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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
9.葵暦197年の夏から198年の春 葵陽から蒲郡へ

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4.胸が壊れそうだからっ!


 一刻も早く会いたいと思っていたはずなのに、まともに会うことができなかった自分が恨めしくて、目頭が熱くなる。

 一刻も早く会いたかったから、私室で待っていることができずに彼のもとに駆けつけたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

 女の衣なんかを着てしまったから?

 彼の好みの色の衣を身に纏ったから?

 彼がくれた簪を挿したから?

 そんな自分が恥ずかしくて、居たたまれなくなってしまったからだ。


「うっ……」


 こんなつもりじゃなかった。そう思って、蒼潤は悲しくなる。

 こんなことなら、彼が喜ぶかもしれないなんて思わずに、いつも通りに過ごせば良かったのだ。

 だいたい、なんで自分は彼を喜ばせたかったのか、そんなことさえ分からない。


「う…っ。……ううっ…」

「天連様、泣かないでください」

「…泣いてなんか……っ…」

「殿が去ったのが、そんなに悲しいんですか?」


 自分で追い払ったくせに、とは芳華は言わない。

 だけど、蒼潤はそう思っていて、いったい自分が何をしたかったのか分からない。


「……悲しい。……それに、寂しい」

「そうですね。寂しいですよね。天連様は殿に会えなくて寂しいんです」


 うんうん、と蒼潤が頷けば、芳華はそんな蒼潤の肩をぽんぽんと軽く叩いて、すくっと立ち上がった。


「大丈夫です、天連様。扉を開ければいいです。それで万事解決です!」

「……は?」


 芳華の言葉に蒼潤の涙がピタッと止まった。いつの間にか徐姥たちは室の中に戻っている。

 中庭には蒼潤と芳華だけで、芳華は門扉に近付くと、閂を外して、えいっという掛け声と共に大きく門扉を開いた。

 開いた門扉の外には、峨鍈が立っている。

 その姿を見て、蒼潤は地べたにしゃがみ込んだまま呆気に取られた。


「お、お前、戻って行ったんじゃ……」

「去ったのは、安琦だ」


 見れば、甄燕の姿がない。なんてこった! と蒼潤は口をあんぐりと開けた。

 それでは私は下がります、と芳華がスチャッと片手を上げて室の中に引っ込んで行ったので、中庭に蒼潤は峨鍈と共に残された。


「天連」


 峨鍈が蒼潤の前で片膝を着く。


「お前はおれが好きなのだ。早く自覚を持て」

「なっ、何を言ってんだ。どうかしてる!」

「潤……」


 峨鍈が蒼潤の左手を取って、その手の甲に己の唇を押し当てた。

 それだけで蒼潤の胸は破裂するかと思うくらいに高鳴る。わあっと顔が熱くなって、峨鍈のことを突き飛ばしたくなった。


「ダメだ。触れるな」

「何?」

「胸が壊れそうだからっ!」


 だけど、突き飛ばすわけにはいかないから、蒼潤は弱々しい声を上げて懇願するだけで精いっぱいだ。


「昨晩はもっと深いところまで触れ合っただろう?」

「昨晩と今は違うんだ。お願い。今はダメだ。壊れてしまう……」

「嫌だ」


 そう短く言って峨鍈は蒼潤の肩を掴む。ぐっと彼の方に引き寄せられ、抱き締められた。

 彼の手が蒼潤の首筋に添えられ、彼の指先が蒼潤の耳を掠める。


(ああ)


 その後は口づけだと察すると、それは期待に代わり、胸が大きく震える。

 欲しい、と一瞬でも思ってしまえば、欲しい、欲しい、と強く望んで、それしか頭に残らなくなった。

 

(口づけろ。頼むからっ!)


 蒼潤が瞼を閉ざせば、峨鍈の顔が近付いて来て、ふたりの唇が重なる。

 胸の中を温かさが満たして、蒼潤は幸せに包まれた。


(――好きだ)


 彼の言う通りだと思って、蒼潤は薄く瞼を開く。

 触れ合っている唇が確かに彼のものだと分かると、安堵感を覚え、それがまた心地良い。

 ずっとずっとそうしていたくて、もう一度、蒼潤は瞼を閉ざした。


「潤……」

「あっ、ダメ。離すな。もっと。……もう1回」

「ああ」


 瞼を閉ざしたまま峨鍈の首に両腕を回して、体を彼の体に添わせる。

 彼が蒼潤の望むままに与えてくれるから、蒼潤はそれをすべて受け入れて、満たされて溢れるまで求めた。

 ちょっとこれ以上は中庭で致すのは憚れるというところになって、どちらともなくふたりは顔を離す。

 乱れた息を整えていると、峨鍈が蒼潤の背中を撫でながら言った。


「ほら、認めたらどうだ。お前は儂が好きなのだ」


 そうなのだろうけれど、そんな風な言われ方をされたら、蒼潤はすごく癪だ。

 むっと眉根を寄せて答えた。


「ああ、好きだぞ。お前の口づけがな」


 素直になんかなれるわけがなくて、お前自身じゃないと言って蒼潤は顔を逸らした。

 すると、峨鍈は、ははははっと上機嫌そうに笑って蒼潤を抱えて立ち上がる。

 口づけ以外も好きだと言わせてやると言って、蒼潤を抱き抱えたまま蒼潤の私室に向かって中庭を進んだ。


 蒼潤は峨鍈の肩に頭をもたれさせて、自分のことを軽々と抱き上げて運ぶ彼のことを頼もしく思う。

 いつだったか、彼が言っていた通りに、彼の腕の中にいれば蒼潤は安全なのだ。そう心から思えた。


「琳と朋を入宮させたら、琲州に移ろう」

「琲州? 琲州のどこ?」

郡だ」


 なんだ裴郡ではないのか、と蒼潤は少しだけがっかりした。

 蒲郡には峨鍈の従弟の夏葦かいがいる。

 峨鍈はくつを脱いできざはしを上がると、蒼潤の履も脱がして階の下に放った。


石塢せきうも赴郡から呼び寄せる」

「本当に!? 爸爸ちちうえと会うのは何年ぶりだろう!」

「随分と嬉しそうだな」

「嬉しいに決まっている! 大哥あにうえとも会えるだろうか?」

「では、赴郡城に寄ってから蒲郡に向かうようにしよう。子則しそくには赴郡城を任せようと思っていたが、お前が望むなら共に蒲郡に連れていく」

「嬉しい!」

「お前の望みは何でも叶えてやる」


 蒼潤のご機嫌な様子に峨鍈は満足顔になって、蒼潤の私室に入り、帘幕をくぐって臥室に移動した。


「……でも」


 牀榻の中に降ろされた蒼潤は、急に不安に駆られて表情を曇らせた。


「どうした?」

「爸爸も大哥も、俺のことを知ってしまったんだろう? 俺が本当は郡王だということを。そしたら、もう俺のことを息子や弟だとは思ってくれない」


 そのことかと峨鍈は頷いて、彼も牀榻の中に入って来る。

 蒼潤の頰に手を伸ばし、涙の跡を拭うように触れた。


「案ずるな。今まで通り接して良いと儂から話しておく。陽慧ようけいと同じだ。お前のことを知っても、陽慧は変わらずお前の友だろう?」

「うん」


 柢恵は夏昴の正体が蒼潤で、己の主の伴侶であり、青王朝の郡王だと知ると、これまでの蒼潤に対する己の言動を思い出して、とても正気では居られないという顔をした。

 それから僅かな間、蒼潤に対してぎこちない態度になったが、峨鍈がこれまで通りを命じたことと、蒼潤があまりにも変わらない態度で柢恵に接し続けたことで、柢恵は蒼潤に対してへりくだるのがバカバカしくなったらしい。

 すぐに元の接し方に戻り、今も彼は蒼潤の良き友であった。


「陽慧には晤貘の騎兵への対策を考えさせている」

「じゃあ、琲州には陽慧も行くのか?」

「ああ」

仲草ちゅうそうは?」

「仲草には陛下の側にいて貰わねばならん」


 陛下と言えば、と峨鍈は蒼潤の体に覆い被さりながら思い出したように言った。


「陛下がお前に会いたいそうだ」

「会いたい? 何か用があるんだろうか?」


 んー、と喉を鳴らしながら彼は蒼潤の唇に軽く口づける。


「用があるとは聞いていないな。単に顔を合わせて話がしたいらしい」

「話? 世間話か?」

「要は、深江郡王との仲が良好であることを世に知らしめたいのだろう」


 峨鍈が蒼潤の襟元を大きく開いて露わになった鎖骨に唇を押し付け、強く肌を吸った。


「陛下は郡王でもなければ、県王ですらない。郡王はもはやお前とお前の父君のみだが、県王は各地に何人もいる。そいつらが帝位を主張して来ないのは、ひとえに、お前が陛下のもとにいるからだ」


 蒼潤は峨鍈にされるままになりながら瞳を瞬く。

 つまり、郡王である蒼潤が皇帝である蒼絃そうげんに従っているのだから、県王たちは黙っているしかないということなのだ。

 蒼潤が理解を示すと、彼は蒼潤の髪から簪を抜き取って、臥牀の上に次々に置いた。


 それらがかつて自分が蒼潤に贈った物であることに、彼は気付いただろうか。

 女の衣も久しぶりだというのに、あっという間に彼に脱がされてしまうし、もし彼が気付いていないのなら蒼潤はかなり口惜しい。

 青ではなく、彼の好みに合わせて赤い衣を身に纏っていることにも何か言葉が欲しかった。

 む、と眉を顰めると、蒼潤の胸元に顔を埋めていた彼が蒼潤の顔を覗き込んでくる。


「どうした?」

「いや。――それで、俺はいつ参内すればいいんだ?」


 自分が蒼絃と仲良しごっこをするだけで県王たちが大人しくなるというのなら、いくらでもやってやろうではないかと、蒼潤は峨鍈の首に両腕を巻き付けた。


「いつでも構わん。明日でも良いし、明後日でも」

「なら、明日」

「気が早いな」

「明日でも良いって、お前が言ったんだぞ。それに俺はいつも暇だ」

「分かった。宮中に報せを送っておく」

「せっかくだから、あいつに何か持って行ってやろうかな。きっとあいつは露店の料理なんか食べたことがないはずだ」

「食い慣れない物を食わせて腹を壊されたらかなわん。やめておけ」


 潤々、と峨鍈が蒼潤を呼ぶ。

 彼は蒼潤に跨ったまま上体を起こして、袍とはだぎを脱いだ。


「そろそろこちらに集中してくれ」

「お前が話し出したんだ。それに――」


 まだ日が高い、と言いかけた口を口で塞がれて蒼潤は彼を受け入れる。

 そんな格好をして自分を誘ったのはお前だと、彼が蒼潤の耳元で囁くように言ったので、蒼潤は顔に火かついたような思いがした。

 


 ▽▲


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