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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
8.葵暦197年の春 蔀城の危機

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2.その結果がこれ


「相談ですか。――それよりも顔色が良くありませんね」

「まさにそのことについての相談なんだ。じつは、夜がキツイ」

「……」

「かれこれ半年以上、毎晩なんだ。ひどい日には朝もある」

「…………」

「それに、しつこくて長い」

「………………なんのお話でしょうか?」


 ギョッとして蒼潤が口を閉ざすと、梨蓉はにこにこしながら周囲に不穏な空気を醸し出している。

 これは分かっていて敢えて問い、はっきりと蒼潤に言わせたいのだ。そうと察して蒼潤は、さっさと本題に入ることにした。


伯旋はくせんを明雲の臥室に行かせたい」

「本気ですか?」

「もちろん本気だ」

「天連殿は、相変わらず天連殿ですね」


 どういう意味だと眉を顰めると、梨蓉はため息をつく。


「てっきり想いが通じ合っているものだと思っておりました。――それで、もしや私に協力を求めておられますか?」

「うん、他に頼める者がいない」

「しかし、私には利がございませんよ」


 たしかに、と蒼潤は気付かされる。

 峨鍈の後継は驕だ。その生母である梨蓉としては、峨鍈の興味が蒼潤に注いでいる間は安穏としていられるが、もし次男である桓の生母の明雲に峨鍈の寵が移ってしまい、桓が驕、或いは、軒の立場を脅かす存在になってしまっては困るのだ。

 これは頼る相手を間違えたのだと気が付いて蒼潤は居心地が悪くなる。


「明雲ではなく、雪怜の臥室でもいい」

「天連殿は、私たちを三つ巴にさせたいのですね」

「いや、違う!」


 慌てて否定すれば、梨蓉が羽扇を顔の前でかざして、ころころと笑い声を立てた。


「承知しております。少し意地悪を言ってみたくなっただけです。まったく致し方ございませんね。天連殿のお身体に障りがあってはいけませんし。私が口を出したところで、殿のお心を変えられるかどうか分かりませんが、こころみてみましょう」

「本当か。ありがとう。助かる!」


 梨蓉が請け負ってくれたので安堵して自分の室に戻り、蒼潤はその日の夜を迎えた。

 途轍もなく久しぶりに臥牀を独り占めして眠ることができ、さらに翌日の夜も、その次の夜も、ゆっくりと体を休めて眠ることができた。

 だが、数日後のことだ。蒼潤は梨蓉に呼ばれて、東跨院に向かうことになる。


 梨蓉の室の入口に立つと、室の中から泣き声が聞こえてきて蒼潤は眉を顰めた。

 中に入って見渡すと、明雲と雪怜が顔を両手で覆って泣いている。ふたりの背を擦っている嫈霞おうかの姿もあって、これはいったい何事かと蒼潤はたじろいだ。

 梨蓉が立ち尽くす蒼潤に気付いて、室の奥を指し示した。


「天連殿、お座りください」

「う、うん」


 蒼潤は梨蓉と向き合うように床に胡坐を掻いて座ったが、明雲と雪怜の様子が気になって仕方がない。ちらりちらりと彼女たちに視線を送りながら、梨蓉の顔を窺い見た。


「話って?」

「閨事のことです」


 ずばっと言って、梨蓉は頭痛がするとばかりに額を片手で押さえる。


「天連殿のお力になれればと、明雲と雪怜のもとにも通われますようにと殿にお話しいたしました。殿は承諾してくださり、この数日、おふたりの臥室で交互に休まれておられました」


 うん、それで? と蒼潤は固唾を呑むようにして梨蓉の話を聞いた。

 すると、梨蓉はバッと袖を振って明雲と雪怜を指し示して言った。


「その結果がこれです、天連殿」

「ええっ!?」

「御覧ください、おふたりを」

「えっ、分かんない、分かんない。なんで明雲と雪怜は泣いているんだ?」

「本当にお分かりになられませんか?」

「まったく」

「殿に、天連殿の代わりにされたんです」


 は? と蒼潤は耳を疑う。正直なところ、言われた意味が分からなかった。


「代わりって?」

「代わりというよりも、練習台です」


 ううっ、と嗚咽を漏らしながら明雲と雪怜が言う。


「天連様が殿を拒むのは、殿の技量が不足しているからだと」

「ですから、私たちは、もっと天連様に気持ち良くなって頂けるための練習台にさせられたのです……」

「はあああああああああ!?」


 具体的なことを言えば、違う穴に入れられたということらしい。

 それでは子を孕めないし、それどころか、彼女たちに苦痛と屈辱を与えただけだ。


「あいつ馬鹿じゃねぇーの! ――っていうか、最低だな!」

「天連殿」

「だって、そうだろ。絶対に頭がおかしい!」

「此度は天連殿も同罪です」

「なんでだよ!」


 納得いかないと蒼潤はむくれ顔で梨蓉を睨む。

 すると、梨蓉は呆れたように蒼潤を見やり、羽扇でトンっと自分の手のひらを打って言った。


「良いですか。殿は天連殿がお好きなのです。想いを寄せている相手から、他の者を宛がわれたら、どのような者であっても傷付きます。殿は殿なりに考えられて、天連殿のお身体に負担がないように為されようとされたのです」


 負担がないように毎日致すことをやめてくれたら万事解決なのだが、そこは譲れず、負担がない抱き方を模索してくれたということなのだろう。

 いや、待て。だからって、それで『ありがとう』ってなるか?

 梨蓉の言っている意味は分かるが、蒼潤は到底納得できなかった。


「とにかく、天連殿。この件に関しては私たちはいっさい手を引きますので、ご自分でしっかりと殿とお話になられて、解決してください」

「え、待って。待って。それって、つまり……」

「つまり、今夜から殿は再び天連殿の臥室でお休みになられます」


 ひぃっ、と蒼潤は引き攣った声を漏らす。

 いつも穏やかで優しい嫈霞に視線を向ければ、彼女は蒼潤と目を合わせ、困ったように眉を下げた。そして、それだけだ。助け舟を出してくれるつもりはないようだった。

 ここには自分の味方はいないのだと悟った蒼潤は梨蓉の室を出て、東跨院の門を出た。

 西跨院に向かってトボトボと歩く。今夜からどうしようと考えていると、正面から甄燕が駆けて来るのが見えた。

 深江軍の調練を終えて戻って来たのだろう。もうずっと深江軍のことは甄燕に任せっきりだった。


「天連様。今、陽慧ようけい殿がいらしていますよ」

「えっ、陽慧が! 本当に!?」

「南跨院の殿の書室しょさいです。今日は殿が早く帰っていらしたみたいです」

「えー」


 先ほどの話もあって、蒼潤はあからさまに嫌そうな顔をした。

 

「あいつもいるのかよ。陽慧だけでいいんだけどなぁ」


 ぶつぶつ文句を言いながらも蒼潤は足先を南跨院に向けた。

 柢恵が出仕するようになってから会える機会がめっきり減ってしまったので、柢恵が邸に来たと聞いて、会いに行かないという選択肢はなかった。

 園林にわを抜けて南跨院の門をくぐる。中庭を進んできざはしを上がると、室の中から峨鍈と柢恵の声が聞こえて来た。

 後ろに従ってついてきた甄燕を振り返ると、申し上げた通りですよね、という表情をしている。頷いて蒼潤は室の中の声に耳を澄ませた。


「少しばかり手間取っているようだな」

「あまり時間を掛けていると、蒼善そうぜんが首を突っ込んでくるかもしれません」

「やはりおれが兵を率いて行かねばならぬか……」


 何の話をしているのだろうかと、蒼潤は室の入口に置かれた衝立の陰に身を寄せる。

 すると、話し声がぴたりと止んで、峨鍈が蒼潤を呼んだ。


「天連、こっちに来い」

「なんで分かった!?」

「お前の気配は分かりやすい」


 蒼潤は衝立の陰から出て室の中に入ると、帘幕たれまくの下をくぐって書室しょさいに入った。

 峨鍈と柢恵は文机を挟んで向かい合って座っている。

 ここに座れと己の膝を叩いた峨鍈を横目に、蒼潤は柢恵の隣に腰を下ろした。甄燕は回廊で控えている。


「それで何の話だ? どこかに行くのか?」

郡だ」

「蔀郡? 帷緒いちょのことか?」


 そうだと峨鍈が頷く。

 蔀郡はおう州の北に位置し、雅州や琲州と接している。

 帷緒という男は、元は呈夙ていしゅくの配下で、呈夙の死後はその後継を巡って争っていた一人であった。

 だが、早々に見切りをつけた帷緒は葵陽を去り、黄州攻略に乗り出す。


 黄州の牧は蒼善そうぜんである。州牧としての評価が高い男であったが、それはあくまで平時における評価であった。

 蒼善はなすすべなく帷緒軍の侵略を許し、帷緒は黄州の北部で数々の略奪を働いて、終いには蔀郡を占拠してしまった。

 これを討つべく、峨鍈は実弟の峨旬を出陣させ、蔀郡の苑推えんすいに陣営を置く。ここまでが昨年の暮れの出来事であった。


「お前の弟、帷緒に手間取っているのか?」

「そのようだな」

「それで、お前が蔀郡に出陣するのか? 俺もいく!」


 蒼潤は文机に両手をついて身を乗り出すようにして言った。久しぶりの戦場である。

 この1年ずっと邸の奥に閉じ込められていたので、馬を駆って剣を振れると思うと、わくわくしてきてしまう。


「そんなに行きたいか?」

「うん、行きたい! 連れて行ってくれるんだろ? 置いて行ったら恨むぞ」

「分かった」


 峨鍈が目を細めて微笑み、蒼潤に向かって手を伸ばして来る。頭を撫でられるのだと分かって、蒼潤はその手を払うようにして退けた。

 すぐ隣に柢恵がいるのに、臥室でされるように触れられたくない。


「陽慧は?」

「ん?」

「陽慧も一緒に行くのか?」


 蒼潤が峨鍈に問えば、柢恵も自分のことが気になるようで蒼潤の隣で身じろぐ。

 すると、峨鍈は蒼潤に触れようとしていた手を引っ込めて、己の顎をなぞりながら答えた。


「陽慧は留守居だ。卓岱と共に司空府を任せたい。おれの代理として朝議に出席して、孔芍と協力して朝廷を支えろ」


 御意と応える柢恵の傍らで、蒼潤はポカンと口を開いた。

 自分が知らない間に、柢恵は随分と峨鍈の信頼を得て、まるで彼の右腕であるかのようだった。



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