1.冠礼の儀
秋の収穫を終えた頃、峨鍈は葵陽を中心に雅州、そして、併州と琲州において屯田制の実施を開始した。
これは兵士たちに新たな耕地を開墾させ、平時には農業を行わせる制度である。
これによって、軍の兵糧を農民から搾取することなく確保できるようになる算段だった。
また、戦乱で土地を失い、流浪する民には新たな土地を与えて定住させ、その収穫の一部を税として納めさせる制度でもある。
呈夙らによって荒された雅州は多くの民の流出があったが、土地が貰えると聞いて、続々と民が戻って来ていた。
それに加えて、雅州は峨鍈が朝廷に入ってから大きな戦がないまま葵暦196年を終えたため、帝都はかつての賑わいを取り戻しつつあった。
年が明けて葵暦197年。
皇帝蒼絃の冠礼の儀が行われた。
それは盛大に行われ、帝都は連日お祭り騒ぎとなったが、同年の生まれである蒼潤の冠礼は峨鍈邸でひっそりと行われた。
6年ほど前に急いで行った笄礼もかなり簡略したものだったが、冠礼はさらに簡単なもので、誰も招くことなく蒼潤と峨鍈のみで行う。
そのため最初から厳かな雰囲気は微塵もなく、酒を口にした辺りからグダグダになって終わった。
気が付いた時には翌朝だ。
牀榻の中で寝ていたので、おそらく酔い潰れた蒼潤を峨鍈が運んでくれたのだろう。
蒼潤は褝すら身に纏っていない自分の体を見て、胡乱な眼差しを峨鍈に向けた。
「お前、ヤった?」
「いや」
「じゃあ、なんで、俺、何も着ていないんだ?」
「お前が自分で脱いだんだろう。目に毒だ。早く着ろ。――それとも今からやるか」
「やらねぇーよ!」
蒼潤は声を荒げて、自分の褝を探す。
床に落ちているのを見付けて臥牀から身を乗り出し、腕を伸ばすと、背中から抱き竦められた。
「おい」
「やはり今からやろう」
「は?」
首筋に唇を押し当てられて蒼潤の肌は粟立つ。
「嫌だ。離せ!」
「昨晩は我慢させられたからな。毎日したいと言ったはずだ」
「いや、待て。昨日は朝したはずだ。ちゃんと毎日している。だから、よく考えろ。今したら今日はもうしないぞ」
「……」
峨鍈が押し黙ったので、その隙をついて蒼潤は彼の腕の中から抜け出した。
這うようにして牀榻の中から出ようとすれば、その前に足首を掴まれて態勢を崩し、びたんっと顔から布団に倒れ込む。
「どこに行く、潤々。誰が一日一回だと言ったか?」
「いってぇーな。ふざけんな! 誰がって、俺だよ。俺が一日一回って決めたんだよ!」
「儂は承知しておらん」
掴まれた足首を引っ張られ、ずずーっと体を布団の上で引きずられて再び蒼潤は峨鍈の腕の中に戻されてしまった。
だけど、このまま大人しくやられて堪るものか!
両手、両足をバタつかせて大暴れしてやれば、峨鍈がそれらを抑え付けようとしてくる。
終いにはふたりして馬鹿みたいに息を切らして、牀榻の中で汗だくだ。
「往生際が悪いぞ、潤々」
「潤々、言うな!」
両手を頭の上で封じられて、蒼潤は峨鍈を睨み付けた。
近頃、峨鍈は蒼潤を、『潤』を重ねて『潤々』と呼ぶ。
もちろん、人前では呼ばない。この呼び方は、男が女と二人きりの時に女を呼ぶ呼び方だからだ。
峨鍈はそんなつもりはないと言うが、完全に女扱いをされているみたいで、腹立たしい!
呼ばれる度に蒼潤は、やめろって言うのだが、『潤々』と口にした時の峨鍈の顔が憎たらしいほどに嬉しそうで、幸せそうで、それを拒絶している蒼潤の方が悪いような気がしてきてしまう。
こんな想いをするくらいなら、まだ『潤』と呼び捨てにされた方がマシだった。
唇を塞がれて、その感覚に目眩を覚える。
嫌だと思いながらも腕が自然に彼を縋って、彼の背に回ってしまう。
「潤々」
まただと思って、蒼潤は彼を潤んだ瞳で睨んだ。
峨鍈の手が蒼潤の肌の上を滑っていく。ここまでされてしまうと、ここでやめられてしまう方がつらい。
蒼潤は観念して彼に身を委ねた。
事が済むと、峨鍈は慌ただしく蒼潤の臥室を去っていった。
たぶん参内しなければならない時刻が差し迫っているのだろう。いい気味だ。
蒼潤は二度寝してやろうと、掛布を抱き締めて背を丸める。
そうしてウトウトとしていると、徐姥と呂姥がやってきて起こされ、体を清められた。隣の室では呂姥と芳華が朝餉の支度をしている。
「随分と痩せられました」
またか、と蒼潤は呂姥を見やる。先日も同じようなことを言われたばかりだ。
袍を着せて貰い、髪を梳かれる。
「こう連日ですと、お体に触ります」
「どうせ今だけだろう。そのうち飽きるに決まっている」
「そうでしょうか」
呂姥は蒼潤の髪を整えながら眉を顰めてる。耳から上の毛束で髷をつくって、その髷を巾で覆った。
「他の方たちの臥室にも訪れて頂くことはできませんか?」
「それができたら苦労しない」
「そう言えば、先日、怏夫人が仰っていらしたではないですか」
沐浴の後片付けをしながら徐姥が口を挟む。
怏夫人とは明雲のことだ。
「明雲がなんて?」
「もうひとり子を授かりたいと仰っていらっしゃいましたよ」
「へぇ」
明雲には桓という名の息子がひとりいて、桓は今年9歳になる。
明雲は30を過ぎたくらいの年齢なので、そろそろ身籠るのが難しくなってくるだろう。
「でしたら、羅夫人もそのようにお考えなのではないでしょうか」
玖姥が隣の室から臥室を覗き込んできて、朝餉の支度が整ったと告げるついでに言う。
羅夫人というのは、雪怜のことだ。彼女には寧という娘しかいない。雪怜はまだ30手前なので、次は息子が欲しいと考えているかもしれない。
「その辺りのことを董夫人とご相談されてもよろしいかと思います」
「そうだな。そうしよう」
峨鍈がどんなに蒼潤の臥室に通って来ようと、蒼潤が子を授かることはないのだ。まるで意味がないことをひたすら続けていても仕方がない。
朝餉を済ませて蒼潤は、徐姥をつれて梨蓉のもとを訪ねた。
東跨院の門をくぐると、とたんに中庭で弓の稽古をしていた驕と桓、軒に見付かった。
驕は12歳、桓は9歳、軒7歳だ。
桓と軒はまだ幼いが、驕は昨年からずんずんと背が伸びて、いつの間にか蒼潤と目線の高さが近くなっていた。
蒼潤のもとに駆け寄ってきた驕の顔が思いがけず近くに感じて、もう少ししたら南跨院の東側の園林を潰して、軒の殿舎を建てた方が良いかもしれないと梨蓉が話していたことを思い出した。
「天連様、どうされたんですか? 時間がおありでしたら稽古をつけてください」
「梨蓉に話があって来たんだ。梨蓉は室にいるか?」
「はい、おります」
驕は側使いの少年に視線を投げた。たしか頑という名で、姓は馬だ。
馬頑は正房に向かって駆け、梨蓉の侍女を呼んで蒼潤の訪れを告げた。
侍女が梨蓉に報せようと室の中に戻る様子を眺めていると、蒼潤は袖を引かれる。
「天連様、見てください。僕、的に矢が当たるようになりました」
「軒! 無礼だぞっ、天連様に触れるな!」
ばしんっ、と音が響いて軒が驚いた表情を浮かべ、どしんと地面に尻もちをついた。
蒼潤も驚いて、思わず大きな声を出してしまう。
「大丈夫か、軒! 乱暴だぞ、驕!」
軒に手を差し伸べて立たせ、衣についた土を払ってやれば、驕は表情を歪め、手にしていた弓を足元に叩きつけて駆け去った。
呼び止める暇もなかったので、蒼潤は眉を顰めてその背を見送る。
「いったい何なんだ、驕は。機嫌が悪いのか?」
つい先ほどまでにこにこしていたかと思いきや、あの態度である。
不可解だと呆れると、桓が肩を竦めた。
「驕兄上は、天連様に馴れ馴れしい軒が許せなかったんです」
「は?」
「近頃、天連様は軒や寧ばかりを可愛がっていらっしゃいます。以前は、もっと驕兄上の頭を撫でたり、ぎゅっと抱き締めたりしていました」
「そうだったか? ――いや、そうだったとしても、驕はもう大きいだろ。それなのに、小さい子みたいな扱いをしたら、おかしいじゃないか」
それに驕は、峨鍈の息子たちの中でも一番、峨鍈に似た面差しをしている。
軒は梨蓉にそっくりだし、桓もどことなく明雲に似ているのだが、驕は峨鍈をそのまんま幼くしたような感じで、そんな驕の頭を撫でたり、抱き締めたりすると、蒼潤としてはとても微妙な気持ちになるのだ。
「――とは言え、驕に寂しい想いをさせてしまったのなら俺が悪いな。後で謝っておくよ。教えてくれてありがとう、桓」
蒼潤は腕を伸ばして桓の頭をぽんぽんと軽く撫でる。桓は気恥ずかしそうな表情を浮かべたが、嫌がっていない様子だったので、蒼潤はさらにくしゃくしゃっと桓の髪を掻き回すように撫でた。
僕も、僕も、と軒が蒼潤の袖を引いたので、軒の頭も撫でていると、梨蓉に呼ばれる。
振り向くと、梨蓉が室から回廊に出てきていた。
「天連殿、どうぞ中へ」
「うん」
中庭から階を使って回廊に上がり室に入ると、梨蓉に促されて室の奥に腰を下ろす。
梨蓉も蒼潤と向かい合うように腰を下ろし、互いの侍女たちは室の入口近くに控えていた。
「ちょっと相談があるんだ」
すぐに話を切り出すと、梨蓉は訝しげに蒼潤の言葉を繰り返した。




