8.吟氏という女
「私にとって人とは遠くからやって来て、僅かな間だけ私のもとに留まり、そして、去っていくものでした。ですから、多くの男たちが私のもとを訪れ、そして、去っていきました」
閨房術に長じていると言われるほどの女だ。
経験した男の数は、ひとりふたりでは済まないだろうと思ってはいたが、彼女の言い様から察するに峨鍈の想像以上であるようだった。
「最初の男は15歳になる前でした。亭の客で、名も聞きませんでした。代わりに少しばかりの銭を貰いました。それに味を占めた私は、新しい簪や紅が欲しくて次々に客の相手をするようになったのです。すると、ある日、以前の客が再び亭に現れて、私を攫いました。大きな袋に詰められて運ばれたので、そこがどこで、どのようにして家に帰れば良いのか分からず、仕方がなく、私はその男と夫婦のように暮らすことにしたのです」
それが帷緒の前に夫だった男のことかと問えば、吟氏は首を横に振った。
峨鍈は、うむ、と低く唸って彼女に話の先を促す。
「しばらくして、私が家の外で洗濯をしていると、強い視線を感じました。熱心に私のことを見つめてくる男がいたのです。身なりからして裕福な男だと思いました。事実、その男は県尉でした」
県尉とは県の警察を担当する官職で、主な職務は盗賊などを取り締まることである。
当時の吟氏にその男が裕福そうに見えたわけは、国から禄を食む役人だからに相違ない。
「私は自分が攫われてきたことをその県尉に訴え、保護して貰うことにしました。これでやっと家に帰ることができる。そう喜んだのですが、今度はその県尉に囲われることになってしまったのです」
県尉の邸に移り、それなりの暮らしを送ることになった吟氏だったが、県尉には既に妻も子もおり、吟氏はかなり肩身の狭い思いをしたという。
しかも、望んで県尉の妾になったわけではない。できることなら逃げ出して、家に帰り、両親に会いたかった。
急に姿を消した自分を両親はさそかし心配しているだろうし、そんな優しい両親が戦乱に巻き込まれていないか不安だった。
「そんな時です。帷緒が黄州に攻め入って来たと聞いたのです。そして、そのころには自分の居場所くらい把握していました。黄州蔀郡酪県です。私は帷緒の耳に届くように自分で自分の評判を流しました。自分を救い出してくれる可能性が少しでも見込める相手を求めていたのです」
そうして、帷緒は吟氏の話を聞いて酪県に現れる。部下たちと共に略奪の限りを尽くし、吟氏を囲った県尉を殺すと、吟氏を蔀城に連れ去った。
峨鍈は吟氏の話を聞き終えると、己の顎をひと撫でしてから彼女を見やり、口を開く。
「さては、お前の評判を儂の耳に届くように広めたのは、お前自身であろう?」
「ご明察の通りでございます」
「帷緒から逃れるために、儂に帷緒を殺して欲しいのか?」
「はい。そして、私をここから連れ出して欲しいのです」
「犀県と言ったな? 冷州峡郡犀県か。旅費は出してやろう。望むのであれば、行商に口を利いてやる」
「故郷に帰れとおっしゃるのですか?」
「家に帰りたいのだろう?」
吟氏は峨鍈と目を合わせ、パチパチと瞬きを繰り返した。
そして、くすくすと笑い出す。
「私が攫われてから、じきに10年が経ちます。既に家はないかもしれませんし、両親も亡くなっているかもしれません」
「それでも一度帰ってみたらどうだ。帰らずにいれば心残りになろう。それでもし家もなく、両親も亡ければ、そこからお前は新しい人生を歩み始めればよかろう。もはやお前は自由だ」
「峨様……」
吟氏は呆気にとられたような表情を浮かべ、それから破顔する。
「峨様は、とても変わった御方です。今まで出会ったことのない男ですので、とても驚いてしまいます」
ころころと鈴を鳴らしたように笑い、吟氏は峨鍈の胸板に向かって手を伸ばす。
つーと指先でなぞるように触れられて、峨鍈は頭の奥が痺れるような感覚を得た。
「男は皆、私を道具のように扱い、囲むことばかり考えるのだと思っておりました。峨様のように、家に帰れとおっしゃられた方は初めてです。そういう方にこそお仕えしたいと思っておりました」
身を寄せられたと思いきや、吟氏の手が褝の下に潜り込んでくる。
彼女の甘い香りに鼻孔をくすぐられ、肌を弄られれば、峨鍈はあっという間に体に熱が籠った。完全に、蒼潤との意地の張り合いが仇となっていた。
(あいつがまったく素直ではないからだ!)
蒼潤が自分を求めているということは、あの表情と態度を見れば簡単に分かる。
だけど、それを言葉に出して言って貰いたいと望んで何が悪いというのだろう。
自分ばかりが欲して、奪うように求めて、終いには、蒼潤から拒否られる日々だなんて、次第に虚しさが胸に疼いてしまう。
ただ傍にいてくれるだけでいい。体だけでも自分のものにしたいと望んでいたはずだったが、それだけでは満足できなくなっていた。
時には、蒼潤から求められたいし、体だけではなく心も欲しい。
(好きだと言われたい。いや、せめて『抱いてくれ』と、あいつに言わせたい)
そうは思うが、今この場で共に過ごしているのは蒼潤ではなく吟氏だ。
彼女は峨鍈の気を惹こうと、峨様、と吐息交りに峨鍈を呼ぶ。猫のように細めた眼で微笑んで、赤く濡れた舌で峨鍈の肌をちろりと舐めた。
その時、ぷつりと音を立てて峨鍈の中で何かが切れる。荒々しく彼女を両腕に抱き締め、そうして気が付けば、肌を合わせていた。
△▼
峨鍈が苑推を発ってから7日が経っている。
煤山の侯覇に動きはなく、蔀城の峨鍈からも音沙汰が無かった。
候覇が先に仕掛けて来るのならともかく、峨鍈の許可がなければ、こちらから煤山を攻めるわけにもいかない。
必然的に蒼潤は手持ち無沙汰になって甄燕に向かって愚痴るしかやることがなかった。
「なあなあ、安琦。俺って、もしかして蔀城に行った方が良かったのかなぁ」
「いえ、それはそれで嫌な展開しか予測できないので、行かなくて良かったと思います」
甄燕はまったく表情を変えずに前方を見据えたまま答えた。
甄燕の視線の先では深江軍が調練に励んでいる。夏銚から学んだやり方をそのまま受け継いでいるので、剣をひたすら振り続けたり、弓をひたすら射続けたりしていた。
蒼潤は甄燕の答えに疑問を抱いて小首を傾げる。
「嫌な展開って?」
「口に出すのも憚られます」
「えっ。お前、何を予測したの?」
ぎょっとして問えば、ようやく甄燕が蒼潤に振り向いた。
「吟氏は閨房術に長けているわけですよね? 殿は天連様のために技量を上げようとしていたわけで……。しかも、殿は天連様が吟氏に興味を抱いていると思われている。ならば、いっそ三人で――」
「はい、終了! それ以上言わなくていい! ――俺、そういうのは嫌いだから」
三人で――だなんて、どうしたって楓莉のことを思い出してしまう。第一、女をそんな道具のように扱う行為は許し難い。
だから、もし峨鍈が蔀城で吟氏を戦利品のように扱って無理強いしていたら軽蔑する。
側室に迎えるのなら、それなりの手順を踏んで、吟氏の気持ちも尊重しつつ迎えて欲しい。
そう言うと、甄燕は眉を顰めて蒼潤の顔をまじまじと見つめてきた。
「天連様は本当に殿が新たな側室を迎えても構わないんですか?」
「だって、仕方がないだろう? 俺は子が産めないし、明雲や雪怜には願い下げにされたんだから」
「子のためだから仕方がないんですか? でも、殿は新たな側室が相手でも違う穴に突っ込むかもしれませんよ?」
「……そ、それは………想定外だ」
「そうなれば、吟氏を側室を迎えても子は生まれませんね」
「……」
「あ、でも。天連様の負担は減ると思います」
「…うん……そうだな」
なんだろうか。妙に胸がざわざわとする。
峨鍈にはもっと子供が必要だ。だから、側室を抱くのは仕方がないことだと理解している。
だけど、側室を抱いても子供を得られないとしたら、それでも峨鍈をその側室の臥室に送ることに意義はあるのだろうか。
(いや、違うな。意義があるとか、意義がないとか、そういう話ではないな)
では、なんだ? と言うと、それはハッキリとは分からない。
むむむ、と蒼潤は顔を顰めてもやもやと疼く胸を両手で押さえつけた。
その時、殿下、殿下、と蒼潤のことを呼ぶ声が聞こえて、蒼潤はハッとした。振り返ると、見覚えのない若い兵士が立っている。
予感がして蒼潤はその名を口にした。
「清雨?」
「はい」
甄燕が気配もなく現れた清雨に目を見張っている。
甄燕と清雨は面識があるが、清雨がいつも異なる姿で現れるため、甄燕は清雨の存在になれないのである。
「伯旋の様子を探って来てくれたのか? 伯旋は煤山を攻める許可をいつくらいに出してくれるだろうか?」
「それが……」
珍しく清雨が言い淀んでいる。蒼潤は訝しげに思い、視線を送って言葉の続きを促した。
「殿はその……、ここ数日間、吟氏の臥室に籠ったままだそうです」
「……」
「張殿が、殿にお会いしようと吟氏の侍女に取り次ぎを頼んだところ、追い払われたと聞きます。峨殿が苑推から送られた報せも目を通されていない様子で、蔀城の者たちは殿の判断を仰ぐことができず、政務が滞っているようです」
清雨が『峨殿』と呼んだのは、峨鍈の実弟の峨旬のことだ。
峨鍈は蔀郡を手に入れたのだから、新たな人事で蔀郡を治めなければならない。法も整備も必要だろうし、峨鍈が葵陽で推し進めている政策を蔀郡でも適応できるようならば、そのように命じる必要があった。
とにかくやるべきことはたくさんあるはずなのに、ずっと吟氏の臥室に籠っているのだというのだから、蒼潤は言葉がない。
峨鍈について蔀城に入った張隆はさぞ戸惑っていることだろう。




