3.どうかしている!
「俺、今が一番幸せかも!」
「そうですよ! こんなにも愛されて、お肌がぷりぷりに潤ってますし、本当に羨ましいです!」
「は? ぷりぷり?」
「殿に愛されて、天連様はますます綺麗になられました。お化粧ののりがまったく違います。羨ましい! 本当に羨ましい!」
「春蘭、お前……」
蒼潤は思い出す。
芳華と自分は同じ年の生まれだ。蒼潤が20歳なら、芳華も20歳なのだが、女の20歳は男の20歳とはわけが違った。
そろそろ芳華に嫁ぎ先を見付けなければならないと思ったのは、昨年の春頃のことだ。
なんということか、何もしないまま1年が過ぎてしまっている!
これはマズイと、蒼潤は焦って芳華の両手を掴んだ。
「想いを寄せている相手はいないのか?」
「えっ、私ですか?」
「そうだよ、お前だよ。俺のことを羨ましがっていないで、お前は自分のことを考えろ。好きなやつがいるのなら教えるんだ。どこの誰が好きなんだ?」
「天連様、白粉が塗れません。動かないでください」
芳華は問いには答えず、蒼潤の手から自分の手を引き抜くと、蒼潤の顔に白粉をはたく。
そして、にっこりとして言うのだ。
「私は嫁ぎません。ずっと天連様のお側にいます」
いやいやいやいや、と蒼潤は心の中で芳華の言葉を否定する。
これは本当にマズイ。
蒼潤としてはもちろん芳華にはずっと側にいて貰いたいが、だからと言って、芳華が自分の側で枯れ果ててしまうのは嫌だ。
姉妹のように育ったのだ。芳華には自分以上に幸せになって貰いたい。
(徐姥に相談だな)
芳華の母親である徐姥なら、芳華の本当の気持ちを知っているかもしれない。
どのみち、徐姥と相談しなければ、芳華の嫁ぎ先を決めることはできないのだから、芳華がいない時にでも徐姥と話してみようと蒼潤は決意した。
身支度を整えた蒼潤は遅い朝餉を取り、芳華に話し相手をして貰いながら過ごす。
午後になると、甄燕が蒼潤のもとにやって来たので、深江軍に関する報告を受けた。
維緒軍との戦いで深江軍にも負傷者が出た。
幸い、死者は出なかったが、深手を負った数人が除隊して帰郷することになった。彼らは見舞金を受け取って、先程、葵陽を発ったと甄燕は告げた。
ちなみに、蒼潤の幼馴染である郭元たちは無事である。今日と明日は休暇を与えられ、明後日から調練を開始することになっていた。
甄燕は蒼潤を訪ねてきても、階を上がることはないので、中庭に立ったまま回廊に出て来た蒼潤を見上げて話している。
「ご存知ですか? 蒼刺史が裴城で姉君と婚礼を挙げました」
ああ、と蒼潤は素っ気なく返事をした。
1年前だったら、裴城に乗り込んでやると大騒ぎしているところだったが、姉の蒼彰は今年で22歳だ。
婚姻を結べる郡王がいないのならば、もはや誰と婚姻を結ぼうと彼女の自由だった。
「先日、『お前が血迷って男色に走ったせいで龍が滅びるのだ』という内容の文が届いた」
「相変わらず辛辣ですね」
「返事を書ける気がしない」
「書かなくても宜しいのでは? それで縁が切れてしまうとは思えません。また何か御用があれば文が届くでしょうし、天連様から書きたくなったのたら、素知らぬ顔で書いて届けさせれば良いのです」
甄燕の言葉に、うん、と頷いて蒼潤は姉に思いを馳せた。
蒼彰が選んだ男は、蒼邦である。
昨年、峨鍈によって琲州刺史に任じられて、どうやら今は裴城にいるらしい。
裴城のある裴郡は琲州の東の端で、随州と接している。
随州には晤貘が居着いていて、どうやら晤貘は随州の西の端の珂原城にいるらしかった。
裴城から珂原城までの距離はわずか3日だ。裴城が対晤貘の戦いの最前線になることは疑いようになかった。
「姉上はともかく、麗が心配だ。麗を葵陽に呼べないだろうか」
「姉君が手放さないでしょう」
そうだろうな、と蒼潤も思った。
蒼麗の美しさは幼い頃から蒼彰の大切な駒だ。きっと、万が一、蒼邦が晤貘に破れたり、囚われるようなことがあれば、蒼麗を晤貘との交渉材料に使うつもりなのだろう。
黄州蔀郡の維緒のことが片付かないまま、いよいよ随州の晤貘との戦いが始まろうとしていた。
「天連様」
不意に呂姥の声が響き、蒼潤は視線を甄燕から彼女の声が聞こえた方へと向ける。
どこに出かけていたのか、呂姥が門から入って来て中庭を進みながら蒼潤に言った。
「殿がお帰りになられたようですよ」
「えっ、もうそんな時間なのか」
蒼潤は肩を大きく跳ねさせた。
「呂姥、玖姥、ちょっと見てくれ。俺の化粧、崩れていないか?」
「大丈夫ですよ」
「髪は?」
「大丈夫です」
「この格好、変じゃないかな。春蘭は完璧だって言ってたんだけど」
「完璧です、天連様」
室の中で控えていた玖姥と、階を上げってきた呂姥が顔を見合わせてクスクスと笑い声を立てた。
「それなら、俺、あいつのところに行ってくる。安琦、お前も来い」
「いえ、わたしは遠慮したいです」
「なんでだよ?」
遠慮したいというよりも明らかに迷惑そうな顔をして甄燕が言うので、蒼潤はムッとする。
すると、芳華が玖姥の後ろから、ぴょんと跳ねるように飛び出して来て、はーい、はーい、と手を上げた。
「私が一緒に行きたいです! 天連様と一緒に殿をお出迎えしたいです!」
「お出迎え?」
「殿、今日もお仕事お疲れ様です。お食事にされますか? 湯殿に向かわれますか? それとも先に天連様ですか? ――って言いたいです。うふふ」
「……」
「……」
蒼潤が無言で芳華を見やれば、隣で甄燕も無言で芳華を見つめている。
「分かりました。わたしがご一緒します。でも、天連様がわざわざ出迎えに行かれなくとも、殿がこちらに来られると思いますよ」
「そうかもしれないけどさ。でも、あいつが来るのを待っているだけなんて嫌なんだ」
そう蒼潤が言うと、芳華がきゃああああーっと叫び声を上げ、呂姥と玖姥がふふふふっと笑みを零した。
それが、なんとも恥ずかしく思えて、蒼潤は甄燕を連れて西跨院の門を飛び出した。
女の衣は動きにくい。とくに駆けるには適していなくて何度か足が縺れそうになったので、南跨院の門が見えたところで蒼潤は駆けるのをやめた。
「安琦。俺の髪、乱れてない?」
「なぜそんなことを気にするんですか? 今まで気にしたことなんてなかったじゃないですか」
「だって……」
蒼潤は言葉に詰まる。
甄燕の言う通りだ。そう思ったら、とたんに蒼潤は自分の姿が恥ずかしくなった。
「俺、どうしよう。変だ」
「天連様?」
「こんな格好をして恥ずかしい。やっぱり私室に戻ろう」
「えっ、ここまで来て戻るんですか?」
峨鍈の私室まで目と鼻の先である。
甄燕はまったく理解できないという顔で蒼潤を見つめてきた。
「せっかくここまで来たんですから、殿に会ってから私室に戻ったらいいじゃないですか」
「ダメだ。だって、俺、こんな格好だし」
「殿に見せようと思って、その格好をしているんですよね?」
「違う! いや、違くなくて。そうなんだけど……、でも、俺、そんなつもりなくて。俺はただ、あいつが喜ぶんじゃないかなって思ったんだ」
「喜ぶと思いますよ。殿の好みの色を身に着けて、殿が贈られた装飾品を着けていらっしゃる。それに今まで一度だって、天連様が帰宅された殿を出迎えられたことなんてなかったじゃないですか」
甄燕に言われれば言われるほど、蒼潤は顔を青ざめさせた。
「やっぱり、俺、変なんだって! どうかしている!」
蒼潤が拳を握って大声を張り上げた時だった。
何を騒いでいる、と訝しげな低い声が響く。蒼潤はびくんと体を跳ねさせて後ろを振り返った。
「伯旋!」
「……天連か」
峨鍈は蒼潤の姿を見ると、大きく目を見開いて、ほお、と声を漏らす。
「美しいな」
吐息交りにそう言われて、蒼潤は火が灯ったように顔がボッと赤くなった。
峨鍈が歩み寄って来る。おかえり、と言おうか、お疲れ、と言おうか。芳華が言ってみたいと言っていた言葉を思い出して、蒼潤は胸がドキドキと高鳴って壊れてしまいそうだった。
峨鍈が近付いて来る。あと10歩。あと9歩。蒼潤は目の前がぐるぐると回り出す。
あと8歩。あと7歩。あと6歩……。
「もう……っ、もう無理だ!」
息ができないくらいに体が震えてしまって、蒼潤はその場にいられなくなった。
踵を返して峨鍈に背を向けると、衣をたくし上げて一目散に逃げだす。
「おいっ、待て。天連!」
すぐさま追ってきたのは甄燕で、峨鍈はしばらく呆気に取られた表情を浮かべてから、はっと我に返って追って来る。
「いったいどうした?」
「天連様曰く、変なんだそうです」
峨鍈の問いに甄燕が答えている声が聞こえた。
蒼潤は来た道を駆け戻り、西跨院の門の中に駆け込むと、大慌てで門扉を閉じて閂を通した。
門扉を背にして蹲り、息を整えていると、峨鍈と甄燕が門扉の外にたどり着いた気配がする。
「おい、開けろ。どういうつもりだ?」
ガタガタと門扉を開けようとする音が響いて、蒼潤は頭を左右に振った。
「今日はもう会えない!」
「なぜだ? 扉を開けて顔を見せてくれ」
「嫌だ! 開けない! 今日は自分の私室で休め」
「天連!」
何事かと、騒ぎを聞きつけた徐姥たちが室から出て来る。先程、見送ったばかりの蒼潤が駆け戻って来て、西跨院に立て籠っている姿を見て彼女たちは皆、心配そうな表情を浮かべた。
「天連様、どうかされたのですか?」
芳華が蒼潤のもとに駆け寄って来て、蒼潤と同じようにしゃがみ込んだ。
蒼潤は、ぎゅっと芳華の袖を掴んで縋りつく。
「どうしよう。俺、変だ。それにすごく恥ずかしい」
「天連様は変じゃないですよ?」
「でも、ぜんぜん俺らしくなくて。自分でも自分がいったい何をしているのか、何がしたいのか分からないんだ」
「うーん」
芳華は小首を傾げて考え込む仕草をした。
「とりあえず、殿には西跨院から去って欲しいですか?」
「……うん」
今はとても顔を合わせられない。
そう告げると、芳華は蒼潤の隣にしゃがみ込んだまま門扉に向かって大きな声を上げた。
「そういうことなので、殿、お帰り下さい!」
普段の芳華からは想像できない大胆さだ。
あまりの無礼に、蒼潤の方が背筋が冷えてしまう
峨鍈が気分を害したのではないかと、息を凝らして門扉の外の気配を探っていると、足音が響いて、気配が遠ざかっていくのを感じた。
芳華の言葉で峨鍈が本当に去って行ってしまったのだと分かり、とたんに蒼潤を寂しさが襲う。
(なんで……っ)




