11.果たして自惚れか?
手綱を片手に持ち直すと、後ろを振り向いて飛んでくる矢を剣で払う。しばらくそうしてやり過ごしていると、聞き慣れた声が聞こえた。
「殿!」
城壁の外で待機していた不世が20人ばかりの部下を率いて馬を駆けさせて来る。
しつこく飛んでくる矢を剣で払い落しながら、不世は峨鍈の馬に自分の馬を並走させた。
「よくぞ、ご無事で」
張隆のおかげだ、と峨鍈は最後の矢を払いながら答える。ようやく城壁から離れ、矢の届く距離を脱した。
しかし、ホッとしたのも束の間、張隆たちが峨鍈のみを逃して閉ざした城門の門扉が大きく開く。
張隆の死を知り、覚悟していたこととはいえ、峨鍈は大きな衝撃を受けたが、悲しみに暮れている暇はなかった。
「苑推でも夜襲です。候覇が煤山から出てきました」
「天連は無事か?」
「郡王はこちらに向かっております」
「何?」
思わず峨鍈は不世に振り向いた。
「弟君は候覇を退けるまで苑推から動けません。郡王は2百ばかりの騎兵を率いているようです」
「少ない!」
峨鍈は自分を追って来ている敵兵の気配を背中で探る。
蹄の音が幾重にも重なって響いていた。少なくとも8百。或いは、もっと大勢の敵兵が峨鍈を逃すまいと追って来ていた。
帷緒にとって峨鍈を討ち取るための機械など今のこの時をおいて他に訪れることはないのだから、死に物狂いにもなるというものだ。
そんなところに、たった2百を連れて蒼潤が駆けつけて来るという。
そんな危ないことなどせずに、葵陽に向かって逃げれば良いものをと峨鍈は苦々しく思った。
再び矢が飛んでくる。不世が腕を伸ばして峨鍈に向かってくる矢を剣で払い落していたが、そのうちの一本が影彩の尻に突き刺さった。
だが、影彩は嘶くことさえせず、眼を血走らせて必死に駆け続けていた。
「殿、馬が持ちません」
そうは言っても、馬の脚を止めるわけにはいかなかった。
不世は再び、殿、と峨鍈を呼んで剣を脇に挟むと拱手した。
「殿に長らくお仕えできたことを光栄に思っております。どうか逃げ延びてください」
言って不世は馬首を返すと、敵兵に向かっていく。彼の部下も彼に続いて次々に反転した。
雄叫びを上げて敵に突っ込んで行く彼らの気配を背中に感じながら峨鍈はひとり影彩を駆けさせた。
蔀城から離れるにつれて闇がぐっと濃くなっていく。
まるで谷底に向かっているかのような錯覚を覚えて、そんな自分がなんとも情けなかった。
影彩の脚は徐々に徐々に遅くなっている。愛馬の荒い呼吸を聞きながら、峨鍈は手綱をきつく握り締める。
もはや縋れるものは愛馬の脚だけであるのに、その脚はいつ止まってしまってもおかしくはなかった。
(苑推まで、あとどのくらいだ?)
苑推の陣営も候覇の奇襲を受けたと聞いたが、峨旬が候覇などにどうにかされているはずがない。
ならば、峨旬とさえ合流できれば助かる!
蔀城から苑推までは、たった20里の距離であるし、蒼潤もきっと近くまで来ているはずであった。
(天連……)
蒼潤を想えば、蒼潤に会いたくて堪らなくなる。
こんなところになど来ずに、少しでも危険を感じたのなら逃げれば良いと思いつつも、今すぐ会いたいと望んでしまう自分がいた。
(会いたい……。会いたい……)
あの細い体を己の両腕で掻き抱きたいのだと峨鍈は渇望する。
そのためにも、と奥歯を噛み締めた。
(こんなところで死んでたまるものか!)
ヒュッ、と鋭く風を切る音が耳元を掠める。続いて2本目の矢が峨鍈の顔のすぐ側を抜けて前方の闇に向かって飛んでいった。
不世たちを討ち取った敵兵たちがしつこく峨鍈を追いかけて来ていた。その数は先程の数と大して変わらず残っている。
振り振り返ると、影彩の尻に矢が3本突き刺さっていた。左脚にも矢が刺さっていて、痛みを感じていないはずがないのに影彩は駆け続けている。
「うっ」
トスっと鈍い衝撃を背中に受けて峨鍈は低く呻いた。
すぐさま背中に刺さった矢を鏃を残して折る。
ヒュッ、ヒュッ、と続けざまに矢が峨鍈の横を飛んでいった。疲れ切った影彩の脚に敵兵の馬たちが追いつき始めていた。
影彩の口もとから泡が吹きこぼれているのを見て、これまでかと峨鍈は思った。――その時だ。
峨鍈に追い付き、剣を大きく振り上げた敵兵の胸を矢が貫いた。青く染めた羽根が目に映り、まさかと思って峨鍈は顔を上げる。
「伯旋ーっ‼」
蒼潤の声である。
風によって運ばれてきたその声に胸が熱くなる。
助かったという想いよりも、ただ、ただ、その顔が見たかったのだと嬉しさが込み上げてきた。
蒼潤が天狼に跨ったまま弓矢を構えて、峨鍈に襲いかかる敵兵に向かって青羽根の矢を放つ。
蒼潤に倣って深江軍の兵士たちが次々に矢を放った。皆、馬の扱いに長けており、馬を駆けさせた状態でも難なく矢を放つ。しかも、かなり正確だ。
矢を受けた敵兵が次々に落馬していき、峨鍈は蒼潤のもとにたどり着いた。蒼潤は馬首を返して、影彩に天狼を並走させる。
甄燕は深江軍を率いて、そのまま敵兵へと突き進み、ひとり、またひとり、敵兵の体を切り付けて落馬させた。
その様子を後ろを振り返り確かめた蒼潤が峨鍈に向かって声を張り上げた。
「伯旋、こっちに移れ。影彩はもうダメだ!」
「ふたりで乗れば、天狼が潰れるぞ」
「天狼は大丈夫だ。それに俺は軽い。具足を付けていないお前なら大丈夫だろう」
今さらながら自分が褝一枚であることに気付く。
峨鍈は頷いて、影彩を可能な限り天狼に近付けて、蒼潤の後ろに飛び移った。
ズンッと一瞬、天狼が沈む。だが、その脚に変わりはなく、力強く地面を蹴って駆け続けた。
対して、身軽になった影彩はとたんに脚を縺れさせて、どおおおうっと体を横にして倒れた。
長年、峨鍈を背に乗せて戦場を駆けてくれた馬だったので、そろそろ余生をゆっくりと過ごさせるつもりだったが、影彩が立ち上がることはもう二度とないだろう。
(すまない。最期までお前は良い馬だった)
蒼潤が影彩を見かける度に、その首を撫でて『お前は良い馬だ』と褒めていたように、自分ももっと影彩を褒めてやるべきだったと峨鍈は悔やむ。
峨鍈は両手を前に伸ばして、手綱を握る蒼潤の手に自分の手を重ねた。
すると、蒼潤が手綱を押し付けてきて、空いた両手でゴシゴシと目元を擦る。
「泣いているのか?」
「泣いてない!」
ひどい鼻声だ。
峨鍈は追手がいないことを確かめて、天狼の手綱を引く。
天狼が駆ける速度を徐々に緩めて、やがてカツカツと蹄の音を立てながら歩き始めたので、峨鍈は手綱から左手を離すと、左腕で蒼潤を強く抱き締めた。
「潤……」
自分のせいで泣いていると思えば、愛おしさで胸がいっぱいになる。
蒼潤の名を熱に浮かされたように繰り返し呼べば、蒼潤が縋り付くように峨鍈の左腕を胸に抱いた。
「もうダメかと……。間に合わないかと思った」
抱き締めた体が震えているので、峨鍈はさらに強く抱き締めて蒼潤の首の後ろに唇を押し当てた。
蒼潤が吐息を漏らし、東の空に視線を向ける。つられて峨鍈も見やれば、ぼんやりと白く明るくなり始めていた。
夜明けが近いと知り、2人の身体から力が抜ける。
「不安な想いをさせて、すまなかった」
峨鍈の謝罪に蒼潤は大きく頭を振った。
そして、目もとを手の甲で強く擦ってから、きっぱりと言い放つ。
「お前が死んだら俺も死ぬ」
思わず峨鍈は息を呑む。すぐには返してやれる言葉が思い付かなかった。
峨鍈が黙っていると、蒼潤が峨鍈に背中を向けたまま言葉を続けた。
「お前の傍でしか生きられない。お前がいなくなってしまったら、どうすればいいのか分からない。――ここに来るまで、どうしよう、どうしようって、それしか頭になくて……。お前に何かあったら、俺、生きていけない!」
そんなはずがないと峨鍈は再び蒼潤を抱く腕に力を込める。
自分が死んだのなら、蒼潤は青王朝の郡王として生きれば良いのだ。
郡王として政に参加しても良いし、帝位継承権を持つ者として再び玉座を狙っても良い。
郡王の当然の権利として土地と民を得て、その土地でゆっくりと過ごすこともできるだろう。
峨鍈さえ死ねば蒼潤は自由になり、いくらでも生きる道を選ぶことができる。それなのに、蒼潤は再び峨鍈の左腕を両腕に抱え込んで言った。
「お前じゃなきゃ嫌だ! 俺に触れていいのは、お前だけだ!」
峨鍈は絶句する。
なるほど、蒼潤は政に明るくない。政に関わるつもりもなく、今さら玉座を狙う気持ちにもなれないのだろう。
だからと言って、互斡郡王のように自領での平穏な暮らしなど若すぎる蒼潤には無理だ。
――だが、違うのだ。蒼潤が言わんとしていることはそういうことではない。
蒼潤が真に恐れを抱いていることは、峨鍈の死後の自分の生き方ではなく、峨鍈を失うこと自体なのだ。
(こいつ――‼)
峨鍈は蒼潤が今どんな表情を浮かべているのか知りたくて堪らなかった。
いったいどんな顔をして、こんなことを言っているのだろう。
おそらく蒼潤には自覚がない。だが、その言葉はほとんど愛を告げているようなものだった。
(儂でなければ嫌だだと? 儂だけがお前に触れて良いと言ったか?)
蒼潤が郡王である限り、伴侶である峨鍈が死ねば、周囲の者たちは幸いだと言わんばかりに蒼潤に郡主を宛がおうとするだろう。
青王朝には新たな郡王が必要だからだ。
深江郡王の息子であるのなら県王でも構わないと思う輩も湧くかもしれない。或いは、自分の娘こそ郡王妃にしたいと思う輩も湧くだろう。
そうなれば、蒼潤は何人もの妃を宛がわれることになる。それだけで既に皇帝の後宮並みの暮らしが予想できる。
さらに郡王ほどの身分であれば、その郡王から伽を求められて断ることのできる者などいない。
まして、深江郡王の美しさは男さえ見惚れるほどである。女はもちろん、男さえ蒼潤は思うがままだ。
相手に困ることなど、あり得なかった。
それにも関わらず、蒼潤は峨鍈でなければ嫌だと、きっぱりと言い切った。
これを自分への愛だと思うのは、果たして峨鍈の自惚れだろうか。




