9.夜襲
蒼潤はざわざわと騒ぎ始めた胸を抑えつけるように拳を握ると、自分でも馬鹿かと思うような問いを清雨に投げかける。
「あいつは吟氏の臥室に籠って何をしているんだ?」
「殿下、臥室で行うことと言えば、純粋に眠ること以外にはひとつしかないかと」
「……そうだよな」
清雨の言葉にもっともだと冷静な自分が頷けば、冷静ではいられない自分が現われて、みるみる血の気が引き、指先が冷たくなっていく。
足元がぐらりと揺れた気がして、蒼潤は再び愚かな問いを重ねた。
「あいつ、どちらの穴に突っ込んだんだ?」
「殿下、それは分かりかねます」
律儀に答えを返されて蒼潤は慌てて謝罪する。我に返れば、気恥ずかしさしか残らない。
「すまない! 妙なことを聞いた。忘れてくれ!」
「如何されますか? 引き続き、殿の様子を探りましょうか?」
うん、と頷きかけて蒼潤は身動きが取れなくなる。
峨鍈が吟氏を抱いている。そんな様子を清雨に探らせて、いったい何になるというのだろう。
「もういい。それより、候覇の動きを探ってくれ。あいつが煤山から出てくれば、伯旋の許可なんかなくたって戦端を開けるんだ」
「承知致しました」
一礼して清雨は去って行った。
甄燕が西の空に視線を向けた後、深江軍の兵士たちに向かって片手を上げて合図を送った。兵士たちは本日の調練を終えて、夕餉の支度に取り掛かる。
その様子を眺めながら、甄燕が蒼潤の方を見ることなく言葉を掛けてきた。
「今どのようなお気持ちですか?」
「何?」
「頭では理解できていても、心では納得できないということがあると思います。口ではそうしても良いと言っていても、実際に耳にすると、胸が痛くなったりしませんか?」
「だから、何の話だ?」
「ご自分が殿に会いたいと思う時に、殿が他の女を抱いていたら、どう思うのかと聞いております」
「俺は別にあいつに会いたいとかない!」
即座に言い返せば、甄燕は微かに苛立ったような表情を浮かべる。
「では、天連様が禁欲生活を続けられているというのに殿が他の女を抱いていることに関しては、どのように感じられておりますか?」
「イラッとする」
今度の質問には蒼潤は素直に答えた。甄燕を怒らせるのは得策ではないと本能で感じたからだ。
甄燕は小さく頷いて更に問いを重ねた。
「自分も殿以外の者としてやろうという気持ちにはなられますか?」
「うーん」
蒼潤は低く唸って首を傾げる。
「それはないかな」
「女を抱いてみる気にはなれませんか?」
「うーん、女はちょっと……。自分からあれこれしなきゃならないのが面倒だ」
「積極的な女なら、できそうですか?」
「いや無理。怖い」
杜圻の娘の苓姚を思い出して、ゾッとした蒼潤は己を抱きしめるように二の腕を両手で擦る。
「なら、男はどうですか? 天連様が抱くのは無理かと思うので、殿以外の男に抱かれるということですが……」
「えー」
「天連様が望めば、名乗りを上げる者は大勢いると思います」
不意に視線を感じて蒼潤と甄燕が辺りを見渡せば、自分たちの会話に聞き耳を立てていた者たちが無言で手を挙げ始めた。
中には両手を高く挙げている者もいて、甄燕は大きくため息をついた。
「皆さん、死にたいようですね」
さっと己の首の前で片手を横に素早く動かす。それを目にした一同は即座に挙げていた手を下ろした。
蒼潤は彼らから視線を甄燕に戻して眉間に皺を寄せる。
「俺、たぶんあいつじゃなきゃ無理だと思う」
功郁と貞糺に囚われた時には、一度でも練習していたら大丈夫なのではないかと思ったが、一度どころか何回も何回も経験した今となっては、再びあの時みたいに囚われて貞操の危機に陥った時には、あの時よりもずっと嫌悪感が沸くような気がするのだ。
「あいつと違うと思ったら、吐きそうになると思う」
実際、苓姚に口付けられた時に『これじゃない!』という想いが強くて嫌悪感しか持てなかった。
「天連様、自覚がないようなので申し上げますが、肌を合わせる行為は、かなり深いところまで相手を許されているということなのですよ。他の者には許せないところまで、天連様は殿を許していらっしゃる」
「許すも許さないも、あいつがどんどん押し入ってくるんだよ」
「最初はそうかもしれませんが、2回目以降は天連様が許していますよね?」
「えー……」
そうだったっけ? と蒼潤は首を傾げる。
2回目の時、果たしてどうだっただろうかと思い出そうとしてみた。それから3回目、4回目はどうだっただろうか……。5回目、6回目となると、もう記憶がない。
すっかり常習化されて、許すも許さないもなかった。
「もう意味が分かんねぇよ。この話は終わりだ!」
憤慨して言えば、ちょうど夕餉の支度も済んだようで、焚火の周りに兵士たちが集まり始めていた。
天連様、と大きな声を上げて蒼潤を呼びながら駆けて来る峨驕と馬頑の姿が見える。今夜の夕餉を一緒に取ろうというのだろう。
彼らが自分のもとに来るのを待っていると、不意に馬頑が足を止めて立ち止まった。南の空を仰ぐように顔を上げて目を大きく見開いている。
(なんだ?)
訝しく思って蒼潤は甄燕と共に馬頑に歩み寄る。峨驕も馬頑の隣に立って、彼が熱心に見つめている方角に視線を向けた。
「天連様、炎が上がっています」
「何だって?」
峨驕と馬頑が揃って同じ場所を指差したので、蒼潤と甄燕は彼らの指先に振り返った。
すると、藍色に染まった空に薄っすらと灰色の煙が高く立ち上っている様子が見えた。目を凝らせば、煙の下には赤い炎がチラチラと小さく見える。
「あちらは蔀城です」
「まさか蔀城が燃えているのか!?」
自分自身が口にした言葉が耳に届いて、さっと背筋が凍る。
――だって、蔀城は今、峨鍈がいる!
本当に蔀城が燃えているのであれば、やはり帷緒の降伏は偽りだったのだ!
峨鍈は帷緒の罠に掛かってしまったのだろうか。蔀城の状況は分からないが、そこから火の手が上がっているということは、戦闘が起きているということだ。
「すぐに蔀城に向かう」
震える声で言えば、甄燕がすぐに深江軍の兵士たちに出陣命令を出した。
兵士たちは食事を始めたばかりか、まさに始めるところだったので、彼らは名残惜しそうに羹の入った器を手放し、麦餅を胸元に仕舞い込んだ。それぞれ武器を手に立ち上がる。
深江軍ばかりではなく、峨旬の兵士たちも俄かに騒がしくなった。峨旬も南の空の異変に気付いたのだろう。――そう思った時だ。
わあーっと喊声が上がり、突如として暗闇から敵が現われる。
峨旬は見通しの良い平地に陣を敷いていたが、2里ほど離れたところに林があった。そこに潜んでいた敵がいっせいに襲いかかってきたのだ。
「殿下、候覇です!」
いつの間に清雨が蒼潤の隣に立っている。
「申し訳ございません。候覇が煤山から出て来ていたことに気付けませんでした」
「お前に蔀城の様子を探るように命じていたのは俺だ」
峨鍈のことなど気にせず最初から候覇を探るように命じていたら、清雨は事前に候覇の動きに気付けたはずなので、蒼潤は清雨を責めずにそう言い捨てる。
密かに煤山から出てきた候覇は林の中に潜み、峨旬軍の兵士たちの気が緩むのを待っていたのだろう。
峨旬の兵士たちも、まさに夕餉を取ろうとしていたため、奇襲に対する反応が遅い。彼らは候覇たちに陣営への侵入を許し、刈り取られる稲のように次々と討ち取られていった。
「落ち着け! 敵はたった2千だ!」
恐慌状態にある兵士たちに向かって蒼潤は大声を上げたが、兵士たちの耳に届いている様子がない。
さらに喊声が沸いた。馬の嘶きが大きく響き、厩の方が騒がしくなって、しまった! と清雨が珍しく焦りを滲ませた声を上げる。
「殿下、敵の狙いは馬です」
「なるほど、そういうことか」
甄燕は清雨が言わんとすることを素早く察して、指を口に含むと指笛を吹き鳴らした。
ピー、と高い音が混乱の中に響く。
「どういうことだ?」
「候覇は、我々を蔀城に向かわせまいとしているのです! おそらく候覇は厩の柵を壊したのでしょう」
甄燕のその言葉通り、解き放たれた馬たちが陣営の中を縦横無尽に駆け回っている。
やがて天幕のひとつから火の手が上がると、それを見た馬たちは錯乱状態になり、嘶きながら足元の兵士を蹴とばして駆け回り続けた。
ピー、ピー、と繰り返し何度も何度も甄燕が指笛を吹き続ける。辺りは喧騒に包まれ、甄燕の指笛など打ち消されてしまっているように思えたが、甄燕は諦めずに指笛を吹き続けた。
すると、燃えた天幕の煙の向こう側から黒い馬が姿を現した。黒い馬は他の数頭の馬を引き連れて蒼潤に駆け寄って来る。
「天狼!」
蒼潤の馬である天狼が得意げな顔をして蒼潤の前までやって来ると、脚を止めて蒼潤の胸元に鼻面を押し付ける。
蒼潤はその長い鼻を撫でてやりながら甄燕に振り向いた。
「お前、天狼に教え込んだな?」
「賢い馬だったので。わたしの馬も連れてきてくれて助かりました」
馬は群れで動く動物なので、連れて来たというよりも、つられてやって来たという感じなのだろう。
郭元の馬も天狼と一緒にやってきたので、蒼潤が騎乗すると、郭元も騎乗し、蒼潤や甄燕と馬を並べた。それを見て、蒼潤は手綱を握って声を張り上げる。
「騎乗した者は俺について来い! 蔀城に向かう!」
深江軍の兵士たちが蒼潤に応える声を聞いて、蒼潤は峨驕に視線を向けた。
峨驕と馬頑の馬は行方不明だ。陣営は未だ混乱しているし、多くの馬たちは陣営の外まで逃げ出してしまっているので探すのは困難だろう。
「驕、お前の叔父上に俺が蔀城に向かったことを知らせてくれ」
「分かりました。馬を見付けたら俺も向かいます」
「うん」
頷いて蒼潤は天狼の脇腹を蹴った。
すぐについて来たのは、深江軍5百のうちの2百くらいだろうか。
他の者たちは自分の馬が見付からないのだ。自分の馬でなくとも、近くにいた馬を捕まえて蒼潤を追ってくる者もいたが、そう多くはいない。




