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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
8.葵暦197年の春 蔀城の危機

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10.きっと生きていけない


 蒼潤たちが陣営から出て蔀城に向かおうとすると、それに気付いた候覇の仲間たちが次々と襲いかかって来た。

 深江軍は手綱を片手に握り直すと、武器を手に敵を薙ぎ払いながら駆ける。

 敵は呻きながら落馬するか、そんな仲間を見て馬首を返して逃げ出した。もっとしつこく追って来るかと思いきや、そうはならなかったところを見ると、やはり候覇たちは兵士ではなく賊なのだ。


 彼らは謂わば武器を手にした農民であり、戦闘訓練を受けた兵士ではなかった。

 その上、その数は峨旬軍の半数以下なので、陣中の混乱さえ収まれば、峨旬が候覇を討つのは容易いだろう。

 置いて来た峨驕や馬頑のことが心配ではあったが、峨旬が持ち直すことを信じて蒼潤は苑推を脱すると、ひたすら南へと駆けた。


(伯旋……)


 南の空に立ち上る煙を見つめて蒼潤は眉根を寄せた。

 彼の身に何か起きたことは確かだった。

 帷緒の降伏が偽りかもしれないことを甄燕に指摘されて、彼は十分に警戒しながら蔀城に入ったはずだ。

 それなのに、清雨の報告によると、峨鍈は吟氏の臥室に籠ったまま数日過ごしたという。


(吟氏の体がよほど気に入ったということか)


 おそらく、そのこと自体が帷緒の罠だったのだ。

 閨房術に長じている吟氏に峨鍈を籠絡させる。主が女の臥室に籠りっぱなしなのだから、その部下たちの気も緩むというものだ。そこを見計らって帷緒が攻め込み、峨鍈を討つ。――それが、帷緒の降伏に潜まされた罠に違いなかった。


(バカなやつ。まんまと罠に掛かりやがって!)


 そう思ったら、蒼潤はもう峨鍈のことが憎らしくて堪らない。

 彼の襟首を掴んで、思う存分に罵ってやりたかった。

 だが、そもそも自分が彼に好きにしたら良いと言ったのだ。吟氏を側室に迎えても良いと。


(もし俺があの時、嫌だと言っていたら、こんなことにはならなかったのか?)


 閨房術に長じている女と聞いて、先に吟氏に興味を抱いたのは峨鍈ではなく、蒼潤の方だった。

 彼女を峨鍈の側室に迎えたら、自分がラクをできるのではないかと思ったからだ。

 なんて愚かなことを考えたものだろうかと、南の空を睨んで蒼潤は唇を嚙みしめた。


(どうしよう)


 自分のせいかもしれないと思ったとたんに蒼潤は不安に襲われた。まるで落とし穴に落ちてしまったかのような気分だ。

 縋り付きたいのに縋り付ける相手がいない。

 大丈夫だと言われたいのに、そう言って抱き締めてくれる彼が傍にいない。


(どうしよう。もし、あいつの身に何があったら……)


 一度過った不安は思いがけず大きくて、蒼潤はその巨大な穴から抜け出せそうになかった。


(もし、あいつが死んでしまったら、俺は――)


 こんなこと考えてはいけないと思うのに、最悪な事態ばかりが頭に浮かぶ。

 自分の態度や言葉のせいで彼を失うかもしれない。そう思うと、後悔の念が次々に湧いてくる。

 峨鍈の首が胴から離れる光景が脳裏に過って蒼潤は大きく頭を左右に振った。 


(ダメだ! 絶対に嫌だ! そんなことになったら、俺はきっと生きていけない!)


 不意に甄燕が蒼潤を呼んだ。

 天狼の横に自分の馬をつけて怒鳴るように大きな声を上げる。


「天連様、急がせ過ぎです! もう少し天狼の脚を抑えて下さい! 焦る気持ちは分かりますが、蔀城まで20里あります。馬が潰れてしまいます!」


 陣営から飛び出してからしばらく天狼を全速力で走らせていた蒼潤は甄燕の言葉に、ハッとして手綱をぐっと力を込めて引いた。

 天狼を歩かせると、他の馬たちも駆けるのをやめて歩き始める。

 馬たちの荒い呼吸を聞きながら蒼潤は手綱を両手に握り込むと、天狼の首に顔を埋めた。


「天連様?」

「安琦、どうしよう。こんなことになるのなら、俺、あいつが蔀城に行ってしまう前に、あいつの唇を奪っておけば良かった」

「今それ言いますか?」

「あいつがしてくれるのを待っているばかりで、してくれないことにイライラしてた。俺は馬鹿だ」

「それが分かったのなら、今度から天連様からも口付ければ良いと思います」


 蒼潤は顔を上げないまま首を横に振った。


「どうしよう! 安琦、どうしよう! 胴から離れたあいつの首を抱いて口付けている光景しか頭に浮かばない」

「天連様、落ち着いてください。きっと大丈夫ですから」


 そう言いながらも甄燕は、少し急ぎましょうと、郭元たちと目配せを交わして馬の歩みを速めた。

 風に乗って焦げ臭さが漂い始める。蔀城に近付けば近付くほど、炎がはっきりとその姿を明らかにして、蒼潤の目に赤々と燃える蔀城がその姿を晒した。



△▼



「殿―っ! 殿ーっ!」


 自分を必死に呼ぶ張隆ちょうりゅうの声がようやく耳に届いて峨鍈は正気を取り戻す。

 吟氏の侍女たちの悲鳴が上がり、ばんっ、と張隆が閉め切った扉を蹴破るようにして臥室の中に飛び込んで来た。


「殿、奇襲です。帷緒が攻めてきております」

「何?」


 自分の体の下で吟氏が体を震わせたので視線を向けると、彼女が嘲るような笑みを薄い唇に浮かべているのが見えた。

 峨鍈は舌打ちをして吟氏から体を離す。臥牀から足を下ろすと、床に落ちていたはだぎを拾って袖を通す。

 張隆は自分の馬と峨鍈の愛馬である影彩えいさいの手綱を握り締めたまま臥室に飛び込んで来ていた。


「殿、逃げて下さい!」

「状況は?」

「すでに帷緒軍に囲まれています」


 あははははっ、と急に吟氏が気狂ったように笑い出す。

 時間がないと急かす張隆を片手で制して、峨鍈は吟氏に問い掛けた。


「お前の話はすべて偽りか?」

「いいえ、すべてまことでございます。ですが、結局、峨様も他の男たちとなんら変わりない。違うのではと少しの間、期待致しましたが……」


 ふふふっと笑って吟氏は一糸纏わぬ素肌を晒して、自分の胸元に片手を添える。

 そして、口調も顔つきも豹変させて声を荒げた。


「所詮、男は男! 女の体に溺れぬ男などいない。哀れに溺れた男を支配するのは、私のような女だ! 思い知れ!」


 峨鍈は張隆の手から剣を奪うと、ほとんど反射的に吟氏の胸を刺した。

 瞬間的な怒りが去ると、吟氏の男に対する恨みがあまりにも強くて、むしろ哀れにさえ思えた。

 吟氏の話に偽りがなかったのだとしたら、彼女は心から帰郷を望んでいたはずだ。しかし、これまで受け続けていた仕打ちに男という生き物を心から信じることができなくなっていたのだろう。


 もしも峨鍈が彼女に指一本として触れずにいたら――。

 吟氏がどんな誘惑しても、ちらりとも峨鍈が揺らがなければ、彼女は男に希望を見出すことができたかもしれなかった。

 だが――。


(所詮、男は男か)


 その通りだな、と峨鍈は鼻で嗤って影彩の背に跨った。

 愚かなことに五日も吟氏の臥室に籠っていた。吟氏ほど性に奔放で、積極的な女を他に知らなかったので、彼女との会話の楽しさも相まって峨鍈は欲に溺れてしまった。


 峨鍈は影彩の脇腹を蹴って走らせると、殿舎たてものの外に出る。そして、自分の置かれた状況を認識させられて唖然とした。

 辺りは赤々と燃え、武器を交える音がそこかしこから響いて聞こえる。

 具足を鳴り響かせ近付いてくる敵兵の足音が聞こえ、張隆が声を荒げた。


「北に向かって逃げて下さい! わたしが必ず道を開きます」


 帷緒の兵士たちが門を破って吟氏の居所に雪崩れ込んで来る。

 張隆も騎乗して、殿舎の外を護っていた部下からげきを受け取ると、部下たちと共に雪崩れ込んで来た敵兵を門の外へと押し戻して峨鍈に逃げ道をつくった。


 門の外でも張隆の部下たちが敵兵たちと激闘を繰り広げていた。腹を貫かれ死に。肩を切り付けられ、怯んだところを上から下に斜めに切られて死ぬ。

 呻き声と雄叫び、断末魔が響く中、峨鍈たちは馬を駆けさせた。辺りは夜だというのに不気味に明るく、春になったばかりだというのに額から汗が流れるほどに暑い。――城を焼く炎のせいだ。

 内城の奥へと投げ込まれた炎は空を焦がさんばかりに燃え盛り、炎に包まれた兵士が身が焼けていく苦しさにのたうちながら次々に死んでいく。


 そんな光景を横目に張隆は馬上で戟を振るいながら峨鍈の前を駆けて、蔀城の内城をどうにか抜け出すと、城壁の北門にたどり着いた。

 しかし、張隆は左腕をだらりとさせており、手綱を握ることもできないくらいに満身創痍である。それは彼の部下も同じで、その数は百人にも満たないくらいに減っていた。

 

「北だ。峨鍈は北門に逃げたぞーっ!」

「殺せ! 必ず殺すのだ!」


 北だ、という声が怒声のように響き渡り、帷緒の兵士たちが峨鍈の周りに集まり始めていた。

 城門の門扉を守る敵兵を戟で討ち捨てると、張隆は下馬する。彼の部下たちも馬から降りて、数人で体当たりするようにして門扉を開いた。

 内城の方を振り返ると、大きな波が押し寄せて来るかのように次々と敵兵が駆けつけて来るのが見えた。


「峨鍈だ。峨鍈がいたぞ!」

「殺せ!」

「逃がすなーっ! 殺せ!」


 殿、と張隆が声を張り上げて峨鍈を呼んだので、峨鍈は張隆に振り向いた。

 彼が自分の馬に乗ろうとはせずに、戟を右手に握り締めて門扉に背を向けたので峨鍈は悟る。


「早くお逃げください!」

「すまん!」


 峨鍈は短く謝罪の言葉を口にして、影彩に騎乗したまま張隆たちが開けてくれた門扉をひとりで抜けた。

 うおおおおおおおおーっと張隆が雄叫びを上げて部下たちと共に敵兵に突っ込んで行く音を最後に再び門扉が閉じられた。


 峨鍈はひたすら北へと影彩を走らせる。すると、城壁の上からヒュッと風を切るようにして矢が飛んできた。

 帷緒軍の弓兵が待ち構えていたのだ。




【メモ】

馬の速度

 ・常歩なみあし……時速5~6km 1日に約30~50km移動可能 長時間OK

 ・速歩はやあし……時速13~15km 1時間くらい続けられる 

 ・駆歩かけあし……時速20~30km 分速340m 30分が限界 

 ・襲歩(全速力)……時速60~70km 分速1km 5分が限界


1里=約400m 蔀城と苑推の距離20里=約8km

歩兵を連れた進軍だと一日30里くらいしか進めないので、蔀城と苑推の距離は遠く感じるけど、

馬だと、わりとすぐ……? ただし、上記はサラブレッドの速さ。

この時代の馬はサラブレッドではなかったはずなので、スピードは劣るかもしれないけど、持久力は勝るかもしれない。

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