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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
9.葵暦197年の夏から198年の春 葵陽から蒲郡へ

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5.雩礼


雩礼うれい?」


 要するに雨乞いの儀式のことだ。

 蒼絃そうげんが蒼潤に果物を勧めながら、そんな話を持ち出した。


「ここ十数年行われていないが、青王朝では皇帝、或いは、郡王が雩礼を行う。おそらく、わたしが祈っても雨は降らないだろうから、郡王に御願いできないだろうか」


 蒼潤はごくりと喉を鳴らして、サンザシの実を飲み込んだ。


「わたしがですか?」

「今年は雨季の雨量が少ないまま夏になり、いつになく川の水位が下がっていると聞く。このままでは田畑が干上がり、多くの民が苦しむことになるだろう」 


 まるで脅しのようだと思いながら、蒼潤は蒼絃から彼の周囲に視線を流した。

 皇城の奥――宮城の皇帝の寝殿である。宦官か、よほど心を許した臣下でなければ通されない場所に案内された時から、なんとなく蒼潤は嫌な予感がしていた。

 峨鍈の言う通り、蒼絃は蒼潤との仲を広く知らしめたいのだ。

 蒼潤が蒼絃の御世のために天に祈れば、それはさぞかし効果的だろう。


「雨など天の気まぐれでしょう。人が祈ったくらいで降りません」

「それが降るのだ。なぜなら、歴代の皇帝と郡王は人ではないからだ」


 またかよ、と蒼潤は思った。

 生まれてこの方、人以外のものになった覚えがないのに周囲の者たちは皆、口を揃えて蒼潤のことを『人ではない』と言う。

 確かに蒼潤は『龍』だ。しかし、その言葉の真意は『帝位継承権を有する者』を意味する。

 蒼家の者は青龍の末裔だと言われ、それはおそらく正しいのだろうが、だからと言って、青龍らしい力があるわけではなかった。


(まあ、髪は青くなるけどさ)


 どういう仕組みか分からないが、濡れると蒼潤の髪は青く色を変える。の光に照らされても、青く見える時があるという。

 だけど、それだけだ。それが何だというのか。それくらいで人ではないと言われるのは心外だった。


「陛下、畏れながら、陛下とて青龍の末裔ではないですか」

「朕と郡王では、血の濃さがまるで異なる。それに、青龍の血は郡主にこそ継がれていくのだ。『龍の揺籃』から生れた郡王でなければ、龍とは言えない。――そうであるな、魯沙ろしょう


 蒼絃が室の隅に控えた宦官のひとりに視線を向けたので、蒼潤もそちらに目を向ければ、魯沙と呼ばれた老いた宦官が一歩前に足を踏み出して、はい、と甲高い声で答えた。


「古くから伝えられている話によると、先ほど陛下が仰せになった通りでございます」


 ほらな、と言うように蒼絃が蒼潤に振り向いたので、蒼潤は微かに眉を顰めた。

 蒼潤も蒼絃も胡帝の孫である。

 しかし、蒼潤の父は互斡郡王だが、蒼絃の父である礎帝は、即位以前は貞山ていざん県王であった。――貞山県王の生母が恙貴人で、郡主ではないからだ。

 さらに礎帝は郡主ではなく恙家の娘を皇后に据えて、その皇后が産んだ皇子が蒼絃なので、もし蒼絃が帝位に着いていなかったら、蒼絃は郡王でも県王でもなく、単に皇族という身分になっていたはずだ。


 一方、蒼潤の生母は桔佳きっか郡主だ。

 桔佳郡主は、胡帝の同母弟である洪陵郡王とその従妹いとこである蓮景れんけい郡主の娘である。

 互斡郡王と桔佳郡主も従兄妹いとこ同士の間柄であるので、蒼潤の血の濃さは言うまでもない。


「青龍は風雨を司る。故に、蒼家の郡王も風雨を操る力を有する。――そのような言い伝えられているそうだ」

「所詮、言い伝えでしょう。そのような力がわたしにあるとは思えません」

「それでも、郡王に雩礼を行って貰いたい。郡王が雩礼を行ったと聞けば、民の心は安らぐのだ」


 皇族が自分たちを気にかけてくれていると民が思うからである。


「しかし、雩礼を行ったのに雨が降らなければ、がっかりさせませんか?」

「永久に降らないということはないだろう。多少遅れても降ったとなれば、それは郡王の手柄だ」

「なるほど。そうやって言い伝えられていくわけですね」


 それこそが言い伝えの真相なのだろう。

 雩礼を引き受けるということで話が進み、その準備に五日を有するので、その日まで雨が降らなければ蒼潤が祭壇に立って天に祈るということが決まった。

 

「陛下、峨司空が参りました」


 さきほどの魯沙という宦官が室の入口で蒼絃に向かって声を掛ける。

 蒼絃は、ほうっと眉を高く上げて蒼潤を見やった。


「郡王の迎えが来たようだ。それとも、峨司空は朕に報告があるのだろうか」

「殿下のお迎えのようですよ」


 魯沙がにこやかに答えたので、蒼潤は蒼絃に向かって、さっと頭を下げた。


「それでは下がらせて頂きます」

「ふむ。雩礼までの間、酒肉を慎み、女を断ち、身を清めているといい」

「承りました」


 蒼潤が蒼絃の寝殿から出て来ると、石段の下で峨鍈が蒼潤のことを待っていた。

 彼は蒼潤の姿を見て唖然とし、瞳を大きく見開く。

 蒼潤は黒地に銀糸と青糸で龍の刺繍を施された長袍を纏っている。


「お前、その格好で参内していたのか」


 しかし、峨鍈を驚かせたのは長袍ではなかった。

 蒼潤は顔に薄く化粧を施し、長い髪の上半分を結い上げて花簪を挿していた。冠を被らず、残りの後ろ髪は腰まで覆うように流している。

 青い玉を連ねた耳飾りを揺らして蒼潤は峨鍈に歩み寄ると、なんてことのないという顔をして峨鍈の顔を下から覗き込んだ。


「そうだけど? お前がくれた簪がたくさんあるから、使ってやろうと思ってさ」

「使いどころが違うだろう」


 今ではない。そして、ここではない、と言いたげである。

 峨鍈は蒼潤の腕を掴んで強引に歩き出した。


「早く帰るぞ。お前のことを皆が見ている。お前はどれだけ人の目を奪えば気が済むのだ!」


 何を言っているのだと蒼潤は言い返そうと思ったが、彼があまりにも気が急いでいる様子で、しかも、それが怒っているようにも見えたので口を閉ざした。


 今朝、峨鍈は蒼潤よりも先に参内した。

 彼ほど高位に着いたのなら、本来、自分の私邸に職場を儲けることも可能であった。つまり、峨鍈は司空なので、峨鍈邸に司空府を開き、そこで職務を行うこともできるのだ。

 しかし、その場合、司空府に所属する官吏は峨鍈邸と皇城を行き来することになる。


 司空府に関わる膨大な資料は皇城にあって、必要な分だけが峨鍈邸に運ばれることになるので、もし他の資料も確認したいと峨鍈が言い出したら、彼の部下たちは皇城に取りに走らなければならなかった。

 さらに彼の部下たちは、彼の決裁を求めて彼の邸に出向いたり、決裁の出たものを皇帝や他部署に届けるために皇城に上がらなければならない。これがなかなかの手間で、時間も有する。

 であるならば、峨鍈が皇城に出向いて仕事をする方が幾分も効率的であった。


 故に彼は、私邸の執務室で仕事をする日がまったくないわけではないが、ほとんどの日を参内し、朝堂院の一角に開いた司空府で執務を行っていた。


 一方、蒼潤は午後になってから参内し、まっすぐ蒼絃の寝殿に通された。

 蒼絃は午前中に執務を行い、午後は比較的自由に過ごすことが多いため、その時間に蒼潤が呼ばれたのだ。

 参内することは昨夜すでに峨鍈に伝えてあって、共に帰れれば良いなと思っていたので、峨鍈が迎えに来てくれたと聞いて蒼潤は嬉しかった。

 ところが、彼は蒼潤を見るなり不機嫌になって、瑞光門を出ると、迎えの馬車に蒼潤を押し込んだ。


「おい、俺に対する扱いが乱暴だぞ!」


 すぐに彼も馬車の中に乗り込んで来たので、蒼潤はよろけた体を起こして彼を睨む。

 すると、峨鍈は蒼潤の顎を掴んで、自分の方に顔を引き寄せた。


「お前が綺麗過ぎる!」

「はぁ!?」


 彼の顔が近付いて来て、これは絶対にされるなと思った蒼潤は慌てて両手を彼の胸について、腕を伸ばして突っぱねた。


「俺、雩礼を行うことになった」

「何?」

「それで、身を清めなければならない。だから、こういうのはダメだ」

「構わん」

「はぁ!?」


 彼が蒼潤の手首を掴んで自分の胸の前から退け、蒼潤の体に圧し掛かって来る。

 ガタン、と馬車が大きく揺れて、その後、カラカラと車輪が回り出した。その音を蒼潤は峨鍈に押し倒されながら聞く。


「女を断てと言われただろうが、男を断てとは言われていないはずだ」

「普通のやつは、男とは交わらないからな!」

「お前は綺麗だ。実に美しい。わざわざ清める必要はないだろう」

「それはお前の見解だ。天は、そうは思わないだろう」

「雩礼まで何日だ? それまでお前は我慢できるのか? 儂に断りもせず勝手に引き受けおって」

「それは悪かったよ。絃と話しているうちに、気が付いたらそういうことになっていたんだ」

「陛下はお前より弁舌が立つ。駆け引きにも慣れている」


 確かに、と蒼潤は思い至る。

 蒼潤は互斡の地でのびのびと育ち、なんなら民にも混ざって裏も表もなく本音でぶつかり合うような人付き合いをしてきたが、蒼絃は皇城で百戦錬磨の大人たちに囲まれて、含みばかりある言葉を耳にして生きてきたのだ。

 蒼潤が蒼絃に敵うわけがなかった。


「だから、お前ひとりで陛下と謁見させたくないのだ」

「お前、それ昨晩は言っていなかったじゃないか」


 後出しはズルいと非難すれば、峨鍈は蒼潤の耳を指先で触れて口づける。


(あーあ)


 強引な口づけを受けて蒼潤は諦めの感情が沸く。

 だって、彼の口づけは何事にも代えがたいくらいに気持ちが良いし、好きだ。

 抗うのをやめて蒼潤は彼の首に両腕を回した。


(身を清めるのは、明日からでいいか)


 そんなことを思っていても、きっと明日になればやはり彼に籠絡されて、翌日からにしようと思うのだ。

 馬車が峨鍈邸の正門で止まるまで蒼潤は彼に口づけを強請り続けて、呼吸を乱しながら馬車を降りた。

 邸に入ると、家宰かさいの出迎えを受ける。

 家宰はまず峨鍈に言葉を掛けてから、共に峨鍈の私室の前まで歩き、そこで蒼潤に文を差し出した。



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