼潤は不確かなものを見た。

 瞼を閉ざしているので何も見えないはずなのに、それが遠くを漂っているのが見える。

 高い位置にあるものは、薄くて軽い。呼べばすぐに来てくれるが、本当に呼びたいものはそれではなかった。

 重たくて動かしにくいものは、下の方にある。

 今は遠くにあるので、それに精いっぱい腕を伸ばして手繰り寄せた。


「――っ」 


 蒼潤の長い髪を攫うように涼しげな風が吹き抜ける。

 柢恵と甄燕が何事か発した声にハッとして蒼潤は瞼を開いた。いつの間にか陽が陰っていて、辺りは薄薄暗い。


「信じられない」


 柢恵は雲に覆われた空を見上げながら言った。やがてその額に一粒の雫を受ける。

 パラパラと振り出した雨に深江軍の兵士たちが俄かに騒ぎ出す。蒼潤も両手に雨粒を受けて、それを握り締めるようにしながら腕を下ろした。


「天連様、これを」


 甄燕が駆け寄って来て、己の袍を脱いで蒼潤の頭に被せた。

 柢恵も手のひらで雨粒を受けながら歩み寄って蒼潤の前に立つと、真剣な面持ちで言った。


「お前、今、自分が何をしたのか分かっているのか?」

「陽慧がやれって言ったから……」

「そうじゃなくて。――俺もまさか本当にできるとは思っていなかったんだ」


 嘘だと蒼潤は思った。

 柢恵は蒼潤ならやれるっていう顔をして蒼潤のことを見ていたのだから。

 柢恵は蒼潤を、そして、甄燕を見て、まるで内緒話でもするかのように声を潜めて言った。


「このことは俺たちだけの秘密だ。このことが知れ渡ったら、天連は多くの者たちに狙われる。その力を欲しいと思わない者はいないはずだからだ」

「だけど、きっと偶然だ。偶々、雨が降ったんだ」

「俺はそうは思わない。お前が降らせたんだ。――いいか。このことは時が来るまで殿にも秘密だ」


 蒼潤と甄燕は眉を顰める。峨鍈にも秘密にしなければならない理由が2人には理解できなかった。

 すると、柢恵はニヤリと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。


「だって、こんなことを殿が知ったら、殿はますます天連を囲って邸から出さなくなるぞ」


 そうかもしれない、と蒼潤は口元を引き攣らせた。

 本当にそんな力が自分にあるのかどうかは分からないが、その可能性があるというだけでも峨鍈が知れば、蒼潤を誰にも奪われまいと彼は蒼潤を邸の奥に閉じ込めるだろう。


「俺は、お前が本当に雨を降らせられるのだとしたら、戦場に来て貰わなければ困る」

「俺も自由がなくなるのは嫌だ」


 一度降り始めた雨は次第に激しさを増し、ざあざあと人々の耳元で音を立てて天から降り注ぐ。

 瞬く間に蒼潤たちは頭から足までずぶ濡れになってしまった。

 


▽▲



 雩礼を行うことなく雨が降ったので、蒼潤が雩礼を行うという話は立ち消えた。

 峨鍈は蒼潤の臥牀に腰掛けて蒼潤の手を引いた。

 すると、蒼潤は峨鍈の膝に倒れ込んで来たので、その体を受け止めて膝の上で横抱きにする。


「陽慧の咳が続いているだろう? だから、春蘭に薬を届けさせたんだ」

「それで?」

「これは徐姥から聞いた話なんだけど、春蘭は陽慧のことを好ましく思っているらしいんだ。――お前、どう思う?」

「どうもこうも……」


 唐突に何を言い出したのかと思えば、要するに蒼潤は自分の侍女を柢恵に嫁がせたいのだ。

 そう察すると、峨鍈は己の顎をひと撫でして考え込んだ。


 蒼潤が雨に降られて邸に帰ってきた日、柢恵もずぶ濡れとなって己の邸に戻り、その夜のうちに高熱を出した。

 熱は翌日の午後には微熱になったが、そこからが長く、半月が過ぎた今でも咳が続いている。

 そんな柢恵を案じて、蒼潤が何度も柢恵の邸に薬を届けさせていたことを峨鍈は知っていた。

 薬を届けたのは、芳華だ。蒼潤の乳姉弟である。


 芳華は郡王の侍女が務まる程なので生まれは確かで、蒼潤と同等の教養を身に着けていた。

 一方、柢恵は商家の生まれだが、今や軍師祭酒である。

 峨鍈は身分をどうこう言うのは好きではないが、それをおいても、2人の身分は婚姻を結ぶ上で何ら問題がなかった。


おれに否はないが、こういう話は本人の意思をちゃんと尊重してやれ」

「分かってる。まず春蘭の気持ちを確認して、それから陽慧に話して、陽慧が承諾してくれたら春蘭を嫁がせる。それでいいだろ?」

「しかし、なぜ儂に意見を求めた?」

「お前がもし柢恵にどこぞの娘をと考えていたらいけないと思ったんだ」

「まったく考えていなかったな。そうか、柢恵もそのような歳か」


 柢恵に見合う自分の娘がいたら違っただろうが、琳も朋も入宮が決まっている。

 それを思えば、蒼潤が姉妹のように想う芳華を柢恵に嫁がせ、蒼潤と柢恵の繋がりを強めることは峨鍈にとっても好都合かもしれなかった。


「言葉や順序を誤ると、変に拗れるぞ。気を付けろ」


 冗談のつもりで忠告したのだが、その2日後の晩、蒼潤が表情を曇らせて峨鍈に報告してきた。


「陽慧に断られた」

「何?」

「春蘭の気持ちは確かめたから、陽慧に縁談を申し込みに行ったんだ。そうしたら、陽慧は誰も娶るつもりはない、って。――あいつ、咳がなかなか治まらないから弱気になっているんだ」


 芳華に聞かれるわけにはいかないので、蒼潤は臥室に移動してからこの話を始めている。

 臥牀に腰掛け、膝の上で両手をぎゅっと握り締めた。その様子が悔しそうでもあり、悲しそうに見えたので、峨鍈は蒼潤の隣に腰を下ろして蒼潤の手を取った。


「陽慧は、なんと言って断ってきたのだ?」

「自分の余命が見えたから、って」

「あいつは自分が若くして死ぬと思っているのか?」


 峨鍈は呆れると共に、ゾッとした。

 確かに柢恵は幼い頃から体が弱い。夏場にも関わらず雨に濡れただけで熱を出すなど、他の者であったら考えられないだろう。

 蒼潤の言う通り、此度は偶々《たまたま》咳の治りが悪く弱気になっているだけなら良いが、柢恵本人の言う通り、己の短命を悟ったのだとしたら、それは由々しき事態だ。


「明日、儂も陽慧と話そう」

「いや。もう一度、俺が陽慧と話す。――俺、考えたんだ。いつ死ぬのか分からなくて、大切な人をおいて逝くかもしれないのは、誰だって同じだ、って」


 蒼潤の言いたいことは分かる。

 体が強い、弱いは関係なく、戦場に出れば誰もが死と隣り合わせだ。

 だが、それを踏まえた上で柢恵は主張しているのだ。体が弱ければ、強い者よりもずっと死の可能性が高いと。

 同じように雨に降られて、蒼潤は無事でも柢恵は寝込んでしまう。その差が死を招くのだ、と。


「ならば、陽慧の言葉は否定するな。お前はけして認められないだろうが、認めた振りをして、こう言えばいい。――自分にとって春蘭は姉弟きょうだいのような関係だ。春蘭を通じて、お前との縁をより強めたいのだ、と」

「嘘は言っていないな。春蘭と俺は姉弟同然だし、陽慧と家族のように親しくなりたいのは本当だ」


 蒼潤は嘘をつくのが下手なので、安心したような顔で頷いた。

 そして、柢恵も単に蒼潤の侍女を娶ってくれと言われるよりも、お前と今よりもっと親しくなりたいと蒼潤に言われたのなら、縁談にも前向きになるだろう。


 果たして、翌晩。

 蒼潤は昨晩よりもずっと明るい表情で柢恵と芳華の縁談がまとまったことを峨鍈に告げた。

 ただし、晤貘戦に集中したいという柢恵の思いを尊重して婚約のみが交わされることになった。


 年が明けて、葵暦197年の春。

 琳と朋が峨貴人と峨美人として入宮する。

 それを見届けてから峨鍈は蒼潤を連れて葵陽を発ち、琲州蒲郡に向かった。


 その道中、椎郡に入ったところで互斡国から報せが届く。蒼潤の父である互斡郡王が亡くなったという報せであった。

 峨鍈は同じ報せを二日前の晩に不邑から受け取っていたが、蒼潤の母である桔佳きっか郡主が送った使者が蒼潤のもとに辿り着いたのは、昨日の野営地を発ってまもなくのことだった。

 峨鍈は進軍を止めて、蒼潤の隣で使者の言葉を聞く。


「八日ほど前に、眠るように息を引き取られました」

「それでは、苦しまれるようなことはなかったのだな」


 使者から父親の最期を聞くと、蒼潤は安堵した様子を見せる。

 互斡郡王は2年前の夏から病を患い、眩暈や体の倦怠感が続いていた。それから段々と床から起き上がれない日が増えて、眠っている時間が長くなっていたという。


「母上は今後どうなされるつもりなのだ? もし何も決まっていらっしゃらないようなら、帝都に来て欲しいと伝えてくれ」

「承りました。必ずお伝え致します」


 蒼潤は使者を下がらせると、小さく息を吐き出してから、ゆっくりと峨鍈に振り向いた。


「進軍を止めて悪かった。すぐに出発しよう」

「構わん。――大丈夫か?」


 蒼潤は無言で頭を左右に振り、峨鍈に向かって両腕を広げた。

 抱き締めてくれと言われているのだと察して、峨鍈は蒼潤の細い体を包み込むように抱き締めた。


「伯旋、お前の馬に乗せてくれ」

「珍しいな」


 甘えたい気分なのかもしれない。

 蒼潤が14歳で互斡国を出た時を最後に、二度と顔を合わせることのなかった父子だったが、それでも親が死んだという事実は蒼潤に心細さを抱かせたのだろう。

 いよいよ蒼潤はこの地上におけるたった独りの龍になった。 

 孤独を抱えた蒼潤を峨鍈は抱き抱えたまま自分の馬に乗ると、蒼潤を自分の体の前に座らせ、その体を後ろから抱き締めるようにして馬の手綱を握った。





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