6.馬は自由だ
「柢祭酒からお預かりしました」
「陽慧が? なんだろう?」
柢恵が文を寄越すなど、いつぶりだろうか。蒼潤は胸を躍らせて、その場ですぐに文を開いた。
峨鍈が片眉を跳ねらせて後ろから蒼潤の手元を覗き込んで来る。
「陽慧は何と言ってきた?」
「明日、深江軍の調練を見学させて欲しいって。良いよって、すぐに返事を書かなきゃ」
「天連。なぜそんなにも嬉しそうなんだ?」
「それは嬉しいからに決まっているだろ。陽慧と城壁の外に出かけるなんて、いつぶりだろう!」
「お前、まさか明日、城壁の外に出るつもりなのか?」
峨鍈の顔を見上げれば、彼はまったく面白くないという表情をしている。
蒼潤は嫌な予感がして顔を強張らせた。
「まさかダメだとか言い出さないよな?」
「……」
押し黙った峨鍈にますます蒼潤の嫌な予感は濃厚となる。
こういう時はどうすれば良いのかという話を、以前、梨蓉や嫈霞、明雲、雪怜から聞いたことがあった。
しかし、それを実行するのは、蒼潤にとってなかなか難易度が高い。
(――とは言え、背に腹は代えられないか)
好都合なことに蒼潤は今、峨鍈にとって好ましい装いをしている。
先ほどの口づけで良い具合に気分も乗ってきているし、きっと彼の体も疼いているはずだ。
蒼潤はくるりと体ごと峨鍈の方に振り向き、両腕を広げて彼に抱きついた。彼の肩口に顔を埋めて言う。
「お願い。明日、陽慧と出掛けたい。安琦や深江軍のみんなも一緒だし、危ないことはないと思う」
峨鍈は些か面食らいながら、だが、と言葉を放った。
「お前を邸から出したくないのだ。今日は陛下の頼みだったから参内させたが、お前は人目を惹くし、お前に何かあれば儂は正気ではいられない」
「そこをどうにか!」
どうにか堪えて貰えないだろうかと蒼潤は顔を上げて、彼の頬に両手を伸ばす。
踵を上げて彼の唇に自分の唇を軽く触れさせ、かつて明雲が蒼潤に教えてくれた言葉を思い出しながら口にした。
「今夜は、お前の好きにしていいから」
峨鍈が蒼潤を見つめたまま瞳を瞬いた。
正直なことを言えば、明雲が教えてくれた言葉の意味が蒼潤にはよく分からなかった。
うっすらと閨の話だろうということは、教えてくれた時の明雲の様子から分かったが、そもそも蒼潤との閨で峨鍈が己の好きにしていなかった試しがない。
それなのに敢えて『お前の好きにしていい』と告げる意味が分からなかった。
ところが、予想外にも先ほどの言葉は効果を見せ始める。
峨鍈の腕が蒼潤の腰を捕らえ、ぐっと抱き寄せられて体を密着させられた。
「本当に儂の好きなようにしていいんだな?」
「え……。あ、ああ。うん、もちろん」
なぜだろうか。峨鍈がニヤリと笑みを浮かべたので、邸から出るなと言われるんじゃないかっていう予感がした時よりもずっと強く嫌な予感がする。
これは言質をしっかり取った方が良いと蒼潤は判断した。
「明日、城壁の外に出掛けてもいいよな?」
「護衛を多くつける」
「うん。出掛けてもいい?」
「…………ああ」
(よし!)
蒼潤は勝利を掴み取った心地になる。
するりと峨鍈の腕から抜け出すと、彼の私室の中に入り、家宰が文机の上に用意してくれた紙に筆を走らせて、さらさらと柢恵への返事を書いた。
それを柢恵に届けるようにと家宰に頼んだ。
「それじゃあ、俺は西跨院に戻るよ」
「天連。後でお前のもとに行くが、先ほどの言葉を忘れるなよ」
「はいはい。分かってるって」
峨鍈の強い視線を痛いほど感じながら蒼潤は片手をひらひらと振って彼の私室を出た。
△▼
空が蒼くどこまでも澄み渡っている。
ひとつとして雲が浮いていない様子に柢恵は納得の表情を浮かべて蒼潤を見やった。
「なるほど、雩礼か」
「何がなるほどだ。そんな儀式をやったところで本当に雨が降ると思っているのか?」
「降る降らないは関係がないんだ。雩礼を行うことで民の心を掴めれば、王朝にとってそれで良いんだ」
「ああ、絃のやつもそんなことを言っていたな」
蒼潤の皇帝に対する言葉遣いに柢恵は顔を顰める。
「誰かに聞かれたら罰せられるぞ」
「いったい誰が俺を罰せると言うんだ。そんなやつ、この地上にはいない」
「なんだか今日は機嫌が悪いな」
いったいどうしたんだ、と柢恵は蒼潤の傍らに控えている甄燕に視線を向けた。
すると、甄燕はしれっとした顔で柢恵に答えた。
「腰が痛いそうです」
「安琦!」
黙っていろ、と蒼潤が声が上げたが既に遅い。
柢恵は訝しげに蒼潤に振り返った。
「腰?」
「あと、尻でしょうか? 歩き方がぎこちなくて、とても見ていられません」
あー、と柢恵が低く唸るように声を長く漏らし、察したようだった。
蒼潤はもう隠していても仕方がないと思って、高く拳を振り上げ、振り下ろし、声を荒げた。
「あいつ、とんでもねぇよ! 俺はびっくりしたね! あいつ、あんなんでも今まで加減していたんだ。信じらんねぇ。俺は昨夜、体が裂けるかと思った。裂けて死ぬんだと!」
「ごめん、天連。何の話だか知りたくないし、聞きたくない」
「あんなんとか、今までとか言われましても、それがどれほどか知りませんし」
甄燕が柢恵の言葉を継いで言ったので、蒼潤は柢恵を、そして、甄燕を睨み付けた。
「ほんと他人事だよな!」
「他人事ですからね。――そもそも、殿の許可が必要でしたか? いつでも塀を越えて邸を抜け出しても良いと言われていませんでしたか?」
「あっ」
蒼潤はいつだったか峨鍈から言われた言葉を思い出して、小さく声を上げる。
視界が開けたような感覚を覚えて、そうだよ、と甄燕に向かって大きく頷いた。
「律儀に許可なんか取らずに邸を抜け出せば良かったんだ!」
「ですけど、天連様が邸を抜け出しましたら、おそらく即座に殿に報せが届き、殿による大捜索、からの、大追跡、そして、大捕縛が行われると推測できます」
「はぁ!? なんだ、それ!?」
ひとつひとつの言葉に『大』が付いているのは、可能な限りの兵士たちを動員させ、帝都中を騒がして蒼潤を追う彼の姿が想像させられるからだ。
「怖っ!!」
「あらゆる方面に迷惑が掛かりそうだな」
「そうなれば、わたしを含め、皆が他人事というわけにはいかなくなりますね」
「なりますねーじゃない! 恥だから! 邸の塀を越えただけで、そんな大騒ぎになったら、帝都中に恥を晒すようなものだ。絶対に嫌だ!」
「どちらかと言えば、伴侶に逃げられて大騒ぎしたということで、殿の方が痛手を受けるのではないでしょうか」
そうかもしれない……。
邸から抜け出した蒼潤と、そうと知って騒ぎを起こした峨鍈だったら、峨鍈の方がきっと恥ずかしいヤツだ。
だけど、人々は思うはずだ。郡王なのだから邸の奥で大人しくしていれば良いのに、って。
結局のところ、蒼潤が悪い、人騒がせな、といった見方をされるのだから、やはり黙って抜け出さずに峨鍈に許可を求めたのは正解ではないか。
ムッとして押し黙った蒼潤を横目に甄燕が柢恵に向き直った。
「――ところで、柢祭酒。騎兵を見たいとのことでしたが、ご覧になって何か掴めましたか?」
問われて柢恵も甄燕に向き直る。
柢恵は今、峨鍈に命じられて、晤貘軍の騎兵への対策を考えている。深江軍の騎兵を参考にさせて欲しいと言われて、蒼潤は柢恵を城壁の外にある深江軍の調練場に連れて来ていた。
うーん、と柢恵は低く唸りながら、自分の顎に片手を添えた。
「馬を自由に走らせてはいけないってことは分かっているんだ。どうしたら馬の脚を止められるのかってことだよなぁ」
「馬の脚を止めるだなんて、そんなこと馬にしかできるわけがない」
馬は自由だ、と蒼潤は言って胸を張る。
蒼潤にとって馬は自由の象徴なので、そういった言葉が自然と口に出るのだ。
しかし、柢恵にとっては、馬は馬だ。人や荷を運ぶ動物であり、人にとっての移動手段のひとつだった。
「馬の脚って、当然、地形によって速度が変わるよな?」
「そうですね。あと、天候によっても変わります」
「例えば?」
柢恵は蒼潤ではなく、甄燕の方に顔を向けて問い掛ける。
「乾いた砂地よりも草地の方が走りやすいみたいです。ただし、雨が降ると、これが変わるのです。乾燥してサラサラした砂地を走るには力が必要ですが、雨が降り、砂に水が含まれると、砂で脚を取られることがなくなり、走りやすくなります。対して、草地は雨が降ると、濡れた草で滑りやすくなり、速く走れません」
「なるほど。それなら戦場が草地であれば、騎兵の力を雨で削ぐことができるかもしれない」
だからさ、と蒼潤は柢恵の言葉を聞いて、人差し指を立てて左右に振った。
「雨っていうのは、人がどうこうできるもんじゃないんだって」
「だけど、天連は郡王だろう? 郡王は風雨を操る力を持っていると言い伝えられているんだろう?」
ようやく柢恵が自分の方を向いたと思えば、そんなことを言うので蒼潤はムッとする。
「だから、できないって」
「やってみたことがあるのか?」
「ないけど……」
「それなら、やってみなきゃ」
「雩礼を?」
「雩礼もいいけど、戦場でも、ぱぱっとできるようだと助かるな」
(ぱぱっと……⁉)
そんなバカな、と蒼潤は思ったが、柢恵が期待しているような瞳を向けてくるものだから、やってみなければいけないような気がしてきた。
ちらりと視線を流して、自分たちから少し離れた場所で深江軍の兵士たちが調練に励んでいる光景を見やる。
それから、空を仰いで、まったく雲がない様子をもう一度確かめた。
「今、やってみる?」
「やってくれるのか?」
「雨降れって、祈ってみるだけだぞ」
そんなことで雨が降るわけがないのに、柢恵ときたら真剣そのものだ。
これで雨が降らないってことになったら――当たり前のことなのに――柢恵をがっかりさせてしまう気がして蒼潤は胸が苦しい。
蒼潤は柢恵や甄燕から数歩前に踏み出して距離を取ると、胸の前で指を組む。
芳華が蒼潤に対して要求がある時に、こんな風に指を組んでいたなぁ、と思いながら瞼を閉ざした。




