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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
8.葵暦197年の春 蔀城の危機

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12.初めては、青臭さと苦さのある口付け


「伯旋、俺……」


 どうやら蒼潤の告白はまだ続くようだ。蒼潤は少しばかり言い淀んで身じろいだ。

 何かと思い、峨鍈が眉を顰めると、蒼潤はぎゅっと峨鍈の左腕を掴んで言った。


「お前と、やりたい!」

「なんて?」


 うっかり聞き返せば、蒼潤は苛立ったように同じ言葉を繰り返す。


「だから、俺、お前とやりたい!」

「天連。お前、こちらを向け」


 肩を掴んで無理やり振り向かせれば、蒼潤の顔は真っ赤だ。

 つい先ほどまで泣いていたと分かる潤んだ瞳で峨鍈を見つめてくる。

 なんて顔をしているのだと思って峨鍈がその顔を見つめていると、不意に蒼潤が目を逸らした。ぼそりと呟くように言う。


「言っておくが、今すぐじゃないから……」

「儂は今すぐでも構わん」

「構えよ。どこだと思っているんだ!」

「今すぐお前を抱きたい」


 峨鍈は手綱を手放して仰天する蒼潤を両腕で掻き抱いた。

 ようやく蒼潤から求められたのだ。蒼潤の気が変わらぬうちに抱きたいと思って何が悪い! 今すぐだと、蒼潤の襟元に手を差し入れた。

 素肌の上に手を滑らせ、意図をもって弄れば、蒼潤が前屈みになって天狼の鬣に顔を埋める。

 

「お前、バカ! せめて天狼から降りてから……っ」


 蒼潤がすぐに息を上げて恨めしそうに峨鍈を睨んできた。

 さらに深く蒼潤の中を探ろうとすれば、嫌だ、と言って抵抗してきたので、押さえ付けようとすれば、天狼が迷惑そうに鼻を鳴らした。

 だが、天狼は歩みを止めることなく、2人を背に乗せたまま前へ前へと脚を進めていく。

 

「潤……」

「……っ」

「潤……」


 峨鍈が熱に浮かされたように蒼潤を呼ぶと、蒼潤はグッと奥歯を嚙みしめた。

 そして――。


「いっ………てぇーな! もうっ。ふざけんな、この野郎ーっ!」


 ぐいっと大きく体を反らして、蒼潤は思いっ切り後頭部を峨鍈の額にぶつける。

 ガツン、と鈍い音が響き、峨鍈はもちろん、蒼潤もかなりの痛手を負って、ふたりして頭を抑えて呻き、悶えた。


「だーかーらー!」


 後頭部を擦りながら、蒼潤は声を荒げる。


「今じゃないって言っているだろうが!」

「ははははっ」

「はははは? ――じゃねぇし‼ なんで笑ってんだよ。意味わかんねぇよ!」


 潤、と蒼潤を呼んで、峨鍈はもう一度、蒼潤を背中から抱き締めた。


「お前が好きだ。愛してる」

「……」

「お前だけが欲しい」


 蒼潤がわざとらしいため息をついた。


「この数日、女と散々やってたくせに」

「嫉妬か?」

「違う。――違うけど、でも」

「でも?」

「お前はもう、新しい女はやめとけ」


 俺だけにしておけ、とは言わない蒼潤が憎らしい。嫉妬したのだと素直に言えば良いものを。

 峨鍈は蒼潤の肩に額を押し付けた。そして、そのまま瞼を閉ざして押し黙る。


「おい、どうした?」

「しばし休みたい……」


 言うや否や、峨鍈は蒼潤に体重を預けた。

 ずっしりとした峨鍈の体を小さな背で受け止めて蒼潤は呻く。


「重い!」

「動くな。頼む。しばらくこのままに」

「伯旋? どうした?」


 様子がおかしいと感じたようで、蒼潤が峨鍈の方を振り向こうとしてくる。

 峨鍈は蒼潤の腰に両腕を回して、ぐったりと蒼潤の体に寄りかかった。


 追っ手から逃れた安堵感。

 そして、蒼潤の想いを知ることができた幸福感に包まれて、次第に体が重たくなってきていた。

 忘れていた痛みがじくじく騒ぎ出す。鈍く重い痛みが背中を覆い、冷や汗が全身からドッと吹き出る。

 

「おい、伯旋。どうしたんだよ!」

「心配するな。少しばかり背中が痛いだけだ」


 心配するなと言ったのに、蒼潤は両手を伸ばして峨鍈の体を探る。そして、ぬるりと湿った感覚を受け、蒼潤は短く悲鳴を上げた。

 地平線から顔を覗かせた朝陽が、蒼潤の手のひらを照らせば、その手は赤く湿っている。


「お前、血が出てるぞ! 怪我をしているのか!?」


 蒼潤が驚いて振り返ったため、峨鍈の体が天狼の背から落ちそうになった。

 慌てて蒼潤が峨鍈の両腕を掴んで自分の腰に巻き付ける。そして、その時、蒼潤は峨鍈の白いはだぎが真っ赤に染まっている様子を目にした。


「お前、なんで早く言わないんだよ! 背中を射られているじゃないか! なのに、あんなことしようとするから……っ」


 バカ野郎! と罵る蒼潤の声が聞こえてきたが、峨鍈には既に返事をする気力がなく、蒼潤の声もだんだんと遠ざかっていった。

 温かい……。

 蒼潤の体温が心地良いと思いながら意識を手放した。


 そして、意識を取り戻した時には、峨鍈は天幕の中にいた。

 臥牀の上にうつ伏せに寝かされており、かたわらには薬師が控えている。薬師は峨鍈が目覚めたと知ると、枕元に歩み寄ってきて、潜めた声で話し掛けてきた。


「お目覚めになられましたか。薬湯を飲んでください」

「ここは?」

「苑推です」


 答えたのは薬師ではなく、天幕の隅に控えていた若い男だった。

 見覚えのある顔だと思いつつも名を問えば、不邑ふゆうと答えたので峨鍈は思い出した。


「不世の息子か。お前の父親には世話になった」

「父は、殿のつくる国を心待ちにしておりました」


 ああ、と峨鍈が唸るように答えると、不邑は続けて言う。


「我らのような賤民であっても機会を与えられ、能力を正当に認めて貰えるような世にしてくださると、殿は父に約束して下さいました。父はそのような世を見ることが叶いませんでしたが、わたしは見たいです。父に代わり、見せて頂けないでしょうか?」


 不邑が膝を折って拱手したので、峨鍈は体を起こそうとしたが、引き攣ったような痛みが背中を走り、再び臥牀に伏せた。


「殿、動かれてはなりません。傷口が開いてしまいます。それに血を多く流し過ぎました。しばらくは安静に」


 そう言いながら薬師が薬湯を差し出してきたが、峨鍈は薬湯の器を片手で退ける。

 両肘を着いて少しばかり状態を起こすと、不邑に顔を向けた。


「不邑、父親の跡を継いで儂に仕えよ。必ず、お前の父親との約束は守る」

「はい」


 深く頭を下げてから不邑が天幕を去り、入れ代わるように峨旬がやって来た。

 峨旬は意識の戻った峨鍈を見ると、ホッとした表情を浮かべて臥牀に駆け寄って来る。


「兄上、気が付かれましたか」

「状況は?」

「申し訳ございません。候覇に逃げられました。どうやら維緒と合流し、共にらく城に入ったようです」

「酪城?」


 蔀郡酪県にある県城であり、蔀城よりもさらに南にある。奇しくも、吟氏が県尉に囲われていた土地でもあった。


「維緒は蔀城を捨てたか」

「内城が焼け落ちているので捨てた方が得策だと判断したのでしょう。――昨日から蔀城で戦死者の亡骸を回収しております」

張隆ちょうりゅうは?」

「既に苑推に連れ帰りました」

「……そうか」


 頭を抱え込んで峨鍈は深く息を吐き出した。


「此度の事は儂の落ち度だ。張隆と張隆の部下たちは、ひとり残らず葵陽に連れ帰り、手厚く弔う」

「承知致しました」


 不世たちのことは不邑が彼らのやり方で弔うはずである。

 ならば、と峨鍈は思い出して峨旬に告げた。


「影彩を見付けたら、良いところに埋めてやって欲しい」

「既に見付けております。緑に多いところに埋めました」

「そうか。礼を言う」

「これから、どうされますか?」


 そうだなぁ、と峨鍈は考えを巡らせながら顔を上げると、薬湯を抱えたまま突っ立っている薬師が目に付いたので、片手を払った。

 薬師が薬湯を机の上に置いて天幕から出て行くのを待って、峨鍈は峨旬に向き直った。


「儂は葵陽に帰る。お前は果那かな城まで退け」


 果那郡は雅州の南東に位置し、黄州蔀郡と接している。


「帷緒のことはしばらく放っておけ。蒼善に討たれるようならそれで良し。だが、雅州に攻めて来るようなら討ち払え」

「承知致しました」


 一礼して峨旬が去ろうとしたので、蒼潤を呼んでくるように命じて下がらせた。

 ところが、蒼潤はなかなか姿を見せず、日が暮れてからようやく峨鍈のもとにやって来た。

 待ちくたびれてウトウトとしていた峨鍈は、蒼潤の能天気な様子に苛立ちを覚えて眉間に皺を寄せる。


「お前、どこで何をしていたんだ。普通、怪我をして意識のない夫から片時も離れずに付き添うものではないのか?」

「俺は生まれてこの方、『普通』だったことがない」


 生まれ落ちたとたんに女装させられていたと暗に言って、蒼潤は肩を竦めた。

 そして、臥牀の脇に置かれたつくえに視線を向けて眉を顰める。薬湯が飲まれることなく放置されていた。


「伯旋。お前、三日も意識がなかったんだ。熱も高くて、うなされていたんだぞ」


 蒼潤の話によると、背中を射られただけではなく、全身のあらゆるところに切傷や火傷を負っていたらしい。


「薬師の言う事を聞いて、薬湯をちゃんと飲まなきゃダメだ」

「お前が儂なら、それを飲むか?」

「えっ」


 蒼潤は薬湯の入った器を両手に抱えて、今まさに峨鍈に差し出そうとしていたが、峨鍈に言われて器の中を覗き込む。

 器の中では、僅かにとろみのある茶色い液体が青草を切った時のような臭いを放っていた。

 蒼潤は首を横に振って答える。


「俺はお前じゃないから飲まないな」

「……」

「ああ、でも、俺がお前なら、お前が飲ませてくれるのなら飲むかもしれない」

「なんて?」


 思わず聞き返せば、蒼潤はニヤリと笑みを浮かべて、器を抱えたまま峨鍈に歩み寄ってくる。

 臥牀の下で膝を着いて器に唇を添えた。そして、薬湯を口の中に含むと、峨鍈の顔を上から覗き込むようにして顔に顔を近付けてくる。

 蒼潤から初めて与えられた口付けは、薬湯のひどい青臭さと苦さのある口付けだったが、峨鍈は喜んで受け入れて蒼潤の首の後ろに片手を回した。

 もっと、もっと、と強請れば、強請っただけ蒼潤が応えてくれる。


「お前がこれ全部飲み切るまで、やってやろうじゃないか」


 口を離したとたんに蒼潤がそう言ったので、峨鍈は、はははっと上機嫌に笑った。

 そういうことならば、明日からは1日に何度も、薬湯を煎じて貰わなければなるまい。 


「本当は――」


 不意に蒼潤が声を潜め、まるで罪を告白するかのような顔をして言った。


「目覚める様子のないお前の傍にはいられなかったんだ。馬でも駆けさせていなければ最悪なことばかり頭に浮かんで、俺の方こそ駄目になりそうだった」

「それでも、こういう時は傍にいろ。目覚めた時にお前の顔を一番に見たい」


 うん、と素直に蒼潤が頷く。心から悪いことをしたと思っているようだった。

 それから、蒼潤がもう1回と器に唇を寄せたので、峨鍈は蒼潤の腕を引く。小さく驚きの声を上げたその体を臥牀の布団の中に引き込んだ。






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