5.その理性の強さが恐ろしい
そして、深江軍は蒼潤の私軍である。
その数は五百ほどなので、軍というよりも隊と言うべきかもしれない。
彼らは戦果を上げることよりも蒼潤の護衛を優先するので、激戦地で死に物狂いで剣を振るい、1人でも多くの敵兵を討ち取るといった戦い方はしない。
そもそも峨鍈が蒼潤を危険な場所に送ることなどあり得ないので、生存確率を考えても深江軍に加わらない理由はなかった。
郭元たちから懐かしい故郷の話を聞きながら食事を取り、その後も彼らの昔話に混ざっていると、少年特有の高い声に呼ばれて蒼潤は振り返った。
自分に向かって駆け寄ってくる少年の姿を認めると、蒼潤は焚火の傍から立ち上がって、その少年を迎えた。
「天連様、こちらにいらしたんですね」
峨驕である。
まだ12歳だが、峨鍈の後継ぎとして今回初めて戦に同行していた。
正直なところ、早すぎると蒼潤は思っている。
蒼潤の初陣は14歳の頃で、その時には早すぎると反対していた峨鍈が、自分の息子ならば12歳で戦場に連れて行くのだから腹の立つ話だ。
「驕、食事は終えたのか?」
「父上と済ませました」
蒼潤が問えば、峨驕はにこにことして答える。
そして、先ほどまで蒼潤が座っていた辺りに視線を向けて空の器を見ると、眉を下げて言った。
「天連様も終えたようですね。ご一緒できず残念です。明日はご一緒しても良いですか?」
「うん、一緒に食べよう」
「良かった。嬉しいです。――天連様、父上がお呼びです」
あー、と蒼潤は低く唸るように声を出して甄燕に視線を向ける。
視線を受けた甄燕は肩を竦めて口を開いた。
「まさか、わたしたちと同じ天幕で休みたいとか言い出しませんよね? やめてください。皆が寝不足になってしまいます」
「だけど……」
進軍中に甄燕に話した通り、自重中の峨鍈と同じ臥牀で休みたくないのだ。
おそらく峨驕に蒼潤を呼びに行かせたのは、そろそろ就寝するから峨鍈の天幕に来いということなのだと思う。
なので、行けば必ず彼の臥牀に連れて行かれてしまう。
ふと、峨驕の視線に気付いて蒼潤は、はっとした。
「もしかして、驕も同じ天幕で休むのか?」
「いえ、俺は頑たちと同じ天幕です」
「天連様、観念したらどうですか? 殿にはっきり言えばいいんですよ。そろそろ自重するのは、やめませんか? って」
「言えるかっ!」
蒼潤は甄燕の言葉に両手を大きく広げてわなわな震わせる。
蒼潤の大声に深江軍の兵士たちも、なんだ、なんだ、と蒼潤の方を振り向いて、分かる者は察した顔をして、なまぬるい視線を送ってきた。
「おっしゃらなくても、外ですし、開放的な気分になって……うん、あるかもしれませんよ、天連様」
「そうですよ。戦の前は気が高まります」
「ぶっちゃけ、やりたくなります。きっと殿も同じですよ」
「えっ。――ということは、天連様、ご無沙汰なんですか?」
「あっ、馬鹿。要らんことを言うなよ」
(――お前ら全員、要らんことしか言ってねぇーよ!)
彼らが口々にそんなことを言ってくるから、察しの悪い者でさえ察したような顔になる。
もう嫌だ、と蒼潤は彼らに背を向けた。驕に、行くぞ、と声を掛けて駆け出すと、慌てて焚火の側から立ち上がった者が4人ほどいて、彼らは蒼潤を追ってくる。
今夜、蒼潤の護衛の任についている者たちだ。
「天連様、待ってください」
驕も後ろを駆けて来て、蒼潤は陣営の中ほどに建てられた天幕の前までやってきた。
天幕の入口には左右に篝火が置かれ、天幕の周辺には等間隔に兵士が立っている。
甄燕や深江軍の皆の言う通り、もし峨鍈がその気になったとしても、天幕の布一枚隔てた外にこれだけの護衛兵が立っているのなら、絶対にそんなことにはなりたくはなかった。
自分は隣の天幕なので、という峨驕と別れて、蒼潤は入口の布に手を伸ばす。
すると、すぐに天幕の中から声が掛かった。
「天連か?」
「うん」
頷いて蒼潤は入口の布を横に払って天幕の中に入ると、甲冑を解いて褝姿になった峨鍈が卓に広げられた地図を眺めている。
「明日も早い。そろそろ休むぞ」
彼が地図から目を離さずにそう言ったので、蒼潤はやっぱりかと思って密かにため息をついた。
「俺もここで休まなきゃダメか?」
「今からお前のために天幕を建てろと? 護衛も割りさかなければならん」
「効率的じゃないのは分かっているんだけどさ」
ようやく峨鍈が目線を上げて蒼潤を見やった。
目が合うと、射抜かれたように蒼潤の胸はどきりと跳ねた。
峨鍈の褝の襟が大きく開いていて、そこから見える胸元にどうしても視線が向いてしまう。
欲求不満ですね、という甄燕の声が脳裏に響いて聞こえたような気がして、蒼潤は頭をぶんぶんと横に振った。
「どうした?」
蒼潤の想いなどちっとも分かっていない顔で、彼がそんな風に問い掛けてくるから、蒼潤は心の中で言い返す。
(どうしたもこうしたもねぇよ! 俺はもう、自分が恥ずかしくて死にそうなんだよ‼)
踵を返して逃げ出してやりたい気分だったが、逃げる先なんてないのだから、無理な話だ。
どうすることもできなくて天幕の入口で立ち尽くしていると、峨鍈が怪訝顔で歩み寄って来た。
「明日も30里は進みたい」
だから、早く休もうと言って峨鍈が蒼潤の手を取る。そのまま手を引いて臥牀まで向かうと、彼は蒼潤を臥牀の上に座らせた。
蒼潤の足元に跪いて、彼自らの手で履を脱がせてくれるので、大切にされているのだということは伝わってくるのだが、臥牀に横たわった蒼潤の隣に彼も横たわり、そして、そのまま瞼を閉ざされたので、蒼潤は苛立ちを通り越して悲しくなった。
甄燕の言う通り、自分から言うしかないのだろうか。
いや、だけど、そんなこと言えるわけがない!
第一、自分はあんな風に女の代わりをさせられるのは嫌だと思っていたはずだ。
悶々としながら天幕の天井を睨み付けていると、不意に峨鍈が寝返りを打ってこちらを向き、彼の腕が蒼潤の腰を抱く。
「夜は冷えるな」
天幕の中は薄暗くて、彼の表情はしっかりとは見えない。
だから、彼にも自分の顔は見えていないと信じたい。だって、たぶん今、蒼潤の顔は真っ赤だ。
久しぶりに触れられて不覚にも胸がドキッと高鳴ってしまい、その先も期待してしまう。
こっちに来いと腕を引かれて、彼の体の上に乗せられてしまえば、久しぶりの肌の密着にどうしようもなく高揚した。
――だが。
「お前は相変わらず体温が高い」
そう言ったのを最後に峨鍈は寝息を立て始めた。
△▼
蒼潤は馬に跨ったまま両手で顔を覆っていた。そのまま、かれこれ小半刻ほど過ぎる。
隣に馬を並べている甄燕は呆れ果てているので、もはや何も言わない。
代わって郭元が自分の馬に駆け足を命じて蒼潤の隣までやってくると、心配そうに声を掛けて来た。
「天連様、ちゃんと顔を上げて前を見て下さい。とても危ないです」
「俺はもうダメだ……」
「いったい何があったんですか?」
すると、甄燕が郭元に視線を向けて首を大きく横に振った。余計な事を聞くな、或いは、気にするな、とでも言うかのように。
その様子を指と指の隙間から見ていた蒼潤は、ぱっと両手を下げて顔を上げた。
「絶対、あいつだって勃ってた!」
「あいつだって?」
貴方もですか、という眼差しを甄燕に向けられて、蒼潤は、うっ、と言葉を喉に詰まらせる。
そのやり取りで郭元は察した様子で、まあまあ、と言った。
「良かったじゃないですか。天幕でやられたら、みんなに声を聞かれてしまいますし、何より事後処理が大変そうです」
「確かに。ここには天連様の侍女たちがいませんから、後始末をするのは不慣れな兵士たちですよ」
「水も貴重ですしねぇ」
「分かってるよ! 分かってるから俺もホッとしたんだ。だけど、その反面、なんでだよ、って感じなんだ」
あれだけ毎日毎日やっていたのに、だ。
側室たちから願い下げにされてからは、毎晩、彼は蒼潤の臥室で休んでいる。その間、彼が発散させていた様子はないわけで、蒼潤と同じくらいに禁欲の日々を送っているはずだった。
「でも、まだ10日くらいですよね?」
「半月は経ってる」
「ご自分の言葉を守ろうと、己を律している殿は尊敬に値すると言いたいところですが、天連様と同じ臥牀で休まれていて――」
「しかも、密着して」
「――密着して休まれていて、それでも、いっさい手を出して来ない殿の精神力? 忍耐力? とにかく、その理性の強さが恐ろしいです」
「だろう? やべぇよ、あいつ」
「反動が怖くないですか?」
「反動……」
甄燕の言葉を繰り返して、蒼潤はゾッとする。
すると、蒼潤の気持ちが伝わったのか、天狼がブルルルっと鼻を鳴らして首を横に振った。
うーんっと唸って、郭元が自分の顎をひと撫でして言った。
「もしかして、殿は天連様のことを試されているのでは?」
「えっ」
「わたしもそう思います」
「だよな」
「ええっ、どういうことだ?」
意味が分からなくて蒼潤は甄燕と郭元の顔を交互に見やる。
すると、郭元は蒼潤に詳しく話して聞かせようと口を開くが、甄燕が片手を上げて彼の言葉を止めた。
「これは天連様がご自分で気付くべきことだと思います。おそらく外野から言われても天連様は納得できないでしょうし、殿のこれまでの努力も水の泡になってしまいますから」
「えー。なんだよ、それ。俺が意味が分からないまま、あいつに翻弄されてても助けてくれないってことかよ」
「本当にお助けしなければならない時には必ずお助け致しますが、現状その必要はないかと」
「……」
【メモ】
一日に進軍できる平均距離⇒約30里(約12km)
※地形によって大きく距離は変わる。




