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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
8.葵暦197年の春 蔀城の危機

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7.好みの顔ではないが


「潤」


 彼が蒼潤をそうやって呼ぶ時には、『お前は俺のものだ』という想いが込められていて、蒼潤は体の芯に熱が疼くのを感じる。

 彼の顔が近付いて来る気配がして、蒼潤は期待に胸を震わせながら唇を薄く開いた。

 だが、その時。彼の気配が蒼潤から離れる。


(はぁ!?)


 蒼潤はパチッと瞼を開いて、信じられないとばかりに彼を見上げた。

 すると、峨鍈はすでに蒼潤を見ておらず、涼しげな顔をして卓上の地図を眺めている。


(しねぇーのかよっ!)


 悔しいやら、恥ずかしいやらで、蒼潤は奥歯を噛み締めて心の中で彼を罵った。

 彼が眺めている地図をビリビリに破り捨ててやりたい気分だったが、その衝動を抑えて蒼潤は峨鍈の体を押し退けて臥牀に向かう。

 臥牀の隣に置かれた卓から飲み水が入った器を手に取ると、ひと息に呷り、袖で口元を拭った。

 臥牀に腰を下ろし、くつと袍を脱ぐと、はだぎ一枚になって横たわる。すると、それを見た峨鍈が臥牀に歩み寄ってきた。


「なんだ、もう休むのか? 疲れているのか?」

「……」

「おい、何か言え」


(誰が答えてやるものか。お前なんか、もう知らねぇ!)


 そう思って蒼潤が黙り込んでいると、峨鍈は蒼潤を見下ろしてため息をついたようだった。


「お前は本当に儂が他の者を抱いても気にならないのか?」

「……」

「儂はお前が他の者に触れられるなど我慢ならん。――お前は違うのか?」


 蒼潤は峨鍈に背を向けて寝ていたが、峨鍈が言い様があまりにも煩わしいので、くるりと彼に振り向いて睨み付けた。


「出会った頃からお前には女がいた。側室たちの他にも妾がいたし、それ以外の女も抱いていたのは知っている。それで俺が今さら何を思うと言うんだ?」

「出会った頃とは違っているだろう。状況も気持ちも。儂もお前もあの頃とは違っているはずだ」

「何が?」


 苛立って問えば、峨鍈は答えず、無言のままくつと袍を脱いだ。

 ぎしりと臥牀を軋ませて彼も臥牀の上に乗ってくる。仕方がないので蒼潤は奥に詰めて場所をつくってやった。

 邸の牀榻しんだいに比べたらずっと狭く、天蓋もない。持ち運び用なので致し方がないが、こうも狭いと肌が密着するので、今の蒼潤には辛かった。


「お前がお前以外は抱くなと言うのならば、今後はそのようにする」

「不要だ」

「何?」


 己の耳を疑っているような顔をして峨鍈が蒼潤を見やる。

 蒼潤はその眼差しを受けて心底嫌気がした。


「お前はもっと息子を儲けた方がいい」

「驕も桓も軒もいる」

「3人では不安だ。娘も増やした方がいい」


 子供など、いつ何が起こるか分からない。

 病や事故で失うこともあるだろうし、戦場に連れて行ける年齢になれば、その戦場で命を落とすかもしれない。

 それに娘であれば、婚姻でよしみを結ぶことができる。

 婚姻によって敵対関係にある者と同盟を結ぶことも可能だというのに、琳と朋を蒼絃に嫁がせてしまえば、峨鍈の娘は寧しか残っていなかった。


 蒼潤はため息をつく。

 こんなこと、自分がわざわざ言ってやるまでもなく、彼自身もよく分かっているはずなのに。


「俺の許可が必要だと言うのなら許可してやる。吟氏でも誰でも側室に向かえたらいい」

「天連」

「俺は構わない。お前の好きにしろ」

「お前というやつは……」


 まったく、と峨鍈が何事か言い掛けたので、蒼潤は寝がえりを打って再び彼に背を向けた。

 何を言うつもりなのか知らないが、もはや何も聞きたくなかった。



▽▲



(――好みの顔ではないな)


 それが峨鍈の率直な感想だった。

 蔀城に入ってすぐに峨鍈は帷緒と対面する。帷緒は地面に額を擦り付けるように平伏すると、私財をすべて峨鍈に差し出すと言って、己の妻の吟氏を傍らに呼んだ。

 恐ろしさに体を震わせた侍女に付き添われて、20半ばくらいの女が姿を現す。彼女は、うっとりと幻を見つめているかのような表情を浮かべて峨鍈の前で跪いた。


 驚くほど肌が白い。

 蒼潤も色白で、あれほど外を駆け回っているというのに日焼けて肌が浅黒くなることがない。ほんのりと赤く色づくこともあるが、数日もすれば白く戻るといった具合だった。

 峨鍈は吟氏の肌を褒め称える言葉を多く耳にしたが、蒼潤に比べたら、その肌の白さは病的なものに映り、興が削がれた思いがした。

 白い肌の下に流れる血管が青白く透けて見える。それがまた不気味でもあった。


 それにしても、年齢の割に甘さのある顔立ちをしている。

 吟氏は、たった今、幻から覚めたかのように峨鍈に視線を向けて、まるで猫のような瞳を三日月の形にして笑みを浮かべた。

 夫の敵である峨鍈を恐れる様子が微塵もないので、峨鍈は訝しげに眉を顰める。


「吟氏。夫によって差し出されようとしているのに、随分と落ち着いているのだな」


 すると、吟氏が胸を揺らして、ふふふっと笑った。

 彼女は胸元を大きく開いた紅の衣を身に纏っている。

 男ならば、そこに目がいってしまうものだが、峨鍈は彼女の胸よりも耳元で左右に揺れる小さな紅玉の方が妙に目に付いた。

 ああいう物を蒼潤にも与えてやりたい。ただし、蒼潤ならば、紅玉よりも藍玉が相応しいだろう。


 どんなに離れていても、いつだって蒼潤のことばかりを考えてしまう。

 そんな自分を滑稽に思えて、峨鍈はうっすらと口元に笑みを浮かべた。

 すると、吟氏は、峨鍈が己に微笑みかけたと思い違いをしたようだ。にっこりと笑みを返してきたので、峨鍈はその思い違いを正すことなく、彼女に向かって眼を細める。


「恐れながら申し上げます。私には夫などございません」

「ほう」


 隣に帷緒がいるというのに、ぬけぬけと言ってのけた吟氏の肝の太さに峨鍈は面白いと感じた。

 聞くところによると、吟氏は前夫を帷緒に殺されて略奪されている。彼女の発言から、帷緒を夫して認めていないという強い意志を感じた。


「ならば、儂がお前の臥室で休んでも構わないということだな」

「おもてなしさせて頂きます」


 再びにっこりとして吟氏が答えたので、峨鍈はちらりと帷緒を一瞥する。すると、帷緒は平伏したまま、わなわなと体を震わせていた。

 峨鍈は吟氏に立つように命じると、彼女を傍らに呼んでその肩を抱く。


「帷緒、お前には城内に邸を与える。お前に相応しい新たな官職も与えてやろう。それまで、その邸でゆっくりと過ごすと良い」


 次に峨鍈は張隆ちょうりゅう城の警備を命じると、宮城の奥へと移動した。

 不世ふせいには煤山ばいざんで候覇に動きがあれば報せるように命じてある。峨鍈が苑推えんすいを発ってから一日が過ぎようとしているが、そのような報せはまだなかった。


 吟氏に彼女の臥室へと案内させ、峨鍈は臥牀に腰かける。すでに夜が更けていたので臥牀に横たわると、吟氏が所在無く立っている様子が見えた。


「お前も適当に休むといい」

「そのまま何もされずに休まれるのですか?」


 吟氏に問われて峨鍈は言葉に詰まった。

 以前であれば、何ら躊躇なく吟氏を組み敷いていただろうが、今は誰を前にしていても蒼潤のことが脳裏を掠めて、とてもそういう気分になれそうにない。

 閨房術に長けているとの評判の吟氏を差し出されて、まったく手を出さなければ男として疑われるだろう。それ故に彼女の臥室を訪れたが、こんなことなら自分が苑推に残り、峨旬に蔀城を任せれば良かったのだ。


(吟氏を目にしたら、どうにかなるかと思ったのだが、思うようにはいかないものだな) 


 まだ別れてから僅かしか経っていないというのに、もう蒼潤に会いたくて堪らない。

 あのころころと表情を変える顔を見て、細くて薄い体を力一杯に抱き締め、憎たらしいことしか言わない口を己の口で塞ぎたい。

 梨蓉や他の側室たちを家族として大切に想う気持ちは変わらないが、今はひたすら蒼潤だけが欲しかった。

 ――まして、新しい女など欲しいわけがない。

 峨鍈が口を閉ざしたままでいると、吟氏は臥牀の脇に立って片膝を乗せた。


「それでは、私も隣で休ませてください」

とぎは不要だ」

「ならばこそ安心して隣で休めます」

「安心?」


 はははっ、と峨鍈は思わず声を立てて笑った。


「お前は随分と変わった女だな。よくも知らぬ男の隣で寝たいと?」

「ここは私の臥室で、私の臥牀ですから。自分の寝床ほど安心して眠れる場所は他にありません」


 即座に言い返してくる吟氏に峨鍈は些か驚いて彼女の顔を見つめる。


「面白い。どう育てばお前のような女に育つのか話して聞かせてみろ」

「私の生い立ちをお聞きになりたいのですか?」


 吟氏は二ッと唇の端を引き上げて笑い、深衣をするりと脱ぎ捨てる。

 衵服はだぎ姿になると、臥牀に上がり、峨鍈の隣にうつ伏せに横たわった。


「お前の評判は聞いている」

「私も峨様の評判は聞いております」

「ほう」


 何と聞いているのかと問えば、吟氏は峨鍈の方に体の向きを変えて頬杖をつく。


「武勇、知略、強運に恵まれた方であると」

「それだけか?」

「それと、郡王様を正室にされていると。――なるほど。だから、他の殿方とは違うのですね」


 自分の体に手を出してこない理由を見つけたと、吟氏は瞳を猫のように瞳を細めた。

 峨鍈は、男色なのかと言われたと気付いて眉間に皺を寄せる。苛立ちを感じるほどの不快感はなかったが、否定せずにはいられなかった。


「あいつは特別なのだ」

「そうなのですか?」

「そうだ。儂は男の体に興味はない。だが、あいつだけは別で、体は疎か、声や仕草、気配さえ惹かれる」

「そのような方がお側におられるのなら、私のような者に触れる気になれないのも当然ですね。――私はさい県で生まれました。父は街道沿いでやどを営んでおり、母と私も父の仕事を手伝っておりました」


 吟氏が己の生い立ちを語り出したので、峨鍈は彼女の方に体の向きを変えて、その声に耳を傾ける。







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