6.吟氏には興味がない
「助言くらいなら致しますよ」
むーっと不満げに睨み付けていると、思い出したように甄燕は言った。
蒼潤は眉を顰めて甄燕に言葉を促す。
「助言? なんて? 言ってみろ」
「天連様から殿に、やりたい、って言えばいいんです」
「はぁっ!?」
「求められましたので、助言は致しました」
声を荒げた蒼潤に甄燕は、しれっと答えて前方を向く。この話はこれでお終いという態度だ。
郭元も察して口を閉ざし、徐々に馬の速度を落として蒼潤と甄燕から離れて元の場所に戻って行く。
この日は終始このような雰囲気で進軍を終えて、昨日のように深江軍の兵士たちと夕餉を取った後、蒼潤は峨鍈の天幕に向かった。
翌日の進軍から深江軍に峨驕と馬頑、それと、峨驕の護衛が2人加わる。
昨夜、蒼潤と共に深江軍の兵士たちと食事を取った峨驕は、深江軍の和気あいあいとした雰囲気が気に入ったようで、加わりたいと言い出した。
初陣であるため戦場が怖いのだと自分を頼ってきた様子に蒼潤は胸を討たれて、峨驕と共に峨鍈に頼んでやる。
すると、峨鍈は渋々といった風ではあったが、許可を出したというわけだった。
さらに数日の進軍を経て、蔀城まで20里というところまでやってきた。――苑推である。
その地に陣を敷いていた実弟の峨旬と対面し、峨鍈は予想外な報告を受けた。
なんと、帷緒が降伏を申し出てきたという。
「兄上が自ら軍を率いてやってきたので、恐れをなしたのでしょう」
峨旬はそう言ったが、峨鍈は腑に落ちないといった表情をしていた。蒼潤とて、戦をする必要がなくなったので、肩透かしを食らった気分だ。
天幕の中には峨鍈と峨旬、そして、蒼潤の他に甄燕、峨驕と馬頑がいた。
今回の出兵に峨鍈は軍師を連れてこなかった。もともと彼は戦術においては軍師をさほど必要としておらず、自らが戦場で軍師の役目をこなせるほどだったので、敢えて今回は軍師を連れてこなかったのだろう。
ただし、さすがの峨鍈も戦略ともなると、渦中にいる己自身ではどうにも見えていないところがあるため、孔芍や柢恵、潘立といった軍師が必要である。
帷緒が峨鍈の予想を越えた動きを見せたので、峨鍈は疑心を抱いて蒼潤たちの意見も聞いてみようという気になったのかもしれない。
峨鍈は卓に広げた地図を見下ろして蔀城を指で円を描くように指し示すと、甄燕に視線を向けた。
「お前はどう思う?」
問われた甄燕が蒼潤の隣で喉をごくんと動かす。
以前から峨鍈は甄燕の能力をかっていて、書物を与えて読むように命じた後、その書物の感想や意見を述べさせていた。そうやって、甄燕を軍師に育てようとしているのかもしれない。
この時もいつものように、まるで書物の感想を聞くかのような口調で甄燕に問い掛けていた。
甄燕は一度息を吐いてから深く吸って、言葉を放ち始める。
「我々の兵は、1万です」
今回、峨鍈は5千ほどしか率いてこなかった。峨旬と合わせてようやく1万だ。
これは帷緒の力を軽く見て、1万で容易に勝てると考えたわけではけしてない。渕州の瓊倶や随州の晤貘に警戒をしなければならないし、帝都の守護にも兵を割かなければならないからだ。
そうして兵士が足りない中、絞り出した数が1万だった。
甄燕は峨鍈に試されていることを感じて緊張した面持ちをしていたが、いったん口を開いてしまえば、その口からするすると言葉が出て来ている様子だった。
「対して、帷緒の兵力は4千です。城を落とすには、城を守っている兵数の3倍の兵力が必要だと言われています。蔀城は未だ無傷であり、降伏する理由がありません」
「父上の兵力を読み違えたのではないだろうか?」
峨驕が甄燕の発言を受けて口を開く。峨鍈がもっと大勢引き連れて攻めて来ると帷緒が予測していたのではないかと言うのだ。
「もしくは、城内の食料が尽きたとか?」
夏の終わりであればその可能性は高いが、今はまだ春である。
それに峨旬は蔀城を囲っていたわけではない。籠城していたわけではないので、帷緒軍の兵糧が尽きたとは考え難く、甄燕は首を横に振った。
「気に掛かるのは、煤山の侯覇です」
まさにその存在があったので、峨旬は苑推に陣を敷いたのだ。
煤山は苑推から西南に40里ほど進んだところにある。蔀城は苑推から南に20里で、煤山は蔀城から西南に15里というところだ。
煤山の候覇は所謂、煤山に居着いた賊の頭目で、帷緒は候覇と同盟を組んでいた。
帷緒も候覇も黄州牧の蒼善と敵対している上に、帷緒の行いは賊となんら変わりがないので、その同盟は必然的なものだった。
峨旬は苑推で進軍を止めたが、もし彼が苑推で陣を敷くことなく蔀城まで進軍していたら、おそらく候覇は煤山から攻めてきたことだろう。
候覇の仲間は2千ほどではあるが、側面、或いは、後方を取られたら5千の峨旬軍は無事では済まない。
故に峨旬は苑推に陣を敷いて煤山の動きを警戒しつつ、蔀城を攻め落とそうと考えたのである。
ところが、いざ峨旬が蔀城に兵を進めると、その度に煤山で動きがみられ、兵を戻して先に候覇を討ち払おうとすれば、候覇は煤山に逃げ込み、帷緒軍が蔀城から出撃してくる。
ならば、蔀城をと思えば、帷緒軍は蔀城に逃げ、煤山から候覇が仲間を率いて攻めて来る。そんなことを峨旬は幾度も繰り返す羽目に陥った。
「わたしなら先に煤山を攻めます。たとえ帷緒が蔀城から出て来たとしても、こちらは1万で、帷緒軍は4千、候覇は2千です。当然、敵は挟み撃ちを狙ってくるでしょうが、そうなる前に順に撃破してしまうことが可能なのではないでしょうか。それに、たとえ帷緒と候覇が束になったとしても、それでも数の上ではこちらの方が上です」
とすると、と言って甄燕は卓に広げられた地図に視線を落とす。
指先で地図上の煤山を指し示した。
「きっと帷緒も候覇も煤山を攻められては困るのです」
先に煤山を攻められ、候覇が敗れれば、帷緒は孤立してしまう。
そうなった後、候覇の次に討たれるのは、間違いなく帷緒である。
甄燕の話を聞きながら蒼潤は眉間に皺を寄せて、自分が帷緒であったのなら、どうするだろうかと考えてみた。
おそらく自分ならば、一か八かの勝負で蔀城を出ることを選ぶだろう。
もしくは、候覇を蔀城の中に招き入れるのはどうだろうか。守備兵が増えればそれだけ城の護りが固くなる。
敵が兵糧を食いつくし、撤退していくまで城を守り抜くことができるかもしれない。
しかし、実際に帷緒が選んだ道は降伏だった。
甄燕が地図から指先を離すと、峨鍈が己の顎を擦りながら言う。
「お前の言い分だと、帷緒の降伏には裏があるということか」
「数年前に痛い目にあったので……。以来、敵の降伏を全面的に信じることができません」
「なるほど。もっともだ」
「ですが、いったい何を企んでいるのか、そこまでは読めません」
「何も企んでいないかもしれないからな」
気楽なことを言ったのは峨旬だ。彼は純粋に帷緒の降伏を喜んでいる様子だった。
蒼潤は甄燕を見やり、それから峨鍈に視線を向けて問い掛けた。
「それで、どうするんだ? 帷緒の降伏を受け入れて蔀城に入るのか?」
降伏を受け入れず蔀城を攻めるという手もある。
当然、候覇が煤山から出てくるだろうが、1万を相手に2千がどうこうできるとは思えない。
「帷緒は蔀城の貯えをすべて差し出すと申し出ています。己の妻の吟氏も」
峨鍈は蒼潤に視線を向けたまま実弟の言葉に、ほう、と頷いた。
そして、峨旬に振り向く。
「ならば、それを受け取りに行くか。――兵を分ける。旬、お前はここに残り、煤山に備えろ」
「はい」
「天連、お前はどうしたい?」
振り向きざまに問われて蒼潤は心の中で即答する。
(お前と離れたい! 当然、別行動だ!)
だが、それをそのまま口にするのは躊躇われ、むっと眉を顰めて口を開いた。
「俺は残る。蔀城に行っても敵はいないし、吟氏にも興味がない」
「興味がない?」
「ない」
なぜか聞き返してきたので、きっぱりと否定してやる。
「だが、お前。ここに来る間、何度か吟氏について聞いてきただろう?」
「それは……っ」
お前の側室にどうかと思って、と危うく口が滑りそうになる。
いや、言ってしまっても良かったのかもしれない。なぜ思い留まって口を噤んでしまったのか、そちらの方が不思議に思えてきた。
「俺は――」
蒼潤はひと呼吸を置いて、自分の声を自分の耳に届けるように口を大きく開いてはっきりと言う。
「吟氏には興味がない。お前がその女を気に入ったのなら、お前の好きにするといい」
「儂が吟氏を側室に向かえると言ったら?」
「すればいい」
阿保みたいな話だ。まだ会ったこともない女について、側室にするか、しないかの話をしている。
会ったところで噂通りの美貌とは限らないし、彼女の閨房術とやらがどれほどのものかも分からない。
その上、まるで本人の意思などお構いなしのやり取りに蒼潤は反吐が出そうだった。
峨鍈から目を逸らして押し黙ると、彼は片手を上げて峨旬たちを下がらせる。
峨驕が心配そうな眼差しを蒼潤に送り、去り難そうな様子を見せたが、馬頑と甄燕に促されて天幕を出て行った。
「天連」
二人きりになって、峨鍈が蒼潤を呼ぶ。
「なんだよ」
「意固地が過ぎるぞ」
「……」
「儂が吟氏を側室に向かえても構わないと言ったな?」
「……ああ」
峨鍈が蒼潤に向き直って視線を合わせようとしてくるから、蒼潤は胸が苦しくなって、彼から顔を背ける。
すると、肩を掴まれ、片手を頬に添えられる。
彼の指先が蒼潤の耳を掠めて、指の腹で首筋をなぞってきたから、口付けを求められていると思って蒼潤は、ぎゅっと瞼を閉ざした。




