1.待ち遠しくて、恋しい
傷を負った峨鍈のために馬車が用意された。
ところが、彼が命を落とした味方を全員、葵陽に連れ帰り、彼らの故郷に送ると決めたので、亡骸を回収し、清め、麻の衣に着替えさせて槥に納める作業に手間取り、苑推から発つ時には既に彼は馬に乗れるようになっていた。
とは言え、無理はならないと長時間の騎乗は避けて、馬車の中に籠もり、葵陽から届けられた書状に目を通しながら帰路を進んだ。
馬車の後方を槥を積んだ槥車が何台も連なっている。
青王朝の権威が失墜する以前は、戦死者は必ず故郷に帰されていたので、このような光景は珍しくなかった。
だが、各地で戦乱が続き、戦死者が増えると、槥車の運搬が困難になってくる。すると、戦場で野ざらしになったり、戦死した土地で埋葬されることも増えていた。
そのため、峨鍈軍の後方を槥車が連なっている光景は人々をぎょっとさせ、峨鍈の敗戦を強く印象付ける結果になった。
しかし、同時にかつての青王朝と同じ行いは、遺族と兵士たち、その家族の心を掴み、峨鍈は彼らの支持を得る。
こうして、峨鍈が蔀郡から葵陽に戻ってきた時には、既に季節は夏の盛りを迎えていた。
蒼潤も峨鍈と共に葵陽に戻り、久方ぶりに峨鍈邸に帰ると、梨蓉たちの出迎えを受けた。
彼女たちはまず峨鍈を取り囲んで、怪我の具合を案じて問い掛ける。
すると、峨鍈は彼女たちに笑みを浮かべて答えた。
「問題ない。ほとんど治っている」
事実、傷口は塞がっており、しばらく安静にしていたおかげで、その傷口が再び開く心配は無さそうだ。
薬湯だけは続けるべきだが、通常の生活をして良いとのお墨付きを薬師から貰っていた。
「矢傷のせいで、長いこと天連に我慢させられた」
「あらまあ。ずっと一緒にいらしたのに、それではお辛かったでしょうね」
梨蓉が口元を片手で隠してすべて見通しているかのように言ったので、他の側室たちもくすくすと笑う。
「天連殿もご無事のお帰りで何よりです」
「うん」
「少し背が伸びられましたか?」
「え、本当? どうだろう? 伸びてたら嬉しい」
「変わらんだろう」
峨鍈が蒼潤の頭の上に腕を乗せて梨蓉の言葉を否定する。
ムッとして蒼潤が言い返してやろうとした時、峨驕が邸の門をくぐって足早にこちらにやって来た。
「母上。ただいま帰りました」
「驕!」
梨蓉の関心は瞬時に峨鍈や蒼潤から息子の峨驕に移った。
自分のもとに戻ってきた息子の肩に触れると、その体を上から下に見回して声を震わす。
「苑推でのことを聞きました。大変でしたね」
「いえ、俺は何もできませんでした。手柄を立てるつもりで行ったのですが……」
「無事に帰ってきたこと、それこそが大手柄ですよ」
息子をひとり亡くしている梨蓉のためにも峨驕を無事に連れ帰ることができたことに蒼潤は安堵した。
天連、と峨鍈に呼ばれて蒼潤は彼に振り向く。
「先に西跨院に戻れ。儂は梨蓉と嫈霞に話がある」
「分かった」
梨蓉と嫈霞に話ということは、琳と朋の入宮についてだろうか。
明雲や雪怜も察して峨驕の袖を引く。
「桓が、驕殿の初陣の話を聞きたいと言って室で待っております。話してやって頂けますか?」
「寧にも聞かせてやってください」
「寧はまだ聞いても分からないかもしれませんよ」
「それでも、寧は驕殿がお好きなのですよ。意味が分からなくとも、にこにこと機嫌が良くなるのです」
「それなら寧にも話してあげます」
「では、参りましょう」
彼女たちが峨驕を連れて邸の奥に戻って行ったので、その後ろ姿を見送ってから峨鍈が蒼潤の耳元に顔を寄せて囁いた。
「夜、お前のもとに行くから、夕餉を済ませて臥室で待っていろ」
蒼潤は、うわっと自分の顔が赤らむのを感じた。
声を発することなく頷くと、その顔を誰にも見られないうちに駆け出す。
西跨院まで一息に駆けて、その門をくぐると、徐姥たちが蒼潤の帰りを待ちわびていた。
彼女たちはすぐさま蒼潤を取り囲んで、怪我はないか、と尋ねてくる。
「湯殿の支度が整っております」
「夕餉もすぐにご用意できます」
呂姥と玖姥が競うように言ったので、蒼潤は先に湯殿をと答えた。
峨鍈が東廂房を改築して湯殿を建ててくれた時、なんて贅沢なと思ったが、広々とした浴槽にたっぷりと湯を溜めて入浴できるのは、本当に嬉しい。
さらに言えば、この数か月は濡らした手拭いで体を拭くだけだったので、その嬉しさも倍増だった。
髪も体も綺麗に洗うと、気分もさっぱりと心地良くなる。
呂姥に濡れた髪を拭いて貰いながら夕餉を取った後、芳華にせがまれてこの数ヶ月の出来事を話して聞かせていると、芳華が蒼潤に飲み水を差し出しながら小首を傾げた。
「どうかされましたか?」
「えっ?」
「そわそわしていらっしゃるので」
「ああ、うん。……あいつが来るって言ってたのに、なかなか来ないから」
「殿がこちらにいらっしゃると仰ったのですか?」
あら大変、と言ったのは玖姥だ。彼女は夕餉の片付けを急ぎ出す。
徐姥は何も言わずに香炉を焚き始めた。
呂姥が蒼潤の髪を櫛で梳き、芳華は蒼潤の顔を見ながら、ふふふっと笑った。
「なんだよ?」
「殿が来てくださるのが、待ち遠しいのですね」
「は? ――いや、違う。待ち遠しいっていうか、あいつが怪我してからずっと一緒にいたから、傍にいないのが変な感じがするだけだ」
「ずっとご一緒だったんですね!」
「だって、あいつが目の届くところにいろって、うるさいから。それなのに、邸に帰ってきたとたんに……」
「とたんに?」
「あ、いや、何でもない」
蒼潤は両手を振って、取り繕う、
邸に帰ってきたとたんに彼の方から蒼潤から離れていった。それが何とも腹立たしいと、危うく芳華に愚痴るところだった。
だが、芳華は蒼潤が言おうが言うまいが関係なく、蒼潤の気持ちに敏感だった。
胸をそらして、人差し指を立てる。
「天連様、そういう気持ちを『恋しい』と言うんですよ」
「はぁ?」
「恋しいです。天連様は殿に恋焦がれているんです」
「ないない。気色悪いことを言うなよ」
「でも、殿のことを待っていらっしゃるんですよね?」
「来るって言うからだ。――もういい。疲れたから休む」
蒼潤は芳華の話が面倒になって、立ち上がる。
蒼潤の髪を梳いていた呂姥が苦笑を漏らし、芳華の背中に軽く手を添えて言った。
「それでは私たちは下がらせて頂きます」
「うん。徐姥も玖姥も下がっていいよ」
「分かりました。臥室の燭台を灯しておきましたので、火に気を付けてくださいね」
一礼して退室していく徐姥たちを見送ってから、蒼潤は臥室に移動した。
徐姥の言う通り、牀榻の横の卓上に炎の灯った燭台が置かれている。
そのおかげで臥室の中は、窓から差し込んでくる月明かりだけの時よりも随分と明るかった。
床帳を掻き分けて牀榻の中に潜り込む。ごろんと仰向けに転がると、天蓋の内側を見上げた。
こうして独りでいると、夜はひどく静かだ。
その静けさが蒼潤の胸をざわつかせて、不安を煽る。
(遅い)
来るって言ったくせに、このまま来ないのではないだろうか。
おそらく梨蓉のもとで夕餉を取ったはずだ。子供たちから順に挨拶を受けて、久方ぶりの家族団欒を楽しんでいるのだろう。
だとしたら、邸の西の奥にある蒼潤のもとに足を向けるのが億劫になってしまっても仕方がない。
(仕方がない)
そう思ったら胸の中に寂しさが溢れる。
寂しさを自覚すれば、次に悔しさが湧いて蒼潤は不貞腐れた気分になった。
(来るって言ったくせに。俺のこと好きだって、愛してるって言ったくせに、なんで俺のことを放っておくんだよ!)
もういい、寝てやると瞼を閉ざしたが、腹が立ち過ぎていて眠れる気がしなかった。
蒼潤はぶんぶんと頭を左右に振る。
(いやいや、違うだろう! 梨蓉たちは久しぶりに伯旋と会えたんだ。今夜くらい梨蓉たちと過ごすのは当然じゃないか)
寂しいだの、腹立たしいだの、そんなことを言ってはならない。
蒼潤は臥牀から足を下ろして、牀榻の中から出る。
何やら涙が出てきそうな悲しい気持ちになりながら蝋燭の炎を吹き消そうと、卓上の燭台に歩み寄った時、その炎がゆらりと揺らいだ。
カタンと中庭で音が鳴る。風の音だろうか。
しかし、足音が聞こえてきたので、蒼潤の胸はドキリと高鳴った。
その足音が近づいて来て、階を上がり、徐姥たちが閉ざした蒼潤の私室の扉を開く。
帘幕を押しやって気配が臥室の中に入って来た。蒼潤は跳ねるように臥室の入口に振り向いた。
「……来たのか」
「行くと言ったぞ」
「遅い!」
「すまん。だが、そんなに待たせたか?」
「待ってない。お前のことなんか、ちっとも待ってない!」
彼が苦笑を浮かべて蒼潤に歩み寄ってくる。正面に立つと、蒼潤の頰に触れた。
指先で耳の縁をなぞられて、蒼潤は胸が大きく震える。彼を見上げて僅かに唇を開いた。
彼の怪我は治ったし、邸にも帰ってきた。体も清めて、臥室で2人きりになったなら、もうやることはひとつしかないではないか!
それをしっかりと期待している自分がいて、そんな自分を浅ましいと思いつつも、もうどうしようもない。早く早くと彼を求めてしまう。
不意に峨鍈がフッと笑ったので、蒼潤は眉を顰めて彼を睨んだ。
「なんだよ?」
「そんなに儂とやりたいのか? 待っていたのだろう?」
「……そうだよ」
ここで意地を張っていても仕方がないと思って蒼潤は素直に答えた。
だって、彼の顔を見たとたんに寂しさも、それを堪らえようと思っていた気持ちも消えて、今は、ただ、ただ、彼に触れたい。触れられたい!
「お前とやりたくて待ってた。なのに、お前が遅いから腹立たしい! ――だいたい、お前はどうなんだよ?」
すると、峨鍈も唇の端を引き上げてニヤリと笑みを浮かべた。
蒼潤の耳元に顔を寄せると、囁くように言う。




