4.しばらくの自重
「俺が話をつけて来ようか」
「無駄だ。皇帝ならばこそ一度出した勅旨を引っ込めることはできん」
とは言え、これは人質を差し出すようなものだ。
蒼絃は後ろ盾のない皇后を哀れと思って大切にしていると聞くし、峨鍈はいずれ青王朝を滅ぼすつもりでいる。
そんなところに娘を送らなければならなくなった峨鍈は、琳か朋かを選ぶことはせず、ふたり一緒に後宮に送ることを決めたのだ。
「後宮は、お前たちにとって楽しいところではないだろう」
峨鍈は琳と朋を見つめて、そう告げた。
「贅沢はできるだろうが、おそらく愛されることはないだろう。常に身を危険に晒し、口に入れるものにさえ気を配らなければならない。妬み、嫉みを受け、陰で悪く言われることもあるだろう。終いには、多くの者たちに恨まれることになるかもしれない。それでも、お前たちには後宮に行って貰わねばならない」
すまん、と言って峨鍈は娘たちに向かって頭を下げる。
琳と朋はお互いにお互いの顔を見合わせて、それから二人は手を握り合った。
「父上、私たちに生を授けて下さり、ありがとうございます。何不自由なく育てて下さったご恩をお返し致します」
「父上のお役に立てるのであれば、どこへなりとも参ります」
蒼潤は目を見張って琳と朋を見やる。
琳は出会った頃から落ち着いていて、しっかりとした少女であったが、そうは言っても、蒼潤から見たら歳下の幼い少女であった。それがいつの間にこんなにも大人びた考え方をするようになったのだろうか。
そして、朋は口数が少なく、引っ込み思案なところがあった。
幼い頃は常に琳の背中に隠れていたというのに、今や峨鍈に対して堂々とした物言いができるようになっているから驚く。
「そうか、2人とも行ってくれるか」
有り難い、と峨鍈は娘たちに微笑んで頷く。
「琳、これからも朋のことを頼む」
「いいえ、違うのです。朋が側にいてくれるから私は強くなれるのです。――ですから、父上。私を朋と引き離さないで下さって、ありがとうございます。朋がいれば、この先、何があっても私は大丈夫です」
「ならば、この先もお前たちは、けしてひとつのものを己だけのものにしようと争ってはならない」
「はい。父上のお言葉、胸に刻みます」
琳が答えると、朋も頷いて答えた。
「これまで通り、すべてのものを姉上と分け合います」
「よし。入宮の時期は一年後だ。それまでに不足がないように支度を整えておけ」
梨蓉と嫈霞が揃って、承知致しましたと頭を下げるのを見て峨鍈は腰を上げる。話は以上だと言って、蒼潤の腕を引いた。
蒼潤が立ち上がると、その手を握って梨蓉の室を出る。
東跨院の門を出て、園林を西跨院に向かって歩いた。
その園林では、春の訪れと共に真っ先に花を咲かせた梅に代わって、桃の木が花を咲かせている。
澄み渡った空の青と桃の花の色をまるで鏡のように映した池が見えてくると、それを横目に峨鍈が言った。
「釣りがしたいのか?」
「陽慧とな」
ひとりで釣りがしたいわけではない。
まして、お前としたいわけではないのだと暗に言って、蒼潤は峨鍈の顔を見上げた。
視線を受けて峨鍈が足を止める。
「確かに痩せたな」
峨鍈は蒼潤の頭の天辺から足の爪先まで見渡し、そして、ふいっと顔を背けた。
再び歩き出した彼に手を引かれて蒼潤も足を前に出す。
「お前に負担を掛けた。すまない」
はぁ? と声を上げそうになった。
なんとか声を堪えたけれど、唐突すぎる謝罪に蒼潤は唖然としてしまう。
歩き進むと、西跨院の門が見えてきた。しばらく無言で歩き、その門をくぐる時に峨鍈が言った。
「しばらく自重しよう」
▽▲
「――しばらくって、いつまでだ?」
馬に跨ったまま空を仰いで、蒼潤はぼやいた。
隣には蒼潤の馬に自分の馬を並べている甄燕がいる。2人は深江軍を率いて蔀郡に向かって進軍している最中であった。
甄燕は呆れたような表情を浮かべて蒼潤を見やる。
「悶々としていないで、殿に聞けば良いではないですか?」
「嫌だ。そんなこと聞けるか。だって、お前。そんなこと言ってみろ。まるで俺があいつに抱いて欲しいみたいじゃないか」
「事実、そうなんじゃないですか。欲求不満が顔に出ていますよ」
「はぁ!? っんなわけないだろうが!!」
憤慨して蒼潤が両腕両足をバタつかせると、その拍子に手綱を引かれた蒼潤の馬――天狼が迷惑そうに鼻をブルルと鳴らした。
ごめんごめん、と慌てて蒼潤は天狼の首を撫でる。
あの日、『しばらく自重しよう』と言った峨鍈は、変わらず蒼潤の臥室で休むくせに、いっさい蒼潤に触れてこなくなった。
最初の夜こそ喜んだ蒼潤だったが、触れないくせに同じ牀榻で寝起きしていて、そして、夜も朝もまったく何もされないという状況に、だんだんとイライラしてきた。
すぐ隣に彼の寝顔が見えるし、薄闇に耳を澄ませれば彼の寝息が聞こえてくる。
いつもなら臥牀に上がるまで待てない様子で抱き寄せてきて、あの大きな手で蒼潤の頰に触れて、指先で耳を掠めてから首筋をなぞって口付けてくるのに。
本当にまったく何もない!
臥牀に上がったとたんに寝てしまう彼が恨めしくて、蒼潤は夜中に何度も寝返りを打ってしまう。
「天連様の望み通りではないですか」
「そうなんだけど、そうじゃないんだよ。俺、口付けは好きなんだ!」
「知りませんよ。殿におっしゃってください。それより、殿の側にいなくて良いんですか?」
「あいつを見てると、イライラしてくるんだ。声を聞くだけで、この辺がぞわぞわしてくるし。気付くと、あいつの手とか口とか、目で追っちゃうから嫌だ!」
「それは、イライラしているのではなく、ムラムラしているんですよ。ぞわぞわしている場所って、どこですか?」
この辺、と蒼潤が下腹部に片手を添えたので、甄燕は首を横に振った。
「ほら、もう。殿のところに行ってください」
いーやーだー、と蒼潤が歯を剥いて言った時、前方の進軍が止まった。
日暮れが近いことに蒼潤も気付いていたので、そろそろ夜営地を定めて進軍を終える頃だろうと思っていた。
蒼潤は手綱を引いて天狼の脚を止めると、その背から降りた。
やがて兵士たちが次々と天幕を建てて、煮炊きのための火を起こしていく。
すっかり日が暮れて肌寒くなる。すると、その寒さに堪えた者から順に焚火の周りに集まってきて、暖を取りながら食事を始めた。
蒼潤も深江軍の兵士たちに混ざって鶏肉の羹と麦餅を頂く。
「阿葵様、俺のこと覚えていますか?」
「おいこら、無礼だぞ」
ひとりの青年が羹の椀と麦餅を両手に持って、蒼潤の隣に腰を下ろして言った。
それを窘めたのは、同じ焚火を囲んだ壮年の男で、どちらも深江軍の兵士だった。
蒼潤の幼名を知っているということは、幼い頃に関わりがあった者なのだろう。
蒼潤は、構わないと言って片手を上げ、話し掛けてきた青年の顔をまじまじと見やる。
確かに見覚えのある顔であった。
「郭爺の孫の郭元ですよ」
青年とは反対側の蒼潤の隣に座っていた甄燕があっさりと青年の正体を明かす。
郭爺と聞いて、蒼潤は瞳を大きくした。
「あの元か!」
「はい、あの元です。かつて、阿葵様と崖から落ちた元ですよ」
「うわっ、懐かしいな。あの時、お前が崖をよじ登って助けを呼びに行ってくれたから俺は助かったんだ。あの時のお前は猿みたいだった」
「それがですね。今、この歳であの場所に行くと、まったく大したことのない崖なんですよ。いかに自分たちがチビだったかっていう話です」
にかにかして郭元は笑う。
すると、甄燕がニッと唇を横に引いて言った。
「こいつは今でも猿みたいですよ。縄1本で城壁をするすると登ります」
「本当に? すごいな。こちらにはいつ来た?」
「昨年の夏です。成人したら深江軍に加わろうと、ずっと思っていたんです。俺と一緒に互斡国から出てきた奴、何人もいますよ。覚えていますか? 索と來、それから、冲です」
郭元が指し示した方を目で追うと、名を呼ばれた青年たちがはにかみながらペコリと頭を下げた。
「覚えてる」
皆、幼い頃に何度か遊んだことのある者たちだった。
このように深江軍の兵士たちの多くは互斡国出身であり、中には幼かった蒼潤と何かしら関わりがあった者もいて、彼らの中にいると、蒼潤は故郷に帰ったかのような懐かしさに包まれる。
「ご存知ですか? 翠恋は今年も仔馬を産みますよ」
「そうなのか」
「はい。毎年、強い仔馬を産んでくれます」
「しかし、元は郭爺の後を継ぐものだと思っていた。馬の世話は今、誰が?」
「弟が。潘さんに教わって、祖父のような馬たちの名医になるんだって張り切っていますよ」
郭元は幼い頃に両親を流行り病でなくし、祖父に育てられた。
その祖父は腕利きの馬医で、馬のことで郭爺の分からないことはないと皆に尊敬されていた。
蒼潤も馬については郭爺から教わった。馬の体調や機嫌のことはもちろん、乗り方さえ最初は郭爺が手取り足取り教えてくれたのだ。
「互斡国は渕州に属していますから、成人して徴兵されると、瓊倶の軍に入れられてしまうんです。だったら、その前に互斡国を飛び出して深江軍に加わった方が数段良いというものです。深江軍に加わったとなれば、後のことは郡王様がどうにかしてくれるという話ですし」
この場合、元たちの言う『郡王様』とは蒼潤の父である互斡郡王のことだ。
徴兵命令を受けたにも関わらず、故郷にいず、兵役につかないとなれば、当然、本人はもちろん家族も罰を受けることになるが、そこを互斡郡王が免じてくれるということなのだろう。
【メモ】
羹…スープ
麦餅…もち米ではなく麦を粉にして水に溶いて練って焼いたり、蒸したものなので、餅っていうよりもパン。