6.知りたいと思う気持ち
草原に目を凝らせば、小さな影が跳ねるように動いたのが見えた。
ビュッと矢が風を切り、トスッと、小さな音を響かせて兎の腹を矢が貫いた。
「見事」
迷いのない矢に峨鍈は称賛の声を上げて手を叩く。驚いたことに、蒼潤は馬も弓も巧みで、そして、生命を奪うことに慣れていた。
これで本当に少女だとしたら、じつに勇ましい郡主だ。蒼昏が『勇』に優れた娘だと自慢するわけである。
峨鍈は蒼潤の馬に自分の馬を並べて、蒼潤に向かって称賛の言葉を続けた。
「弓の腕もさることながら、何と言っても馬の扱いが素晴らしい。人馬一体とはこのことかと感心致しました」
「5つの時から乗っていますから」
「ほう」
誉められて悪い気はしていないのだろう。蒼潤の表情が和らいだように見えた。
ならば、もっと言ってやろうと口を開きかけた時、不意に蒼潤が峨鍈から目を逸らす。
燕が、蒼潤に射られた兎を拾いに馬を走らせて、素早く馬から降りると、兎を拾い上げて高々と掲げた。
兎の体が小さくピクピクと痙攣しているのが見える。その小さな体から矢を引き抜き、首に短刀を滑らせて、燕が兎にとどめを刺した。
赤い血がボタボタと草原の青を染めていく様子を見つめる蒼潤に、峨鍈は自分の方に気を惹かせようと声を掛ける。
「馬がお好きですか?」
蒼潤は、ぼんやりと眺めていた兎のちっぽけな命から目を逸らして峨鍈に振り向いた。
そして、馬……と小さく呟いてから、ふわりと笑みを浮かべる。
「ええ、好きです。馬が駆けている姿が好きです。駆けている時の蹄の音が好き。それから、馬の背に乗って、共に駆けることが何よりも好きです」
自分から聞いておいて、なんら取り繕うことなく心の内にある想いをそのまま口にした蒼潤に、峨鍈は面食らう。
それほどまでに素直な言葉が返って来るとは思ってもみなかった。
蒼潤は次第に頬を上気させて、峨鍈の様子などお構いなしに語り出す。
「馬は尊い生き物です。とても美しい」
自分がいかに馬が好きなのか、どういうところが好きなのか、馬のことだけを考えているのだろう。蒼潤は眩しいとさえ感じるような笑顔を浮かべていた。
「時々、言葉が通じたと感じる時があります。彼らは目で語り掛けてくるんです。それから、わたしが落ち込んでいる時は慰めてくれる。馬って、一頭一頭、個性があって、すごい美人もいるし、正直、ブサイクだなぁっていうのもいて、でも、ブサイクなやつでも可愛くて、めちゃくちゃ甘ったれなやつがいるんです。逆に、矜持が高くて、最初ぜんぜん懐いてくれないやつがいて、だんだんこっちも腹が立ってきて、もう知らねぇって言ったら、急に鼻面を擦り付けて来て……、それが、すっげぇ可愛いの! だから、すっげぇ好きってなった! ――あっ」
両手で拳を握り、気持ちを高揚させている己に気付き、蒼潤は短く声を上げると、つと燕に視線を流した。
兎を自分の馬の背に括り付けた燕は、蒼潤と視線が合うと、首を横にぶんぶんと振る。
郡主らしからぬ蒼潤の言動を諫めるかのような燕のその反応に、蒼潤は気恥ずかしそうに、しゅんと体を小さくする。
ぷはっ、と峨鍈は堪らず息を噴き出し、はははっと声を上げて笑った。
「阿葵殿に馬をお贈りしたい」
気付けば、そんな言葉が口をついていた。
この無防備に己の心を曝け出す子供に、何かを与えてやりたい。そんな想いが自然と湧いてくる。
何を与えれば喜ぶだろうか。今は馬しか思いつかないが、もっとあらゆるものを与えてやりたい。
与えて、与えて、――そう、まるで植物を育てるように、水を与えて、陽を浴びさせて、じっくりと己の手で育ててみたい。
蒼潤は、ばつが悪そうに、つんと峨鍈から顔を背けて言った。
「馬なら数頭持っています」
「冱斡の馬ではなく、他の土地の馬です」
「他の土地の馬?」
蒼潤は興味を惹かれたように逸らした顔を戻して、豊かな睫毛に覆われた大きな瞳で峨鍈を見上げた。
峨鍈はその顔の造形をひとつひとつ確認するように見つめながら答える。
「冱斡の馬は確かに良い馬です。他のどの土地で育った馬よりも速く走ります。――ですが、弱い」
「弱い? そんなバカなっ」
「ご存じないようですね。冱斡の馬は、すぐに脚を折るのです。荷を乗せたら人は乗れず、人を乗せたら荷は乗せられない。背を重くして駆けさせると、すぐに脚を折ります」
「それは馬を酷使しているからだ。扱いが悪い。もっと大事に扱えば……」
「戦の時にそのような余裕はありません」
「でも!」
言いかけて、――だが、蒼潤はすぐに口を閉ざした。
悔しいと表情に感情を露わにして、それでもぐっと耐えるように言葉を呑み込んだのは、この子供にある程度の賢さがあるからだと峨鍈は思う。
蒼潤は己の無知を知っている。
もし、蒼潤が己の無知さえ知らぬ愚か者であったのなら、もっと相手に嚙み付くように反論を繰り返していただろう。
「他の土地には、もっと体格の良い馬がいます。それなのに、冱斡の馬を比類ない名馬だと言い切るのなら、貴女は無知過ぎましょう。他を知って、再び冱斡の馬を知る。そうしてから、初めて冱斡の馬を評することができるのではないでしょうか」
わざわざ言うまでもなかったが、敢えて言葉にしてやれば、こくんと蒼潤が幼い仕草で首を縦に振った。
そんな様子も好ましく思って目を細め、草原を吹き抜けていく風に言葉を乗せるように峨鍈は言う。
「わたしなら、貴女に様々なものを見せて差し上げられる。この地にはないもの、そして、あらゆることを教えて差し上げましょう。貴女が望めば」
「わたしが望めば? 本当に?」
馬を好きだと言った時のように蒼潤は、ぱっと瞳を輝かせた。だが、その眩い笑顔はすぐに曇ってしまい、蒼潤は峨鍈から顔を逸らした。
いったい何が、と峨鍈の胸に焦りが生じる。捕まえたと思ったものが指先を弾いただけで、逃げられてしまった心地だ。
「知りたいとは思われませんか?」
「知りたい。だが――」
「だが?」
蒼潤は峨鍈から顔を背けたまま首を横に振った。そして、馬首を返す。
「峨殿、貴方は姉か妹を娶られよ。どちらも気に入らなければ、早々に互斡から去るといい。父上も貴方を責めたりはしない。ただ縁がなかった。それだけだ」
そう蒼潤は言い放ち、峨鍈をその場に残して燕の隣まで駆けると、二人で連れ添ってもっと遠くへと馬を駆けさせていった。
峨鍈は馬を城壁に向かって駆けさせる。その途中で、不世が馬を駆けさせながら峨鍈の馬に寄せてきた。
「人を雇いました。戻って来たところを襲います」
「分かった」
外郭門の左右に門兵が佇んでいるのが見えた。彼らの死角となる場所まで馬を駆けさせると、不世が集めた男たちが外郭の陰に潜んでいる様子が確認できた。
西の空が橙色に染まり始め、閉門の時刻が近付くと、城の外に出ていた者たちが続々と戻ってきて、外郭門の周辺は賑わいでくる。
(まだか)
峨鍈は物陰に潜んで、蒼潤が戻って来るのを待った。
やがて、慌てたように駆けて来る二頭の馬の姿が草原の果てに見え始め、その姿に気付いた門兵たちが馬の乗り手たちに大きく手を振る。
「郡主様、お急ぎください。閉門の時刻ですよー!」
門兵たちは蒼潤と顔見知りなのだろう。かなり粘り強く二人が戻って来るのを待っていた。
しかし、その時だ。不意に影が蒼潤たちの横から飛びかかって来る。
騎乗した男が8人、蒼潤と燕を取り囲み、一斉に鞘から剣を引き抜いた。
異変に気付いた門兵たちが槍を抱えて蒼潤たちのもとに走ったが、その前に蒼潤は弓を構えて素早く矢を放つ。
至近距離で放った矢が、ひとりの男の額に突き刺さって、男は落馬した。
すぐさま蒼潤は弓を投げ捨て、剣に持ち替える。
(反応が早いな)
人間相手でも矢を放つことに迷いがない。
そして、得意な弓矢に固執せず、剣に持ち替える判断も的確だと峨鍈は舌を巻いた。
「阿葵様は、城の中に逃げてください! ここは俺が!」
「バカ! お前ひとりで7人も相手にできるか!」
燕の言葉を即座に退けて、蒼潤は次の相手と対峙する。
相手は多勢だ。ひとりと剣を交えると、すぐに横に流した。相手の力を受け流しながら隙を見つけ、切る。そして、素早く身を翻し、もう一人の剣を剣で受け止めた。
(剣の腕もなかなかだな。力は弱いが、身のこなしが素早い)
そこまで見て、峨鍈は馬の脇腹を蹴った。そして、騎乗したまま弓矢を構える。
「阿葵様、後ろっ!」
燕の声に、はっと後ろを振り返った蒼潤を、男が大きく剣を振り上げて襲いかかった。
今だと思って峨鍈は矢を放つ。トスッ、と軽い音が聞こえて、蒼潤の目の前で、男の眉間に一本の矢が突き刺さった。
驚きに目を見開いて、どんっと男は落馬する。
次の矢を弓につがえて、蒼潤に向かって行く男の首を射抜く。
不世は多くを知らせずに男たちを雇ったようで、彼らは演技ではなく本当で蒼潤の命を狙っていた。
ならば、こちらも手は抜けない。後々に足が付くような心配のいらないならず者を選んで雇ったはずなので、殺してしまっても問題はないだろう。
いや、むしろ残さず始末してしまった方が良い。そう思い、峨鍈は次々に矢を放った。
雄叫びと共に馬の背を蹴って、男が蒼潤に向かって飛び掛かっていく。
高く跳んで振り下ろされた剣を蒼潤は自分の剣で受け流したが、その弾みで馬から転がり落ちた。
城…二重の壁で囲んだ都市のこと。
郭…都市の外側を防御する壁。外郭。その扉は、外郭門。
城…都市の中心の重要拠点を防御する壁。城壁。その扉は、城壁門。
内城…城壁の内側のこと。城の主の私的な宮殿が宮城。
宮城の南側で、官庁が集中する場所を王城(※)。宮城と王城を合わせて、内城。
外城…城壁で囲んだ都市全体
※皇城、王城、郡城、県城……皇帝、王、郡の長官(太守)、県の長官(県令)が中心となって政務を行う宮殿。